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Unknown Track  作者: 卯月 灯
学生編
1/22

01

 煌々と照らすライトの眩さと熱。全身を震わせる音の洪水に飲まれながら見上げた、どこまでも静かな横顔を私は忘れない。


 こめかみから顎の先にかけてきらりと光る汗が伝い落ちる様も。凪いだ瞳が観客の海をさ迷い、ふと視線が絡んだ瞬間にほんの少しだけやわらぐ目元も。巧みにギターをかき鳴らす指先のやさしさも、夢を語るしっとりと落ち着いたテノールも。私は忘れない。


 どれだけ月日が流れても、たとえあの輝かしい時代がセピア色になり人々の記憶から砂塵の如くさらさらと音を立てて消えていったとしても、私の脳裏から決して消えはしないだろう。











◆◆◆◆◆



 大学二年の夏は、例年に比べてひどく蒸し暑かった。テスト期間が終わればはじまる長い長い夏休み、連日のように続く猛暑にうんざりしながら、私は暇を持て余した他の大学生と同じくバイトに明け暮れていた。


 全国展開のショッピングセンターに入っている個人経営の小さなCD屋でバイトをはじめたのは、大学に進学してすぐの頃。レジ打ちと、たまに来る新譜予約や取り寄せ商品の受付、気に入ったアーティストのポップ書きくらいしかない仕事に見合っただけの安い時給で、涼しい店内に引き篭もって朝から「いらっしゃいませ」と客を迎える毎日。向かいの書店で店員があっちへくるくる、こっちへくるくると忙しなく行き来しているのをぼんやりと眺める時間は退屈以外の何ものでもなかった。


 いつもと変わり映えのしない毎日を、ただ繰り返しているだけ。でも今夜はいつもとはきっと違うことが起きるはず。そんな予感に密かに胸を躍らせていた。


 夕方六時を告げる店内放送が流れるのとほぼ同時に「お先に失礼しまーす」とスタッフに声をかけ、私ははやる気持ちを抑えて店を後にした。今日は七時半から友人との約束がある。のんびりしていてうっかり面倒なお客さんに捕まってはたまらない。昔ながらのカセットテープの演歌を数多く取り扱うこの店は客の年齢層が割と高く、話の長いお年寄りに一度捕まれば大遅刻間違いなしだ。バックヤードで店のエプロンを手早く畳んでロッカーに放り込み、私はそそくさと外に出る。


 生ぬるい風が頬を撫で、思わずぎゅっと眉間に皺を寄せた。




「美咲、お疲れー。間に合ってよかったね」


 待ち合わせ場所は駅から徒歩十分ほどの小さなライブハウスだった。夜になっても人通りの多い道をじれったく思いながらなんとかすり抜け、なんとかビルの前に着いた時にはどっと汗が噴き出していた。肌にぴったりと張り付くインナーが心地悪く、伝う汗をタオルで拭って気休め程度に手で仰いでみたが大した効果はない。

 これからさらに人混みの中に入っていくのかと思うと、さっきまでの浮足立った気持ちが嘘のように萎んだ。


「途中で電車止まってさ。待たせてごめんね」

「大丈夫、大丈夫。ほら、中入ろ」


 友人の佳奈が手招きして、地下へと続く狭くて細い階段を下りていく。

 未知の世界へと続くその階段は、青いエプロンドレスの少女が転げ落ちた穴にも似ていた。この先にどんな世界が待っているのだろう。初めて体験する生のライブに期待とほんの少しの不安が過ぎる。白い兎を追いかけたあの少女も、見知らぬ世界に飛び込む前はこんな気持ちだったのだろうか。


「どうしたの? はやくおいでよ」


 階段の下で佳奈が振り返った。いけない、ついぼーっとしていた。慌てて彼女を追って階段を降りその先の重い扉を押し開けると、ひんやりとした空気が火照った体を急激に冷やして、私は思わずぶるりと体を震わせた。


 中高時代からの付き合いである佳奈がインディーズバンドにはまったと聞かされたのは最近のことだ。あまりにも熱心に話すので何の気なしに「ライブとかあるの?」と聞いたのがきっかけで、今日のライブに誘われた。彼女がご執心のバンドはまだまだ知名度も低くてワンマンライブが出来るほどの集客力はないらしく、ライブには何組か他のバンドも参加するとのことだ。受付で渡された何枚ものフライヤーをぼんやりと眺める。


 聞いたことのないアーティストたちのフライヤーは、バイト先のCD屋で並べるつるつるテカテカとしたそれとは違ってひどく薄っぺらでモノクロなものばかりだ。

 コンビニで大量印刷されたものらしく、新学期になるとキャンパス内のあちこちで配られる部活勧誘のチラシによく似ていた。手書きで、何だかごちゃごちゃとしていて、アーティスト名なのかライブ名なのかよくわからない文字がでかでかと宣伝されているその下に、何月何日ライブ決定! という文句が踊っている。


 興味がない人間にしてみればかさばるだけのそれらに、内心どれを宣伝したいんだろうと首を傾げながら、視界の端に映る佳奈の背中を追って店内を歩いていたら、客の一人とすれ違い様に肩がぶつかってしまった。その拍子に手の中で遊ばせていたドリンク引き換え券代わりの小さなコインが私の手から飛び出して、コロコロと人の足の間を転がっていく。


「すみません」


 ぶつかった相手に一言謝罪し、慌てて逃げたコインを追う。

 コロコロ、コロコロ。まるで明確な意思でも持っているかのようにフロアを駆けるコインは、何故か誰の足にも邪魔されることなく一本の真っ直ぐな見えない道筋を辿っていく。


 待って。お願い待って。止まって。


 さながら白い兎を追う少女だ。決して立ち止まることのないコインを白い兎に見立てて、私は人の間をすり抜けて追いかける。


 そうしてようやく、そこがコインの終着点だったのだろう。転がったコインがたどり着いたのは、いかれ帽子屋と三月うさぎのお茶会でも、ハートの女王の庭でも城でもない、真っ黒でシンプルな誰かの靴の先。そこにこつんと当たったコインは、これで役目を終えたとばかりに呆気なくフロアに仰向けに倒れた。


「あ」


 こぼれた声はとても小さく、ざわめくフロア内ではきっとかき消されたことだろう。しかし靴の主にはしっかりと届いたのか。それとも足元のわずかな衝撃に気付いただけだったのか。綺麗に切り揃えられた爪が印象的な骨ばった指先が足元で沈黙するコインを拾いあげると、その人は迷うことなく真っ直ぐと私を射抜いた。


 薄暗い店内、黒い壁を背に立つ細身なその人もまた黒を基調とした服を身に纏っていた。騒がしい店内にも関わらず、どこかそこだけくっきりと音を切り取ったかのように静けさを引き連れたその人は、ひどく凪いだ瞳で私を見つめている。

 首をお切り! とヒステリックに騒ぎ立てるハートの女王の代わりにいたその人は、黒の王様とでも呼ぶべきか、独特の存在感を放っているように思えた。


 その瞬間、ぴたりと時間が止まった気がした。


「……君の?」


 彼の発したその声は決して大きくはなくてしっとりと落ち着いているのに、はっきりと私の耳に届く。咄嗟に声が出なくてこくりとひとつ頷くと、彼は手の中のコインに視線を落とした。


 ゆっくりと瞬きをする瞳を縁取るまつ毛は長く、肌はきめ細やかで薄暗い店内でもわかるほどに白い。にこりともしない整った顔立ちは、いっそ精巧なビスクドールのようにも見えた。

 細身の体格や喉仏をうまく隠せばかなり中性的に見える。黒の王様というよりは白雪姫とでも言った方がむしろしっくりくるんじゃないだろうか、なんて馬鹿なことをぼんやりと思う。騒がしいこの空間にそぐわない、いっそしんしんと雪の降り積もる静寂に佇むのがぴったりな美人といった印象を受けた。


 そんな彼が、今度はついと視線を上げて私を見つめる。そして手のうちのコインをもう一度見て僅かに目を細めた。


「……成人してる?」

「えっと、まだ、です」


 だと思った。彼が吐息を混ぜた言葉を落とす。すると何を思ったのかくるりと踵を返してすたすたと歩き始めたではないか。

 くわんと、急に周囲の音が戻ってきた。


 一体いつの間にこんなに人が増えたのか。先ほどよりもさらに身動きのとりにくくなった店内に呆然としてから、はたと我に返って私は慌てて彼を追った。


 すみません。ちょっとすみません、通してください、すみません。声をかけながら必死に彼を追いかけるが、あっという間に距離が離れた。目の前に障害など何一つないかのようにすいすいと器用に人波を縫って泳いでいったその人は、先ほどのコインのようにもしかしたら特別な道でも見えているのかもしれない。人波に紛れて見失いかけたが何とか追いつくと、当の彼がなにやら受付のスタッフと言葉を交わしているのが見えた。


 一体なんだというのか。さすがに困惑していると、彼が不意に振り返って人波に視線を走らせた。そしてすぐに人波で溺れかけている私を見つけると、表情をまったく変えることなく私に向かって控えめに手招きする。溺死寸前の私に何と酷なことか。しかしまっすぐな瞳が私から逸らされることはなく、意を決して再び人波に挑んで何とか泳ぎきり彼の目の前に半ば押し出されるようにして転がり出ると、彼は小さくて丸いコインを目の前に差し出した。


「さっきのはアルコールの引き換え券で、ソフトドリンクはこっち。奥のカウンターでスタッフに渡せば好きなドリンクと引き換えてくれる。わかった?」

「あ、はい」


 そこでようやく気付いた。彼は見ず知らずの未成年がアルコール引き換え券を渡されたことに気付き、わざわざ取り替えてくれたのだ。しかも明らかにこの場所に慣れていないであろう私に親切にも場所や使い方まで教えて。


「一人?」

「いえ、友人と来てます」

「……友人は女の子?」

「はい」

「なら尚更気をつけた方が良い。この辺りはまだ治安が良い方だけど、酔った女の子を狙って手を出す馬鹿も多いから、たとえ酔っていなかったとしても気を付けるんだ。良いな?」


 相変わらず表情がぴくりとも変わらないけど、面倒見はとても良い人なのかもしれない。お礼を口にすれば、いいからはやく友人のところに帰れと促された。もう一度だけお礼を言って人波を掻き分け、今度こそ友人のもとへと向かう。


 後ろ振り返ったらいないからびっくりした、どこ行ってたの? と尋ねる佳奈に、私はさっき出会った親切な彼のことを話した。彼女は途端に目をきらきらと輝かせた。


「どんな人? イケメン?」

「えっと……」


 振り返り、彼と別れた受付に目を向ける。すでにそこには黒の美人はいない。きっと彼も友人のところに帰ったのだ。親切で、とても不思議な空気を纏った人だったと、いまだ夢でも見ているようなすっきりとしない頭でそう思う。こういうのをなんと言うんだったか。

 そうだ、狐に化かされる、だ。


「とても、綺麗な人」

「ということは」

「佳奈が好きなワイルド系マッチョではない」


 なんだー、と目の前でがっくりと肩を落とす彼女に私は笑った。その時、客席側のライトがふっと消えた。



 煌々とライトが照りつける小さなステージ。そこに本日最初の出演者たちがこつり、こつりと足音を立てて上がってくれば、会場はしんと静まり返る。


 あれ誰? と言ったのは誰だろう。このライブの常連ではなく新規バンドらしい。徐々にざわめき始めた会場内で隣に立つ佳奈がこっそりと耳打ちしてくれたが私には全くと言っていいほど届いてなどいなかった。


 ステージに最後に上がった一人の男性から目が離せない。黒を基調とした服を身に纏う、細身で、とても綺麗な顔立ちをした彼。丁度私の目の前に立ったその人が表情をぴくりとも動かすことなく淡々と準備を終え、そして静かにギターを構える。


 彼が一度だけギターを鳴らせば、あれほどざわついていた会場はそれを合図に再び静寂に包まれていた。特にMCがあったわけでもない、たったそれだけの挙動で会場の空気はがらりと変わり、何故か誰もが固唾を呑んでステージ上の彼らを見守っている。それが異様な光景に映ったはずなのに、不思議とそうであることが当然であるかのような錯覚に陥った。奇妙な感覚に戸惑う私のことなど、もちろん誰一人として気にしない。妙な胸騒ぎを覚えながら私も同じようにステージ上の彼を見上げた。


 ひとつ、瞳を閉じて静かに深呼吸をして。彼がちらりとボーカルに、そしてメンバーにと視線を投げる。

 感情の見えない静かな視線が会場を一瞥する。どこまでも冷たく凪いだ目がそのままコードを押さえる己の指先にするりと滑った、その瞬間。


 どこか、満足げに笑った気がした。



 静寂の中、彼の指先から奏でられるメロディーにどうしようもなく胸が苦しくなったのはなぜだろう。


 彼の手から生まれる音はこれまでに聞いたこともないほどに繊細で、やさしく、なのに激しく、そしてどこか切なくて。それでいてどこまでも挑戦的で野心すら覗かせる。決して一言では言い表せない魅力が詰まっていた。そこに若いながら圧倒的な歌唱力のあるボーカルの歌声が加われば、それらはぶつかり合うことなく溶け合い、惹き立て合ってあっという間に会場のすべてを彼らの世界に引き込んだ。


 こんな人たちが……こんな人が、いるのか。


 呆然と見上げる視線の先に、あの人がいた。煌々と照らすステージのライトと観客の熱気に晒された首筋に汗が伝い落ちながらも、顔色ひとつ変えることなくギターを弾き鳴らす彼。


 中性的などととんでもない。彼は棺の中で静かに眠る白い肌の美しい姫などではなく、涼しい顔で一瞬にして会場の支配権を奪い取った、紛れもない黒の王様。その独特の存在感は静寂を纏っているはずなのに、どこまでも鮮烈で。


 思わず眩しさに目を細めた。それでも一瞬たりとも視線を逸らすことなどできるはずもなかった。



 するりと私から一枚のフライヤーが滑り落ちる。


 雑然とした宣伝の嵐の中、ただ一枚だけ紛れ込んだ異質。


 余白の多い、白の中にくっきりと浮かび上がる『infinity』の文字と、その下に控えめに連なるメンバーの名前のみのシンプルなそれ。



 今でも目を閉じれば鮮明に思い出す。

 それが私と、インディーズバンド『infinity』ギタリストであるショウとの出会いだった。

お読みいただきありがとうございました。

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