08
正しいと信じて手を伸ばした選択が、後になって間違いだったのだと重くのしかかる。
どれだけ考えたって、どれだけ正しいと信じたって、それが本当に最良の選択だったかなんて、その時には誰にもわからない。
悩んで、迷って、悔やんで。
それでも時は止まることなく進んでいく。いつだって、誰にだって、平等に。
◆◆◆◆◆
バンド結成三周年を向かえた頃、infinityはとうとう初のワンマンライブを開催した。それを境に彼らを取り巻く環境は少しずつ変化し、そして私と彼の関係も少しずつ、しかし着実に変化していった。
ワンマンライブが開催された年の三月、私は無事に大学を卒業し内定をもらっていた会社に就職した。プログラミングやシステム運用に携わる仕事だ。教育学部を卒業した私には当然プログラミング技術など皆無だったが、三ヶ月の研修期間で基礎中の基礎を叩き込み、七月には稼ぎ頭の東京事業部へと配属が決まっている。
研修期間の三ヶ月間は実家を離れ大阪で寮生活。慣れない土地、慣れない生活、畑違いの勉強とストレスから不眠に悩まされたりもしたが、時折思い出したかのように送られてくる彼からの愛らしい猫の写真や、バンドの近況報告、日々の他愛ない話題に随分と助けられたのは言うまでもない。メールが途切れなかったのは、研修が始まって一ヶ月ほどで送られてくる写真が癒しだと弱音をこぼしたせいもあるだろう。
「大丈夫。頑張れ」と短い応援メッセージが添えられていたあの日のメールは、今でも保存をかけてたまに見返している。
細々とメールのやり取りを交わすうち、私は彼を「ショウさん」から「ショウくん」と呼ぶようになり、彼もまた私のことを「美咲さん」から「美咲」と呼ぶようになった。お互い一つしか歳が違わないこともあり、いつの間にか丁寧語が取れて、メールだけを見ると普通の友人と何ら変わりのない間柄になったように見える。ファンとアーティスト、その境目がおぼろげになりつつあるこの状況に、私は人知れず恐れを抱いていた。
何度自分を戒めたことだろう。間違えるな、勘違いをするな。そうでもしないと彼を好きだという気持ちが私の意志とは関係なく育っていってしまうかもしれない。憧れ以上の気持ちを持てば、自分の首を絞めることになるとわかっていた。
それでも、私たちの曖昧な関係は続いていた。
『七月にはこっちに帰って来るんだろう?』
「うん。来週の金曜日で研修が終わって、土日で片付けてそっちに帰る予定」
『忙しないな』
「大半は事前に荷物をまとめて送っちゃうし、日曜日にはスーツケースに私物詰めて新幹線乗るだけだから、言うほどバタバタはしてないかな」
『そうか』
「三ヶ月あっという間だったなー」
『美咲』
「うん?」
『……帰ってきて落ち着いたら、飲みに行かないか』
「あれ、珍しい。ショウくんお酒嫌いじゃなかった?」
研修最終日を来週末に控えた土曜の夜のこと、急に電話をしても良いかという彼からの連絡があり、私たちははじめて携帯越しに会話をした。肉声とは違う電子音が混ざった声に違和感を抱きつつ、メールとあまりかわらず他愛のない会話に興じていると、ふと彼がそんな提案をする。
普段はメンバーですら飲みにはほとんど行かないらしいショウくんが、自分から飲みに誘ってくるとは珍しいこともあるものだ。リップサービスと取るべきだろうか。しかしショウくんはこういう冗談は言わないタイプのはずだ。彼なりの「あともう少しだから頑張れ」なのかもしれない。
あぁ、会いたいなぁ。
言えない言葉を飲み込んで、代わりになんて伝えよう。ここは「ちょっとさすがにファンサしすぎじゃない?」とおどけて続けるのが正解だろうか。なんて考えていたら、ふと携帯の向こう側が急に静かになったことに気づいた。
「ショウくん?」
もしかしてこのタイミングで寝落ちでもしたのだろうかと名を呼ぶ。すると彼は少しの間のあと、とても静かな声音で言った。
『あなたの顔が見たくなった』
「え?」
『……と言ったら?』
どくんと心臓が跳ねる。そして慌てて自分自身を諌めた。別に深い意味はないはずだと……勘違いしてしまわないようにと言い聞かせる。
友人のように接してくれるが、元はギタリストとそのファンだ。どれだけ親しげにしてくれても、そこを間違えて勘違いしてはいけない。そう無理矢理にでも線引きしてしまわないと、勢い余って私もあなたに会いたいのだと口をついて零れてしまいそうになる。
言ってしまえたら楽だろう。けれどこのぬるま湯を漂うかのような夢心地の関係を壊してしまうのは気が引けていた。もっとも引き際はきちんと見分けなければならないが。
「ショウくんって案外寂しがり屋さん?」
『さぁな。落ち着いたら連絡をくれ。あいつらも会いたがっていたから声をかけておく。佳奈さん、だったか? 彼女にも声をかけておいたら良い』
「うん、わかった。ありがとう、ショウくん」
『あぁ。気をつけて帰っておいで。……それじゃあ、また。おやすみ』
電話の向こうで彼が小さく笑い、そう言って通話は切れた。
とうとう彼は冗談だとは言わなかった。
◆◆◆◆◆
研修が終わって東京に戻れば、いよいよ正式配属となって慌しい毎日を過ごした。
あれを覚えて、これを学んで。右へ左へと新人らしく忙しい日々を送り、少しは落ち着いたところで佳奈と一緒にinfinityのメンバーと飲みに行った。
肉が食べたいと声高に言ったのは誰なのだろう。少なくともショウくんではないと思う。赤頭巾ちゃん研修お疲れ様! と言いながら豪快に食べ尽くす彼らに佳奈と二人で大笑いした。恐らくお疲れさん会という名の肉祭りがしたかったのだろう。ショウくんの「もう二度とあいつらは誘わない」というげんなりした一言が、何だか彼の苦労の全てを物語っていた。
それから季節は夏を向かえ、秋を向かえ、ゆっくりと巡っていく。
いつかはやめなければと思っていたメールのやり取りも私の予想に反して細く長く続いている。何年かすれば携帯電話はスマートフォンが主流となり、メールからLINEというトークアプリでのやり取りが主な連絡ツールとして用いられるようになった。SNSの主流もすっかり様変わりし、新たに登場したTwitterというものがより手軽に情報発信ができ、かつ拡散力も宣伝力も強いとなればメンバー全員がアカウントを作成して情報発信の場がそちらに変わったりもした。フォロワー数も着実に伸びているらしく、フォローした私のアカウントはすぐにその他大勢の中に紛れて探し出すこともできなくなった。
そうしてinfinityは小さなインディーズレーベルに所属することになり、彼らの人気はますます上がった。ライブを行えばチケットはすぐに完売し、時折今注目の若手ロックバンドとして特集が組まれたりするようになった。
ゆっくりと、しかし確かに周りは変わっていく。infinityというロックバンドの立ち位置も様変わりし、ずいぶんと遠い存在のように思えて仕方なかった。それなのに私とショウくんの関係はアーティストとファンというには近く、かといって友人とは少し違う微妙なバランスの上に成り立ち、その距離感は彼らがどんなに有名になってもほとんど変わることがなかった。
彼は音楽に、私は仕事に忙しい毎日を送るようになり、時にはせっかくのライブも急な残業で観に行けなくなることだって増えたが、それでもメールからLINEに変わったやり取りは今なお続いている。互いの都合さえつけば一緒にお茶だってしたし、近所の駐車場でぼんやりと白猫の大福を撫でながら「あの頃が懐かしい」なんてたった二、三年前のことを懐かしんでは笑ったりもした。イメージが固まらないから代わりに歌ってくれと作りかけの曲を手渡されて、彼の弾くアコースティックギターの音に拙い歌声を乗せたこともあった。自分で歌えるくせにと言えば「それじゃ楽しくない」なんてしれっと返されたこともある。なんて贅沢な時間だろう。
楽しかった。このままでよかった。この関係に決して名前はつけずに、彼の今後の邪魔になるならすぐに離れられる、ただのファンに戻れるそんな関係でよかった。多くは望まない。ただ大好きな彼の音楽がこの先も聴けるならそれで満足だった、満足しなければならなかった。
「美咲」
「なあに?」
時折彼がもの言いたげな目を向けることに本当は私も気付いている。いつも静かに凪いでいる瞳がゆらゆらと揺れていることだってあることも。何となく彼が望んでいることも、口にしない思いも気付いていたが私はそれに気付かないフリをする。
最初から、彼と私の立ち位置はステージの上と下で分かれていた。それが今ではステージと観客席の間は大きく開いているのがわかっているのに、触れたいと手を伸ばしている。届くわけがないのだ。届いてしまってはいけないのだ。
それでも、もう少しだけ。あと少しだけで良い。心の中で唱えるそれは祈りにも似ていた。
「でも、そろそろ潮時なのかな……」
スマホの画面に表示されたメッセージに指先でそっと触れる。
『大手レーベルへの移籍が決まった。メジャーデビューの話も出ている』
嬉しいはずなのに、その知らせに私の心はどうしてかついて行くことが出来ずにいた。
infinityのボーカル、恭介から個別に連絡がきたのはそんな時だった。
◆◆◆◆◆
指定された喫茶店に現れたのは恭介だけだった。昭和の匂いが残る昔ながらの喫茶店の、一番奥のボックス席に彼はどっかりと腰を下ろしていた。
恭介と二人きりで会うのはこれがはじめて。私はこの人の軽薄な態度の裏に隠された鋭い視線が、知り合って何年もたった今でも苦手だ。
「単刀直入に言う。ショウとはもう会わないでくれ」
「……わかりました」
彼のあまりに簡潔な言葉に何も言い返すことなく、ただ了承のみを告げる私に些か驚いたのだろう。恭介は僅かに目を丸くする。
「随分あっさりしてるな。意味わかってんのか?」
「予想も覚悟もしてましたから。……曲、書けなくなってるんですよね?」
会えばわかるし、話せばもっとわかってしまう。いつからか、ショウくんはあんなに好きだった曲が書けなくなっていた。メジャーデビューを控えた大事な時期に、と自分でも焦っているのも知っている。しかし彼はそんな姿を私には絶対に見せない。おそらくはメンバーにも。弱いところを見せたがらない人だということも知っていた。
恭介は「何だ、知ってたのか」と頭をばりばりと掻いた。
「いつから知ってた?」
「気付いたのは最近です。曲作りの話をしなくなったから」
そうか、と恭介はため息混じりに言う。苛立ちか、それとも動揺か、気持ちを落ち着けようとポケットから煙草を取り出して一本咥えたが、そこが禁煙席だったのをすぐに思い出したらしくライターをつける手を止めた。そしてその一本の煙草を指先でしばらく弄んでいたが、結局それは火をつけられることなく彼のコーヒーカップのソーサーの上に転がった。
「俺が言うのもなんだけどよ」
「はい」
「……あいつはずっとあんたのことが好きだった。いずれはって気持ちだってあったはずだ。けど同時にあんたがそれを望んでいないことも知ってた。惚れた女を手に入れたい気持ちと、あんたの望みを尊重したい気持ちとでずっと揺れてる。本当は自分がどうしたいのか見失って、それが曲作りにも出たんだろう」
「……そう、だったんですね」
「俺からすりゃ、欲しけりゃ強引にでも手元に置いときゃ良いのにって思うんだけどな。でもあいつ、妙に頑固で融通利かない馬鹿だから、一度こうだとって決めちまったら曲げられないんだろ」
「やさしい人ですから。そのやさしさに甘えてた私が悪いんです」
からん、とアイスティの中の氷が崩れて涼しい音を立てる。外は太陽がじりじりとアスファルトを焼いているのに、店内は体が震えるほどに冷え切っていた。
二人の間にしばらく言葉はなかった。店内にかかるクラシックが右から左へとただただ無感動に流れていく。どれほどそうしていただろうか。私は掠れる声で恭介の名を呼んだ。
「実家を、出る予定なんです」
「いつ?」
「来月。彼にはまだ言ってないけど、仕事も忙しいし実家から通うのちょっときつくて。あ、そうだ。これを機にスマホも新しくしようかな」
「そっか」
「だから再来月のライブ、バタバタしちゃって行けないと思います。残念だな、デビュー前最後のライブだっていうのに。でもCD、出たら絶対買いますね! 仕事忙しくて、イベントとか、あっても行けないと思う、けど。だから……だから……っ!」
「必ず俺はあいつの曲でのし上がってみせる。そんで俺の歌で、必ずあいつの曲を届けてやる」
約束ですよ。
その言葉は、震えて聞き取りづらかったかもしれないけれど、ちゃんと恭介に届いていたらしく、彼は一つ力強く頷いたのが見えた。
その夜、ショウくんから連絡があった。
でも私はそれに返事を返さなかった。彼からの最後のメッセージは、既読がつかないまま私のスマホに取り残された。
◆◆◆◆◆
それから一ヵ月後、私は実家を出て一人暮らしをし始めた。スマホも解約して、新規契約をした。連絡先を知人に知らせるのに苦労はしたけど、今の自分に必要な連絡先とそうじゃない連絡先を整理したら随分とすっきりした。
infinityのメンバーは誰ひとり残っていない。今まで使っていたTwitterのアカウントも新規に取り直して、フォローもフォロワーも最小限。相変わらず佳奈とは繋がっているけれど、事情を説明して新しい私の連絡先はメンバーの誰にも伝えないことで納得してもらった。もっとも話をした日の夜は私以上に佳奈の方が大泣きして、翌日二人揃って目が開かなくなるほどに腫れるという珍事件も起きたけれど。
部屋の片付けをして、ふとCDラックに並んだ数枚のCDをぼんやりと眺める。
はじめてinfinityが出したミニアルバムの隣に、もう一枚収録内容が同じCDが並んでいる。一枚目のミニアルバムは恭介の突発的な思いつきで急遽作ったサンプルみたいなものだから、と何度目かのライブの時に正規版として発売されたものだ。出来があまりにも良くないから、初版の購入者には無料で交換していると彼は言っていたが結局私は交換などせずに正規版を追加で購入したのだ。黒歴史だ、なんて顔をほんの僅か歪めた彼の表情を思い出す。
「大切な、思い出だもんね」
交換することも、捨てることもできない大切な大切な一枚。デッキに入れて再生すれば当時の荒削りな彼らに何度だって会える。
出会って七年、彼らはいよいよ新しいスタートを切る。もう二度と彼らには、彼には会えないし会わないけれど、いずれ彼らの曲を耳にする日が必ずくるだろう。それで十分だ。
そう、思ったのに。
「……電話? 佳奈だ。どうしたんだろう。……もしもし。何?」
『美咲、大変! infinity解散するって!』
「え……?」
佳奈からもたらされたその知らせは、まったく予想していないものだった。
◆◆◆◆◆
それは誰も予想だにしない、突然の出来事だった。
メジャーデビューが確定していた人気ロックバンド『infinity』が、デビュー目前にして突然の解散宣言。矢面に立ったリーダーのショウは決して理由を語ることなく、各方面へ謝罪し深々と頭を下げただけだったという。
バンド解散に伴い、来月に予定されていたデビュー前最後のライブも中止となり、ファンへの動揺が広がっている。
コンビニで買った週刊誌にはそんな記事が小さく載っていた。
一体どうして。何があったのか。尋ねたいけれど誰に尋ねればいいかわからない。彼らとは一切の連絡を絶ってしまっている上に、そもそも一方的に連絡を絶った自分に今更そんな資格はない。佳奈にも聞いてみたが、彼女もまったく知らないと首を横に振るだけだった。
どうして。必ずのし上がってみせると約束したじゃないか。
やり場のない思いは、あの日の恭介を責める。でも本当は誰よりも責めたいのは、責めるべきなのは自分自身だと気付いていた。
もし解散の理由が自分だったとしたら。脳裏を過ぎるそんな思いがじわりと私の首を絞めた。
夕暮れの駐車場、急に姿を見せなくなった白猫のことを話すショウくんの横顔を思い出す。ぼんやりとどこか遠くを見つめるその眼差しが、本当は寂しくて寂しくてたまらないと語っていた。決して口にはしなかったけれど、彼はきっと自分の愛したものに置いて行かれることを恐れていたのだ。もしそうだとしたら……
どんなに後悔したってもう遅い。その日、涙は出る気配がまるでなかった。
数ヵ月後、彼らがバンド活動の最後にリメイク盤のミニアルバムを発売したと佳奈から連絡があった。聞けばそれは彼らが一番最初に出したCDのリメイクで、その後発売されたCDのどれにも収録されなかった幻の曲、infinity初のバラードナンバー『stand by』特別アコースティックバージョンが収録されているという。
「いるでしょ?」
「別に……」
「いると思って持ってきたんだ。ほら」
仕事終わりに呼び出され、食事に行ったその席で佳奈が何故かA5サイズの茶封筒を差し出した。
「なんで茶封筒?」
「ショウから美咲に渡してくれって」
受け取ろうと伸ばした指先がぴたりと宙で止まる。けれど佳奈は戸惑う私に半ば強引に封筒を持たせた。
「本当はどうしようか迷ったんだけどさ、でも美咲はそれを受け取るべきだと思う。受け取ったあとで聴くか聴かないかは自由だけどね」
彼女はそう言った。
その後、二人で話した内容も、食事の味も何も思い出せず、私はどこかぼんやりとしながら重い体を引き摺るようにして帰った。
どうして彼が佳奈にこれを託したのか、中身は何か。確認しなければいけない衝動に駆られてのろのろと鋏に手を伸ばし、ゆっくりゆっくり封を切る。
中には例のCD一枚が丁寧に緩衝材に包まれて入っているだけ。こういう律儀で丁寧なところが好きだったなと、思わず苦笑が漏れた。
パッケージを開け、相変わらず余計な装飾のないシンプルなCDをデッキに入れて再生ボタンを押す。収録曲は同じだが、きっとこれは最近撮り直したものなのだろう。当時のCDに比べて随分音がクリアになっている。何度も何度も飽きもせずに繰り返し聴いた彼の曲、その音の海に飛び込むように私はベッドの上に身を投げ出し、目を閉じた。
今でも昨日のことのように思い出せる。夕暮れ色のライト、やわらかなアコースティックギターの音、恭介のやさしい歌声。
特別収録されたその曲は、あの日のライブとは違ってショウくんが歌うことはなかったけれど。それでもあの時の彼の歌声だってちゃんと覚えているし、この胸の中でだけは歌い続けている。形としてはどこにも残っていない、けれど確かに存在した彼の歌。
最後の一音が遠ざかり、そしてやがて無が訪れる。重い瞼をのろのろと持ち上げれば、ライブハウスの幻影は消え代わりに味気ない真っ白な天井が視界に広がった。
このCDは……だめ、だ。もう二度と手の届かないあの日の幻を夢見てしまう。目尻を伝う水滴を乱暴に拭い、私は体を起こした。
「……あれ?」
曲はとうに終わったはずなのに、未だ最後のトラックが時を刻んでいるのに気付く。この曲自体は確か四分ほどのはずなのに、気付けば六分が過ぎようとしていた。
後ろの無音を削り忘れたのだろうか。いや、彼がそんな初歩的なミスをするだろうか。
妙な胸騒ぎがしたが、私はそれに気付かないふりをして停止ボタンに手を伸ばす。
触れるか触れないか、その瞬間デッキが再びアコースティックギターの音を奏ではじめた。
「え…………?」
それは、彼らにしてはとても珍しいことに歌の一切ないインスト曲だった。慌ててCDの裏側とブックレットを確認するが、曲名はおろか、その前に収録されていた『stand by』の収録時間だって書かれているものとは違う。
「もしかして隠しトラック……?」
数十秒巻き戻して曲の頭から聴きなおす。ギターのみで構成されたとてもシンプルな曲。しかしインスト曲として作られてはおらず、明らかにメロディを、いや歌を乗せることを想定して作られているものだ。なら歌詞は、タイトルはどこに?
ジャケットに目を凝らして見ても、そこからは何も浮かび上がってこない。黒一色、シンプルな背景にオレンジ色のライトをぽつりと灯したように浮かび上がるバンド名と、いくつかのタイトルが並んでいるだけだ。
『癖なんだ』
ふと、彼がそう言って笑ったのを思い出した。
彼は新しいCDを購入すると、ついていた帯をケースの中、内側のCD格納部分を開けてその下に挟みこむ癖があった。帯にも大事な情報が書かれていることが多いし、だからといって歌詞カードに挟むと邪魔になってしまうから、と。
「まさか……」
黒一色の不透明なプラスチックカバーに視線を落とし、私はおもむろに内側を外す。隙間に指を入れて、少し力を込めればパカンッという思ったよりも大きな音を立ててそれは外れて。
その中から几帳面に端を揃えて綺麗に折りたたまれた一枚の紙が顔を出した。
震える指先でそれを開き、見覚えのある文字を目で追う。
手紙ではない。句読点の代わりにスペースで区切られた短い言葉たちは、意図したリズムをもって並んでいる。
タイトルのない曲のメロディにそって書かれた、タイトルのない歌詞。そこに綴られたものはついぞ彼が書くことはなかった、ただ真っ直ぐと誰かを想う『愛のうた』だった。
「あ……あぁ……っ!」
この世でたった一枚の手書きの歌詞を抱いて、涙腺の蛇口が壊れてしまった目からぼたぼたと涙を落とした。
もう二度と会うことはできない、手離してしまった愛に縋るように。
お読みいただきありがとうございました。
良かったらブクマ&
↓の評価を「☆☆☆☆☆⇒★★★★」にして応援していただけると今後の励みになります。