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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

自殺した妻を幸せにする方法

作者: 久留茶

前半はやや暗めの展開ですが、後半は甘い展開へと変わっていきます。

少し長めの短編となっていますが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。

※誤字報告ありがとうございます。修正させて頂きました。

※12/1 日間総合、ジャンル別異世界恋愛ランキング4位、短編ランキング1位になりました。ありがとうございます!!

※R5.1/18アルファポリスにも掲載しました。

 

(――寒い)


 薄暗く、無駄に広い部屋の床の上で、アリアドネは、ボンヤリとしていく意識の中、僅かに感じる感覚を何とか拾い上げていた。


 横たわるアリアドネの左胸には、深く突き立てられた短剣が、暗闇の中、その存在を主張するように、ギラリと光っていた。


(私は何も残せなかった……)


 浅く、短く刻まれる呼吸と共に、アリアドネの目尻から涙がこぼれ落ちた。


「アトラス様……ごめんなさい」


 恐らく今なお、自らの命を賭して戦場に身を置く、この国の英雄であり、愛しい夫の名を最後の力を振り絞って、アリアドネは口にした。


 胸から止めどなく流れ出る深紅の血が、真っ白なアリアドネの夜着を赤く染め上げる頃、アリアドネはたった一人で静かに息を引き取った。



 ◇◇◇



「ハア、ハアッ」


 息も絶え絶えに、アトラスは早馬を走らせた。もうすぐで勝利目前という戦況の中、妻であるアリアドネの訃報が届いた。

 その場を腹心の部下に任せ、アトラスは直ぐに屋敷へと向かった。

 この目で確かめる迄は、妻の死が信じられず、とにかく一心不乱に、夜通し馬を走らせた。



 馬を走らせること2日間。ようやく自分の屋敷に戻ってきたアトラスは、飲まず食わずの早駆けでフラつく身体を何とか奮い起たせ、屋敷の扉を開けた。


 ――屋敷は深い悲しみの空気で満ちていた。


 使用人が汗だくのアトラスに声を掛けるが、アトラスにはその声が届いていないようで、吸い込まれるようにアリアドネの寝室に足を踏み入れた。


 結婚してから妻の部屋に入るのはこれが初めてだった。


 ベッドのすぐ脇で、窓からの明るい日差しを受け、真っ白な棺に眠るように横たわる美しい姿のアリアドネを見て、ようやくアトラスは妻の死を認識した。

 汗が額からポタポタ床へと滴り落ちるが、アトラスの心は急速に冷えていった。

 上手く呼吸が出来ず、意識を正常に保つため、強く拳を握り締める。


「な、ぜだっ……!」


 絞り出すように、アトラスが独り言のように呟いた。


「私共が気付いたのは、既に奥様が亡くなられた後でした。左胸に護身用の短剣を突き刺して、眠るように床の上に横たわっておられました。窓も、寝室のドアも、鍵が掛けられており、誰かが侵入した形跡もなく、おそらく自ら命を絶たれたものと思われます」


 屋敷の執事長が悲痛な面持ちで、静かにアトラスに経緯を説明した。


「愚かなことを……!」


 アトラスの妻を責める言葉に、妻の世話を行っていた侍女のヨランダが、青褪めた表情をしながらも堪えきれずに、擁護の声を上げた。


「いいえ! 旦那様! 奥様は決して愚かな方ではございませんでした。高貴なご身分でありながら、私達使用人一人一人に対し、とてもお優しく接してくださり、そして旦那様ご不在の続くこのお屋敷を、お一人でお守りになっていました」


 生前のアリアドネを思い出し、散々泣いたであろうヨランダの目から再び大量の涙が溢れた。


「奥様は言葉にはしませんでしたが、いつも帰らぬ旦那様を待ち続けておいででした。戦いの知らせを聞けば、毎日教会に通い、旦那様の無事をお祈りされていました」

「そのような方がお一人で寂しく死んでいったのかと思うと、切なくて心が張り裂けそうです」


 ワッと堪えきれずヨランダは声を上げて泣き出した。


 ヨランダの悲痛な訴えに、屋敷中のあちこちからすすり泣く声が聞こえていた。


「……一人にしてくれ」


 屋敷の空気に堪えられず、アトラスが執事長に懇願するように声を掛けた。


「……かしこまりました」


 執事長も何か言いたそうな顔をしていたが、主の顔を見て言葉を呑み込み、命ぜられるままにヨランダを連れアリアドネの寝室から出て行った。


 部屋には棺の中で眠るアリアドネとアトラスの二人きりとなった。

 先程のヨランダの言葉がアトラスの心に響いた。


『奥様は言葉にはしませんでしたが、いつも帰らぬ旦那様を待ち続けておりました』


『俺に何も期待をするな。俺達は国のため結婚したが、俺はお前達貴族の人間を心底憎んでいる。結婚したからとて俺達の間には何もない』


 結婚式の夜、屋敷に戻ったアトラスがアリアドネに放った言葉を思い出す。


『――はい。承知致しました』


 悲しそうに俯くアリアドネを、その時は何の感情も持たずに放置した。

 当然初夜もアトラスはアリアドネの寝室を訪れることはなく、二人は今の今まで、身体の関係を持たない清い関係であった。


 決してアリアドネに魅力がなかったわけではなく、寧ろアリアドネはとても美しかった。

 ルード王国の中でも、由緒正しい歴史ある高貴な貴族の出身で、気高さを纏ったアリアドネは『王国の女神』と人々から讃えられる程の美貌の持ち主だった。プラチナブロンドの真っ直ぐな腰まである長い髪に、少し垂れ下がったアメジストのような紫色の瞳は、彼女の慈愛に満ちた穏やかな優しさを表しているようだった。


 実際彼女は優しかったのだ。アトラスの身勝手な物言いに、口答えすることなく、ただいつも寂しそうに微笑んでいた。


『アトラス様のご無事と、ご活躍をお祈りいたします』


 アトラスが戦に出る度、必ず見送りに出てきては、夫が戦で怪我をしないか心配そうに目に涙を溜めていた。

 そんな貞淑な妻の姿を見ても、アトラスの態度は素っ気なかった。

 アリアドネの祈るような言葉を寧ろ鬱陶しく思った。


『行ってくる』


 アトラスは無表情のまま短く告げると、振り返ることなく足早に屋敷を後にした。


『行ってらっしゃいませ……』


 (いくさ)とはいえ、また長期間屋敷を留守にする夫に、アリアドネの声が寂しく響いた。


 ――それが、アリアドネと言葉を交わした最後であった。


 アトラスは棺の中のアリアドネの頬に躊躇いながら手を伸ばした。

 結婚式の誓いのキス以外で彼女に触れることすらなかった。

 キレイに化粧の施されたアリアドネは、まるで人形のような真っ白な肌色で、その頬はヒヤリと冷たかった。


(……愛してなどいなかった。だから、彼女が死のうが自分には何の感情も湧かない)


 そう思ったアトラスだったが、先程からまるで誰かに心臓を鷲掴みされているように、胸が苦しくて堪らなかった。


 ふらりとアトラスは妻から離れると、初めて入る妻の部屋をボンヤリと見回した。


 整然とした部屋にはまだ彼女の温もりが残っているようだった。彼女が今までこの部屋でどれだけの時間、一人寂しく夜を過ごしたのだろう。

 ふと、テーブルの上に置かれた分厚い鍵付きの本がアトラスの視界に飛び込んできた。


 妻の遺品である()()に手を伸ばす。


 本を開こうとしたがやはり、鍵が掛かっていた。アトラスはおもむろにテーブルの引き出しを探った。鍵は一番上の引き出しに丁寧に置かれており、アトラスは躊躇いがちに鍵を手に取ると、カチャリと鍵穴に鍵を挿した。鍵は容易に開き、アトラスは静かに表紙を開いた。



 ◇◆◇



 ○月△日


 使用人のアンディが今日もアトラス様の勇姿を話してくれました。アトラス様はたった一人で五十もの敵兵に立ち向かったそうです。

 彼の勇敢な武勇伝は私に勇気を与えてくれます。



 ○月□日


 アトラス様が戦に勝利し、遂に国の英雄の称号を手にしました。平民から騎士へ。騎士から英雄へ。

 彼はこの国の英雄となるに相応しいお方です。平民と貴族の垣根を彼なら壊してくれると信じています。


 ○月✕日


 国王から英雄アトラス様との縁談話がお姉様にありました。しかし、お姉様はアトラス様が平民出の卑しい身分だと縁談を拒否されています。

 愚かなお姉様。平民がどれ程国の為に戦で力を注いでくれたでしょうか。どれ程の犠牲を払ったでしょうか。貴族はその時何をしていたのでしょうか。皆が、アトラス様が戦っている間、優雅にダンスやお茶を楽しんでいました。

 私は自分が貴族だということが恥ずかしい。


 ○月◎日


 信じられないことが起こりました。何と私にアトラス様との縁談話が舞い込んで来ました。

 国王はどうしても我が伯爵家とアトラス様との結婚を進めたいようです。

 我が伯爵家は古くからの由緒正しい名門貴族。

 ここ最近、平民達が貴族に反発してあちらこちらで暴動が起きているそうです。

 国王はその争いを収めるために名門貴族の娘と平民出の英雄を一緒にさせたいようです。私たちは身分差別の壁を取り払う象徴となるのだそうです。

 国の思惑はどうであれ、私は純粋にアトラス様との結婚が嬉しくて堪りません。


 □月△日


 遂にアトラス様との結婚が決まりました。アトラス様を陰ながら支えていけるよう、良い妻になろうと思います。


 △月○日


 結婚式は無事終わりました。しかし、結婚式後アトラス様に「結婚生活は期待するな」と言われてしまいました。アトラス様は貴族を憎んでいるようです。どうしたら彼の心は救われるのでしょうか……。


 △月✕日


 アトラス様が戦に出て、半月。安否の確認がしたくて手紙を送りましたが、返事が全く返ってきません。

 無事であればそれでいいのですが……。



 ◇◇◇



 時間を忘れ、アトラスは妻の日記を夢中で読んでいた。

 結婚前のものから死ぬ前の日迄、アリアドネは、自分の寂しさを埋めるように、毎日日記をつけていた。

 そして、日記には毎日アトラスの名が記されていた。


「俺は、何てことを……っ!!」


 アトラスは妻の内面に触れ、激しい罪悪感と後悔に(さいな)まれた。

 妻は自分が嫌うような貴族の人間ではなかった。

 純粋に自分の活躍を喜び、自分もそうでありながら貴族を嫌悪し、それに気付こうともしない自分勝手で冷たい夫のことをいつまでも想い、心配するような、『王国の女神』と人々に呼ばれるに相応しい、慈愛に満ち、心優しい人間であった。


『そのような方がお一人で寂しく死んでいったのかと思うと、切なくて心が張り裂けそうです』


 ヨランダの言葉が再び脳裏に浮かび、ズキリと心が痛んだ。


「償いを……」


 アトラスは呆然と呟くと、休む間もなく再び屋敷を飛び出したのだった。



 ◇◇◇



 アトラスが屋敷を飛び出した後、再びヨランダがアリアドネの部屋へと足を踏み入れた。

 ヨランダは棺の前に跪くと、ハラハラと涙を溢し、何度もアリアドネに向けて謝罪した。


「奥様、すみません。私があの方を奥様と会わせたばかりにこのようなことに……」


 ヨランダはアリアドネの最後に見た笑顔を思い出し、更に涙を溢した。



 ◇◆◇



『奥様に今回のアトラスの活躍をお話ししたいので会わせて下さい』


 三日前、アトラスの友人であり同じ騎士団の副団長であるパルノゴスが、アトラスの屋敷を訪れアリアドネとの面会を求めてきた。


『奥様に確認してきますのでこちらでお待ちになっていて下さい』


 ヨランダはパルノゴスにそう告げると、アリアドネに謁見の許可を確認するため、彼女の部屋を訪れた。


『奥様、パルノゴス様がお出でになりましたがいかがいたしましょう?』


 窓際で本を読んでいたアリアドネは、パタリと本を閉じ、月の光が霞む程の眩しい笑顔をヨランダに向けた。


『またアトラス様のお話をしに来てくれたのね。通してもらって構わないわ』


 窓から洩れる月の光に照らされた白い夜着を着たアリアドネの神秘的な美しさに、ヨランダは僅かに頬を赤く染めた。


『かしこまりました』


 ペコリとヨランダは頭を下げるとそのままパルノゴスのもとへと戻っていった。


『奥様がお会いになるそうなので、こちらへどうぞ』

『いつもありがとうございます。ヨランダ殿』


 パルノゴスは、嬉しそうに端正な顔に甘い笑顔を浮かべた。

 その後、ヨランダに案内されアリアドネの待つ部屋へと到着した。


『パルノゴス様をお連れしました』


 ヨランダはそう告げると、部屋の扉を開いた。


『パルノゴス様、戦いのお疲れもおありでしょうに、よくお越しくださいました。今日もアトラス様のお話が聞けるのを楽しみにしています』


 部屋の中からガウンを羽織ったアリアドネが、パルノゴスに向けて訪問を歓迎するように優しく微笑んだ。

 パルノゴスは先程のヨランダ同様、月明かりを受ける美しいアリアドネに思わず見惚れた。しかし、直ぐに我に返り挨拶を返した。


『アリアドネ様の月の女神アルテミスも霞む程の美しさに、挨拶が遅れてしまい申し訳ありませんでした。アリアドネ様にいち早くアトラスの活躍をお話ししたく、(いくさ)後真っ直ぐここに立ち寄らせて頂きました。このような時間となり申し訳ございません』


 パルノゴスは胸に手を当て恭しく頭を下げた。


『いいえ。そのようなご心配は不要です。今宵は月が出るのが早いのです。どうか気楽になさって下さい。疲れが取れるよう、ハーブティーをご用意させて頂きますね。――ヨランダ』

『かしこまりました』


 労いの言葉を掛けるとアリアドネは窓際のテーブル席をパルノゴスに勧め、向かい合うように自分も腰を下ろした。

 二人が椅子に座って間もなく、ヨランダが二人にハーブティーを用意する。


『ありがとう、ヨランダ。用事があれば呼ぶので、下がってていいわ』

『はい、失礼いたします』


 手際の良い優秀な侍女に、アリアドネは笑顔を向けた。主人の言葉を受け、ヨランダはペコリと頭を下げると、ちらりとパルノゴスに視線を移し静かに退室した。


『――アトラス様はまた最後迄残られているのですか?』


 カップに口をつけた後で心配そうに、しかしどこか寂しそうにアリアドネがパルノゴスへ尋ねた。


『はい。既に今回の戦いは我が軍が勝利しているのですが、アトラスは別の小隊の戦いに自ら赴き、指揮を執っています。我が軍は次の戦いに備えて戻ることを許可されたので、私がアトラスに代わり帰路の指揮を執りました』


 アトラスはアリアドネとの結婚後、休むことなく戦いに身を置き、屋敷に帰らない日々が続いていた。


『お怪我はされていないのでしょうか?』

『はい。それはもう軍神のような戦いっぷりで、誰もアトラスに傷一つ負わせるものなどおりませんでした』

『そうなのですね』


 アリアドネはホッと安堵のため息を吐いた。

 パルノゴスはそんなアリアドネを見て、戦場でのアトラスとのやり取りを思い出していた。



 ◇◆◇



『奥方から手紙が届いているぞ。何通も溜まっているようだが、見なくてもいいのか?』


 戦の休憩中、副団長でありアトラスの友人でもあるパルノゴスが、アトラスに気楽に声を掛けた。


『ああ。急ぎの用事でないことは分かっているので俺には不要だ』


 興味がないように、淡々と話すアトラスにパルノゴスは肩を竦めた。


『やれやれ、【王国の女神】を妻にしたというのに、なんと罰当たりな態度なんだ。英雄だからと言って伯爵家のご令嬢を娶ったのだから、それ相応に大切にしてやらなければ。伯爵や国王の耳に入ったらお叱りを受けるぞ』


 やんわりとパルノゴスはアトラスに釘を刺した。

 しかしアトラスはまるで他人事のように、パルノゴスの忠告を聞き流していた。

 アトラスが大の貴族嫌いであるということは、騎士団の中でも有名な話であった。

 平民出身であったアトラスが、英雄になるまでにどれ程の苦労をしてきたのかパルノゴスは知らない。

 しかし、騎士団の中にも貴族の出身者は大勢おり、パルノゴスもその一人だった。

 貴族でも、家門の嫡男ではないものはこのように騎士団に身を置くものも多かった。

 そのような貴族出のものからしたら、平民上がりの英雄アトラスは目障りで仕方のない存在だった。

 アトラスはそんな貴族出身の騎士達を敵味方関係なく、圧倒的な力で屈服させた。例え相手が魔物であっても、彼に敵うものなどいなかった。


 勇ましく野性味溢れるアトラスは、世の女性達をも虜にした。もちろんその容姿についても、精悍で、赤髪とダークグレーの瞳は、上品な貴族上がりの騎士とは異なり、野性的で荒々しく一層男らしさを引き立たせていた。彼が街に立ち寄れば、たちまちあちこちで黄色い歓声が上がる程であった。

 そして遂に彼は国一番の美女である【王国の女神】を妻に娶った。


 だがしかし、アトラスは全く妻に興味を示さず、素っ気ない態度を取り続けていた。

 パルノゴスは密かに英雄アトラスを妬んでいたが、女神に対する態度にいよいよ怒りが沸いた。


(英雄なんぞともてはやされて、どこまでいい気になっているんだ!! 貴様が【王国の女神】に興味が無いのなら、この俺が貴様に代わって女神をものにしてやる!)


 パルノゴスは、こっそりとアトラスが封すらも切らない手紙に全て目を通した。

 手紙の内容から、アリアドネが長い間、屋敷に帰らないアトラスを心配していること、無事の知らせだけでもいいから教えて欲しいこと等が書かれていた。


 ニヤリ、とパルノゴスは口の端を歪めて笑った。


 それから、直ぐにパルノゴスは行動を起こした。

 いつまでも屋敷に帰ろうとしないアトラスに変わって、二人の仲を心配する友人の振りをし、言葉巧みにアリアドネに近付いた。

 アトラスが広げ続けている、アリアドネの寂しい心の隙間を埋めるのはとても容易であった。


 実際に見る【王国の女神】は本当に容姿も心も美しかった。疑うことなく純粋に、度々屋敷を訪れるようになったパルノゴスに対して、全くといっていい程警戒心を抱かず、アリアドネは親切な振りをする彼を快く受け入れた。


 ◇◆◇



(愚かなアトラスめ。今日こそアリアドネを俺のものにしてみせる!)


 ハーブティーを飲みながらパルノゴスはごくりと己の唾も飲み込んだ。


「いつも、お一人で寂しい思いをしておられる貴女を見るのはとても切ないです」


 パルノゴスはお茶を飲み終えると、目の前でカップに手を添えているアリアドネの手に、そっと己の手を重ねた。

 アリアドネがピクリと反応するのを見て、パルノゴスは更に言葉を続けた。


「私はいつもアトラスに苦言を呈していました。アリアドネ様が待っているから家に帰れ、と。しかし、アトラスはそんな私の言葉を無視し続け、『家には帰りたくない』とまで話していました」

「そんな……」


 アリアドネが傷付いたような表情で、パルノゴスの言葉に耳を傾けた。


「アトラスは戦いにしか身を置けない男です。アトラスにとって貴女は、所詮国から与えられたお飾りの褒賞品に過ぎない。その証拠にアトラスは戦場で度々娼婦を買っています」

「……酷いっ」


 堪えきれず、アリアドネは手にぎゅっと力を入れた。


「そうです。アトラスは酷い男なのです。でも、私なら貴女を決して悲しませない!」

「違います! 酷いのはそんな話をする貴方です! 私がアトラス様に嫌われていることは初めから知っているのです」


 パルノゴスの手を振りほどいて、アリアドネが悲痛な叫び声を上げた。


「私は初めて貴女を見たときから、貴女に心を奪われました。私はアトラスと違って貴族です。上品で気高い貴女と釣り合いの取れる男です。どうか、アトラスよりも私を選んで下さい!」


 パルノゴスは素早く椅子から立ち上がり、正面からアリアドネを抱き締めた。


「パルノゴス様! お止めください! 使用人を呼びます!!」

「今この状態で使用人を呼べば、貴女と私の不義の噂があっという間に広がり、アトラスの耳にも入るでしょう。英雄の妻が同じ騎士団所属の部下と不義を働いたとなれば、彼の名誉にも傷がつくでしょうね。私はそれでも一向に構いませんが」

「そんな…っ」


 パルノゴスの言葉に思わず、アリアドネは抗う力を弱めた。

 その隙をついてパルノゴスがアリアドネの身体を床にどさりと横たえ、アリアドネの首筋に唇を寄せた。

 ぞわりとおぞましさにアリアドネの背筋に悪寒が走った。


「い、やです! どうかお止め下さい! アトラス様にも触れられたことがないのに……っ」


 涙目で訴えるアリアドネの言葉にパルノゴスの動きがピクリと一瞬止まる。


「まさか、アトラスとまだ……?」


 パルノゴスの力が緩まった一瞬の隙をつき、アリアドネがパルノゴスの腕から逃れた。そして、震える手でテーブルの引き出しから護身用の短剣を取り出すと、パルノゴスにその刃先を向けた。


「これ以上私に無礼を働くのはお止めください!」


 向けられた刃先を見つめながら、パルノゴスはすぅっと急速に興奮していた熱が冷め、冷静さを取り戻した。


「貴女を奪ったらアトラスがどうなるか見物だと思いましたが、ここまで相手にされていないとは……」


 同情を含んだ表情で、じりっとパルノゴスが一歩アリアドネに近付いた。


「いや、それでも貴女の純潔をアトラスに渡すのは惜しい。やはり、私が…」

「あっ……!」


 戦慣れしている副騎士団長に、震えている手で短剣を突き立てた所で、か弱いアリアドネが抗えるハズもなく、あっという間に短剣を持つ両手を押さえられ、再びパルノゴスに間合いを詰められた。

 パルノゴスの欲望に満ちた目がアリアドネを捕える。アリアドネは震えながらも、観念したように静かに目を閉じた。


「ふふ、それでいいのです」


 パルノゴスがアリアドネの両肩に手を添え、赤く艶めく彼女の唇に自分の唇を近付けたその時だった。

 ドスッと鈍い音がパルノゴスの胸の下で響いた。

 パルノゴスがゆっくりと音のした方向に視線を向けると、アリアドネが自身の胸に短剣を突き刺していた。


「何をっ……」


 咄嗟にパルノゴスはアリアドネの身体から離れた。


「貴方に穢されるくらいなら死んだほうがマシです……」


 ゲホッとアリアドネの可憐な口から真っ赤な血が吐き出された。


「愚かなっ……!」


 パルノゴスがその場から後ずさり、逃げようと窓から身を乗り出した時だった。

 ガチャリと部屋のドアが開かれ、青褪めたヨランダが中の様子を見て言葉を失った。


「何てことを……っ!」


 アリアドネの側に駆け寄り、ヨランダが声を掛ける。


「奥様! 奥様! ああ、私はどうしたらっ……」


 アリアドネの左胸から流れ続ける血を見て、ヨランダは、窓から逃げようとしているパルノゴスへ視線を向けた。


「人殺しっ!」


 声を振り絞り、ヨランダがパルノゴスを恨みがましく睨み付けた。


「違う! その女が勝手に自分で胸を刺したのだ。私は何もしていない。お前だって、私達の逢瀬の手伝いをしていたのだ。真実が発覚すればお前も只じゃ済まないぞ。ならばせめて、このまま私を逃がせ」


 そう言うとパルノゴスはヨランダの返事を待たず、急いで窓から飛び降り姿を消した。



 その場には床に横たわる、風前の灯のアリアドネと青褪めて涙を流すヨランダが残された。


「ヨランダ……、お願いがあるの……」

「っ! 奥様どうか喋らないで下さい。今、医者を急いで呼んで来ますので!」

「いいえ、このまま誰も……呼ばないで。これは、私の落ち度……。私が浅はかだった……」


 ゲホッと再びアリアドネは吐血したが、ヨランダの制止を振り切って、命が尽きる前に話を続けた。


「パルノゴス様との不義の噂は、騎士団の統率に亀裂を生じさせてしまう……。何より、アトラス様の名誉が傷付き、平民と貴族との溝が一層深まってしまうでしょう……。それならいっそ、アトラス様の不在中私の気が触れ、自死したことにしておいたほうがいい……」

「そんな、それでは余りに奥様が浮かばれません……」


 ヨランダはアリアドネの提案に首を振って反対した。


「必ず真実を私が皆にお話しします! 奥様の寂しさにパルノゴス様が付け込み、不義を働きかけたと」

「いいえ。貴女も無事では済まなくなります」

「私はどうなっても構いません!」

「いいえ。……お願いです、ヨランダ。私の最後の我が儘をどうか聞いて下さい」


 閉じかけそうなアメジスト色の瞳が必死にヨランダに訴えかけた。ヨランダは張り裂けそうな心を無理やり押し殺し、優しい主人の最後の願いを叶えると約束した。


 ヨランダはパルノゴスが逃げるために開けた窓を、唇を強く噛み締めながら閉じ、震える手で内鍵を締めた。


 そして、静かに横たわるアリアドネに一度頭を下げると


「私も直ぐに後を追いますので……」


 と言葉を残し、部屋を出てアリアドネの言葉を守り、鍵を外から閉めたのだった。



 ◇◇◇



 アトラスはひたすら目的の地まで馬を走らせ、そして遂に辿り着いた。


 ――英雄だけが行くことが許された黄泉の洞窟。


 先の見えない真っ暗な闇の中に彼は躊躇うことなく、足を踏み入れた。



 ◆◇◆



「おはようございます、奥様」


 ヨランダの声にアリアドネは重たい瞼をゆっくりと開いた。

 窓から射し込む日の光がアメジスト色のアリアドネの瞳を照らし、眩しさにアリアドネは思わずもう一度目を閉じ、明るさに慣れるよう何度か瞬きを繰り返した。


「?」


 目が慣れると寝室のベッドからアリアドネは身体を起こした。いつもの光景なのだが、何故か頭の奥に違和感のようなものを感じ、しかしその正体が分からずにアリアドネは首を捻った。


「何か夢でも見ていたのかしら……」


 ぼんやりと呟きながら部屋の様子を眺めると、ヨランダが慌てた様子でドレスを用意していた。


「旦那様がお待ちになっているので、急いでお支度を済ませましょう」

「アトラス様が? そんなはずがあるわけがないわ」


 ヨランダが嘘を告げることはないと知っているが、アリアドネは結婚してから一度もアトラスと朝食を取ったことなどなかったので、思わず聞き返した。


「いいえ、奥様。今朝、旦那様から直接お声が掛かりまして、今日から旦那様がお屋敷にいる時は、お食事は毎回ダイニングで奥様とお二人で召し上がるとのことです」

「ええ? 毎回……?」


 まるで自分のことのように喜ぶヨランダに、アリアドネは思考が追い付かずポカンとした表情を向けた。


「さ、奥様。折角ですので、美しい奥様を旦那様にたっぷりと堪能してもらいましょう! 時間がありませんのでこちらへお急ぎください」


 張り切るヨランダを鏡越しに眺めながら、アリアドネは未だに事態が飲み込めないままであった。



 ◇◇◇



「おはようございます、アトラス様」


 アリアドネが恐る恐るダイニングに足を踏み入れると、ヨランダの言っていたように、既にアトラスが席に着いて待っていた。


 アメジスト色の瞳に合わせた薄紫色のドレスを纏い、腰まであるプラチナブロンドの髪を緩く後ろで編み込んだアリアドネは、ヨランダの頑張りもあり、朝からとても美しかった。


 アトラスはそんなアリアドネに見惚れた様子で暫く言葉を失っていたが、ふと我に返り、ごまかすように軽く咳払いをした。


「ああ。……なんだ、その、……今朝はいつにも増して美しいな」


 言い慣れていないのか、アトラスは視線を横に反らし、もごもごとアリアドネの美しさを褒め称えた。


「!! あ、ありがとうございます」


 アトラスに釣られてアリアドネも頬を赤く染め、恥ずかしさに堪えきれず、俯いた。

 そして、動揺を落ち着けるようにゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「……あの、アトラス様とご一緒に食事をするのは結婚後、初めてで少し緊張致しますが、とても嬉しいです」


 もじもじと遠慮がちにアリアドネが上目遣いでアトラスに視線を送る。

 アトラスはその表情に心の動揺を隠しつつ、努めて冷静に受け答えた。


「ああ。……ずっと戦に出ていたので少し纏まった休みを取ろうと思ってな。……その、今まで一人きりにしていた分、これからはお前との時間も少しずつ増やして行こうと思う」


 突然のアトラスの態度の変化に、アリアドネは唯々驚くばかりであった。


『俺に何も期待をするな。俺達は国のため結婚したが、俺はお前達貴族の人間を心底憎んでいる。結婚したからとて俺達の間には何もない』


 アリアドネの脳裏にかつて、アトラスに言われた言葉が浮かんだ。


(――期待してはいけない)


 浮かれそうになる気持ちを押し殺し、アリアドネは膝の上に置いた手をぎゅっと強く握りしめた。


「ありがとうございます。ですが、せっかくのお休みなら、アトラス様のお身体を充分に休養されることが一番だと思います。どうか私のことは気になさらないで下さい。英雄の妻として私はここにおりますので、アトラス様のご負担になるようなことは決して致しません。そのお気持ちとお言葉だけで充分です」


 泣き出しそうな笑顔でアリアドネは答えた。


「違う! 俺がお前と一緒にいたいのだ!」


 いつでも自分のことは二の次にするアリアドネにアトラスは焦って、遠回しな物言いを止め、素直な気持ちを打ち明けた。


「アリアドネ、勝手なことは充分承知しているが、結婚式の後でお前に言った言葉を撤回させてくれないか。俺はお前を今までのように、放置するようなことはしない」

「は、はい」


 アトラスの勢いに気圧され、反射的にアリアドネが答えると、アトラスは拒否されなかったことにホッと安堵の息を吐いた。


「――まずは朝食を食べよう。その後で、これからの予定を一緒に立てるとしよう」


 目の前に出された朝食にフォークを刺すと、アトラスは機嫌良く、豪快に食事を口の中に放り込んだ。アトラスの食事の様子を不思議な気持ちで眺めながら、アリアドネは夢見心地で自身の食事に手をつけた。


 ◇◇◇


 食事後、アリアドネは部屋へと戻り、ベッドに腰を降ろすと、未だに火照る頬を冷ますように、ひんやりとする枕にボスンと顔を埋めた。


(アトラス様のお食事の様子、貴族のご令息方達とは違ってとても男らしい食べ方だった……)


 初めて見るアトラスの一面に、アリアドネの乙女心がにわかに騒いでいた。


『違う! 俺がお前と一緒にいたいのだ!』


 アトラスが何故急にアリアドネに対する態度を改めようと思ったのか、未だによく分からないが、アリアドネにとってはとても喜ばしいことだった。


「――嬉しい」


 ポツリと呟いてアリアドネは目を閉じた。



『アトラスは戦いにしか身を置けない男です。アトラスにとって貴女は、所詮国から与えられたお飾りの褒賞品に過ぎない。その証拠にアトラスは戦場で度々娼婦を買っています』


 ――不意に、脳裏に誰かの声が響き、ドクリとアリアドネの心臓が鈍い音を立てた。


(今のは……誰の声? いつの記憶……?)


 覚えのない記憶だが、突如としてアリアドネは、得体の知れない恐怖と不安に押し潰されそうになった。


「うっ……ぁ」


 何もないはずの左胸に痛みが走り、アリアドネは左胸を抑え、ベッドの上でうずくまった。


 ――コンコンコン


 部屋のドアがノックされるが、アリアドネは苦しさから返事をすることが出来なかった。


「アリアドネ、入るぞ」


 返事が無いことで、声の主であるアトラスが強引に部屋へと入ってきた。

 アトラスはベッドでうずくまるアリアドネを見かけると、慌てて駆け寄り声を掛けた。


「どうした、アリアドネ! 苦しいのか!?」


 脂汗をかき、苦しそうなアリアドネをアトラスは両腕で抱き締めた。アトラスの温もりを感じたアリアドネは、ようやく我に返り、意識をアトラスへと向けることが出来た。


「アト……ラス様」


 はぁ、と息を吐きながらアトラスの名を呼ぶと、苦しかった呼吸が途端に楽になる。


「大丈夫か? このままベッドで横になるか?」


 心配そうにアリアドネを見下ろすアトラスを見つめ、アリアドネの美しい瞳から涙がポロリと零れた。


「アトラス様……」


 アリアドネはアトラスの胸の衣服をか細い指でぎゅっと掴むと、そのままアトラスの胸に顔を埋めた。


「どうした? 何故泣いている?」


 小刻みに震えるアリアドネの肩を優しく包むと、アトラスはアリアドネの顔をそっと覗き込んだ。


「分かりません。何故だかとてつもなく不安で堪らないのです」


 アリアドネの言葉に、アトラスは苦しそうな表情で答えた。


「大丈夫だ。お前のことは俺が必ず守る。お前が不安になることなど、この先決してないから安心しろ」


 アトラスがアリアドネを安心させるように、もう一度強く腕の中に抱き締めた。


『戦場で度々娼婦を買っています』


 先程の言葉がアリアドネの頭の中をぐるぐる回っていた。


「……今夜、一緒のベッドで寝て下さい」


 アリアドネが切なそうに、声を絞り出すように小さな声で囁いた。


「アリアドネ、それは……」


 アトラスがアリアドネの言葉の真意を汲み取り、心配そうに確認した。


「アトラス様と形だけではなく、本当の夫婦になりたいです」


 ハラハラと涙を溢しながらアリアドネが切実に懇願してきた。

 アトラスはそのようなことをアリアドネに言わせた自分に対し、とてつもなく腹が立ったが、アリアドネの必死の気持ちに答えるように、今度は自分から行動を起こした。


「アリアドネ」


 名を呼び、アリアドネが反射的に顔を上げると、アトラスはそのまま彼女の唇を塞いだ。


「んっ……」


 アリアドネは驚いて目を見開いた。

 呼吸が出来ず、一度アリアドネが苦しそうに吐息を漏らすと、アトラスは唇を僅かに離したが、再び深くまで唇を重ねた。


「……夜まで待てない。このまま……いいか?」


 僅かに残る理性でアトラスがアリアドネに尋ねた。濃厚な口付けを受け、全身が甘い痺れで蕩けたアリアドネは、声を出せずに頬を上気させ、こくりと頷いた。



 ◆◇◆



 アトラスは、腕の中で穏やかに眠るアリアドネを眺めながら、黄泉の洞窟での冥王との約束を思い出していた。


「亡くなった妻を甦らせて欲しい」


 黄泉の洞窟の番人、ミノタウロスを倒したアトラスは、その奥の玉座に座る、全身をまるで闇に覆われたような黒色の長い髪と服を着た冥王に、必死に懇願した。


「お前の強さに免じて、願いを聞いてやろう。しかし、妻を甦らせるにはそれなりの代償が必要だ。お前にその覚悟があるか」


 冥王の闇に浮かぶ金色の目が、妖しくアトラスに注がれる。


「覚悟なら、ここに来ると決めてからとうに出来ている」


 アトラスも怯むことなく、鋭い視線を冥王に向けた。アトラスの物怖じしない勇ましさに、冥王は楽しそうに口角を上げた。


「それならばその願いを叶えよう。代償は――――」



 ◆◇◆



「アトラス様、……起きていらしたのですか?」


 アトラスの腕の中で、アリアドネが恥ずかしそうにもぞりと身体を動かした。


 妻の声にアトラスは現在に意識を戻した。

 過去に冷遇していた妻だったが、ひとたびその健気な心を知ると、アトラスは彼女を失ったことに激しい後悔と罪悪感に襲われた。


 そんなアトラスにもう一度、アリアドネとの結婚生活をやり直すチャンスが与えられた。

 もう二度とこの美しく優しい彼女を失いたくないと、アトラスは腕の中の愛しい妻を優しく抱き締めた。

 それと同時に、自分の全てを彼女に知ってもらいたいと強く思った。


「アリアドネ。何故俺が貴族を憎んでいるのか、その理由を聞いてくれ」


 アトラスは生まれて初めて、己の感情を他人へ吐き出した。


「俺は元奴隷だ」


 アトラスの突然の告白にアリアドネは理解が追い付かず、混乱した。


「奴隷? アトラス様が?」


 アトラスは思い出したくもない過去に、苦い表情で頷いた。


「正しくは解放奴隷だ。元々俺は身寄りがなく、少年時代に奴隷市場である貴族に買われた。奴隷にも色々あることはお前も良く知っているだろう?大抵は鉱山や農場で労働者として買われるものが多かったが、優秀な奴隷なら貴族の使用人として使われるものもいた。

 俺は幼い頃から騎士に憧れ、密かに身体を鍛え自己流だが剣の訓練も行っていた。最初は、俺の強さを貴族に買われて引き取られたと思っていた。しかし、実際は少年を好む婦人の嗜好品としての価値しか俺にはなかった」



 ――夜毎、婦人の部屋に呼ばれる度、アトラスは婦人から呪文のように囁かれていた言葉があった。


「ああ、何て美しいの。貴方は決してその美しい顔と身体を傷をつけてはいけないわ。傷をつけた途端、貴方の価値はなくなると思いなさい」


 婦人の言葉は毒のようにアトラスを蝕んだ。この状況から一秒でも早く抜け出したいとアトラスは日々苦しんだ。そして遂に精神の限界を感じたアトラスは、婦人の目の前で自身の身体に傷をつけた。

 胸から腹部にかけて迷いなく刃先を走らせる。切り裂かれた皮膚から血が止めどなく流れ、婦人のお気に入りの高級な絨毯が血の色に染まった。

 婦人は悲鳴を上げ、狂ったようにアトラスを罵った。

 アトラスは傷の痛みを忘れ、これでこの地獄から解放されると、初めてこの貴族の屋敷で心から笑い声を上げた。




「貴族に買われた奴隷はいいように使われ、捨てられた。俺もその一人だ。身体に醜い傷のある俺は、俺の計画通りその婦人からあっさりと捨てられた」

「そんな……」


 アリアドネはアトラスから聞かされる衝撃的な事実に言葉を失った。尚もアトラスは続けた。


「屋敷を追い出された俺は、死に物狂いで強くなった。魔物を倒し名を上げ、一兵士として戦に参加した。しかし、解放奴隷はどれだけ手柄を上げても騎士になることが出来ない。俺はひたすら戦いに参加し、手柄を立て続けた。その甲斐あって、俺の強さに目をつけた当時の騎士団長から騎士団入りを進められ、俺は特別に解放奴隷から騎士になることが出来た。だが、英雄の称号を得ようとする時に解放奴隷の身分は障害にしかならないと言われ、俺は身分を隠して今の地位にいる」


 アトラスの身体に無数にある傷痕の、胸から腹部にかけて走る一本の大きな古傷に、アリアドネは震える手で優しくそっと触れた。


「私は貴族であるということが、これ程恥ずかしく思ったことはありません……」


 ぽろりとアリアドネの瞳から涙が零れ、吸い込まれるようにアリアドネはアトラスの傷口に唇を寄せた。


「違う。俺はアリアドネのお陰で全ての貴族が憎しみの対象ではない、ということに気付くことが出来た。お前が妻でいてくれて良かった」


 アトラスは胸の傷痕に口付けるアリアドネの頰に手を伸ばし、上を向かせると再び彼女の唇に自らの唇を重ねた。


 うっとりとアトラスに身を任せるアリアドネを愛しく思う一方で、冥王と交わした約束を思い出し、アトラスは、陰鬱な気持ちになっていった。



 ◆◇◆



『アリアドネの魂を甦らせる代償は、アリアドネの死に関係したものの魂を、アリアドネが死んだ日に代わりに差し出すことだ』


 冥王が金色の目をギラリと光らせてアトラスに囁いた。


『アリアドネは自殺している。それならば自殺した原因である俺の魂を差し出せと言うことか……』


 冥王は何も言わずアトラスの様子を眺めていた。


『……分かった。それでアリアドネが甦るのならその条件を受け入れよう』

『――契約は成立した。英雄アトラスよ。お前の覚悟を見せてもらう』


 冥王の手が闇の中で金色に輝いた。


 アトラスの身体もその光に徐々に覆われていき、気がつくと、アリアドネの死から一ヶ月前の世界に戻っていた。


 アトラスはこの一ヶ月でアリアドネの為に、自分の持てる限りの愛情を彼女に注ぐことを決意した。そして自分亡き後は、彼女に全ての財産を残して行こうと思っていた。



 ◇◇◇



 アトラスはアリアドネの為に、初めて自分の屋敷で騎士団や貴族を招き、パーティーを開催した。

 名目上は結婚披露宴のやり直しだったが、アトラスの目的は別の所にあった。


 美しいドレスに身を纏ったアリアドネはアトラスに負けず劣らず、出席者の目を引いた。

 野性的な魅力のアトラスと対を成す上品で優美なアリアドネに会場からはあちこちで感嘆のため息が漏れていた。

 本来、このようなパーティーを嫌うアトラスにアリアドネはパーティーの断りを申し出たが、アトラスはそれを受け入れず、開催を決行した。


 アトラスのエスコートのもと、騎士団のメンバーや関係貴族に挨拶を行っていたアリアドネであったが、彼女の疲労が見え始めた頃に、アトラスはアリアドネに端の方で休むよう声を掛けると、一人で残りの来賓に挨拶に向かった。


 アリアドネは何となく心細い思いで、端のソファーに腰を降ろした。

 すると、目の前に人の気配がし、顔を上げるとそこには見知った人物がその手に飲み物を二つ持って立っていた。


「大分お疲れのようですね」

「お気遣い、ありがとうございます。パルノゴス様」


 アリアドネは、アトラスの友人で副騎士団長であるパルノゴスに、笑顔で感謝の言葉を述べた。

 パルノゴスは慣れた様子で、優雅にアリアドネに手に持っていた飲み物を一つ手渡した。


「アトラスが休暇を取りたいと言ってきた時は驚きました。あいつはいつも理由をつけては、屋敷に帰ろうとしなかったので」


 飲み物を受け取りながら、アリアドネはその頃を思い出し、俯いた。


「あの頃のアトラス様とは大分お変わりになりました」

「そのようですね。貴女を見る目がとても優しくて、戦での彼とはまるで別人だ」


 パルノゴスがアリアドネに優しい視線を向ける。


「もう、私の役目は終わったようですね」


 戻らないアトラスの代わりに、屋敷を訪れ、彼の活躍を伝えていたパルノゴスは、寂しそうに手にしていたワインを一口こくりと飲み込んだ。


「そのようなことはありません。パルノゴス様は私にとっても最早、気を許せる友人です。これからも気兼ねなく屋敷にいらして下さい」

「アリアドネ様、ありがとうございます」


 アリアドネの真摯な言葉にパルノゴスは嬉しそうに笑顔を返した。



 そんな二人の様子をアトラスは、胸の痛みを抑えながら遠くで眺めていた。


 アリアドネから、アトラスが不在時に度々パルノゴスが屋敷を訪れ、自分の安否や様子をアリアドネに伝えに来てくれていたということは聞いていた。

 アトラスがアリアドネの手紙に目もくれず、それに苦言を呈していたパルノゴス。

 アトラスは、自分とアリアドネを気にしてくれる友人の存在に、心から感謝した。

 そして、自分がいなくなった後はパルノゴスにアリアドネを託そうと、仲良く談笑している二人を見て心に決めたのだった。



 ◇◇◇



 アリアドネのもとに戻ったアトラスは、バルコニーにアリアドネを誘った。

 二人の邪魔にならないよう、パルノゴスは挨拶をするとパーティー会場へと消えていった。


 バルコニーの夜風に当たると、ワインで火照った身体を冷ますようにアリアドネは目を閉じた。


「酔ったのか?」


 アトラスはアリアドネの背に回り、バルコニーの手摺に両腕を伸ばすと、自分よりも一回り小さいアリアドネの身体を自分以外のものから隠すように、後ろに立った。


「少しだけ……」


 アトラスの体温を背中に感じ、アリアドネは頬を染めた。


「アトラス様…、私とても幸せです」


 アリアドネが独り言のように呟いた。


「……ああ、俺もだ」


 それにアトラスも答える。例え、一ヶ月後に自分が死ぬことになっても、アリアドネのこの言葉にアトラスは胸がいっぱいになった。



 ◇◇◇



 パルノゴスは苛立つ気持ちを必死で抑えるよう、パーティー会場で乱暴にワインを呷った。


(くそっ! 何故今になってアトラスはアリアドネを大切にし始めたんだ)


 バルコニーに消えた二人を思い、胸の焼け付く感覚にパルノゴスは顔をしかめた。


(アトラスめ、次から次に俺の欲しい物を全て手に入れやがって。だが、アリアドネだけはどんな手を使ってでも、必ず俺がお前から奪ってやる!)


 二人の仲の良さをまざまざと見せつけられ、パルノゴスのアリアドネに対する思慕の感情は、異常な迄の執着へと変わっていた。


 ◇◇◇


 それから穏やかな日々が過ぎていった。

 アトラスとアリアドネの関係も日を追う毎に深まっていったが、時折アトラスがふと思い詰めたように暗い表情をし、物思いに耽っている時間が増えていることにアリアドネは気付いていた。


(また、戦に出るのかしら……)


 アリアドネも不安に駆られたが、口に出すことが憚られ、聞けないまま時間は過ぎていった。


 そんなある日、アトラスからパルノゴスを食事に招待したいと話があり、アリアドネはアトラスの気分転換になるだろうと、快く了承した。



 冥王との約束の期日はいよいよ明日へと迫っていた。

 アトラスはパルノゴスにアリアドネを託した後で、屋敷を抜け出し、密かに命を絶とうと思っていた。

 自分の財産を全てアリアドネへと遺す手続きを済ませたアトラスは静かにその時を待っていた。



 一方、アリアドネは一人、庭先で今日のディナーのテーブルに飾る花を摘んでいた。


「アリアドネ様」


 自分を呼ぶ声にアリアドネは振り返った。

 そこには花束を手にしたパルノゴスが立っていた。微笑んではいるものの、いつもと違う空気を纏ったパルノゴスにアリアドネは僅かに違和感を覚えた。


「パルノゴス様、もうお出でになったのですか?まだ準備が整っていないのですが……」

「すみません。待ち遠しくて早く着いてしまいました。花をご用意されていたのですね。丁度良かった。これを貴女に贈ろうと思っていたのです」


 パルノゴスは、アリアドネに彼女の瞳の色に似た、薄紫色のジギタリスの花束を手渡した。


「まぁ……。……とても華やかでキレイな花ですね。ありがとうございます」


 アリアドネは遠慮がちに花を受け取ると、お礼の言葉を述べた。


「花にお詳しい貴女なら、その花言葉の意味はお分かりですよね?」


 パルノゴスは、花を受け取る際、アリアドネが一瞬躊躇したことを見逃さなかった。


(――ジギタリスの花言葉は、『隠されぬ愛』『不誠実』。そして、この花は強い毒性を持っている……)


 パルノゴスの意図を探ろうと花から彼へと視線を戻したその時だった。

 アリアドネを正面からパルノゴスが強く抱き締めた。


「パルノゴス様っ!? 何を……」


 アリアドネの手からジギタリスの花が地面へと溢れ落ちた。

 驚いたアリアドネは咄嗟にパルノゴスの腕から逃れようと、身体を捩るが思った以上に腕の力が強く、びくともしなかった。


「一目見たときから貴女に心を奪われました。アトラスのような身分卑しい英雄に、貴女のような高貴で美しい女性は似合わない」


 告白と共にパルノゴスはその場にアリアドネを押し倒した。


「お止めください! 私はアトラス様の妻です!」

「アリアドネ、どうか私のものになって下さい」



『貴方に汚されるくらいなら、死んだほうがマシです……』



 アリアドネの脳裏にパルノゴスに組み敷かれている光景が甦ってきた。


(な……に…? 私、過去にも同じことを経験している…)


 アリアドネの中で過去の出来事が甦り、膨大な記憶がアリアドネに流れ込んできた。


「あっ……!?」


 フラッシュバックする記憶にアリアドネが大きく目を開いた。


「アリアドネ?」


 そんなアリアドネの様子に、彼女を組み敷いているパルノゴスは不審な目を向けた。


「思い出したわ。私はあの時、こんな風に貴方に襲われて……。貴方に穢されるくらいならと、自分の胸を刺して死んだのよ!」

「何を言って……?」


 パルノゴスは物騒な言葉にぎょっとし、組み敷いていた腕の力を弱めた。その隙にアリアドネは身体を捻り、パルノゴスの腕から逃れた。


「私はあの時死んで、また生き返った。それは……」


(生き返ってから、変わったもの……)


 アリアドネはアトラスの姿を思い浮かべた。


『……その、今まで一人きりにしていた分、これからはお前との時間も少しずつ増やして行こうと思う』


『俺はお前を今までのように、放置するようなことはしない』


 アリアドネは、今まで感じていた違和感の正体に気付き、その場に泣き崩れた。


「ああ……」


(アトラス様がきっと私を生き返らせてくれたのだ)


 早くアトラスの元へ行きたいと、屋敷へと足を向けたアリアドネに、慌ててパルノゴスが腕を掴んで引き留めた。


「アリアドネ!」

「離して! 例えアトラス様がいなくても、私は決して貴方のものにはならないわ!」


 アリアドネの言葉にカッとなったパルノゴスは反射的にアリアドネの頬を平手で激しく打ち付けた。

 パァンと大きな音が庭先に響き渡り、その衝撃でアリアドネはよろけて芝生の上に倒れ込んだ。

 しかし、アリアドネは怯むことなくパルノゴスを鋭い視線で睨み付けた。


「もう何をされても怖くないわ! 私が恐れるのは再びアトラス様と会えなくなることだけよ!」

「くっ、アリアドネ!!」


 手を上げた後悔と高揚した気持ちを抑えることが出来ずパルノゴスは再びアリアドネを組み伏せようとした。


 カチャリ――


 無機質な鋼の音がパルノゴスの左耳に響いた。


「私の妻に何をした」


 パルノゴスの後ろから、静かな怒りを向けるアトラスがパルノゴスの左頬に剣を構え、立っていた。


「アトラス様!」


 アリアドネが会いたくて堪らなかった愛しい夫の名前を呼んだ。

 アトラスはアリアドネの赤く腫れた頬と乱れた服を見て、ギリッと歯を食い縛り、こめかみに青筋を立てた。


「立て、パルノゴス。貴様が私の妻にした報いを受けて貰う」

「くそっ、アトラス。英雄だともて囃されていい気になるな! 所詮お前は平民出の卑しい野蛮な人間なのだ!」


 パルノゴスも腰に差していた剣を抜き、アトラスの剣を自身の剣で跳ね返した。

 キィンとお互いの剣が交じり合う。

 パルノゴスは日頃からの憎しみを込め、猛烈な勢いで剣を振り回した。

 しかし、歴戦の勇士であるアトラスの方が実力は数倍も上であり、決着は呆気なく着いた。


 キィン――――


 再び大きな金属音が庭園に鳴り響いた。

 パルノゴスは手にしていた剣をアトラスに弾き飛ばされ、ハアハアと息を乱しながら、ガクリと地面に膝を突いた。

 アトラスは、パルノゴスの目の前に剣を突き付け、冷淡な目で見下ろしていた。


「アリアドネを叩いたその腕を切り落とそうか」

「くっ!」


 アトラスが剣を振り上げたその時、


「お止め下さい!!」


 アリアドネがアトラスを制止するため、後ろからアトラスの身体に抱きついた。


「無益な殺生はお止め下さい!」


 怒りで頭に血が昇っていたアトラスが、ぼんやりとアリアドネに振り返った。


「アリアドネ……またお前を辛い目に遭わせた」

「いいえ。私は大丈夫です。今度はアトラス様に救って頂きました」

「……今度は?」

「全て思い出しました。私はあの夜、一度死んでいます。アトラス様が私を甦らせたのですよね?」

「! アリアドネ」


 アリアドネの言葉に驚いたアトラスが、身体ごと後ろを振り向いたその時だった。


 ――ドスッ。


「!?」


 アトラスの背中に鈍い痛みが走った。

 ゆっくりとアトラスが後ろを振り返ると、狂喜に満ちた表情で、パルノゴスが胸に潜ませていた短剣をアトラスの背中に突き刺していた。


「ハハハ。やったぞ! 遂に俺が英雄アトラスに一太刀を入れてやった!!」

「アトラス様!!」


 アリアドネが悲痛な叫び声を上げる。


「だ、いじょうぶだ」


 アトラスは握っていた剣をパルノゴスの胸から腹にかけて思い切り振りかざした。

 衣服ごと皮膚が裂け、ブシャッとパルノゴスの身体から血が吹き出した。


「かはっ……!!」


 パルノゴスは血を吐いて、うつ伏せに地面に倒れ込んだ。

 倒れたまま立ち上がることの出来ないパルノゴスの様子を確認すると、アトラスも地面にガクリと片膝を付いた。

 地面にアトラスの背中から伝う血がポタリと落ちる。


「アトラス様!! そんなっ!」


 アリアドネがアトラスの身体を支える。


「いいのだ、アリアドネ。私はどうせ今日死ぬ運命だったのだ」

「何を言っているのです!?」

「お前を甦らせる為に俺は黄泉の洞窟に行き、冥王と約束を交わしたのだ」

「約束?」

「お前の死んだ日に、お前の死の原因となるものの魂を代わりに冥府へ送る、と……」


 アトラスの視界がぼんやりと霞んできていた。アトラスは愛しいアリアドネの顔を見ようと、最期の力を振り絞って自身の顔を上げた。


「ああ、違うのです。アトラス様……」


 アリアドネが涙でぐしゃぐしゃの顔で、アトラスに真実を打ち明けた。


「私はアトラス様が原因で命を絶ったのではないのです。あの時も、パルノゴス様が屋敷にやって来て、私を襲おうとしたので、穢される前に私が自ら命を絶ったのです」

「な、んだと……!」


 アトラスは意識が薄れそうになる中、過去の真実を聞き、倒れているパルノゴスに怒りの目を向けた。


「うう……」


 アトラスに斬られたパルノゴスは、かろうじて生きているようで、苦しそうに地面に突っ伏し、呻いていた。


「……しかし、パルノゴスに……付け入る隙を与えたのは……俺が原因だ……」


 アトラスは過去の自分を責めた。


「アリアドネ、今度こそ……お前を幸せにしたかった……」


 アリアドネの腕の中でアトラスが小さく呟いた。


「嫌です! 私ももう二度とアトラス様と離れたくありません! アトラス様がいない世界など、私も生きている意味がありません!」


 ズズズズ――――


 アリアドネの悲痛な叫びと共に突然、庭園を暗闇が取り囲んだ。

 そして、暗闇の中からゆっくりと人の姿が浮かび上がった。


「約束は成った」


 漆黒の闇に紛れて、冥王の金色の瞳がギラリと妖しい光を放ち、倒れているパルノゴスとアトラスの身体を闇が覆う。


「ああ、お止め下さい!アトラス様を連れて行かないで!!」


 暗闇に呑まれたアトラスの身体を離さないよう抱き締め、アリアドネが冥王に向かって涙を流しながら必死に懇願した。

そんなアリアドネに冥王は視線を向けると、僅かに微笑み、アトラスを覆っていた闇に手をかざした。


「!」


 闇が徐々に小さくなっていき、アトラスの身体が再びアリアドネの視界に戻る。


『うわぁぁぁっ!! やめろぉぉっ!! 俺を連れて行くな!』


 一方で、パルノゴスの絶望と恐怖に満ちた悲鳴が聞こえ、闇に呑み込まれるように、パルノゴスの身体が冥王と共に小さく消えていった。


 その場にはアリアドネと、彼女の腕に抱かれたまま目を閉じているアトラスだけが残された。


「アトラス様!!」


 アリアドネは青褪めた表情で、意識のないアトラスの名を何度も呼んだ。

 アリアドネはアトラスの顔に自身の頬を擦り付け、(むせ)び泣いた。


「私も直ぐにそちらへ参ります……」


 アリアドネの涙がアトラスの頬を伝って口唇に流れ落ちた。


「アリアドネ……」


 アリアドネの涙で濡れたアトラスの唇から、小さく愛しい妻の名を呼ぶ声が聞こえた。アリアドネが驚きで目を見開くと、今度はアトラスがゆっくりと目を開き、優しい瞳でアリアドネに視線を向けた。



「……どうやら俺は生かされたらしい」


 背中に刺さった剣も傷も消えていた。

 冥王はアトラスを生かし、パルノゴスの魂を冥府へと連れていったのだ。


「ううっ……!」


 アリアドネは喜びに泣き崩れ、アトラスの身体をもう一度強く抱き締めた。



 ◇◇◇



 それからの二人は、国民が羨むほどの仲の良い夫婦として、度々王国の話題に上った。

 彼らのお陰で平民と貴族の身分差別は解消の第一歩を踏み出すことに成功した。

 奴隷に対する貴族の使用権利に対しても、アリアドネが積極的に国に働きかけ、より多くの解放奴隷が生まれ、奴隷だったものも実力が認められる社会へと変化していった。


 こうしてこの国では、歴史を動かした英雄アトラスとその妻アリアドネの物語が長く語り継がれていったのだった。







最後まで読んで頂きありがとうございました。

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[良い点] 楽しく読ませて頂きました。ありがとうございます
[良い点] 生き返ってよかったですね いなくなって初めてわかることがあるということですね
[一言] 誤字報告がユーザーからできますが、最終的に反映させるのは作者様になるので必ず確認した方がよいかと。 誤字を修正するのならば良いのですが、たまに本文中に指摘事項を書く方がいますので。
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