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春の日差し、桜流す雨

作者: 水無飛沫



「こんな日にはね、決まって雨が降るの」


両手を塞がれてしまった私に、彼女が傘を被せてくれる。

悲しそうにつぶやいた彼女の言葉は、しとしとと降り注ぐ春の雨の中へと消えていく。

……この雨で、きっと桜は散ってしまうだろう。




 * * * * * 



透子との関係は学生時代に始まる。


喧しい私と大人しい彼女。

性格も好きな男子のタイプも何もかもが対極であったけれど、それがかえって心地よく、何をするにも一緒だった。


ふたりの関係は学生時代に留まらなかった。

仕事や恋の相談をしたり、一緒に旅行に行ったりと、大人になってからもそれは変わらなかった。

透子の結婚式では嬉しさのあまり号泣してしまったし、彼女に娘が生まれた時には誰よりも喜んだと思う。


明莉という名前もふたりで決めたの。

永遠とああだこうだと話し合う私たちを横目に、旦那さんがコーヒーを飲みながら苦笑してたっけ。


芸術家の真似事をして稼ぐ私には安定した間柄の恋人もできず、そういった縁には恵まれなかった。

だから透子の娘の成長を、ずっと我が子のように見守ってきた。


――あなたはまるで、太陽みたいな人ね。

そう言ってくれる彼女は、まるでお月様のように儚く美しくて、私は本当に透子のことが大好きだった。





「美樹おばさん、あのね……」

ようやっと緑が芽吹き始めた春先、明莉から電話がかかってきた。

彼女も新年度には高校三年生で、受験を控えている。

子どもが大きくなるのは本当にあっという間だ。

感慨に浸る私に、明莉は切羽詰まった様子で

「お母さんが救急車で運ばれていった」と言う。


ついこのあいだも一緒に飲んだばかりで、その時に最近体調がすぐれないとは聞いていたけど、まさかそれほどだったとは。

……もっと気にかけておくんだった。

後悔しながら病室を訪れると、顔色は悪いものの、思いのほか元気そうな透子がいた。


「大丈夫なの?」そう問いかける私に

「検査入院だって。みんな大げさなのよ……。お医者さんも2~3日あれば退院できるでしょうって」

つまらなそうに透子が答えた。

「明莉は?」

「今は春期講習に行ってるわ」

「そう。受験生は大変ね」

「私がしっかりしないと……。もう浩人さんもいないのに……」

自分に言い聞かせるように透子がつぶやく。

浩人とは透子の夫である。

……いや、夫であったと言うべきか。昨年不幸な事故で亡くなっている。


親族関係でも色々とあり、透子は一人で娘を育てなければならないのだ。

この一年、気負っていたところもあるのだろう。

ただの心労から来る体調不良であればいいのだけれど……。


いけない。頭を振って落ち込んでいく思考を追い出すと、私は彼女に笑顔を向ける。

「退院したらパーティーしなきゃね。このあいだ言ってたおいしいワインを買っておくわ」

透子が今日一番の笑顔を見せてくれた。



それから数日が経った。

本来であればもう退院しているはずなのに、透子はまだ病院にいる。

その日、明莉が医師に呼ばれた。これから透子の病状を説明してくれるのだという。

まだ高校生の明莉には近しい親族もいないので、医師に私の同伴を許してもらった。


流行りのメガネをかけた、まだ若い医師が苦い顔をして言う。

「癌が見つかりました。今、専門医と協議して発端がどこか探しているのですが……

いかんせん既に全身に回ってしまっていて……」

透子が……癌……。それも、全身に……?

「それって……」

頭の中が真っ白になる。

遅れて、悲しみと怒りを伴った衝撃が全身を貫く。

だって、検査入院だから2~3日で退院できるって……。

喉元までせり上がってきた恨み言を言う前に、

「あとどれくらい保ちますか」と、明莉が言葉を紡いだ。


内心誰よりもつらいはずなのに、それ以降の言葉を言いにくそうにしている若い医師を慮っての言葉であろう。


「残念ながらもう脊髄にまで癌が転移しまっている状況です。長くて半年……短ければ……」

「わかりました」

無表情のまま、明莉が医師の言葉を遮った。

最善を尽くします。そう言って医師が頭を下げる。

握り締めた明莉の拳が、小刻みに震えていた。


あまりにも急な展開に、私たちはこのことを透子に伝えられなかった。

けれどそうしている間にも、透子の体は急速に悪化していく。

たった数日で、もう自分一人では起き上がることもままならなくなってしまった。

それでも看護士に迷惑をかけたくないと、トイレに向かおうとするのを支えて連れていく。


個室に入り、用を足している最中に突然泣きじゃくる透子。

断りを入れて、私は扉を開けた。

赤黒く染まった白い陶器が否応もなく目に入ってきて、私は言葉を失う。

「ねぇ美樹……」

それは否応もなく彼女に『死』を突き付ける。

「私の体、どうなっちゃってるのかな」

私は唇を噛みしめて、子どものように泣く透子を抱きしめた。


……別れの時が近づいている。

彼女に残された時間は、きっともう長くはない。

私はどうしても外せない打合せなどを除いて、日中の大半は透子と一緒に居ることにした。

明莉の方も春休みということもあって、塾の時間以外は透子と過ごすことができた。

夜には明莉と一緒にご飯を食べて、彼女を家まで送ってはいたけれど、明莉の精神的な負担は相当のものだっただろう。





穏やかな春の日差しが窓から差し込み、透子に注いでいる。

そのすぐ枕もとで明莉は参考書を読んでいる。


「桜が見たいわね……」


透子が寝転がりながらボソッとつぶやいた。

明莉は読んでいた本から顔を上げて、窓の外を見る。

「やっと咲き始めたみたい。3分咲きくらいかな」

言われて気づく。

そうか。もう桜も咲き始めているのか。

それは明莉も同じだったようで、ぼーっと春空の下を眺めている。

……透子が入院してから十日あまり。私たちはそんな変化にも気づけないほど余裕がなかった。

「満開になったら、一緒に見ようね。お母さん」


それから更に数日は、病状も安定していて、取り立てて書くこともない日々だった。

四月に入って数日が経った頃、例年より遅い桜が満開になった。

今では車椅子に乗ることもできなくなってしまった透子に、明莉が手鏡を渡す。


この部屋唯一の窓は、横たわる透子の頭の上にある。

体を起こせない彼女は窓から外を見ることができないのだ。


「満開だよ、お母さん」


明莉が透子に優しく話しかける。


「本当……綺麗ね」


鏡ごしに外に咲く桜を眺め、透子は弱々しい笑顔でつぶやく。

優しくて穏やかな光景に涙が零れ落ちた。


(これ以上は望みませんから、どうかこのまま……)


そう、願わずにはいられなかった。


桜を堪能した透子が眠りに落ちる。

その枕元に置かれた手鏡を、明莉が手早く仕舞い込む。

それが正しく――彼女のやつれていく姿を映すために――使われないように。

本当に、恐ろしく気の利く子だ。


「おばさん……」

つぶやいて、自嘲気味に明莉が笑う。

私には優しく、首を縦に振ってあげることしかできない。

こんなにいい子が……たった一年の間に両親ともを喪うことになるだなんて……。

そのまま私は顔を上げることができなくなってしまった。




それから二日も経たなかったと思う。

土曜日の昼下がりに病院から連絡が入る。


急いで駆けつけると、透子は酸素マスクを付けられ、激しく呼吸をしている。

幸い、目は開いていて、まだ意識はあるようだ。

すぐ傍で明莉がなすすべもなく佇んでいた。


苦しみながらも、ぜえはあと呼吸を続け、必死に生にしがみついている透子。

まだたくさん未練もあるだろう。これからも娘を見守っていたいだろう。

つい先日までの穏やかな時間がまるで嘘のようだ。


「残念ですがもう手の施しようがありません。

本当は医師としてこんなことを提案するべきではないのですが……」


若い医師が、心苦しそうに提案をする。

それはこれ以上苦しまないように、麻酔で眠らせるというものであった。

それにはどうしても親族の許可が必要なのだという。


医師の見守る中、私たちは最後の時間を透子と過ごす。


涙が零れる。私は彼女に何もしてあげられない。

透子の額を撫でる。

手のひらに伝わる湿り気は、確かに生を感じさせてくれるものの、土気色の顔色がもう逃げられない死を明確に告げていた。


透子が私を見る。

その目が私に訴えている。

私は首を縦に振る。

抑え込もうとしたのに、口から小さな嗚咽が漏れた。


「ほら、明莉」


一歩下がっていた明莉を抱き寄せる。

涙を流しながら、明莉はそれでも健気に母親に語り掛ける。


「後のことは大丈夫だから。私は大丈夫だから……」


明莉が透子の手を握りしめて、そう告げる。

透子がふっと笑ったような気がした。


よかったわね……透子……。

立派な娘を持って……やっぱりあなたは私の自慢の親友よ。


「お願いします」


明莉が医師に向き直って告げる。

小さな声ではあったけど、それは確固とした意志を持つものであった。


あぁ、その決断をするのが私であればよかったのに。

……透子を殺すのが、せめて私であればよかったのに。


ぐっと拳を握り締める。


明莉……私たちの大切な子ども。

そんな彼女に、親の死を願うような発言をさせてしまったことが悔しくてならない。


医師が伏し目がちに頷くと、呼吸器に麻酔が混ぜられる。

ぜえはあと喘ぐように呼吸していた透子ではあったが、

薬が投与されるのに従って、ゆっくりと呼吸を止めた。


――穏やかに眠るように。


心電図の音さえなければ、安らかな眠りについているようにしか見えない。


おやすみなさい。もう苦しまなくていいのよ。

優しく呼吸器が外され、医者の宣言が為される。

明莉が泣き崩れる。



明莉は真面目な子だから、きっと生涯今日という日の自らの決断を背負い込もうとするだろう。

だから……

せめて……


透子の代わりに


私がずっと、守っていこう。







車から降りると雨が降っていた。

遺灰を抱える明莉のために、寄り添って黒い傘を差す。


「こんな日にはね、決まって雨が降るの」


雨が降る……。

桜を散らす、雨が降る。


「ほら、ごらんなさい。

雲の隙間に、晴れ間が差しているでしょう?」




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― 新着の感想 ―
[良い点] 人間のドラマは状況を追い込むことで発生するという所を実感させられて勉強になりました。 ”死”という敵が存在する事によって、明確で強固な葛藤構造が産まれて、そこに対する人間の切実な感情が非常…
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