05
美咲視点に戻りました。
大体2話ずつくらいで視点が切り替わります。
あなたが見ている世界の色を知りたくて、目を閉じて音の海を漂った。
あなたの胸にある思いに触れたくて、綴られた歌詞を指先でなぞった。
何を思い、何を見つめているのか。視線の先にどんな世界が広がっているのか。直接尋ねる勇気はなくて、代わりにそっと目を閉じて想像する。
不器用なまでに真っ直ぐで、やさしくて、ほんの少し滲む寂しさと人恋しさ。歳を重ねるごとにそこに大人のずるさや、人を惑わす毒にも似た魅惑的な色が溶かし込まれていくけれど、根本の部分は変わらない。曲を通して見つめた彼は不器用に人を愛する人だった。
ステージ上の氷の王様が見せる素顔が、綴られる世界以上に不器用でやさしくてどこか自己犠牲的だと知ったのは私たちの距離が少しずつ変わってきた頃のこと。
「いらっしゃい」と「こんばんは」だけの短いやり取りが崩れ始めた頃のことだった。
◆◆◆◆◆
「ねー美咲、このあいだのinfinityのライブどうだった? 私行けなかったけど、あんたのことだから一人でも行ったんでしょ?」
「……」
授業のあと、机の上の荷物をのろのろと片付ける私に佳奈の間延びした声がかけられたが、その内容に片付ける手がぴたりと止まる。
早いもので九月を迎えた。夏を迎える前に希望していた会社から内定をもらっていた私とは違い佳奈の夏は就活に追われ、八月にあったinfinityのライブには参加できず仕舞いだった。だからこその言葉だったが、何と返そうか言葉を見失う。すると私の様子に気付いた彼女が顔をあげ、じっと私を見つめた。
「え、もしかして行かなかったの?」
「えーっと……」
「うそ、ありえない。あの美咲が? え、本当に?」
「……まぁ、うん」
まぁ行けるわけがない。私はいたたまれなくなって彼女から視線を逸らした。
今年の三月のこと。infinityの出演が七回目を迎えたそのライブではついにアルバムが発売となり、私のテンションはかなり上がっていた。しかもそのアルバムには未発表曲数曲の他、今では彼らの代表曲とも言うべきバラードも収録されている。私の大好きな曲だ。その喜びが自分でも予想以上に大きかったのは、きっと就活で疲れていたのもあるだろう。ライブ後の興奮冷めやらぬ私は、友人を近くの公園に引き摺っていって二人してライブの感想を語り合っていた。
あの曲がよかった、この曲のここが好きだ。好きなものを語り合えば気持ちが高揚するのは仕方のないことである。正直テンションはかなりおかしかった。そして私は人気がないのを良いことに大好きなあの曲を口ずさんでいた。
眩い光の中で音を奏でる彼らには到底似ても似つかない拙い出来だろうが関係ない。誰に伝えるわけでも、誰に届けるわけでもなくただ私が大好きなあの世界を不器用に紡ぐだけならば、夜のひっそりとした公園の、ぽつんとベンチを照らす明かりだけで十分だ。むしろはらはらと散る桜を見上げながら歌うことの、なんと贅沢なことだろう。
やわらかな春の風が桜の花弁と共に拙い私も歌を攫っていく。吸い込んだ桜の匂いと音もなく舞い散る姿の儚さに、彼の曲を重ねていた。
「この、このフレーズがね、すごく情熱的で不器用なまでにやさしくて……好きなの」
メロディを紡いだその唇から、そんな言葉が零れ落ちたのはほとんど無意識だった。
彼の作る曲が好きだ。
彼の奏でる音が好きだ。
彼が紡ぐ世界観が好きだ。
しかし私の口からほろりとこぼれたその『好き』は、触れれば途端に溶けて消える淡雪のごとき甘やかさを孕んでいるような気がして、私はそれにそっと目を背けた。
そしてその背けた視線の先に、そこにいるはずのない彼が呆然と立ち尽くす姿を見つけたのだ。
「あんなの本人に聞かれて、どの面下げて見に行けるっていうのよ」
「恋する乙女の恋心は複雑だねー」
「恋が複数かかってる、減点」
「ひっど!」
けらけらと他人事のように笑う彼女に、思わず口からため息がついて出る。いや正真正銘他人事なのだから仕方がない。
「別に気にするほどでもなくない? だってファンが自分の曲歌ってくれてたんだよ? 嬉しいと思うけどなー」
「それさ、佳奈がもし私の立場だったら会いに行ける? 例えば聞かれたのが佳奈お気に入りの彼だったとしたら」
「無理だね、恥ずかしくて死ぬ」
「そういうことだよ」
鞄の中の隙間に必要最低限しか入っていない細いペンケースを捻じ込んで、私は席を立つ。今日の授業はこれで終わりだ。このまま今日は早く帰ってゆっくりするつもりだったけど今から出かけよう。新しい服でも買って、休憩がてらコーヒーチェーン店で曲でも聴きながらのんびりする。気分転換には丁度良い。
このあとバイトだという佳奈と別れ、私は日が傾きはじめた街へと繰り出した。
◆◆◆◆◆
ただ漠然と「新しい服が欲しい」と思い立ってやってきた。人の波に逆らうことなくファッションビルに流され、フロア内をくるりと回遊してそのまま出口へ。忘れてしまいたかった過去の失態が古いレコードのようにぷつり、ぷつりと音を途切れさせながらひたすらに脳内に流れ続けるせいで、私は自分が今どこを歩いているのかも忘れかけるほど上の空だった。
呆然と立ち尽くす彼の顔が頭から離れない。手の甲で口元を覆い、僅かな躊躇いのあとついっと逸らした視線。彼はあの時何を思ったのだろうか。口元を覆い隠したその下で笑ったのだろうか、それとも唇を噛みしめたのだろうか。それとも、それとも。隠れた彼の表情を伺い知ることはできなかったが、むしろそれで良かったのだとも思う。そこにどんな色が映し出されていたのか、知るのは怖かった。
あれから彼には会っていない。先月行われたライブにも気まずさから顔を出すことができず、気付けば最後に会ってからあっという間に半年が経過していた。彼との接点は出演するライブだけなので、そこに足を運ばなくなれば当然のことだった。
人の記憶というものは声から先に薄れていくのだと誰かが言っていた。そういえば彼の声はどんなものだっただろう。ステージ上でもどこか一歩後ろでメンバーを見守るような彼は、クールで寡黙な印象そのままに普段からあまり積極的に会話に加わろうとはしない。メンバーに話を振られても軽くいなしてしまう。
彼の声が直接聞けるのは、受付での「いらっしゃい」と「こんばんは」からはじまる事務的な会話の僅かな間だけだ。そのささやかな時間を手探りで掘り起こして、あぁこんな声だっただろうかと思い描いていた、はずなのに。
「どうかしましたか?」
それなのに何故、私はこうして彼と向き合ってカフェラテを飲んでいるのだろうか。
少し時間を遡る。結局これといった服が見つからなくて、まぁそういう時もあるなんて思いながらふらりと街をさ迷い歩いていたら、なんの悪戯か、偶然向かいから歩いてきた彼に声をかけられた。一度も呼ばれたことのない名前を呼ばれて驚いたのもつかの間、よければお茶でもしませんか、と誘われた時はさすがに白昼夢でも見ているのかと自分の頭を心配したが、どうやら夢でも勘違いでもなかったらしい。
バンド練習の帰りだという彼に連れられ、あれよあれよという間に有名なコーヒーチェーン店に入って、気がつけば小さな丸テーブルを挟んで向かい合って背の高いスツールに腰掛けていた。
「えっと……あ、そういえば体調悪かったりしてないですか?」
「いえ、特には。何故?」
「恭介さんが、さっきつぶやきを投稿してて……ほら、これです」
彼に出会う少し前に見たSNSの投稿ページを、向かいに座る彼に見せる。そこには燦々と照り付ける太陽の下、わずかな日陰にしゃがみ込んで項垂れる彼らしき人の画像が投稿されていた。投稿者は恭介で、添えられたコメントには『王様、本日絶不調』の文字。この暑さで熱中症にでもなったのかと心配していたのだ。
「あの時の……」
「今日、すごく暑いですからね。練習中に熱中症になったのかと思ってちょっと心配だったんです」
「あぁ、なるほど。大丈夫ですよ。ちょっと……そう、練習がうまくいかなかっただけです」
「なら良いんですが……いえ、良くないですけど。でも体調不良じゃなくてよかったです」
ほっと一安心した私とは対照的に、彼は何故か思案顔で私の携帯画面をのぞき込んでいる。
「……かぐら」
「え?」
「これ、美咲さんだったんですね」
彼が見ていたのは、恭介へのコメントをしている私のSNSアイコンだったようだ。前に佳奈と遊びに行った京都で見つけた狐面を撮った写真が小さくなって表示されている。それもすぐに大勢の中の一つとして紛れ、あっという間に後ろの方に追いやられていた。
「SNSでバンドの情報確認してくれていると聞いていたから、メンバーかバンド名義のアカウントを追加してくれているんだろうとは思っていたんですが、どれなんだろうと少し気になっていたんです」
「あ、そうだったんですね。一応全アカウントは追加してチェックしてますよ。コメントは……勇気がなくて一度もしたことないですけど」
そう答えると、彼はほんの少し口元に笑みを浮かべる。「してくれたら良いのに」と囁くようにして落とした言葉は吐息交じりで、くらりと眩暈がするほどの色気を含んでいた。
何て返していいのかわからず、私は視線を彷徨わせたあと俯く。店内に流れるお洒落なジャズに耳を傾けながら、彼を見つめるのは何だか恥ずかしくて終始手元のカップに視線を落としていた。二人の間に会話はなくなった。
長い沈黙は気まずさしか生まれず、何か話題はないだろうかと頭の中をひっくり返して探してみる。しかしいくらかき回したところで、彼と私の間にはinfinityというバンドしかない。そもそも私はギターを弾く彼しか知らないのだ。
どんな人なんだろう。
バンド以外の彼は普段どこで何をしているのだろうか。SNSでプライベートを発信する他のメンバーとは違い、彼の発信は大抵がバンドの関連情報が業務連絡のように流れてくるだけで、infinityのギタリストとしての顔以外を知る余地はない。
聞いても良いのだろうか。でもそういうプライベートに踏み込まれたくない人なのかもしれない。ぐるぐると脳内であぁでもないこうでもないと思案しながら私は目の前に置かれたカップに手を伸ばした。
九月も半ばに差し掛かったが、まだまだ外は暑い。しかし外の熱を紛らわせようと冷やされた店内では半袖は肌寒く、店内の冷たさのあまりつい注文したホットのカフェオレは、未だ口をつけるのを躊躇うほどの熱をもっている。猫舌の癖にどうして時間のかかるホットを頼んでしまったのかと内心後悔しながらふぅふぅと息を吹きかけ冷ましていると、ふと前から視線を感じて何気なくカップから目を上げた。
ゆるり、凪いだ瞳と視線が静かに絡んだ。
「あの、」
「もしかして猫舌ですか?」
「あ、はい。そうなんです。熱いの苦手で……でもお店入るとどうしてもあったかいの飲みたくなっちゃって、いつもホットを頼んじゃいます」
「俺もです。店で飲む分には全然良いのに、飲み終わって店を出るとアイスにしておけば良かったと後悔します」
「あ、それわかる。でも結局次も懲りずにホット頼んだり?」
「はい。まぁおかげでゆっくりできるんですが」
あぁなんだ、一緒だ。そう思ったら何だかほっとした。
どこか完璧主義の気がある彼が、店を出て失敗した、なんて思っているところを想像したら少し可愛くて、彼も歳相応の男の子なんだと再認識する。
お洒落なジャズと店内に漂うコーヒーの香ばしい香り。窓から差し込むオレンジ色の夕日に、彼の静かでやさしいテノール。憧れの人を前にした緊張感はゆるゆると解け、二人の間に会話が生まれる。話題は好きな音楽に始まり、メンバーのこと、近所にいる猫のこと、ライブハウス近くのお肉屋さんで買ったコロッケがおいしかったことなど。ジャズの音に寄り添うようにぽつりぽつりと静かに落とす会話から、普段は垣間見ることの出来ない彼の素顔にほんの少しだけ触れた気がした。
胸のわだかまりに漠然としたもやもや感を抱えていた午後は、そんなやさしくて穏やかな夕暮れにかき消された、と、思ったのだが。
「そういえば」
自分のカップの縁を長く骨ばった指先でついっとなぞりながら、彼が何でもない世間話でも始めるかのような口調で言う。
「この間のライブ、珍しくいらっしゃいませんでしたね」
その瞬間、慎重に口をつけていたはずのカフェラテが突如として気管に入ってしまい、ごふっという醜い音を立てて咽る。大丈夫ですか、なんて彼は至極冷静に尋ねてくるが、見上げたその表情にはうっすらと笑みすら浮かんでいた。おそらくわかっていて言っているのだ。
クールで寡黙、完璧主義のきらいがあって、案外確信犯で意地悪。
そして仕草がとんでもなく色っぽい。
彼への認識にひっそりとそんな追記をした瞬間だった。
◆◆◆◆◆
「ということがあってね」
あれから数日後、今にも死にそうな顔をしていると指摘され、佳奈に引き摺られるようにしてやってきたのは大手ハンバーガーチェーン店である。
いつまでうじうじ悩んでるの、さぁ全部吐き出せ! と塩の効いたポテトとSサイズのドリンクを目の前に胸を張っていた佳奈は、私の話を聞き終えるとそのまま顎でも落としそうなくらいあんぐりと口を開けて私を凝視している。女としてその顔を晒しておくのは大丈夫なのだろうかと逆に心配するほど無防備で、その顎をそっと押して元に戻しておいてやるべきかと考え始めた私に、彼女は震える声で言った。
「あの男……なかなかやりおる」
「まぁそこかはとないドS臭を感じたよね」
珍しく来なかった、の言葉に私は用意していた「その日はどうしても都合がつかなくて」というお決まりの言い訳カードを切ろうとしたが、それは真っ直ぐと静かに見つめる彼の瞳と、しっとりと色気を漂わせた「どうして?」の言葉に使用することなく泣く泣く山札に捨てざるを得なかった。そこからあっという間に会話の主導権は彼に握られ、気付けば私は自分の手札をすべて相手の前に提示する羽目となったのだ。
おそらく最初から主導権などただの一度も私の手に渡ってきたことはないだろう。彼の誘いに応じた時点で、彼は「何故ライブにこたなかったのか」という問いに対する答えを手にすることが決まっていた。盤上の女神は冴えない村人Aよりも聡明な黒の王様に微笑んだらしい。完全なる出来レースだった。
いや、あれは飴と鞭を器用に使いこなす女王様タイプとでも言えばいいのだろうか。初対面で抱いた黒の王様というイメージに、艶やかにしなる鞭が追加される。冷たい視線とほんの少し吊り上げた口元、的確に相手を仕留める見事な鞭さばき。なるほど、違和感はあまりない。
なんて言葉が口をついて出ていたのか、佳奈は「そうじゃない!」と叫んだ。それなりの音量で周囲がじとりと私たちを見るのがわかり、佳奈の代わりに「すみません」と周囲に謝っておく。
「ただの音楽馬鹿の朴念仁だと思ってたらとんでもなかった。まったく興味ありませんって顔してミーハーなファンは一切寄せ付けないかと思えば、街中で偶然見かけたファンの子をさらっとナンパした挙句にちゃっかり名前呼びだと? 普段あれだけ頑なに名前覚えないくせに? 思えば相手はあの女関係派手なボーカルの相方だよ? ドラムとベースも派手ではないけどそれなりにうまく遊んでるって噂だし、ショウだけが例外なんて誰が言った。涼しい顔して一体裏で何人の女を転がしているのやら。ギターも女もうまく鳴かせますってか? イケメン爆発しろ!」
ひどい風評被害だ、と思わずにはいられなかったがそこは黙っておいた。大体、彼女のその歪んだイメージはどこからきているのか。もし以前追いかけていた例の解散したバンドが元凶なら、できれば謝って欲しい。主に妄想被害者のショウに対して。
「どうせちゃっかり連絡先も交換済みなんでしょ。そういう手口なんでしょ?」
「聞かれもしなかったよ」
「そこまでしといて詰めが甘い、だと……っ?!」
「多分いつもライブで見てた顔がなかったから、つい気になって声をかけただけなんだと思う。ついでに言えば近所の猫ちゃんの写真がめっちゃ可愛かった。白猫で大福って呼んでるんだって」
「和んでどうする! ナンパ目的なら最後までがんばって、ショウ!」
あれは断じてナンパなどではない。確信をもって言えるのだが、佳奈はどうあってもナンパであって欲しかったらしい。ギリギリと歯を食いしばり、悔しそうにポテトを口に放り込んだ。私もすっかり冷めたポテトを摘み、口に運ぶ。
この時私はまだ知らなかった。
infinityの次のライブ、受付に立つショウがいつもの「いらっしゃい」の言葉とともにほんの少しだけ微笑んで私の名を呼ぶこと。その日から少しずつ二人の間に会話が生まれること。
私はまだ、知らずにいた。
お読みいただきありがとうございました。
良かったらブクマ&
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