おそば屋さんのカツ丼
中学生の頃だったと思う。家族でおそば屋さんに食べに行った。
そばアレルギーはもっていないが、なんとなくおそば気分じゃなかったので、カツ丼にしようと思った。カレーよりもカツ丼がよかった。
父に叱られた。「そば屋に来たのにカツ丼を頼むな!」と厳しく言われ、泣きそうになりながらざるそばにした。
ざるそばを啜りながら、思った。
『なぜ、おそば屋でカツ丼を頼むと、叱られるんだろう』
『誰でもみんな、おそば屋さんでカツ丼を頼んだら、叱られるものなんだろうか』
『じゃああのカツ丼は、誰が頼むんだろう』
父は厳格なセオリー主義者だった。
大人になってから、父と離れ、自分のお財布から食費を支払うようになり、自由に好きなものが頼めるようになった。
牛丼屋さんへ行って唐揚げ丼やカレーを注文できるようになった。
ラーメン屋さんで牛丼セットを注文したこともある。
いつか、おそば屋に入ってカツ丼を注文したいと思っていた。
そして遂に、その日はやって来た。
もう何年か前のことだが──仕事中、車を運転していて、ちょうどお昼ごはんの時間になって、国道沿いのおそば屋さんを見つけた。
のれんを潜り、入ってみると、いかにもなおそば屋さんだ。和風デザインの店作りに、風流なこだわりの箸立てがテーブルに置いてある。
メニューを見ると、ざるそばや、かけそばや、そばそばそばと並ぶ文字列の端っこのほうに……
あった!
親子丼
牛丼
かつ丼
カレーライス
アウトサイダーのように差別されて並ぶそいつらの中から、迷わず私はその子を選び出した。
注文を取りに来たおばさんに、迷わず言った。
「カツ丼!」
「えっ?」おばさんが耳を疑うような声を出した。
「カツ丼、ください」
「単品? おそばは?」おばさんの声には不安が混じっていた。
「カツ丼だけでいいです」
「……おそばじゃなくていいのね?」
首をひねりながら厨房に帰って行くおばさんの背中を横目で見送りながら、私はお茶を飲んだ。
内心とても不安だった。何もしていないのに犯罪者のような気分で席に座っていた。
周囲の他のお客さんが自分を指差して笑っているんじゃないかと気になってコッソリ様子を覗ったが、みんな私のことなどどうでもよさそうに食事をしていた。
「はい、かつ丼。お待ちどおさま」
おばさんがテーブルに置いたカツ丼を見て、思った。
『ふ……、ふつうだ!』
とんかつ専門店のカツ丼よりもそれはふつうだった。
自分で作るスペシャル特盛つゆだくカツ丼よりもふつうだった。
なんというか……。親戚のおばさんが作ってくれたカツ丼ぐらいに、それは外食店で提供されるものとは思えないほどに、とんでもなくふつうだったのだ。味噌汁も漬物もついてなかった。
食べながら、私は思った。
『いつか……、もしも、私に子供が出来て、その子がおそば屋さんでカツ丼を食べたいと言い出したら……』
強くではないが、忘れないようにしようと心に誓いながら、思った。
『おそば屋さんに来たら、おそばを頼みなさい』
そう言おうと、思った。
それで子供がかえって夢見るようにおそば屋さんのカツ丼に執着するようになって、遂に夢を叶えた瞬間にガッカリしても、それはそれで教育なのだ、と。
ぶっちゃけ、美味しくなかった。
今夜はスペシャル特盛つゆだくカツ丼にしよう! と思ってたら、危うくごはんを炊き忘れるところでした……。気がついてよかった!