03
今回はショウ目線です。
煌々と照らすライトの眩さと熱。全身を震わせる音の洪水に身を委ねながら零れ落ちんばかりに目を見開いて見上げる、そのまっすぐな瞳を忘れない。
奏でる音に高揚してしっとりと汗ばむ肌も。切ない歌詞に潤んだ瞳がきらきらと光る様も。触れたらやわらかくぷっくりとした唇から紡がれる拙いメロディのやさしさも、名を呼ぶ声の甘さも。忘れはしない。
どれだけの月日が流れ、たとえあの青臭い時代がセピア色になり人々の記憶からやがて跡形もなく消え去ったとしても、眩いステージの上からいつも心のどこかで探し求めていたあなたの姿だけは、後にも先にも自分だけのものだ。
◆◆◆◆◆
高校を卒業し、新たにバンドを立ち上げたあの夏は異様に蒸し暑かった。バイトの合間を見つけてはじわりと滲む汗を拭う間も惜しんで弦を弾き、思い浮かんだメロディが零れ落ちて消えてしまわないようにとノートにペンを走らせる毎日。
同級生はみな大学へと進学し、長い夏休みに入ればバイトだナンパだと浮き足立っていて話が合わなくなったのがきっかけか、いつの間にか疎遠になっていた。その代わりに付き合いが濃くなったのは同じ高校の軽音部員で、今はバンドのボーカルとなった恭介だ。
今思い返してみても、俺の高校生活最初の一年は驚くほど地味だった。
事故で亡くなったのか、それとも捨てられたのか定かではないが、物心つく頃から俺に両親はいなかった。昔から物静かで感情が顔に出にくいせいか、何を考えているかよくわからない子どもなど大人でも手に余って仕方なかったんだろう。俺は親戚中をたらい回しにされ、結局は施設に引き取られて育った。
小学生の時は親のいない施設育ちの上、物静かな性格のせいで何かといじめの標的にされ、親戚の大人たちからは子どもらしくないところを気味悪がられもした。他人から投げつけられる無遠慮な視線に辟易としながら育った俺は、かといって非行に走る労力も無駄だとすでに悟っていたからか、環境の割にはまともに育ったと思う。しかし静かに大人しくしていることの弊害か、特にこれといってやりたいことを見つけることもできず、高校卒業後は大学への進学を諦めすぐに就職することを目指して淡々と日々を過ごしていた。
早く大人になりたかった。金銭的にも自立して、ここではないどこかに行きたかった。両親に捨てられた可哀想な子という周囲の無責任な同情から逃れたくて、俺のことなど誰も知らないまっさらなところで一からやり直したかった。そのためには金がいる。早く生活力を身につけなければと焦る心が「就職」という二文字しか見えなくしていた。高校一年のことだ。
そんな頑なな俺に、何か違うことでもしてみたら良いとアドバイスしたのは当時の担任で、軽音部の顧問だったのもある種の運命だったのかもしれない。彼から手渡されたお古のギターを最初は疎ましく思ったが、退屈すぎる毎日に飽きて何の気なしに勉強の片手間に練習を始めたら、元が器用だったおかげか難なく上達していった。
そこから、俺を取り巻く環境ががらりと変わってしまった。
何だ、こんなもんか。そう思う俺とは裏腹に、周囲はすごいともてはやした。そのうち何となく揃っていたメンバーで結成した寄せ集めのバンドが俺のことを聞きつけてメンバーに誘い、こちらも何となくで入ればその声はどんどんエスカレートしていった。曲作りをはじめたのもその頃だ。曲が出来て、歌詞をつけて、弾けばすごいと口にする。周囲が熱狂する傍ら、俺の心はどんどん冷え切っていった。
野暮ったい見た目を何とかしろと言われて分厚い眼鏡からコンタクトに変えたのもこの時期だ。それがきっかけて自分を見る周囲の目があからさまに変わったのはすぐのこと。いわゆる女子生徒にちやほやされたいという理由で結成されたお遊びのバンドだったせいだろうか。メンバーの誰もが音楽活動に熱心だったわけではなく、せっかく作った曲も難しすぎると突き返されることが多くて、口を開けば隣の女子高の可愛い子が集まるグループと合コンだなんだと、練習そっちのけでお前も一緒に来いと引きずり回された。
一応、人並みに恋はしたつもりだ。いやしたつもりになっていただけで、本当に愛していたわけではなかったのだろう。そんな俺を彼女たちも見抜いていたのか、付き合ってしばらくは順調だが、すぐに彼女たちは手のひらを返して去っていく。
彼女たちいわく「つまらない、思っていたのと違う」、それがギターを取った俺への評価だった。大切にしていたつもりだったが、彼女たちは滅多に抱かない俺よりも口が上手くて簡単に女を食う馬鹿なボーカルやベースの男を選んだ。なんだ、単に顔や体が目当てだっただけかと思い至るのは早かった。
欲しいものはいつだって手に入らない。だから諦めた。
相変わらずつまらない音楽活動は、馴れ合いばかりで技術の上達もへったくれもないメンバーが望む幼稚なレベルの曲を何となく適当に弾いてお茶を濁し、外見しか興味のない人間からはそれとなく距離を取った。そうこうしているうちにベース担当の生徒が二股をかけていた挙句に相手の女子生徒を妊娠させて退学処分となり、それがきっかけでバンドは呆気なく解散した。正直バンドが解散して誰よりもほっとしたのは俺自身だったかもしれない。
あぁ、これでようやく俺は就活に専念できる。そう思ったのもつかの間、まるでバンド解散を見計らったかのように声をかけてきたのが恭介だった。
「あんなクソみたいなお遊びバンドじゃつまんなかったろ。お前の曲、もったいねーから俺に歌わせろよ」
同じ軽音部で唯一バンドに所属しない生徒だった。それもそのはず、様々なバンドを渡り歩いてはたびたびメンバーと衝突し、そのたびに解散や脱退を繰り返してきた軽音部きっての問題児である。噂では外でバンド活動を始めただの、やっぱり解散しただのと囁かれていた。
その不遜な態度じゃそうだろうな。なんて一人納得して、しつこいそいつにバンド用に書き溜めていた曲を渡してやる。これで諦めてくれればそれで良い、そう思っていたのが呆気なく覆された。
恭介の才能に気付いたのはその時だ。
お前の曲は難しい、もう少し簡単なのにしろ。散々言われて書き直したその曲を恭介はあっさりと歌いこなした。何だ、こんなもんかと鼻を鳴らしさえした。ならばと修正前を差し出せば、こっちの方が断然良いと満足げに笑うではないか。
「クソつまんなそーに弾いてるなって前から思ってたんだよ。こりゃ確かにクソだわ。こんだけのレベルが書けるのに馬鹿正直に馬鹿に合わせて作ってやってたらつまんねーのも納得だ。……え、何。辞めて就活に専念するから邪魔するな? もったいねー。なぁ俺と組めよ。お前の曲は俺が絶対歌いこなしてやるからよ」
だからお前も俺を退屈させてくれるな。
そう恭介は笑った。
正直鬱陶しかった。だからこの男が歌えないと降参するレベルのものを突き付けて、さっさと追い返そうと思ったのだが……誤算だった。それからすぐ、俺は本格的に音楽にのめり込んでいくことになる。
就活放り出して曲作って、何となくで習得した気になっていたギターの練習に熱を入れれば卒業まであっという間だった。当然音楽だけで食っていく実力も知名度もまったくないからバイトを掛け持ちして生活費を稼ぎつつ、空き時間にギターかき鳴らして曲書いて過ごした。何となくで過ごしてきた時間は途方もなく長く感じたのに、気がつけばベースとドラムをスカウトしてきてinfinityという新しいバンドを結成し、夏を迎えて、あっという間に初ライブ当日になっていた。
「お前って何させれば緊張とかすんの?」
「今でも十分緊張してる」
「うそこけ」
開演三十分前、会場時間となって客が徐々に集まってくるのを眺めていれば、恭介が面白くなさそうに口を尖らせてそう言った。
感情があまり顔に出ないからわかりづらいとよく言われるが、かといってまったく緊張していないわけでもない。何せこのメンバーでの初ライブだ。惰性で続けていたお遊びのバンドとは全く違う。全力でぶつかったら客はどんな反応をするのかなんて、今の俺にはまったく想像がつかない。自分の作った曲がどれほど通用するのかを初めてまともに試すチャンスなのだ、緊張しない方がおかしいだろう。
そんなことをぽつぽつと話せば、恭介は「やっぱり可愛くねぇ」と鼻を鳴らしたあと控え室へと引っ込んでいく。その背を見送り、俺はぼんやりと集まり出したフロアを眺めた。
そう、自分の曲がどれだけの人に受け入れられるのか、受け止めてもらえるのか、それを今夜初めて試すのだ。この中のどれだけの人が俺の、俺たちの曲を気に入ってくれるだろう。身内ではなく、まったく知らない誰かが「良い曲だ」と認めてくれたなら、それは今までの時間が決して独り善がりではなかったという証明になる気がした。
どれほどそうしていただろう。ふと、一定の流れにわざわざ逆らうようにしてこちらに向かってくるやつがいることに気付いた。
「すみません。すみません、通してください、すみません」
ぺこぺこと頭を下げ、迷惑そうな顔をした人間を申し訳なさそうに掻き分けてこっちにくるやつ。人の波に飲まれて頭すら見えないそいつを何気なく目で追っていたら、こつんと何かが足元に当たった。
視線を下に落とせば、それがこのライブハウスで使用されているドリンク引換券代わりのコインだと気付く。どっかの客が落としてここまで転がってきたのか、そう考えてコインを拾い上げたその時、ぽいっと人波から一人の女の子が吐き出された。
よろけた彼女が驚いたように目をまんまるに見開いて「あ……」と小さく音をこぼし、俺を見上げる。
暗がりでもよくわかる白い肌に、ライトに反射して見えた艶やかな黒髪はゆるく波打ち。ぷっくりとした唇はストロベリーシロップのようにとろりと赤い。ぱちりと瞬く目を見つめ、頭のどこかで白雪姫はこんな感じだったんだろうかと漠然と思った。馬鹿らしい。
「……君の?」
尋ねた声はかさついて決して大きなものではなかった。それでもざわめくフロア内で俺の声を拾ったらしい彼女がこくんと頷く。少し幼さの残る顔立ち、もしかしたら俺よりも年下じゃないだろうか。手元にあるコインを見れば、それがアルコールの引換用だとすぐにわかった。受付で間違って渡されたのだろう。
「……成人してる?」
「えっと、まだ、です」
「だと思った」
ならやっぱり間違いだ。ちらりと受付に視線をやれば、次から次へと流れるようにやってくる客をスタッフが慌しくさばいているのが見えた。なるほど、忙しくて年齢チェックまで手が回らなかったのか。
彼女を見る。どうしていいのかわからないといった様子で俺を見上げる様はどこか小動物を思わせた。間違ってこんな子が酒を渡されて酔いつぶれでもしたら? 運悪く質の悪い男に引っかかったら? 結末は想像するまでもない。そしてそんな俺の予想がそっくりそのまま現実のものにでもなったりしたら後味が悪すぎる。
「ちょっとここで待ってて」
ため息混じりにそう告げて、俺は受付へと足を向けた。
人は多いが大した距離ではない。縫うようにして人波をすり抜け難なく目的の場所にたどり着き、手にしたコインをソフトドリンク用と代えてもらった。ついでに間違って未成年の手に渡っていたことも合わせて言えば、しまったといわんばかりにスタッフの顔が引きつる。
さて早く戻って渡してやろう。そろそろ自分も戻ってスタンバイしないといけない時間だ。しかし振り返るとさっきの場所にあの子はいなかった。
どこに行ったと探す必要もなく、彼女はすぐに見つかる。俺の後を追って人波を不器用に泳いでいた。待っていろと言った言葉は小さすぎて届かなかったらしい。失敗した。
よろよろと覚束ない足取りでこちらに向かってくる様は、やっぱり小動物のように見えた。いや生まれたばかりの仔猫だろうか。このまま目的地を見失ってよろよろと流されていくんじゃないかと一抹の不安を覚えた俺が思わずこっちだと手招きすれば、彼女はようやく俺の目の前へと無事に流れついた。そんな彼女に当初の目的をはたと思い出し、手にしていたコインを差し出す。
「さっきのはアルコールの引き換え券で、ソフトドリンクはこっち。奥のカウンターでスタッフに渡せば好きなドリンクと引き換えてくれる。わかった?」
ぱちりと彼女の目が瞬いた。そうしてようやく状況を把握したらしく、またしても小さくこくんと頷いてみせる。本当に大丈夫か? やっぱり不安が過ぎった。
「一人?」
「いえ、友人と来てます」
「……友人は女の子?」
「はい」
「なら尚更気をつけた方が良い。この辺りはまだ治安が良い方だけど、酔った女の子を狙って手を出す馬鹿も多いから、たとえ酔っていなかったとしても気を付けるんだ。良いな?」
一人ではないことに安堵したが、女の子だけだという事実にまだ不安は残る。だから念のため酒と知らない大人には十分注意するようにと、なんだか彼女の兄貴にでもなったかのような妙な思いで言い含めた。
「あ……ありがとう、ございました」
すると、それまで困惑と緊張しか浮かべていなかった彼女がふわりととても嬉しそうに笑った。無邪気に、この人はなんていい人なんだろうとでも言い出さんばかりに。きっと毒林檎を差し出されたらなんの疑いもなく嬉しそうに頬張ることだろう。それはあまりにもかわいそうだ。
その瞬間、ふと脳裏に昔読んだ絵本のワンシーンが過ぎる。
「……赤頭巾か」
無邪気に笑って花を摘む赤い頭巾の小さな女の子。その隣に座って尻尾を振る狼が自分を狙っているとは露知らず、ありがとうと嬉しそうに笑う。小人に囲まれて眠る女の子より、よっぽどそっちの方がしっくりときた。
狼にでも見つかったら、それこそあっさり頭から食べられるだろう。隙さえあれば文字通り遠慮なく食い散らかしそうなやつがここにはちらほらいる。ならそういうやつに目を付けられる前にさっさとその友人のところに帰った方が良い。早く帰れと追い返せば、律儀にもう一度礼を口にしてからとぷんと人波に潜っていった。
人の波を不器用に泳いで渡る彼女の背をぼんやりと見送って、はたとかなり時間ギリギリだと気付いた。急ぎ足で控え室に戻れば、どこに行ってたんだとメンバーに怒られる。悪いとは思ったが、遊んでいたわけじゃない。れっきとした人助けだ。多分。
「何? 緊張でトイレ篭ってた?」
「黙って準備しろ、狼野郎」
「は?」
にやにやと笑いながら絡んでくる恭介にそれだけ返し、ギターを手にして喚くそいつをステージへと追い立てる。
少なくともこいつだけにはあの子を会わせるのはやめた方が良い。恭介の日頃の行いを見て、俺は強くそう思った。
彼女は覚えているだろうか。……きっと覚えているに違いない。
あの日俺が渡したコインは冷たいソフトドリンクに代わり、あの小さなライブハウスは今時の洒落たバーに変わってしまって、あの夏の日の欠片は手元にないけれど。それでもきっと彼女は鮮明に覚えているはずだ。
これが俺と彼女、美咲との忘れられない出会い。
お読みいただきありがとうございました。
良かったらブクマ&
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