06
知りたい気持ちは加速して、ふとした瞬間に「今頃どうしているだろう」と考えて。
人はそれを「恋」だと言ったが、そのたびに違うと否定していた。
恋というにはあまりに綺麗すぎて。
恋というにはあまりに独りよがりで。
隣にいて欲しい。寄り添っていて欲しいと思いながら、手の届かないずっと遠くに逃げて欲しいと矛盾したこの思いに名前をつけることを躊躇っていた。
名づけてしまえば、抗えないと知っていたから。
◆◆◆◆◆
八月某日。都内の小さなライブハウスでのライブ出演は通算八回目を向かえ、気付けば早いもので初ライブから二年が経っていた。
技術面はもちろんのこと、各ライブハウスや対バン相手との交流にも注力し地盤を固めるよう努めてきたが、一番大きかったのはSNSを用いた宣伝を積極的に取り入れたことだろう。動画投稿サイトにライブの音源や数十秒のサンプル音源を配信する一方、SNSでメンバーの何気ないワンシーンを投稿すれば予想以上の反響があった。そうしてこのプロモーション戦略が大当たりし、インディーズバンド『infinity』の名は着実に広がっていった。
今日のライブだって大成功だったと言えるだろう。誰ひとり目立ったミスはなく、客の盛り上がりも上々。ライブハウスのオーナーからも、次の出演について早々に打診があったほどだ。駆け出しのバンドとしてはこの上ない成果だと自分でも思う。
なのに。気分は一向に晴れはしなかった。
受付に放置されたチケット取り置きリストを手にとり、上から指先でなぞる。唯一チェックのついていない綺麗なままの名前に触れ、思わずため息が漏れた。
二年前のライブから、infinityが出ると聞けば必ずと言っていいほどライブに顔を出していた美咲という女性。結成当初は情報発信といえばブログだけで、少ない情報にも関わらずそれらをかき集めてライブに駆けつけてくれる彼女の姿に、SNSを用いた情報発信に思い至ったのはすぐのことだ。事前情報がわかりやすくてこちらも予定を立てやすいから嬉しい、と何かの折にメンバーに語っていたと聞いた時には、それを直接聞けなかったことに少々の複雑さはあったものの純粋に嬉しかった。
他のメンバーとは違いあまり自分のプライベートを晒すことに抵抗のあった俺は、SNSでもイベントやCD販売情報など事務的な発信しかしなかったが、それでもいつしか彼女の目にも留まってくれれば良いと思うようになっていて。だからこそ今回のライブ情報も定期的に情報を発信し続けたが……彼女が会場に現れることはなかった。
「……この間のあれ、か」
前回のライブの帰り道、舞い散る桜とたった一つぽつんと立つライトの下で、歌詞の一つ一つを愛しげに歌う彼女を思い出す。余程驚いたのか、俺の存在に気付くと友人の制止の声も聞かずに走り去ってしまった。
やはり不躾に覗いていたのがまずかっただろうか。せめて声をかければよかったが、俺も予想外の出来事に困惑して追いかけることもできなかった。あれ以来彼女を見ていない。あれが原因か、それともたまたま事情があって来られなかっただけか。それを知る術は、今の俺にはない。
いくら情報を発信したとしても、彼女が応えてくれなければそれはいつだって俺の一方通行だ。よほど内向的な性格なのか、おそらくメンバー誰にも返信はしていないのだろう。応えてくれるアイコンはいつだって同じだが、そのどこにも彼女らしき人を見つけることはできない。
印刷された温度のない彼女の名を指先でそっとなぞる。俺が知っているのは彼女の名と、顔と、好きな曲だけ。普段はどこで何をしていて、何を思っているのか、受付で交わす「いらっしゃい」と「こんばんは」からはじまる事務的なやり取りだけでは何も知ることができない。
今日はどうだった?
気に入る曲はあった?
楽しんでもらえただろうか。
会えない日はどう過ごしているのだろう。
何でも良い。あなたのことが知りたい。
そしてできることなら、俺のことも知ってほしい。
そんなささやかなことを知りたい、知って欲しいと思うのは彼女だけだ。けれどバンドの人気が出れば出るほど誰か一人を特別扱いすることはどんどん躊躇われた。
好きなタイプの女性は?
恋人はいるの?
今日は何してた?
そんな反応が増えることは最初からわかっていたから、すべてノーコメントを貫いて。ファンレター以外の贈り物は一切受け取らないスタンスでいれば周囲がすぐに落ち着いたのはありがたかったが、同時に彼女との接点もどんどん希薄なものになっていく。
だからといって恭介のように不特定多数と会話に興じる器用さはなくて、智のようにうまく女性をかわすテクニックもなくて、拓也のように人懐こく相手の懐に入っていくこともできず。ただ他の誰かと同じように彼女に接することしかできないくせに、彼女のことは知りたいという欲だけが膨らむ自分に呆れ果てる。
彼女がライブハウスに来ない。たったそれだけで二人の間の頼りない糸はぷつりと簡単に途切れてしまう。その事実を目の前に突きつけられた気がして、俺は長い長いため息をついた。
「辛気臭い顔してんなー、ショウ」
「恭介」
「うーわ珍しい。睨む元気もないってか。こりゃ重症だな」
受付にもたれかかるようにして立つ恭介が俺の手からリストをするりと抜き取る。上から順に視線が辿っていくのが見え、俺はそこから受付にすっかり散らばったフライヤーに目を向けた。枚数は確認していないが、置いた時よりも半分の高さになったそれらを丁寧に手の中で揃えてファイルに挟むと、クッと恭介が笑う。
「結局、今日は愛しの赤頭巾ちゃんは来なかったってわけか。風邪でも引いたんじゃね?」
「さぁな」
「心配だよなー。何せ赤頭巾ちゃんの連絡先だーれも知らないし」
「恭介」
「ん?」
「その呼び方はやめろと言ったはずだが?」
「じゃあ俺も「美咲ちゃん」って呼ぼうかな」
自分の鞄にファイルを片付ける手が思わずピタリと止まる。手元からゆっくりと視線を上げて恭介を見れば、相変わらずのにやけ顔と目が合った。
「冗談だよ、冗談。そう怖い顔すんなって。お前ほんとあの子のことになるとからかい甲斐あるわ」
そう言われて嬉しいやつなどいるはずもなく、ほんの僅か自分の眉間に皺が寄るがあえて何も言わない。こういう相手は反応すればするだけ面白がるのだ。
ひらりひらりとリストを振る恭介に遊ぶなとだけ注意すると、気のない返事をしてそれを差し出した。しかし俺が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、ピッと鋭い音を立ててそれは届かない範囲へと逃げていく。子どもみたいな事をするなと含めて彼を見ると、恭介はにやにやとした笑みを消して言った。
「腹の中ではメンバーが名前を呼ぶのすら嫌なほど独占欲むき出しのくせに、いつまでストイック気取ってるつもりだ王様。さすがにそろそろ限界なんじゃねぇの? だからさっさと口説いて連絡先のひとつでも手に入れとけっつったろ」
「だから、そんなつもりはないと何度言えばわかる」
「おいおい、いい加減白を切るのはよそうぜ? たかだか一度ライブに顔見せないだけで辛気臭い顔するやつが、今更否定したってなーんも説得力ねぇんだよ」
辛気臭い顔をしていたことについては多少の自覚はあるため否定はできないが、だからといってどうしてここまで恭介に言われなければならないのか。
さすがに苛立ち、二人の間に剣呑な雰囲気が流れる。丁度その時、撤収準備ができたらしい智と拓也が控え室から出てきた。
「あんまりショウをいじめてやるなよ、恭介」
「そーだぞ。せっかく我らが王様にも春がやってきた! っていうのに。な、ショウ?」
「だから違うと何度言えば……」
どうやら二人の会話は二人の耳にも入っていたらしい。いや、もしかしたら隠れて聞いていた可能性がある。呆れた視線をやれば二人は誤魔化すかのように笑った。対して恭介はひどく不満そうな顔をしている。
「無意識に威嚇されるこっちの身にもなれよ」
「それは恭介が赤頭巾ちゃんにすーぐちょっかいかけるからだろー。あとお前はファンの女の子たちと距離近すぎ! 金と女と喧嘩と暴力はバンド解散理由の上位ランクですから! 特にほんと恭介は気をつけてくださーい!」
「俺だけかよ!」
「もっと言ってやれ、拓也」
「あ、ショウは安心して赤頭巾ちゃんにアタックしてね☆ 恋愛経験は曲作りの絶好のネタにもなるし、真摯なお付き合いだったら俺たち大歓迎だから!」
「あの赤頭巾ちゃんを気にするようになってから、良い顔するようになったしな」
「そーそ! ショウってば時々めっちゃ色っぽい顔するんだよねー!」
「ただのむっつりスケベじゃねーか」
「そういう恭介ははっきりスケベだよね」
「かわいい女の子をかわいいって愛でて何が悪い」
「あえて言うならお前のファンとの距離感は質が悪い」
「怖気づいて二の足踏んでるショウにだけは言われたくねーよ」
あぁ言えばこう言う。頭が痛くなってきたのは気のせいじゃないだろう。
そもそも違うと言っているのに何故そこまで推奨されなければならないのか。本日何度目かのため息がこぼれた。
「期待しているところを裏切って悪いが、別に恋じゃない。恋と言うにはあまりにも……」
そこまで言いかけてふと言葉が途切れる。
あまりにも……何だと、言いかけたんだろう。
「あまりにも?」
「……」
「ショウ」
俺の様子がおかしいことに気付いたのか智が名を呼ぶ。すぐに何でもないと答えたが、その声はいつも通りを装っていられただろうか。突然ふと湧いた疑問に困惑する俺に、智は問いかける。
「なぁ、もしそれが本当に恋じゃなかったとしてさ。ならお前があの子にだけもってるその感情は一体なんだ?」
「そんなこと……」
そんなこと、俺が一番聞きたい。
彼女のことをただ知りたいと思った。
俺のことを、彼女に知って欲しいと思った。
彼女のことを赤頭巾と呼ぶのは失礼だと言いながら、いざその音がメンバーの口からこぼれたら落ち着かない。
恭介の言う通り、確かに独占欲もあるかもしれない。けれど恋と言われたら漠然と「違う」とだけ言い切れる、この感情。そうだ。恋と呼ぶには、これはあまりにも……
「……帰る」
「あーらら、怒らせちゃった」
「ショウ」
「悪い、後は頼んだ」
別に怒ったわけではなかったが、俺はメンバーを残して先にライブハウスを後にした。
頭が痛い。今はとにかく早く一人きりになりたかった。
◆◆◆◆◆
こい、コイ、恋、故意。
カツカツと無意味な一定のリズムを刻んでペン先がノートの端を叩く。
人並みに経験はしてきたはずだが今のこの状況とはまるで似ても似つかなくて、どれだけ考えても「もはや恋とはなんだ」と馬鹿馬鹿しいほどにありきたりな疑問へとたどり着いてしまう。自分の過去の恋愛経験などまるで役に立たないことだけが唯一の収穫だったとは、もはや呆れを通り越して頭痛さえ覚えた。
『恋しちゃったんだ、たぶん 気づいてないでしょ』
「……いや、そもそもメッセージの送り先すら知らないんだが」
せめて気晴らしに有名な恋愛ソングを何曲か聴いてはみたものの、どれも腑に落ちなくてすぐに止め、無駄なリズムを刻むだけのペンを放り出してギターに手を伸ばす。
何も考えず、ただ指先が覚えている順番でコードを押さえ、弦を弾けばお馴染みの曲が流れ出す。しかしそれは長続きはせずに思いついたメロディを思いつくままに弾いてみれば、まったく表情の違うものが生まれた。それが消えてしまわないうちに、先ほどまでペン先で叩かれるだけだったノートを引き寄せて綴る。
思いついたものの輪郭を探るように、確かめるように、欠片を拾い集めてただの音をフレーズにして、そして曲にしていく。バラバラに散らばったパズルのピースを手探りで当てはめて一枚の絵にしていくような作業。そこに何が描かれているのかは出来上がるまでわからない。満足のいくものになる時もあれば、ならない時だってある。出来上がったものが無駄になったことだって数えきれないほどあるが、それでも俺はこの時間が好きだ。
押さえたコードを赴くままにかき鳴らした。その時、ふとそのコードが普段はあまりベースにはしない音程だということにはじめて気付く。
それは恭介の歌い慣れた音程ではない。それよりもいくらか高く、そして聞きなれたはずなのにどこか違和感を覚えるメロディ。
「あぁ、そうか……」
気付いた瞬間、呆然と言葉がこぼれ落ちた。これは自分が作った曲。違和感を覚えたのは音程が本来のそれよりも高いから。普段なら絶対に弾くことはないキーチェンジしたそれをどこかで聞いたことがあるはずだと感じたのは当然だ。
彼女が、歌っていた。
女性では低すぎるキーを、いくつか上げて歌えば当然歌いやすいだろう。楽しそうに、愛おしそうにのびのびと歌う彼女の歌声を思い浮かべながら弾いていた自分に驚いて、ギターを奏でる手が止まった。
「さすがにこれは……」
重症だ。
誰に言われるでもなく、はっきりとそう思った。
◆◆◆◆◆
「智、テンポ乱れてるぞ。拓也は智につられてサビ前で走りがちだ」
「悪い」
「めんご」
「そういうショウもミス多いんじゃね?」
「恭介はサビラストの高音が上がりきらずに半音下がってるが?」
九月半ば、次のライブに向けての練習を開始した俺たちだったが、この日はどうも全員調子が悪いらしく思うように練習が捗らずさすがに苛立っていた。どうしようもない苛立ちを相手にぶつけるつもりはないが、それでも無意識のうちに指摘する言葉に棘が出てしまい、そんな自分にまた苛立つという悪循環にはまる。
明らかに空気が悪い。練習に集中したいのにできない。普段だったらこんな時はどうしていた? 流れを変えたいのにうまくいかず、不協和音にかわりつつある演奏を止める。
「……少し休憩にしよう。十五分後に再開だ」
このまま続けてもなんの成果もないだろう。そう判断してギターを置き、スタジオを出た。
九月も半ばに差し掛かっているというのに未だに外は日中の気温が三十度に達しているせいで、室内といえどスタジオを一歩出れば蒸し暑い。特にこの貸しスタジオは地下にあり設備も古いため、空気も滞りがちだ。どこか重くむっとする空気が体に纏わりつき、じわりと汗が滲む。
これならまだ外の日陰の方が風もあっていくらかマシかもしれない。そう思い階段を上がって一階へ出た。
容赦ない日光がじりじりとアスファルトを焼くのを横目で見ながら、俺は日陰に入りビルの壁に背中を預ける。期待したほどの風はなく、どこかのサラリーマンが休憩がてら近くで煙草でも吸っているのか匂いが漂ってきて、不快さから眉間に皺が寄るのがわかった。
どうせなら近くのコンビニにでも避難して気晴らしをした方がよかっただろうか。しかし荷物をすべてスタジオに置いてきてしまったため財布はおろか携帯もなく完全に手ぶらだ。ついていない。俺はそのままズルズルと壁に沿ってその場にしゃがみ、項垂れた。
じわりと浮かんだ汗が背中を伝い流れ落ちていく。残暑厳しい平日の午後、学生たちは学校に行き、社会人は路地の一本向こう側で汗を流しながら働いている。
彼女も今頃は大学で授業を受けているのだろうか。それとも黒のリクルートスーツに身を包んで面接でも受けているだろうか。自分より一つ年上で、仮に極普通の大学生だとしたらもうそんな時期だろう。この道を選んで飛び込んだ今の自分を否定するつもりはないが、それでもバイトを掛け持ちしながら活動するバンドマンの自分と彼女の違いにため息がこぼれそうになった。
たった一度ライブに顔を出さなかっただけで、何をそんなに気にしているのか。
暑さのせいもあってがっくりと項垂れたままの俺の近くで、カシャッという電子音が聞こえたのはその時だった。
「……恭介」
「王様、本日絶不調……っと」
「まさか勝手に投稿したのか? プライバシーの侵害だぞ」
「こういうのも必要だって言ったのはお前だろ? 細かいこと気にすんなよ。お、さすがみんな反応早いなー。やっぱお前をネタにすると食いつき良いわ」
のろのろと顔を上げれば予想通りの人物がよく動く指先で携帯を弄っている。どうやらこんな俺の写真をSNSに無断投稿したらしい。いや、こいつの無断投稿は今に始まったことではなかった。諦めにも似た思いでゆっくりと息を吐き出す。
「やっぱ日陰でもあちーな。そんなとこでしゃがみこんでて暑くねぇの?」
「暑い」
「なら中戻ろうぜ」
「放っておいてくれ」
「頭冷やしたいのはわかるが、ここじゃ逆に茹るぞ」
暑い暑いと言いながらも、恭介が中に戻る様子はない。人一人分空けた隣に同じようにしゃがみこんで、おもむろに取り出した煙草を咥え、火をつける。ゆっくりと吐き出された白い煙が空気に溶けていくのをぼんやりと見送って、俺は体を捻って彼の口元に手を伸ばし、咥えられた煙草を奪った。
「仮にもボーカリストが練習中に煙草を吸うな。歌えなくなるぞ」
「生憎、たかだか煙草一本で歌えなくなるほど軟じゃねーんだわ。何せ天才なもんでね」
「天才も努力を怠ればあっという間に追い越されるぞ。あとスタジオ内が煙草臭くなる」
「お前ほんと真面目だねー」
恭介の手が煙草を奪い返し、煙をくゆらせる。
雑踏と、恭介が携帯を弄るかちかちという音だけがしばらく続いた。それに何となく耳を傾けながら、膝に乗せた腕に額を預け目を閉じる。あぁ、額に浮かんだ汗が気持ち悪い。
どれほどそうしていただろうか。そろそろ戻らないと、と顔を上げた丁度その時、隣にいた恭介が「お」と声を上げた。
「この子初めましてだな」
「何がだ」
「さっきの『王様、絶不調』に反応してくれた子。へー、かぐらちゃんか。どこの子だろ。……あれ? ……ふーん」
「そろそろ戻るぞ」
一体何を見つけたのかは知らないが、随分と楽しげな顔をしている恭介にそう声をかけ腰を上げる。ずっとしゃがみこんでいたからかクラリと眩暈がしたが、そんなのお構いなしと言わんばかりに同じく腰を上げた恭介が急に肩に手を回してきた。
「暑い」
「なぁショウ。どうせみんな調子悪いんだ、今日はこのまま解散にしねぇ?」
「何を馬鹿なことを」
「固いこと言うなって。ほらお前もさ、気分転換に駅前ふらっとしてこいよ。何か良いことあるかもしれないし」
「一体何を企んでいる」
「人聞きが悪いな、何も企んじゃいねーよ」
ばしばしと大きな音を立てて背中を叩くと、恭介はあっさりと俺を解放してさっさとビルの中へと戻っていく。一体何だったんだと内心首を傾げて地下のスタジオに戻れば、先に戻った恭介が早々に話をつけていたのか、結局その日の練習はそれで解散となった。
釈然としない思いを胸に抱えたまま、もういっそのことカラオケ店にでも入って練習をしようと思ったが、そういう時に限ってどこもいっぱいで、スタッフが首を横に振る。何件か巡ったものの最終的には諦めて駅へと向かい始めたのだが、
「……美咲さん?」
ひどく疲れたような顔をした彼女が歩いているのが見えて、気付けは俺は彼女に声をかけていた。
◆◆◆◆◆
「それで? ばったり会った赤頭巾ちゃんをお茶に誘って? カフェで二人で楽しくおしゃべりして?」
「次回のライブは予定がない限り来ると言質を取ったが、それが何か?」
「肝心の連絡先は」
「聞いたらただのナンパだろう」
「女の子誘って二人っきりで仲良くお茶してる時点でナンパだから! なんなの、ショウって実は馬鹿なの?!」
あれから十日後の練習日、すこぶる調子の悪かったあの日とはうって変わって充実した練習を終えた後に無理矢理連れて来られたファミレスで俺はメンバーに囲まれ詰問を受けていた。
お前が恐ろしく調子が良い時は赤頭巾ちゃんと何かあった時だ、と恭介に断言されたのは些か不本意だが、確かに「何か」ならあったのでその日の出来事を簡潔に話したらこれである。挙句の果ては連絡先一つ聞かなかっただけで馬鹿扱いだ。俺は薄いコーヒーを口に運び、ぎゅっと眉を顰めた。
「ショウ、さすがにそれはないだろ。お前普段あんなに頭良いのに、なんで本命相手にはそんなに馬鹿なの? 普通連絡先くらいゲットしてくるよね? あの赤頭巾ちゃんって実はそんなにガード固いの?」
「聞けばきっと慌てふためきながら教えてくれただろうな」
「わかってるなら、なんで聞かないんだよ!」
「たとえ連絡先を聞いたところで、次にまた会えるとは限らない。ならその次の機会を確実にする方が先だと思わないか?」
騒ぐ拓也にそうため息混じりに告げれば、拓也と智はきょとんとした表情で顔を見合わせる。対して恭介はすっと目を細めた。
「どういうこと?」
「はぁ……」
どうやら先の説明では納得してくれないらしい。完全に飲む気のしなくなったコーヒーカップを押しのけ、テーブルの下で足を組みかえる。
「彼女が先日のライブに来られなかった原因は、前回のライブ後に公園で偶然制作者である俺と遭遇したかららしい。これは良いな?」
「うん。恥ずかしくて来られなくなっちゃったんだよね。可愛いね、赤頭巾ちゃん」
「歌を聞かれたからという理由だけで顔を出しづらくなるほど小心者で臆病な彼女のことだ。こちらが個人的に彼女に対して興味をもっていると知れば気後れして二度と顔を見せなくなるだろう」
「あ、個人的に興味持ってることは認めるんだ」
「黙れ。とにかく、連絡先を交換したからといって彼女から連絡してくるとはまず考えにくい。それどころか携帯越しのやり取りでは、こちらから誘いをかけても理由をつけて断られる可能性がある」
「なら顔つき合わせたところで次の約束を取り付けちまえば良い。お人好しな赤頭巾ちゃんなら、よほどのことがない限り約束を無下にはできないってか」
「そういうことだ」
恭介の説明に一つ頷いた。
「このまま勝手にフェードアウトされたら、たまったもんじゃないからな」
雑味だけの、酸味と苦味を足したコーヒーのカップを何となく見つめながら、誰に向けるでもなく呟く。
そう、回避すべきはこのまま彼女がそれとなく距離を取っていくことだ。ライブハウスで事務的なやりとりしかしてこなかった俺では、たとえ連絡先を手に入れたところで彼女が指先一つで拒否をしてしまえば途端に頼りない糸はぷつりと切れてしまう。あるいはライブに来なくなっても同じこと。ならばそれよりももっと手っ取り早く「次」を作ってしまえば良い。種も蒔いた。それがうまく芽吹き、育ち、花を咲かせ、そして実を結ぶかどうかは今後の俺次第ではあるが。
ふと視線を感じてカップからそちらに目を向ける。すると俺を凝視する三対の目とぶつかった。
「何だ」
「いや、何だ、って……ねぇ?」
「せっついたのは俺たちだけど、まさか本当にそうなるとはな」
「だから、何が言いたい」
「王様がようやく本腰入れてきたか! こりゃ見ものだな!」
困惑する拓也と智とは打って変わって、恭介がけらけらと実に楽しそうに笑いながら俺の背を叩いた。その痛みに眉を顰めながら、俺はすでに次のライブについて考えていた。
まずは受付で名前を呼んでみようか。彼女がどんな顔をするか楽しみだ。
物語の行く末をまだ知らない俺は、ほんの少し、笑った。
お読みいただきありがとうございました。
良かったらブクマ&
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