Cafe Shelly 日本一のドライバー
カッチ、カッチ、カッチ
ウィンカーの音が車内に鳴り響く。目の前には手を挙げている人が。私はその人を目指して車を寄せる。そしてドアの開閉レバーを操作してその人を招き入れる。
「駅までお願いします」
その人は車に乗り込むやいなや、行き先を告げるとバッグから手帳を取り出して何やら確認を始めた。
「お客様、よかったらキャンディーいかがですか?」
私の声と渡されたキャンディーに少し驚いた様子。そして私は車を走らせる。
「お客様、最近何かいいことはありましたか?」
目線は前だが、気持ちをお客様に向けてそう話しかける。
「えっ、いいことですか。いやぁ、そうだなぁ。強いて言えば、女性のタクシードライバーに当たったのがいいことかな」
さっきまでせわしなかったお客様の目がちょっと笑っているのをミラー越しに確認できた。
うん、今日もいい感じだ。それからお客様と少し話がはずむ。
このお客様、東京から出張でここに来ているらしい。都内では女性のタクシードライバーは珍しいとか。仕事の都合で、急いで本社に戻らないといけなくなったらしいのだが、私との会話のお陰で、落ち着きを取り戻したと言ってくださった。
「ありがとう。お釣りはとっておいて」
「ありがとうございます。お気をつけていってらっしゃいませ」
また一人お客様が元気を出してタクシーを降りていった。
私のタクシードライバーのポリシー。それはお客様が元気になってもらうこと。私のタクシーに乗るとなぜか元気になるんだよね、なんて言ってくれるお客様を増やすのが私の夢だ。
そう思えるようになったのは、いや思いたくなったのはごく最近。
私には母親がいない。私が生まれたときに死んだそうだ。さらに私にはおじいちゃん、おばあちゃんもいない。父親の両親は早くに亡くなったとか。そのおかげで、老人というものをあまり知らずに生きてきた。
結婚して夫のおじいちゃん、おばあちゃんを見るようになって初めてそういう方たちのエネルギーを感じることができるようになった。けれどそれも早くに終わりを告げた。おばあちゃんがガンで亡くなり、さらに追い打ちをかけるようにおじいちゃんもガンになり。その頃おじいちゃんとは別に住んでいたのだけれど、残り少ない人生を一緒に過ごそうということになった。釣りが好きだったおじいちゃんは、私の子どもを連れてよく釣りに出かけた。
このとき、私の本音は「いつまでこんなことが続くんだろうなぁ」だった。私もやりたいことがあるのに、おじいちゃんの世話をいつまで続けるんだろう。その思いが伝わってしまったのだろうか。おじいちゃんの体調は日増しに悪くなり、そして帰らぬ人となってしまった。
だが、おじいちゃんが死んでしまうまさに直前。ベッドの上でおじいちゃんは私の手を取りこう言ってくれた。
「今までありがとうなぁ」
私は大したことはしていないのに。
このとき流した涙。これが私の転機だった。
こんな事しかできない私。でも、こんなことでも喜んでくれる人がいる。そして幸せを感じてくれる人がいる。ワクワクを感じてくれる人がいる。だったら私しかできないことをしよう。
この頃、友達から誘われて心の仕事のインタビューをテープ起こしするという仕事をやらせてもらった。そのなかで、「自殺者3万人を救いたい、3年間で5000人診たけれど、一人では限られる、仲間を増やして、自殺者を減らしたい」という先生の話に心を動かされた。そこでNLPのセラピストの資格を取り、さらにソースという心のワクワクを引き出す技術のトレーナーの資格もとった。
だがこれらだけでは自分の中のわくわくがおさまらなかった。そこで思いついたのがタクシードライバー。
私は車の運転が好きで、よくあちらこちらにドライブに行ってはワクワクを感じていた。これも、ソースのトレーニングをやっていく上で明確になったところ。だから思い切ってタクシードライバーという仕事を始めてみた。
女性だからできること。そしてお客様にもワクワクを感じてもらえること。そして元気になって私の車を降りてもらうこと。そのことを常に頭に入れてこの活動を始めた。
そんなとき、一人のおじいちゃんをお客様として乗せた。
「自宅まで帰りたいのだが。お願いできるかな」
このときのこのおじいちゃんの姿を見てびっくりした。ガンで死んだうちのおじいちゃんに風貌がそっくりだった。ただ大きく違うのは、ちょっと上品な扮装と喋り方。そして元気さがあるところだ。
「最近、何かいいことがありましたか?」
私はいつものように話しかける。すると、ミラー越しにニコリとした顔をのぞかせこう話してくれた。
「この前な、妻と温泉に行ってきてな。いやぁ、あのときの料理はおいしかったわ」
そこからこのお客様の事をいろいろと聞くことができた。中山さんというお客様で、ご指名をいただくことができた。
このとき、私の頭の中で一つのアイデアが芽生えてきた。
中山さんは毎週一回、病院に通われている。その時の送り迎えのご指名を頂いたのだが、このように定期的に病院に通っているような方を中心に仕事をするのはどうだろうか。
そんなアイデアが閃くと、思いは引き寄せられるものだ。今度は老人保健センターというところで客待ちをしていたら、目の前に「介護タクシー」というのが止まった。介護タクシー、まさに私がやりたいと思ったものじゃない。
「こんにちは」
私は恐る恐る、その介護タクシーの運転手に近づいてみた。
「あ、こんにちは」
そこにはにこやかに笑う女性ドライバーの方が。
「あのー、介護タクシーってどういうものなのですか?」
「介護タクシーにご興味が有るの? わぁ、うれしい」
そこから話がはずんだ。聞けば、介護タクシーはご老人のデイサービスの送り迎えや体の不自由でヘルパーが必要な方に対しての送迎などをうけもつらしい。そして、ただ送迎するだけでなく時にはヘルパーとしての仕事も必要になる。
「ご興味があるなら、ぜひ一緒にやりませんか?」
「えっ、私がですか? でも、今はタクシー会社に勤務していますし…」
そう思いながらも、心の中のワクワクは止められない。私の進むべき道はこっちにあるんだ。
「はい、ではぜひやらせてください」
私の気持ちはすでに決まっていた。そう、これが私が目指した道なんだ。それが向こうから訪れてきた。その喜びで胸はいっぱいになった。
「下平さん、今日はいいことあったみたいですね」
中山さんの送迎中に、いつもとは逆のセリフを向こうから言われてしまった。
「えぇ、実はですね…」
私は中山さんに介護タクシーのことについて話をした。
「おぉ、それはいい。下平さんにぴったりじゃないですか」
「ありがとうございます」
中山さんに後押しされると、私も気持ちがはずむ。私は早速、先日お会いした介護タクシーの方の会社を訪問。そこで詳しい話を聞いた。
介護タクシーは車椅子で乗車していただけるような特殊な車両を使う。それだけだと福祉タクシーとなんらかわりがないのだが、介護タクシーはそのドライバーがホームヘルパーの資格を持っていることが特徴。送迎の乗降だけでなく、自宅や病院での付き添いや支援も業務の中に入っている。だが幸いなことに、私は以前ヘルパーとしてデイサービスの仕事に就いていた次期がある。そのときにヘルパーの資格はとっているのでこれはまさに私のために用意されていた仕事だと実感した。
一見すると全てが順調に進んでいるように思えた。だが何もかもうまくはいかない、現実を目の当たりにしてしまうことが私の身に起こり始めた。
「お母さん、また仕事なの?」
「うん、ごめんね」
「まぁいいわ」
長女の諦めの声。
私がただでさえタクシードライバーとして複雑な勤務を行なっている上に、休みになると介護タクシーの仕事をやろうとしていることで、長女の不満が爆発した。家のことはちゃんとやっているつもりなのだが、それでも家族には負担をかけている。さらには長女の学校の参観もろくに行けていない状況。共働きの家庭なら仕方のないこと。私としてはそう割り切っていたのだが、子どもたちはそうは思ってくれなかった。
長女は中学三年。思春期のまっただ中にいる。その子どもとちゃんと向き合えていない現実が私を襲う。
さらに小学六年生の長男にはさらに不満となっているようだ。その証拠に、私には何も言ってこない。
申し訳ないと思いつつも、家族の理解をなんとか得たいと考えている。しかしそこに追い打ちをかけるように私にさらなる事実が襲いかかった。
「こういうことされると困るんだよね」
私が勤め始めた介護タクシーの会社から言われた言葉である。
私は介護タクシーの利用者を増やそうと思い、チラシをいろいろな病院に配って回った。
その中の一つの病院では、別のドライバーが長年通ってようやくお客様を獲得したところがある。そこに後からきた私がさらに営業に回ったものだから、そのドライバーからクレームがきたのだ。私は介護タクシーを利用する人が増えると、喜んでもらえる人がどんどん増えるだろうという一心でやったことなのに。こういう営利的なしがらみが発生するとは思いもしなかった。
「なんだか疲れたなぁ」
思わず口にしてしまった言葉。それがさらに波紋を呼んだ。
あるとき、お客様を車から降ろそうと思ったときに、少し失敗して車椅子が車から落ちそうになった。大事には至らなかったし、当人も大丈夫ですよとは言ってくれたのだが。そのことがどこでどのように回ったのか、ある方からこんなことを言われた。
「介護タクシー、便利なんだろうけど。車椅子を落とすような人のには乗りたくないわ」
噂とは怖いもの。私の気の緩みから起こしたこととはいえ、ちょっとした小さな失敗が変な形で広がり、事実とは違うものとなって伝わってしまった。それを耳にした時、私の行動意欲は一気に失われてしまった。
「っていうことがあったんです。私、自信を無くしちゃって」
タクシーでの中山さんの送迎の時、私はつい自分の愚痴をこぼしてしまった。
タクシー業務は未だに続けている。介護タクシーは私が通常のタクシーの休日の時に行なっている。
中山さんは静かに私の話を聴いてくれる。いつもとは逆だ。
「なるのどのぉ。まぁ人間じゃからそういうこともあるわい。下平さん、あんたがそんな人間でないことは私はよく知っている」
中山さんは私よりも人生を長く生きた大先輩。そんな人からそういう言葉をかけてもらえると、とてもうれしくなる。
「おぉ、そうだ。そういえば病院で面白い話を聞いたんだがな」
「どんな話ですか?」
「なんでも魔法のコーヒーを飲ませてくれる喫茶店があるらしいぞ」
「魔法のコーヒー? なんです、それ」
「ううむ、私も詳しくはわからんが。その喫茶店に行ってそのコーヒーを飲むと、心から元気になれるらしい。一度行ってみたいと思うのだが」
「その喫茶店ってどこにあるのかご存知ですか?」
「それがよく覚えてないんじゃ。シェリーとかシャリーとか言っていたような気がするけど」
うぅん、それだけじゃさすがに私もわからない。
「じゃぁ私も調べておきますね」
魔法のコーヒーか。なんだかちょっとワクワクさせてくれる。
中山さんを下ろした直後、一人の男性客を乗せた。なんだかとても慌てている様子。
「街のほうまでお願い」
「はい、わかりました」
お客さん、なんだかすごく慌てている様子。すぐに携帯電話を取り出して、取引先の人と会話を始めた。
「悪い悪い、遅れてしまって。でね、例の商品のことだけど…」
今回は私が口を挟む余裕が無い。お客さん、大きな声で会話をするものだから、嫌でも耳に入ってくる。こういった会話はなるべく聞かないことにする。これはお客様のプライバシーだから。けれど、この言葉だけははっきりと耳に入ってきた。
「そう、カフェ・シェリーで待ってて」
えっ、カフェ・シェリー? ひょっとして中山さんが言っていた喫茶店のこと?
その後すぐに電話を切ったお客さん。私はすかさずこう尋ねた。
「お客様、カフェ・シェリーっておっしゃいましたか?」
「えっ、運転手さんもカフェ・シェリー知ってんの? いやぁ、あそこのマスターとマイちゃんにはお世話になっててねぇ。やっぱカフェ・シェリーといえば魔法のコーヒー、シェリーブレンドだよね」
どうやら予想は当たりのようだ。これはついてるぞ。
「その喫茶店、どこにあるんですか?」
私の質問の勢いにお客さんは圧倒されたみたい。
「あぁ、じゃぁちょっと待ってて。地図を書いてあげるから。それとこれ、ボクの名刺だから。マスターにボクからって言えばすぐによくしてくれるよ」
頂いた名刺には加藤文具店と書いてある。
「ありがとうございます」
いつもお客様を元気づけるのが私の役目なのに、今日は中山さんといいこの加藤さんといい、お客様から元気づけられてるなぁ。
よし、この地図を頼りに今度行ってみよう。いや、今すぐ行ってみたい。
本来ならタクシー業務は客待ちで駅などの構内で待っているか、無線で指示されたところに向かうのだが。昼休みをずらしてとれば問題ないかな。そう思って早速行動開始。
地図上ではさっきの加藤さんを下ろしたところからそんなに遠くないし。街中なので適当な駐車場に停めて、地図を片手にその喫茶店を探した。
「この通りか」
そこはパステル色のタイルで敷き詰められ、道幅は車一台が通る程度の通り。道の両側にはレンガでできた花壇があり、さらにブティックや雑貨屋などいろいろなお店が並んでいる。ちょっと心が踊るな。
お目当ての喫茶店は、その中の一つのビルの二階にあった。私は期待を込めて、階段を一段一段上っていく。そしてお店のドアに手をかける。
カラン、コロン、カラン
心地よいカウベルの音。それとともに「いらっしゃいませ」という女性の声。続けて低く渋い声で「いらっしゃいませ」と男性の声。さらに私をコーヒーの香りとクッキーの甘い香りが包みこむ。
なんだか気持ちのいい空間。店内を見渡すと、白と茶色で統一された落ち着いた色彩。お店にはジャズが流れている。
「お一人ですか? こちらにどうぞ」
そう言われて通されたのは窓際の半円型のテーブル席の一番端。ここは四人掛けなのだが、お昼を過ぎた時間だからなのかお客さんはカウンターに一人、真ん中のテーブルに一人しかいない。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びくださいね」
女性店員がにこやかにそう言ってくれる。
「あの…この人から紹介されたんですけど」
私は先程のお客である加藤さんの名刺を見せた。
「あ、文具屋の加藤さんのお知り合いですか」
「いえ、実は私タクシードライバーをやっていて。さっきお客様としてお乗せしたんです」
「あはは、加藤さんらしいな」
「それで、ここに魔法のコーヒーがあるって聞いたんですけど」
「はい、シェリー・ブレンドですね」
「確かそう言っていました。それ、いただけますか?」
「かしこまりました。マスター、シェリー・ブレンド一つお願いします」
ふぅ、なんかここ、気持ちが安らぐな。窓から入ってくる光がやわらかくて、私の神経を和ませてくれる。どことなく良い香りがしてくるな。
目を閉じてその空気を思いっきり感じてみる。すると、私の意識はすぅーっとどこかに消えてしまう感じがする。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
その声でハッと目覚めた。
「あらっ、私寝てた?」
「えぇ、とても気持ちよさそうにしていましたよ。最近、お疲れではないですか?」
そう言われると、介護タクシーの件で神経が疲れている気がする。他にも家のことや仕事のことで身体も疲れ気味かも。
「このコーヒー、飲んだらぜひお味の感想を聞かせてくださいね」
「ありがとうございます」
味の感想って、どういうことだろう。そう思いながらも、私は早速コーヒーに手を伸ばす。
いい香りだ。コーヒー通ではないけれど、そんな私でもなんだかワクワクさせるものを感じる。
早速コーヒーに口をつける。ほどよい苦味。その後に別の何かが私の中に現れる。すごくまろやかな感触。これだ、私が目指していたのは。このまろやかな感触で私は人と接して、そして人を喜ばせたいんだ。
このコーヒーは私がやりたいことをそのまま引き出してくれる。そんな味がする。
「いかがでしたか?」
女性店員の声に私は自分の世界から引き戻された感じがした。
「えぇ、とてもおいしいです。まろやかな感触がして、それが今の私がやりたいこととピッタリ一致するんです」
「なるほど、そうなんですね。お客様のやりたいことって具体的にはどんなことなんですか?」
私のやりたいこと。頭の中ではいろいろと渦巻いている。けれどそれを人から聞かれたことなんかなかった。とりあえず頭にひらめいたことを口にしてみよう。
「私、今タクシーの運転手をしているんです。とにかく人に喜んでもらう。これを一番の信条としています。そして、今は時間が空くと介護タクシーのドライバーもやっています。できればそちら一本でいきたいのですが、なかなかその踏ん切りがつかなくて」
「介護タクシーですか。それって車椅子とかを乗せたりするタクシーのことですよね?」
「えぇ、それだけじゃなくてお客様の介護も引き受けます。それをすることで、みんなが笑える社会に貢献したいんです」
「みんなって、具体的には?」
みんな、という言葉を使ったが具体的にはと問われて考えてしまった。
「みんな、というのは…お客様のこと」
「お客様だけですか?」
「違う、そこに関わる地域の人、家族、関係者…」
「それだけ?」
「…そして、私の家族」
ここで息子と娘の顔がパッと出てきた。その顔は悲しげな表情。
そしてもう一人出てきた。おじいちゃんだ。私、ガンで亡くなったおじいちゃんのことが好きだったはず。なのにおじいちゃんの介護をやっているときに
「いつまでこんなことが続くんだろう」
なんて考えてしまった。そのことを思い出したら、急に涙が出てきた。
身内すら幸せに感じさせることができないのに、お客様や周りの人を幸せにできるはずがない。身内に我慢をさせながら周りの人を幸せに、笑える社会を作ることなんかできない。その思いが急にこみ上げてきてしまった。
そのとき、私の背中に温かいものを感じた。女性店員の手だ。
「大丈夫」
何も言っていないのに、そんな言葉を感じることができた。おかげで心を取り戻した。
「ありがとうございます」
「いえ、何か涙ぐむことを思い出したんですね」
「えぇ、実は…」
私は目指すところの理想と現実のギャップについて店員さんに話し始めた。
「なるほど、下平さんにはそんなことがあったんですね」
「はい、なかなか理想通りに進まなくてちょっと困っていたところだったんです。幸いにも中山さんのように私のことを理解してくれるお客様もいらっしゃるので、とても助かっています」
「私も下平さんの思い、理解できますよ。けれどなかなか思ったようにいかない。でも大丈夫ですよ。もう少ししたら、間違いなくその思いに引き寄せられて、下平さんの夢を実現するのを手伝ってくれる人たちが現れてきますから」
「本当に大丈夫でしょうか?」
「はい、間違いありません」
店員さんは笑顔でそう言ってくれる。
その笑顔で私はきっとそうなるに違いないという思いがこみ上げてきた。
「マイ」
カウンターから店員さんを呼ぶマスターの声がする。
「はぁい。あ、もう一度シェリー・ブレンドを飲んでみてください。じゃぁまた後で」
マイと呼ばれた店員さんはさわやかに去っていった。ここに私の理想の姿を一つ見つけた気がする。
私はマイさんに言われたとおり、もう一度シェリー・ブレンドを飲んでみることにした。さっきはまろやかな感触が強かったけれど、今度は何か起きるのだろうか? ドキドキしながらコーヒーを口にしてみた。
さっきより冷めたコーヒー。それを口に含んだ瞬間、私の周りには多くの花が咲いていた。
色とりどりの花。それはまるで笑顔のよう。いや、笑顔そのものだ。
私が通ると花が咲いていく。うん、私はそういう人になりたいんだ。
そのとき、私にこんな声が聞こえてきた。
「大丈夫、大丈夫、安心して進みなさい」
えっ、誰? その声は繰り返し私に同じ言葉を伝えている。
聞き覚えのある声。なんだか懐かしい。あ、おじいちゃん? そうだ、その声は夫のおじいちゃんの声。それがわかったとき、私は涙が出てきた。
さらに別のところから同じような声が。今度そう言ってくれるのは娘と息子、そして夫の三人。
「大丈夫、大丈夫、安心して」
家族もそう言ってくれる。
このとき気づいた。私の中にあった不安。それはこれからのことをどうやって進んでいくかの未来についてだと思っていた。けれど本当の不安は、私がやりたいことを優先したいと思っていたことで犠牲にしていたのではないかという家族のこと。さらに、その気持があったときに亡くなってしまったおじいちゃんのこと。その後ろめたさが今の私の行動を阻んでいたのではないだろうか。
私が本当に欲しかったもの。それは許しだったんだ。
「下平さん、何か感じるものがありましたか?」
今度はこのお店のマスターが私のところに来てそう声をかけてくれた。私がちょっとびっくりしていると、マスターは私の隣に座ってさらに話を続けた。
「マイから聞きました。介護タクシーをやられているそうで。けれどまだまだ理想と現実のギャップを感じているそうですね。今、シェリー・ブレンドを飲んで何か感じるものがありましたか?」
「はい、私が求めているものがわかった気がします」
ここで私はさっき感じたこと、そして私が求めていたものが「許し」であることをマスターに伝えてみた。
「なるほど、許しですか。下平さん、一つ訊いてもいいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
「今、自分のことを許せていますか?」
自分のことを許しているか。そう問われて考えてしまった。私、自分のことを許せているのだろうか。
私のタクシーに乗ると笑顔になって元気がでる。そんな姿を目指しているのに、なかなかそこに辿りつけないもどかしさを感じている。それがそのまま家族や周りの人に影響を与えているのかもしれない。さらにたどっていくと、おじいちゃんの介護のときに抱えてしまった思い。それが未だに心を引きずっているのかもしれない。そのこともマスターに話してみた。
「なるほど、そうだったんですね」
「私、どうしたらいいんでしょうか?」
「まだシェリー・ブレンドは残っていますよね。じゃぁその答えも教えてもらいましょう」
「シェリー・ブレンドを飲めばいいんですか?」
私の問いにマスターは笑顔で首を縦に振った。私は残っているシェリー・ブレンドを一気に口に流し込んだ。
すると今度は家族の姿が見えた。そして私は、自分のやりたいことを家族に精一杯話をしている。そこには亡くなったおじいちゃんの姿もある。さらに見えたのは家族だけではない。今までのお客様や関わった人達もいる。
今までやりたいことに対して突っ走ることはしてきた。けれど、突っ走ってしまうがゆえに周りを犠牲にしているのではないかという不安があったのだ。そんな自分を心の奥で許していなかった。だからこそ、私の周りの人にどんどんやりたいことを熱意を持って伝え、そして許しを請う。それが自分を許すことにもつながるんだ。
「マスター、わかりました。私のやりたいことを熱意を持って周りに伝えていけばいいんですね」
「はい、ぜひそうしてください」
マスターのにこやかな笑顔で私は自分の使命にあらためて気づいた気がした。
「ところでこのコーヒー、なんだか不思議ですよね」
「シェリー・ブレンドは飲んだ人が欲しいと思うものの味がするんですよ。人によっては欲しいと思うものの映像が見えてくるようです。求めているものの答えを見出す人もいるみたいです。下平さんはいかがでしたか?」
信じられない話だけれど、私は三回もその体験をした。これは間違いなく魔法のコーヒーだ。
「おかげさまで、私がこれからやるべきことが見えてきました。本当にありがとうございます」
「ではまず何から始めますか?」
「はい、家族や周りの人に私が本当に何をやりたいのかをもう一度しっかりと伝えてみたいと思います。そして、それに対しての許しを得ようと思います」
「下平さん、一つアドバイスしてもいいですか?」
「はい、何でしょうか?」
「下平さんは『思います』という言葉を使いましたよね。思うだけなら誰でもできます。本当に行動に起こしたければ『やります』と宣言してください。すると気持ちも変わってきますよ」
なるほど、それはいいことを聞いた。私はあらためて宣言しなおした。
「家族や周りの人に私が何をやりたいのかをしっかりと伝えます。そして、それに対しての許しを得ます」
背筋がシャキッと伸びた感じがする。うん、早速やってみよう。
マスターやマイさんにお礼を言って、私は行動を開始することに。といっても、まだタクシー業務があるので家に帰ってから家族に話をしようと考えていた。
その後、私は無線で病院へ向かうように指示をされた。
「おまたせしました」
私はタクシーの自動ドアを開く。乗ってきたのは病院には似つかわしくない健康そうな男性。病院のスタッフが何度も丁寧にお礼をしていた。
「駅までお願いします」
「かしこまりました。お客様、キャンディーはいかがですか?」
「おぉ、ありがとう。うれしいね、こういうのは」
なんだか良い感じの方だな。
「お客様、今日は何かいいことありましたか?」
私はいつものように会話を始めた。するとお客様はにこやかな顔でこんな話を始めた。
「いやぁ、今日はいいことがあったよ。さっきの病院にちょっと難病の方がいてね。今まで歩くことができなかったんだよ。病院から依頼をされて、その方に気功治療をしてきてね。そうしたらなんと歩けるほどにまで回復してね。そういう方の姿を見ることが私の喜びだなって実感できましたよ」
この話を聞いて私は背筋に電流が走る思いがした。そして頭の中で一つの考えが浮かんだ。これはいいアイデアかもしれない。
「お客様、一つ相談があるのですが」
「ん、なんだね?」
私は自分の頭の中にひらめいたアイデアをその気功のお客様に伝えてみた。
「なるほど、それはいいね。ぜひ協力させてもらうよ」
「ありがとうございます」
タクシーの車内は明るく弾んだ空気に満ちあふれた。お客様が降りるときに、名刺をいただき早速その行動をスタートさせることに。
気功のお客様は天功さんという方。その天功さんに私が何をお願いしたのか。それは私の介護タクシーのお客様に気功を施して欲しいということ。もちろん仕事としてだ。
介護タクシーのお客様の中にはさまざまな病気を持たれている方もいる。そういった方の手助けになれば、と思ってひらめいたことなのだ。こういったことをひらめくと、次を引き寄せるものだということを早速実感できる出来事が起きた。
次に無線で呼ばれたのも病院。そこで透析をしているお客様を自宅までお送りすることに。
「お客様、今日はいいことありましたか?」
「そうだなぁ、今日は調子がよくて久しぶりに自分の足で歩いてみたよ」
お客様は本田さんといい、普段は車椅子で生活をしているとか。調子がいいときは少し無理をしてでも歩こうという意志がある前向きな方。
「もっと自由に歩くことができればなぁ」
これが本田さんの望みである。私は早速、先ほど乗せた天功さんの話を持ちかけてみた。
「おぉ、そんなのがあるのか。一度受けてみたいですね。それに介護タクシーっていうのもありがたい。今日は歩けたけれど、普段は車椅子で透析に通っていてね。折りたたみのを使ってタクシーに乗せたりしていたんだが、介護タクシーなら楽になる。次からお願いしてもいいかな?」
ありがたいことにお客様を得ることができた。今まで行き詰っていた感があるのに、ここに来て急にトントン拍子に事が運びだした。
その日の夜、私は夫と子どもを前に自分の決意をあらためて話してみた。さらに、今日あった出来事も言葉にしてみた。
「お母さんがそこまでやりたいっていうのなら、私は反対はしないよ」
夫はそう言ってくれる。だが子どもたちの表情はちょっと複雑だ。自分たちが犠牲になるという気持ちが拭えないのだろう。
「介護タクシー一本に絞ることができれば、逆にあなた達の時間もつくることができると思うの」
本当にそうなるのだろうか。そんな思いも抱きながらではあるが、頭にひらめいた言葉を伝えてみた。すると、子どもたちは急に顔がほころんだ。
「わかった、お母さんのこと応援するから。それまでの家事のことはまかせて」
「ボクも早くお母さんが介護タクシーでお仕事できるようにいろいろお手伝いするよ」
胸の中につかえていたものが一気に解消された。それと同時に、涙が溢れでてきた。
「ありがとう、ありがとう」
今は家族にそれしか言えない。
気持ちが落ち着いてから、もう一人許しを得なければならない人のことを思い出した。翌日、早速その人のところへ。
菊の花を手にして、ゆっくりとその人の前に立つ。
「おじいちゃん、あのときはごめんなさい。私、自分のことしか考えていなかった。今はおかげさまで家族に許してもらい、そして自分がやりたいことに本気で乗り出すことができそうです。でも、おじいちゃんに許しをもらわないとまだ自分を許すことができないんです。私、自分の思った道を歩みます」
おじいちゃんのお墓の前でそう宣言した。小説ならここで遠くから声でも聞こえるのだろうが。残念ながらそんなことは起きない。けれど、こうやっておじいちゃんに報告したことで最後の心のわだかまりがスッキリした。
私の思った道を歩んでいく。そして、多くの人の幸せに貢献していく。それをあらためて心に誓った。
介護タクシーの仕事一本に絞る。これは私にとってはとても勇気のいることだった。不安の一つは収入。そしてもう一つは…
「下平さんの思いもわかるんだけどさぁ。うぅん、うちとしては正直困るんだよね」
これは今所属している介護タクシーの会社の社長の言葉であった。
何が困るというのか。それは、介護タクシー一本に絞ると収入の面では正直なところ成り立たない。そうなると、給料をもらう形ではやっていけない。だから思い切って私は個人で介護タクシーを開業することを考えたのだ。
だが、私に介護タクシーの道を開いてくれた会社としてはライバルが増えるわけだから困るのは当たり前だ。
けれど私は自分の思いを貫きたい。私が収益を得るのは、その収益でさらに多くの人を幸せにできるような仕組みを作りたいから。自分の生活のためでもあるが、それで大儲けしようということではない。この気持を広げて、多くの人が笑顔になる仕組みをなんとかつくりたい。そのために必要なもの。
これは中山さんに言われた言葉。
「周りの人を幸せにしたかったら、まずは自分が幸せにならんとなぁ」
また、ソースのトレーニングの時にも同じ事を言われた。だからそれをまず考えたのだ。
ここで社長に反発しては意味が無い。
「そうですよね、やはり困りますよね。私は一人でやっていこうとは思っていますが、そうなるとどうしてもお客様が増えたときには対処しきれなくなると思っていますし。そんなときはぜひここにお客様を回していただこうと思っていたのですが」
ここで社長の態度が一変した。
「なんだ、そうなのか。いやいや、正直なところ下平さんは客ウケがいいから結構ご指名をいただけていたけれど。そうかそうか、ウチとしても固定費が削減できるし、仕事を回してもらえるのならそのほうがありがたいし」
人って自分に利益になると思ったら、こうやって態度を変えるものなんだな。けれどこれは私にだってあることだし。特に経営者となると、常に経費や利益のことを考えなければならないのは確かなんだから。
でも、このことでさらに「許す」という気持ちの効果を体感できた。私が社長に反発せずに許す気持ちでそう伝えたことがこんなにも高い効果を表すとは。
けれど、すぐに介護タクシーを始めるわけにはいかない。まずは車両から自分で揃えないといけないのだから。
先日知り合った本田さんの透析の送迎の時にそんなことを話したら、また奇跡が起きた。
「へぇ、車椅子で乗り降りできるタクシーですか」
本田さんの透析の病院で私たちのことを興味深そうに眺めていた紳士がそう声をかけてきた。
「はい、介護タクシーっていうんです」
「なるほど、こういうのがもっと世の中に普及すると、多くの人が助かるよな」
その紳士はタクシーそのものを興味深そうに眺めている。さらにこの車両はいくらくらいかかるのか、料金体系は、仕事の時間帯など私に質問してくる。この人、一体何者なんだろう。
「あ、失礼。私こういうものです」
そう言って名刺を差し出す紳士。
「経営コンサルタント、武田信彦さんですね」
「えぇ、実はある会社の新規事業で福祉サービスを検討しているんです。単に介護用品を売ったりするだけではなく、何か社会的にインパクトのある事業に乗り出せないかと思って。うん、これはいけるかもしれない。あの、もしお時間があるときにでももう少しお話を聞かせてもらえないでしょうか」
「えぇ、今ならお客様の透析が終わるまで待ち時間がありますから」
私と武田さんは病院の喫茶室に行き、早速話をすることに。
「なるほど、それでこの仕事で独立しようと考えているわけですね」
気がついたらつい私の身の上話になっていた。
「なるほど、わかりました。今のお話を聞いて、私から一つご提案なのですが。下平さん、私達と契約をしませんか? 下平さんはうちの社員としてではなく、独立した事業主として介護タクシーの活動をしてもらう。うちは下平さんにお客様を紹介していく。いくらかの手数料は取らせて頂きますが。そのかわり、介護に必要な資材などは格安でお売りする。車両についても私どもが格安で手配させていただく。これだと双方にとってメリットが大きいのでは?」
私にとっては夢のような話しだ。だがこの話を受けていいものだろうか。何か裏があるのかもしれない。けれど、武田さんはとても人を騙すような方には見えない。
私の心が震えている。
「ぜひ前向きに検討させてください」
一つ扉が開くと、次々と私の目の前にあった扉が開いていく。自分を許せるようになると、こんなにもうまくいくものなんだ。
本田さんの透析が終わり、早速そのことを話題にしてみた。
「ほう、それはいい。私も及ばずながら協力させてもらいますよ。下平さんのタクシーはとても気持ちがいいですからね」
うん、私の理想に徐々に近づいている。カフェ・シェリーで魔法のコーヒーを飲んでから不思議なことばかりだ。
気がつけば私の周りには、協力してくれる人がたくさん出てきた。
といっても、すべてが順調にいったわけではない。お客様からクレームをもらったり、新しい車両の不備が見つかったり、開業資金の件でもめたり。
しかしその度に私は相手を許し、そして自分を許すことに努めてきた。その結果、私に関わる全ての人が私の協力者として見えるようになった。
そして私が独立をして三年が過ぎた。
「今日はどちらまで行かれますか?」
「そうだなぁ、今日はグルメツアーでもしてもらおうか」
「かしこまりました。中山さん、今日はお腹いっぱいになりすぎないでくださいね」
そう言って社内に笑顔が広がる。
介護タクシーというと、病院や施設の送り迎えにしか利用しないお客様が多かった。しかし今ではお客様が自らあっちに行きたい、ここに行きたいという要望を私に出してくれるようになった。
中山さんはかなりの高齢なのだが、今回はスイーツを食べに行きたいという要望。私もこういったお客様に対応できるように、さまざまな観光スポットやグルメスポットのご案内ができる知識を身に付けた。それがまた好評を呼び、今では介護に関係なく普通のお客様からもご指名をいただくこともある。
「あら、本田さん。それに天功先生も」
中山さんが向かった先に、本田さんと天功先生がいたのにはびっくりした。本田さん、天功先生の気功のおかげでいまでは杖をついてなら自由に歩けるところまで回復した。
「下平さん、この前教えていただいたここのスイーツを食べたいって本田さんがおっしゃったから、私も一緒に来ることにしたんですよ」
なんだか急に賑やかになった。このときに感じた。私の仕事は介護タクシーと名前がついているが、それはあくまでも見た目の仕事。
本当の仕事は何か。人に元気を与える。それが私の仕事。今では自信を持って言える。
「下平さん、今日も元気をありがとう。そうだ、今度妻と一緒に旅行に行きたいんだけど。そのときの運転手をお願いできるかな」
本田さんの申し出に、私は笑顔でハイとうなずいた。
「そうそう、今度自伝を書くことになったよ。これも下平さんと出会ったおかげじゃよ」
中山さんから突然そんな言葉が。
「えっ、私のおかげ?」
「ほれ、カフェ・シェリーを教えてくれたろう。そこに行ったときに出版の手伝いをしている人と出会ってな。そこで自分のことを話したら、ぜひ自伝をと勧められてな」
「すごい!わぁ、楽しみだなぁ」
私の周りで、嬉しいことがたくさん起きるようになってきた。私自身も、そして家族も変化している。もちろん嬉しい方向に。
「さて、中山さん。このあとは?」
「もちろん、最後はあそこだよ」
「かしこまりました」
「私達もご一緒していいですか?」
「えぇ、もちろん」
そう言って私たちが向かった場所。そこは私達の原点となったあの喫茶店。
カラン、コロン、カラン
「いらっしゃいませ」
扉を開くと、コーヒーと甘いクッキーの香りに包まれる。そして今日も元気な笑顔が私たちを待ってくれていた。
「下平さん、ちょうどいいところに。実はこちら、スペイン大使館にお勤めの方で。知り合いが介護タクシーを必要としているというお話をしていたんです。それで下平さんのことをご紹介したところなんですよ」
マスターの話に私はまた胸を踊らせた。私の活動がまた一つ広がっていく。
カフェ・シェリーで私は自分を許すことを学んだ。今でもそのことは忘れない。自分を許せば、何にでも挑戦できる。
私の夢。それは笑顔あふれる日本一のドライバーになること。そして関わった全ての人が笑顔になっていくこと。今日もその夢に一歩近づけた。
さぁ、今日はどんないいことを見つけようかな。
<日本一のドライバー 完>