八話
黒に近い灰色の分厚い雲は、重たそうだ。
午前中はあんなに晴れていたのに。
家電量販店の店頭に並ぶテレビでは、天気予報が流れていて、梅雨入りが宣言されたことを知る。
結ノ介の足は、夜子のバイト先に向かっていた。
帰宅する気にならない。
この問題と気持ちを家に持ち帰りたくない。
灰半と直接会って話がしたい。
灰半のバイト先に到着し、店内を見渡すが、彼女の姿はなかった。
もう帰ったのか。
快活な笑顔のウエイトレスの女の子がやって来て、
「お一人様ですか」
ボブカットで、なんというか、胸の大きい子だ。
「あの、ここでバイトしてる灰半の友達なんだけど、もう帰りました?」
夜子の友達と聞いて、ウエイトレスは親しげに話してくれる。
「夜ちゃんなら、キッチンの子が急に休んじゃったから、厨房に入っちゃってるの。呼んでこようか?」
「いや、仕事中だし、悪いよ。今日って何時まで?」
「私たち高校生は皆九時だよ、二十一時」
時計を見ると、後三十分程ある。
「そっか、じゃあそれまで外で待っとくよ」
「店の中で待ってればいいじゃん。この時間お客さん少ないし、全然大丈夫! ほらほら」
半ば強引に、窓際の席に案内された。
しばらくすると、その子が注文を取りに来た。
踊るような軽やか動きだ。
コーヒーを頼むと、すぐに持ってきてくれた。
「やっぱり夜ちゃんのこと気になりますか?」
そう言われて、自分がずっと厨房の方を見ていたことに気が付いた。
「いや、別にそんなんじゃ」
何だか気恥ずかしくなり、俯いてしまう。
「私は日向 陽向、あたなは?」
自己紹介されたので、結ノ介も名前を伝える。
陽向は女子校に通っていて、結ノ介や夜子と同じ一年生だそうだ。
夜子とはここで知り合い、同じ時期に働き出したこともあって、仲が良いらしい。
そこまで話して、陽向は「ごゆっくりどうぞ」と言い残し、別の客の会計のためレジに走って行った。
その後彼女は接客をしていない間、空いているテーブルを拭いたり、窓ガラスを磨いたりしていて、目が合うとにっこりと笑いかけてくれた。
二十一時になると、夜子と陽向が学校の制服姿で、結ノ介のテーブルにやってきた。
陽向の学校はセーラー服らしい。
白と紺を基調とした伝統的なデザインだ。
夜子が眉を下げ、
「待たせちゃったみたいだね。ごめんね」
「ごめんも何もないよ、俺が勝手に待ってたんだから」
「ううん、ごめんね。それじゃ出ようか」
店を出ると、肌寒く、夜気は湿っぽく肌に張り付くようだった。
陽向は「雨上がったね」と両手を広げてくるくる回り、
「それじゃね、夜ちゃん、結ノ介くん」
と手を振りながら駆けていった。
気を利かせてくれたのだろうと思う。
「明るくて、良い子だな」
「いつもあんな感じで、同僚にもお客さんにも大人気なんだよ。陽向を目当てに来る男性客もいっぱいいるの。看板娘って言うのかな」
「それ言ったら、灰半も人気あるんじゃないか」
「私はそんなことないよ。普通だよ」
灰半に会いに来る男は、間違いなくいると思う。
他の男が灰半のウェイトレス姿をじっと見たり、オーダーのときや会計のときに、話したりしているところを想像すると、嫌な気分になる。
ダメだ、そんなことにいちいち嫉妬する、独占欲が嫌になる。
「今日はキッチンの仕事やってたんだろ。日向さんから聞いたよ。勝手がいつもと違って大変だったんじゃないか。灰半は要領良いから問題なかった?」
「要領よくなんてないよ。ちょっと戸惑うところもあったけど、先輩たちに丁寧に説明してもらったから、何とかなったよ。簡単な作業が多かったし、基本的には先輩のサポートみたいな感じだったから」
「それでもすごいよ、さすがだな」
灰半は照れながら、
「もう、やめてよ」
結ノ介が乗るバスの停留所と、灰半の家との岐路まで歩く。
「迷惑だよな、バイト先に押しかけられるなんて。しかも終わるまで待たれるとか」
灰半は優しげに微笑みながら、
「全然迷惑なんかじゃないよ、そんなこと気にしなくてもいいのに。私に何か話しがあるんじゃないの? 翠のことで」
目的を言い当てられ、結ノ介は驚いたが、俺が灰半に会いに来る理由としてまず思い浮かぶのは、黒凍のことだろうと思い、得心行った。
「さっき翠からメールが来たの。五野くんと喧嘩したって。休憩のときに電話で少しだけ話したよ。そのことで私に相談があるんでしょ。元はと言えば、私からお願いしたことなんだし、遠慮なんかしないで何でも言ってよ」
察しの良い灰半のことだ。
おそらく、黒凍から相談の連絡がなくても、目的の見当がついただろうと思う。
そして、彼女は何もかも分かった上で、こうして「気にしなくていい、遠慮なんかしないで」と気を遣い、微笑んでくれる。
口論の発端を思いだし、自分の稚拙さが嫌になる。
まったく釣り合っていない。
相応しくない。
未熟な自分は灰半の優しさに甘えるために、彼女を訪れたのだ。
いつも正しく優しい灰半に導いてもらおうとして。
「俺も相談のつもりだったんだが、どうやら違ったみたいだ。完全に俺が悪かった。だからあいつに謝るしかない。それで足りないときは、灰半の力を貸してほしい」
行動を先延ばしにしていただけだった。
謝罪の言葉を口にしても、果たして許してもらえるかという不安もあったが、足を引っ張っていたのは、やはり自分の矮小さを認める悔しさだ。
灰半の優しさに触れてしまえば、もう認めざるを得ない。
「結局今日は笑顔の写真撮れなかったし、明日から、……違う、今から、また頑張るよ。ありがとう。灰半に会いに来て良かった」
「ううん。こちらこそ、私の無理なお願いに真剣に取り組んでくれてありがとう」
ついさっきまでの重たい憂鬱が、雲散霧消していく。
こうして話すだけで、隣を歩くだけで、笑った顔を見ているだけで、何もかも上手く行く気がする。
結ノ介は思う。
俺にとって灰半は、もう好きという範疇にないのかも知れない。
誰かが誰かを好きになるとき、つまり片想いを含む恋愛を語るとき、それは恋に潜む普遍的な性質なのではないだろうか。
相手のことを気に入る、好ましく思う、好き、という範疇ではなく、その人がいないと困る、生きていけない、という領域。
夜子が小さく笑った。
「翠もね、同じようなこと言ってたの。私は普通ってどういうものか分からない、だから五野くんを怒らせちゃったって。どう謝ればいいのか教えてほしいって言ってたの。喧嘩した二人が同じこと言ってるんだもん」
結ノ介は歯噛みした。
あいつは俺を理解しようとしたんじゃないか。
歩み寄ろうとしたんじゃないか。
でも、俺の心無い一言で、やっぱり自分には分からないと自責した。
とんでもないことをしたという思いが、背筋を這い上がってくる。
「喧嘩とかじゃないんだよ。意見が食い違ったのでもない。俺が一方的に嫌味を言ったんだ。俺のせいなんだ、全部。だからあいつが気にすることは一つもないんだよ」
夜子は少し考える仕草を見せてから、
「私には二人がどちらも、まるっきり間違ったことを言ってるとは思えない。きっとお互いが正しいことを言ったんだと思う。そうだとしたら、私はどちらに対してもあなたはおかしいって言えない。だから最後は二人で話し合うしかない。偉そうな言い方になっちゃったけど、やっぱりそう思う」
本当にこの子に出会えて良かった。
同じ学年で、同じクラスになって、隣の席になって、良かった。
「会いに来て良かった。ありがとう、灰半」
「ううん、こっちこそごめんね。私がもっと率先してやらなきゃいけないのに」
「それは気にしなくてもいいんじゃないか。やっぱり大事なのは黒凍のやる気なんだし、協力者って立場なら、俺と灰半は一緒だろ」
「そうね。お互い何かあったら遠慮せずに相談しよ」
「そうだな。俺から相談することの方が圧倒的に多そうだけど」
夜子は困ったように笑う。
「五野くん、あの子を許してあげてね。あの子はあの子なりに考えてるの。自分の感覚や感性が他人と少し違うことにコンプレックスを抱いてる。五野くんと翠は知り合ってまだそんなに時間が経ってないけど、それは何となく分かる?」
心当たりがある。
翠は他の皆にできることでも、私には難しい、と言っていた。
「黒凍から直接それっぽいこと聞いたよ」
「そう。悪気とかはないの、それも分かってくれてる?」
結ノ介は大きく頷いた。
黒凍はたぶん、必死に周囲に合わせようとしている。
悪意がない以上、誰が悪いのでもないのだろう。
それなのに自分のせいだと思ってる。
例えば皆と同じタイミングで笑ったり、悲しんだりできないことを悪いことだと思ってるんじゃないだろうか。
黒凍は自分が嫌いだと言った。
それが何よりの根拠だ。
他人と仲良くできないのは、一方的に自分が悪いと思い込んでいるのだろう。
そして、一人で傷ついている。
こっちが悪かったのに、黒凍はそれも自分のせいだと思っている。
人付き合いには相性があり、お互いに心の機微がある。
合わないこともあるし、お互いに間違うこともある。
そもそも難しいことなんだ。
合わないことは悪いことじゃないし、どちらかが間違えばそれを認め、謝るしかない。
黒凍にはいつも自分が悪いなんて思わないでほしい。
「何だかハリネズミのジレンマを思い出したよ、ベタだけど」
「ハリネズミがお互いの体を温めるために近寄ろうとするんだけど、お互いの針でお互いを傷つけ合ってしまう。近づきたいという気持ちと傷つくのが怖いという気持ちの間で板挟みになるっていう話だよね。人間関係の難しさを例えるときに、引き合いに出される話」
「うん。あいつの場合は、自分の方が傷ついてるのかも知れない。誰が悪いわけじゃない、誰も責められない、なのに、いや、だから自分を責めてるのか」
誰も悪者にしたくない。
きっと、そういうことなんだ。
「そうだね。私もそう思う。近づこうとしてるだけ、立派だとも思うな」
確かにそうだなと、結ノ介は思った。
傷つくのが怖くてじっとしている、そんな人間は結構いるんじゃないだろうか。
自分が灰半に対して奥手なのも、結局はそういうことだ。
「灰半は友達多いし、ちゃんと人と向き合ってるよな。すごいよ」
夜子は僅かに微笑んだ。
「そんなことないよ、私はすごくなんかない」
「そういうところが、人から好かれる理由なんだろうな」
「私のことはいいじゃない。五野くんは翠のこと結構分かってくれてるみたいだから、本当に安心だよ。あの子は特に男の子が苦手だから、そこはやっぱり心配だったけど、私が見込んだ通り五野くんなら大丈夫そうだね」
「特に苦手?」
「うん。だから五野くんにお手伝いしてもらおうかって話をしたときに、大丈夫って聞いたら、あの子『がんばる』って言ったの」
屋上でのことを思い出す。
目を開けたら知らない男がいて、すごく怖かったに違いない。
恐怖心を紛らわせるために、強がってしまった。
それは単なる無礼じゃない。
少し理解した気になっていたが、まだまだだと思い知る。
他の生徒が黒凍をまるで誤解しているように、自分もまだ誤解してる部分がある。
ちゃんと黒凍を見ていないのだ。
「灰半は大丈夫って言ってくれるけど、俺はまだちゃんとは分かってないよ、黒凍のこと。だから、俺なりにもっと気を遣うようにする」
分かれ道に差し掛かる。
もう別れなければならない。
結ノ介が立ち止まると、灰半も歩を止め、彼に向き直った。
「ここでバイバイだね。また明日教室でね」
「あぁ、また教室で」
別れる間際、結ノ介はふと思いついた。
「唐突なんだけど、灰半はどんなときに笑顔になる? ほら、ミスコンの写真。黒凍とどんなときに笑顔になるかって話してたんだけど、あんまりいいアイディアが出なくて。灰半の意見も聞いておきたいんだが」
夜子は思案顔になり、「そうだな~」と唸ってから、
「私は友達と話してるときかな」
いかにも灰半らしい。
彼女ならそう言うと思った。
何故この子はこんなにも模範的なのだろう?
模範的で、理想的。
灰半のことをどこかで偶像化している。
「そうか、ありがとう。帰りながら、もう一度考えてみるよ」
「それじゃ、ホントにバイバイ」
灰半に、良い方向に導かれる。
また一方で、彼女に負い目を感じてもいる。
俺では釣り合わない。
不相応な恋をしている。
夜子はまるで、燦々と輝く太陽の権化のようだ。
一方の結ノ介は、陰日向でひっそりとその恩恵に与りながら、雨の日でもいつも空を見上げる植物だ。
植物であることは悪くない。
ただ太陽とは不釣り合いで、不相応だ。
もしも誰かにそれを指摘されたら、それがバレてしまったら、この広い世界で何もかもを失ってしまったように感じるかも知れない。
ちょうど太陽の恩恵を遮られた植物のように。
もう灰半の後姿は見えなくなっていた。
辺りは暗く、ひっそりとしている。
灰半と一緒にいるのは楽しくて、幸せで、やはり刺激的だ。
しかし、それだけじゃない。
苦しさや不安もある。
それは、この恋心が本気である証拠だ。
今はまだ耐えられる。
でもいつか、我慢できなくなるかも知れない。
そのときが来たら、どうなってしまうのだろう?