七話
結ノ介と翠は、中庭にいる。
校舎に囲まれた場所で、ベンチがいくつか設置されている。
他の生徒たちは話したり遊んだりして思い思いに過ごしている。
何故結ノ介と翠だけなのかというと、夜子がバイト先から突然ヘルプとして呼ばれ、帰ってしまったからだ。
夜子は何度も頭をさげ「本当にごめんね」と謝っていた。
結ノ介としてはかなり落胆したが、責めることもできず、彼女の背中を見送った。
これから翠と二人だけで、笑顔の写真を撮らなければならないことを考えると憂鬱になる。
とりあえず練習としてスマホのカメラ機能で代用し、ポスターの写真を撮ってみる。
「一回撮ってみるぞ、準備はいいか」
「さっさと練習終わりにして、撮り直しに行く。どこからでも撮ればいい。私は逃げも隠れもしないわ」
「そんな、どこからでもかかってきなさい、みたいに言われても」
逃げたり隠れられたりしたら、面倒でしかない。
「じゃあ撮るぞ」
スマホを構え、翠の胸部から上が枠内に収まるように微調整し……、
「……自然に笑いなさいよ」
「笑ってるでしょ」
「笑えてねぇよ!」
画面に映る翠の顔は、片頬が引きつり、眉間に幾重にも皺が寄り、口唇がぴくぴくと小刻みに震えている。
双眸には、殺意めいたものすら漂っている。
いや、これは逆に怒気の臨界点を突破し、憤慨を通り過ぎて笑ってしまっているように見えなくもないか?
「いや、どっちにしろ、怖いよ!」
「夜子ちゃんが撮ってくれたら、うまくできる」
「練習のときだけ笑えたって仕方ないんだから、灰半でうまくいっても無駄だ。少なくとも俺に自然な笑顔ができなきゃ、写真屋行っても今のポスターの二の舞になるだけだ」
「……分かってる」
「だったらちゃんと笑顔作りなさいよ。何かイメージすればいいんじゃないか。楽しいこととか嬉しいことを思い浮かべるとか。何してるときが楽しい?」
翠は沈思黙考する。
「あなたが痴漢の冤罪で捕まるのを想像するとき」
「お前ろくでもねぇな! もっとポジティブなこと」
「世界中の子どもたちが笑って暮らせる地球になったら嬉しいな」
「取り返そうとした! 今更無理だよッ? 真面目に考えろよ、なんかあるだろ。じゃあ、笑顔になったときのこと思い出してみるのはどうだ? 最近どんなときに笑った?」
「最近?」
翠はまた考え込み、
「小学校の四年生のときに、」
「いつの話だよ! 最近って言っただろ」
翠は不機嫌そうに眉をひそめる。
「それじゃあお正月にね、」
「おい、今六月だぞ」
「もう! いいから聞いてよ! どれだけ笑わない生活してんだ」
結ノ介はとりあえず聞くことにする。
「お正月にね、近所の神社に初詣に行ったの。年が明ける瞬間とかじゃなくてお昼の前くらいに。境内にはそこそこの人数がいて、甘酒を飲んでいたり、おみくじの結果を見せ合ったりしている。私は願掛けをしようと思って拝殿への列に並んだ。もう願い事を決めていたから、漫然と自分の番になるのを待っていた。私の前に女の子が二人並んでた。たぶん私と同い年くらいの。その子たちの会話が聞こえてきた。願い事何しようかな、決まってるじゃん、今年こそ彼氏できますように。その間に列は進んでいく。彼女たちの番になって、鈴を鳴らして、お賽銭をして、願掛けをしたんだけど、投げる前に彼氏ができるように言っていた子の手元が見えたの。そしたら、五円玉があったの」
翠はクスクス笑う。
「? どういうことだよ?」
どこか笑うようなところがあっただろうか。
「だって彼氏欲しいのに五円を放ったんだよ。ご縁を自ら放ったんだよ」
思い出してまたおかしくなったのか、翠はお腹を抱え、大笑いし始めた。
「何が面白いんだよ! 長々と話しやがって。何だよそのオチ、真剣に聞いて損した!」
「だって、五円を、ご縁を……あは、あはははは、矛盾してるよ、意味わかんない!」
完全にツボに入ったらしく、瞳に涙を浮かべている。
感性がずれている。
「いつまで笑ってんだよ! ってか陰湿なんだよ。女の子がご縁を自分で投げたのを見て笑ったときの笑顔をミスコンの写真の参考するってどうなんだよ。もっと自然な可愛らしい笑顔じゃないダメだよ」
そう、例えば灰半のような、人を癒す、慈愛に満ちた笑顔。
「自然と笑みが零れることないか? 大笑いじゃなくて、ふっと表情が緩むような」
翠は目尻の涙を拭いていたが、やっと落ち着き、
「この前ね、遊園地に行ったとき、一人のおじさんと会ったの」
「ちょっといいか。遊園地って誰と行ったんだ?」
「……一人で」
花の女子高生が、まさかの一人遊園地。
「何よ、ダメなの?」
「ダメじゃないけど、それ楽しいのかよ」
「私の勝手でしょ。一人カラオケとかあるし、一人遊園地があったっていいじゃない。一人初詣があったっていいじゃない」
「初詣も一人だったのか」
「うるさいな」
「悪い悪い、それで遊園地がどうしたって」
「ベンチに座ってたらね、そのベンチのすぐ側に自動販売機があったんだけど、そこにおじさんが立っていたの。五十歳くらいの細身の人。周りにアトラクションの明るいメロディや楽しそうな笑い声が満ちている中、おじさんは自動販売機に向かって立っているんだけど、缶ジュースもボタンも見ずに虚空をぼんやりと見上げていた。もしかしたらおじさんの目には、私たちとは別の世界が映っているのかも知れないと思ってると、おじさんは誰にともなく話し始めた。おじさんが言うには、少し前までその遊園地の着ぐるみの仕事をしていたらしいの。その道三十年くらいの大ベテランで、でも長年の疲労のせいで腰を悪くして、もうできなくなったんだって。今は腰に負担がかかりにくい事務の仕事をしてるって言ってた。でも週末になるとその遊園地を訪れて、開園から閉園まで、ただベンチに座ってるのが日課になってるんだって。おじさんが話し終えると、私の方を見て一言謝ったの。彼の話はいつの間にか独り言でなくなっていて、私は聞き役になっていたのだと気づいた。私が元気出してくださいって言ったら、歳には敵わないからねって、薄く笑った。目元や口の周りに幾重にも皺ができた。いくつも重なったその皺は、それだけの確かな時間を生きてきたことを物語っている。そのおじさんが人生の大半従事してきた彼の仕事のことを考えた。長い間お疲れ様でしたって言ったら、ありがとうって呟いた。それからおじさんはポケットから小銭を出して、自動販売機に入れた。缶コーヒーを選んで、取出し口に手を伸ばすと、そのとき簡単な電子音が流れたの。三和音のピッピッピッピッて規則正しい音。私とおじさんは自動販売機を見た。硬貨投入口の隣に小さな電光掲示板があって、音に合わせて光ってるの。私とおじさんはその三和音の電子音と、光の点滅をいつの間にか食い入るように見つめてた。やがて音と光が終わり、当たりと表示された。おじさんは私にオレンジジュースでいいかなって言った。私はうん、って頷いた。ちょっとだけ泣きそうになっていたんだけど、そのとき何故か自然と表情が緩んだ。たぶん私はおじさんの頑張りが報われた気がして、嬉しかったんだと思う、っていう話」
「何なんだよ、マジで! 何の話? 『っていう話』で締めくくる話じゃねーわ、俺後半ちょっと泣きそうだったよ」
「あなたが自然と微笑んだことないのかって聞くから、そういう体験の話をしたんじゃない。何で怒られなきゃいけないの?」
「話が重いんだよ、着ぐるみの中のおじさんの長年の勤労が報われて、ふいに零れた微笑の話って何だよ。途中から何かのドキュメンタリー聞いてんのかと思ったわ」
「あれもダメこれもダメ。ごちゃごちゃうるさい」
「お前のために言ってんだろーが。ミスコンで勝てるような写真になるように、カメラ向けられて良い笑顔ができるようにいろいろ考えてるんだろ」
「笑顔ができれば問題ないんでしょ」
結ノ介がスマホを構えると、ふくれっ面が見える。
「できてねーよ」
「楽しくもないのに笑えないよ」
「不器用なやつだな。眠ってるときが一番可愛いんじゃないか。いっそ眠ってコンテストに出場すれば?」
翠は顔を赤くして、「最低ね」と言った後、悲しげな表情になり、
「本当に、皆は楽しくないのに笑ってるの?」
「そりゃそういうときもあるだろ」
愛想笑いや追従笑いという言葉がある。
「私にはできないよ。他の人ができることでも、私には難しいことがたくさんあるの」
結ノ介は、何故自分が愛想笑いや追従笑いをするのか考える。
そんなことは簡単だ。
相手に気に入られたいから、嫌われたくないからだ。
別に合わせる必要がないときさえ、気が付くと笑っている。
特に相手が自分の好きな人であれば。
灰半への態度は一貫して、肯定、許容、容認だ。
自分の意見や本質は後回しにされる。
当たり前のようにそうしている。
一つ一つどう振る舞うべきか、どう答えるべきか、考えてしまう。
きっと好きな食べ物の話をするときでさえ、俺は苦手な食べ物を好きと言うだろう。
誰だってそうだ。
皆と仲良くしたいと思っているにも関わらず、他人とのコミュニケーションを円滑にできないのは、とても悲しくて寂しいことなんじゃないか。
嘘の笑顔ができないなら、本当の笑顔しかない。
人のことは分からないけど、俺が本当に楽しいと思うときは、どんなときだ?
灰半が俺に笑いかけてくれたときに決まってる。
「黒凍は好きな人とかいないのか?」
翠は顔を真っ赤にして、ぶっきらぼうに、
「なんでそんなこと言わなくちゃいけないの。関係ないでしょ、ふざけてないで真面目に考えてよ」
「俺は好きな子が自分に笑いかけてくれたとき、本当に嬉しくて自然と笑顔になる」
結ノ介がふざけていないことを知り、翠も誠実に答える。
「私にはできないことが多いの。友達をたくさん作ることも好きな人を見つけることも私にとっては簡単じゃない。だから夜子ちゃんを頼ったの。私じゃどうしようもないから。だから、夜子ちゃんが紹介してくれたあなたとこうしてるんじゃない」
翠はたぶん、お喋りじゃないが、元来口数の少ない子でもない。
委縮してるんだと思う。
結ノ介は翠のラインを思い出す。
がんばるから。
黒凍なりに何とかしようとしているんだ。
その理由が気になった。
「黒凍は何で、ミスコンで優勝したいんだ」
翠は顔を歪めて言う。
「私は自分が嫌いだからよ。このままじゃダメなの」
それってどういう――と聞こうとして、「あなたは何で」と返される。
「あなたは何で、私に協力してくれてるの」
「灰半に頼まれたからだよ」
「夜子ちゃんに頼まれたから、初対面の私の協力をするの? 私に嫌味を言われながら」
何で。
答えは決まり切っている。
灰半に気に入られたいからという下心だ。
灰半に協力することが、結果的に翠の目的と合致しているだけだ。
「友達から頼まれたら、普通はそうするんだよ、普通は。友達に頼まれたら理由なんかなくても力を貸そうと思うものなんだよ。お前には分からないかも知れないけど」
巨大な自己嫌悪がやってくる。
「……どうせ私には分からないわよ」
翠は歩き去る。
結ノ介は離れていく背中に「どこ行くんだよ」と棘のある声で言う。
「……帰る」
「写真はどうするんだ」
「別にミスコンの顔写真が笑顔でなきゃいけないってことないでしょ」
「は? 勝ちたいんじゃないのかよ」
「勝ちたいわよ!」
と言い残し、翠はそのまま去っていった。
「何だよ、あれじゃ勝てねぇって言ってるだろうが」