07
アコースティックギターのやさしい音色を、私は今でも鮮明に覚えている。
弾き語りはあまり得意じゃないと彼は言ったのに、お願いとせがめばいつだって苦笑してからギター片手に歌ってくれた。歌ってとやわらかな眼差しで見つめて言われ、彼の奏でる音に合わせて拙い歌を乗せたこともある。
季節は巡り、思い出は夕焼け色に染まって遠ざかっていくけれど、確かに感じた幸せはいつまでも色褪せない。
◆◆◆◆◆
「いらっしゃい、美咲さん」
ライブに出演するinfinityを観におなじみのライブハウスに足を運んだ十二月、いつものように受付にいた彼はそう言ってわずかに目元を緩めたように見えた。
いつもの「いらっしゃい」の後ろに追加された私の名前は、二十数年共に歩んだものであるはずなのに彼が口にするだけで何かまったく別のものになってしまったような気がした。無性に恥ずかしくなってしどろもどろに返した「こんばんは」はいつも以上にどもっていて、きっと聞き取りづらいものだっただろう。しかし彼は、まるで何もなかったかのようにいつも通り淡々とお決まりの受付を済ませる。
チケット取り置きリストに書かれた私の名前と、一緒に訪れた佳奈の名前にチェックを入れて、良ければどうぞと彼らの最新情報が書かれたフライヤーを手渡し、そしていつものドリンク引き換え用のコインを差し出す。それを受け取って、ありがとうございますと私が受付から立ち去る、それがいつも私たちが交わす唯一のやり取り。だからこの日もすぐに立ち去ろうとした。それを彼がふと呼び止める。
「いつもありがとうございます。……楽しんでいってください」
言われたその瞬間、私の後ろに並んでいた彼らのファンだろうか、女の子がひぇっと小さく声を上げたのか聞こえた。声が出てしまった気持ちもよくわかる。思わずそう声を上げてしまいたくなるほど、彼はとても綺麗にほほ笑んだのだった。
「やっぱりイケメンギタリスト怖い」
「佳奈」
毛を逆立てて威嚇する猫のような佳奈がそう言って引き換えたばかりのアルコールを勢いよく煽る。やはりこれは前に問題を起こして解散したバンドの影響だろうか。内心ひっそりとため息をついて、失礼だと彼女の名を呼ぶ。佳奈はきっと私に鋭い視線を向けた。
「あれは絶対あんた狙いだ、間違いない」
「そういう目で見るの失礼以外の何ものでもないからやめなって」
「なんであんたはそう冷静なの?! もう少し「私だけ名前を呼んで声をかけてくれるなんて……もしかして私のこと……ドキッ」とかないの?!」
「名前くらい誰だって呼ぶでしょ」
「彼に限っては! そうじゃないでしょ!」
確かに彼がファンらしき人の名前を呼んだところは見たことがないが、だからと言って自分が特別だと思い上がるつもりはない。「いらっしゃい」と「こんばんは」からはじまる挨拶を交わす程度の、ギタリストとファンという関係性以外の何ものでもないことは重々承知しているし、身の程はきちんと弁えてこそのファンである。騒ぐ佳奈に呆れてため息が出た。そんな私に彼女は不満げな表情を浮かべる。
「美咲さぁ。あんた「自分なんて好きになってもらえるわけない」って思ってない?」
「急に何」
「ショウは誰に対しても平等だけどさ、誰にだって声をかけるわけでもないでしょ。相手だって人気バンドのギタリストの前に一人の人間だし、一人の男だよ?」
「……その話はもう終わり」
「なんで!」
「そろそろ始まる」
ちらりと腕時計に視線を落としたとほぼ同時、客席側のライトがふっと消え、ステージが煌々と照らし出される。
司会進行役のMCを挟んですぐに、新人バンドの演奏がはじまったのを、私はどこかぼんやりとした頭で見上げていた。
infinityの出番は一番最後。来年の二月にはバンド結成三周年を迎える彼らはいつの間にか大きく成長し、今ではトリを務めるまでになった。今日このライブハウスに集まっている大半の人が彼らのファンと言っても過言ではないだろう。そんな彼らが私にはとても眩しく見える。最初から彼と私の間にはステージの上と下という明確な隔たりがあった。
『十二月にライブに出るんです。よかったら……また聴きに来ていただけませんか?』
それなのに、カフェで穏やかに語り合った彼の姿が忘れられない。
彼はステージの上の人であって、憧れの人であって、年に何回かライブハウスで顔を合わせるだけのステージ上の存在だったはずだ。そして私は彼らのファンの中に埋もれる、顔のない一ファンだった。それで良い、それで良かったはずなのに。彼が私の名を呼べば、顔のない大勢の中にいるただの一ファンから「美咲」という一人の人間になる、なってしまう。
それを嬉しいと思う反面、どこか怖いと思った。
このラインを超えたくない。彼に恋をするのは不毛すぎる。だって叶うはずがない、届くはずがない。
「……恋?」
私の声にならないほどに小さな呟きは、夢を歌う若いボーカルの声にかき消された。
◆◆◆◆◆
時間はあっという間に過ぎてしまう。夕方から始まったライブはすでに一時間半を超え、infinityの出番がやってきた。
相変わらずシックな色と雰囲気にまとめた衣装でステージに立つ彼らがひとたび音を鳴らせば、会場のボルテージは一気に最高潮になる。恭介に煽られ熱を上げる観客、突き上げられた無数の腕、揺れる会場。これが自分たちの音楽だと言わんばかりの熱量が会場全体を包んだ。じわりと肌が汗ばむ。
アップテンポな曲が立て続けに二曲続き、終了の時間は刻一刻と迫ってくる。名残惜しく思いながらステージ上を見上げていると、不意に彼がメンバーに視線をやり一つ頷いたのがわかった。
「あー、早いもんで残すところあと二曲になったわけなんだが……もうすぐクリスマスだし、今夜はちょっといつもとは違う曲をやろうと思う。ロックバンド見に来たやつらには物足りないかもしれないが、まぁ一曲くらいは良いだろ。今日ライブに来たお前ら、ある意味ラッキーだな」
そう恭介がマイク越しに言うと、ベースの拓也が楽器を肩から下ろして椅子に腰かけた。そして再び視線を彼に向ければ、その肩にはいつもの黒塗りで艶やかなエレキギターではなく、アコースティックギターがかけられている。弦を弾けば、電子音ではないどこかやわらかな音がスピーカーから流れた。
「こんなの滅多にやらねぇんだけど、今夜は特別だ。曲はinfinityのバラードナンバー『stand by』……クリスマス特別アコースティックバージョン」
静けさの中に音が落ちた。
ドラマチックだったエレキギターの旋律は、アコースティックバージョンとして改めて編曲したのだろう、どこまでも繊細でやさしい表情に生まれ変わる。
まるで満月がぽっかりと浮かぶ穏やかな海辺、波のさざめきと星の瞬きが支配する夜に沿うようにしっとりと歌い上げるその曲は子守唄にも似ていて。たゆたう音の波に身を任せていると、何故だか自然と涙が溢れた。
どんなに汗を流していても涼しい顔で激しくギターをかき鳴らす氷の王様。それが一変、月明かりに照らされたようなやわらかな光の中で奏でる彼の横顔が、あの日カフェで穏やかに話していた彼と重なる。
同じ空間で同じ音楽に耳を傾けながら、あれが好きだ、これが好きだと、まるで共通点をゆっくりと手探りで探すような会話をした。決して多くは語らなかったけれど、語る声のやさしさも、香水だろうか時折香る甘く爽やかな香りも、見つめる瞳の静けさだってつい昨日のことのように思い出せる。ステージ上でギターをかき鳴らす彼も、私の目の前に座ってなかなか冷めないコーヒーにほんの少し困った顔をした彼も、どちらも同じ彼だと今更ながらに気付いた。
気付いて、胸が苦しくなった。
流れる涙をそのままにじっと見上げた先で、彼が手元に落としていた視線を上げる。
私と目が合った瞬間、目元をやわらげて笑ったように見えた。
◆◆◆◆◆
「わかる。わかるよ、美咲。今日のはヤバかったよね」
「佳奈、黙って」
ライブ後、流れに乗ってさっさとライブハウスをあとにした私たちは、近くの公園のベンチに座り込んでいた。正確には私が、であるが。
「あれ、あんたが一番好きだって言ってた曲だもんね。しかも後半、まさかショウが歌うとは思わなかったもんね。アレンジもすごく良かったし、わかるよ。あれは反則だよね」
「佳奈、黙って」
そう、今夜のライブでは予想外のことが起きた。大好きな曲がアコースティックアレンジで演奏されただけじゃなく、二番からは主旋律をギタリストである彼が歌い、サビで恭介と彼のハモりが初披露されたのだ。恭介よりほんの少し低く、吐息交じりの甘い声に会場がどよめいたのも無理はない。かくいう自分も動揺した一人だ。動揺しすぎて号泣だ。多分明日は目が面白いくらいに腫れるに違いない。
ひどい、反則だ。ギター弾けるだけじゃなくて歌まで歌えるだなんて。
「ちょっとコンビニで水買ってきてあげるから、美咲はここで少し休んでな」
「うん、ありがとう。気をつけてね」
軽快な足取りで走り去る友人を見送り、ぐったりとベンチの背もたれに体を預ける。
近くに街灯があるせいでせっかくの晴れだというのに星は見えない。都内は夜になっても明るいから、肉眼で見える星の数もずっと少ないということを思い出す。都会を離れた星空はどれほどすごいのだろう。満天の星空というものを想像してみるが、それはすぐに頭上から煌々と照らす街灯の明かりにかき消された。
星は見えないけれど、きっとあの月はどこで見上げたって同じだろう。満月から何日分か減った月を見上げ、思う。
「綺麗……」
凛とした空気の中、雲ひとつない晴れ渡った夜空に浮かぶ月。自然とそう言葉が零れ落ちた。
I love you. の代わりに「月が綺麗ですね」と贈ったのは誰だったか。あまりに有名になりすぎて、単純に月が綺麗だと言い辛くなってしまったのも変な話である。自分が例えたたった一つの表現がこんなにも有名になるなんて、当時の彼は想像しただろうか。
それでも、言えない言葉のかわりをそのフレーズが、この胸の内にふと湧き上がった思いをそっと包んでくれるなら。
「月が、綺麗ですね」
誰も聞いていないのだ、吐き出すくらい良いだろう。
こぼれた言葉は白い息となって冬の空に溶けて消えた。
「あれ、赤頭巾ちゃん? こんなところで何してんの?」
それからしばらくしないうちに、静かな公園内にこちらに向かってくる複数の足音が聞こえ、私はベンチの背もたれから体を起こした。佳奈ではない、警戒した私にかけられたのは聞きなれた声だった。
「……恭介さん?」
「お疲れさん。今日は来てくれてありがとなー」
「あ、えっと、ライブお疲れさまでした」
私を「赤頭巾ちゃん」と呼ぶ人間は限られている。案の定向こうからやってきたのはライブを終えたばかりのinfinityのメンバーだ。もちろん彼もいる。何となく気まずくなって視線が泳ぐが、彼はそれに気付かずに声をかけてくれる。
「……一緒にいたお友だちは?」
「佳奈は今、コンビニに飲み物を買いに行ってくれてます」
「一人で?」
「すぐそこですし」
「……」
「この辺、治安はそんなに悪くないけど、たまにしつこいナンパ野郎が出たりするから危ないよ。ってなわけで、恭介行くぞー」
彼がふと口を閉ざすと、タイミングを見計らったようにベースの拓也がそう言って、あれよあれよという間に恭介を連れて公園から出て行ってしまった。何が起きたのかと出て行く彼らと、目の前の彼を交互に見ていると、彼が小さく「この辺のコンビニは一つですから」とため息混じりに答えてくれた。つまり一人では危険だからとわざわざ佳奈を迎えに行ってくれたらしい。申し訳なくなったがすでに拓也と恭介はいない。残った彼とドラムの智に頭を下げた。戻ってきたら彼らにもちゃんとお礼を言わなくては。
「美咲さん」
「はい」
「この辺りはライブハウスやバーも点在しているので酔っ払い客がよく通ります。拓也の言う通り、しつこいナンパ被害も出ているようです。ライブ帰りに寄り道するなとはさすがに言いませんが、明るく人通りの多い駅周辺の方が良いでしょう」
「あ、はい」
「ついでに言えばこんな暗いところで女の子一人なんて言語道断です」
「すみません」
静かな瞳が私を凝視しているかと思ったら、突如お説教が始まってさすがに面食らった。しかし内容は耳が痛いほどに正論である。何も言い返せない。まぁまぁそれくらいにしておけって、なんて智がフォローしてくれているのにも情けなさがこみ上げてきて思わずしょんぼりと肩を落とす。すると彼は一つため息をついてから言った。
「何かあってからじゃ、遅いんだ」
ふと伸ばされた手が私の頬をそっと撫で、目元を親指がなぞる。涙の名残を見つけたのか、冷静な表情をあまり崩さない彼がきゅっと眉をひそめた。
「こんなところで泣いていたら、悪い狼に頭から食われますよ」
心配してくれているのはわかる。だが見上げた表情は丁度街灯の逆光になってよくわからない。それなのに奥の奥まで見透かそうとするかのような静かな瞳がじっと私を見つめているのだけはわかって、思わず呼吸を忘れた。
「あ、の……ショウさん……?」
「何?」
「…………ち、ちかい、です」
「……すみません」
気付けばかなり距離が近くて、私がそう訴えると彼は気まずそうに口を噤み、その背後では智が耐え切れなかったといわんばかりに豪快に噴き出した。
コンビニから帰ってきた佳奈と拓也、恭介と合流し、私たち六人は揃って駅に向かう道を歩き始めた。
佳奈はコンビニで恭介と意気投合したのか、何やら楽しそうに話している。それに混ざっていったのはノリの良い拓也だ。さらにその前を年長者の智が引率の先生よろしく歩いている。そして私と彼は列の一番後ろで二人並んで歩いていた。
「そういえばこの間話していた猫ちゃん、お元気ですか?」
「大福ですよね。もちろん元気ですよ。……あぁあの子、メスでした」
「え?」
「ちょっと姿を見ないなと思ってたら、仔猫連れて挨拶に来ましたよ」
「なんと」
「すごく可愛い」
「でしょうね」
九月半ばに街で偶然会った時に話していた近所の白猫、大福。気がついたらお母さんになっていたとの突然の報告に私は驚いた。よく遊んでくれる彼に自分の子どもを紹介しに来たのか、いつも構っている駐車場を通りかかったら鳴いて寄ってきたらしい。しばらく仔猫にじゃれつかれて大変だったと苦笑する彼が自身の携帯で撮影した写真を見せてくれた。小さな画面に映る彼の足元と自由気ままに転がったり、Gパンの裾をかじったり、靴紐にじゃれついたりしている仔猫がとても愛らしい。見切れている白い猫が母猫の大福だろう。
「とりあえず名前がないと不便なので、きなこ、あんこ、くろごま、ずんだって呼んでます」
「待って。ショウさんそのネーミングセンス待って」
「ちなみにくろごまとずんだはオスで、きなことあんこはメス。最近は呼ぶとそれぞれ返事して可愛いですよ」
美人が真顔でおいしそうな名前を淡々と呼ぶ。今でさえなかなかにシュールなのに、この人が近所の駐車場で一人しゃがみこんで猫と戯れていたら多分二度見すると思う。ステージに立つ彼からは絶対に想像できない光景だ。
「可愛い……可愛すぎる。待ち受けにしたいくらい可愛い」
「メールで送りましょうか?」
「え、良いんですか?」
「もちろん」
携帯貸して、と言われて何の疑いもなく手渡し、そのわずか数分後にそれが手元に返ってくるとすぐにヴーッとメールが着信を告げる。開けばそこには先ほど見せてもらった仔猫の写真が数点と、ベストショットとも言うべき母猫、大福の写真が添付されていた。
「ありがとうございます。早速待ち受けにしますね」
「美咲さん」
「はい?」
「……いえ、お好きなら今度また撮れた時に送りますね」
「本当ですか? 楽しみにしてますね」
きっと可愛い猫の写真に私の顔は緩んでいたのだろう。少々もの言いたげな表情を浮かべた彼はそれについて触れることなく、そう言った。
「さすが赤頭巾」
「はい、呼びましたか?」
「恭介」
「へいへい、何でもねーよ」
ちなみに図らずも彼の連絡先を手に入れたことに気付いたのはそれから一ヵ月後、成長した仔猫の写真と共に初のワンマンライブが決定したという知らせを受けた時だった。
お読みいただきありがとうございました。
良かったらブクマ&
↓の評価を「☆☆☆☆☆⇒★★★★」にして応援していただけると今後の励みになります。