六話
新人賞の応募原稿を、最初から最後まで、定期的に少しずつ上げていきます。
重たい目蓋を必死に持ち上げながら教室に入ると、夜子と目が合った。
「おはよう。眠そうだね」
結ノ介は鞄を置きつつ、挨拶を返し、
「ちょっと寝付けなくて」
最後に時間を確認したのは、朝五時だった。
それから束の間の睡眠を貪り、起床した。
登校の途中も、何度もあくびをし、ずっと目蓋を擦っていた。
隣を歩く麗が心配そうな顔で、しきりに「だいじょうぶ?」と声をかけてくれていたのは、ぼんやりと記憶にある。
夜子が控えめな口調で、
「朝からラインするのも悪いと思って、来るの待ってたんだけど。体調悪そうだし、どうしようか」
結ノ介は何のことか分からず、首を傾げていると、
「中庭の掲示板に、ミスコンにエントリーしてる子の写真が張り出されてるの。一緒に行くって言ってたよね? どうする?」
一限目の授業までは、まだ少し時間がある。
何より、夜子と一緒に行動するというのが良い。
掲示板の前には、大勢の生徒がいた。
圧倒的に男が多い。
一年七組と書かれた上に、翠の写真がある。
他の写真は人垣でよく見えないが、翠の写真はすぐに目に入った。
彼女の写真の前だけ、人がいないからだ。
その理由は、写真を見れば誰でも分かることだった。
写真の翠は、睨み付けるような目付きの、威嚇の表情。
タイトルを付けるなら、「敵討ち」とか「討ち入り」が相応しい。
「何だよ、これ」
夜子を見ると、眉宇に困惑を漂わせ、苦笑している。
顔を見合わせると、お互いに考えていることを察した。
夜子は困ったように、
「取り直しって、できるのかな」
「できなきゃ困る。これじゃ勝てない」
人を寄せ付けないどころか、魔除けにすらなりそうだ。
「昼休みに、委員会に訊きに行こうよ」
「そうだな」
教室に戻ろうとすると、麗を見かける。
結ノ介は夜子に先に戻るよう言って、麗のところに向かう。
麗は結ノ介に気づくと、心配そうに、
「体調はどうなの? 足取りはふらふらしていたし、ちゃんと前を見られてなかったし」
「何とかな」
「そうか。ここにいるってことは、早速ミスコンの立候補者の顔写真を見に来たの? 本当に楽しみにしているようだね」
「そのミスコンのことなんだが、掲示板の写真って、取り直しできるか知ってるか?」
人脈の広い麗なら、もしかしたら知っているかも知れない。
麗はどこかに電話をかけ、すぐに通話が終わった。
「大丈夫だって。でも、なるべく早い方がいいみたいだよ、ポスターの業者との兼ね合いがあるそうだから」
「そっか、ありがとう」
「何かあったら、いつでも頼ってくれていいからね。微力ながら、僕にできることがあれば協力するよ」
予鈴のチャイムが鳴った。
麗は一年の校舎に向かわない。
「予鈴鳴ったけど、どこに行くんだ? 授業は?」
「授業前は混雑しているだろうから、故意に遅れて掲示板を見に来たんだよ。僕はこれから写真を見て、その後実物の候補者のチェックをしに行くんだ」
「授業サボるのなんかいちいち止めないけど、留年のことは忘れないでくれよ」
「分かっているよ、君と一緒に卒業ができないなんて嫌だからね」
「そうか、良かった。俺も麗と進級したいから」
麗は小さく笑い、
「結ノ介と一緒なら、ずっと高校生もいいかもね」
「冗談でもそんなこと言うなよ。縁起でもない」
放課後になり、結ノ介は夜子と連れ立って、翠の教室に行く。
朝、麗と別れてから教室に着くのと、始業のチャイムがなるのは同時だった。
一限目の世界史の教師が来て、授業が始まった。
還暦間際の老年の教師で、前回までの進行具合を確認し、偉人の名前や主要な出来事とそれが起きた年号を板書していく。
教師の妙に間延びした声。
生徒は教科書とノートを開いてはいるが、そのほとんどが舟をこいでいる。
睡眠欲との闘いだ。
意識が途切れ途切れに飛び、何度も机に頭をぶつけた。
板書を写したノートには、何が書いてあるのか全く分からない。
結ノ介も眠りの森に誘い込まれようとしていたのだが、夜子が一枚の紙を渡してきた。
ノートを千切ったものに、文字が書いてある。
猫ちゃんのイラストに吹き出しがあり、お昼休み、写真の撮り直しのこと聞きに行こうね、と言っている。
窓の外に視線を移した。
風がそよいでいる。
あぁ、なんて可愛らしいんだろう。
夜子の文章の少し下に、「そのことなんだけど、撮り直し大丈夫みたいだよ。なるべく早い方がいいらしいんだけど」と返事を書く。
教師が板書のために背を向けている間に、紙を夜子に渡す。
すぐに返ってくる。
「よかったぁ」と、猫ちゃん歓喜。
最高だ。
結ノ介と夜子は、翠の教室に着いた。
まだまばらに生徒が残る中、翠はぽつんと自席に座っていた。
「あの写真、何なんだよ。ボクシングのタイトル戦のポスターみたいじゃないか。本当に勝つ気あるのかよ」
翠は視線を逸らし、小さな声で、
「あるに決まってるでしょ」
「どこがだよ」
結ノ介が突っかかると、夜子が二人を執り成した。
「あの写真だとちょっと難しいから、撮り直ししよう。早ければまだ間に合うみたいなの」
「うん。分かった」
翠がころっと表情を変えるのを見て、結ノ介は露悪的に、
「今度はちゃんと笑えよ。他の候補者の写真みたいにさ。今のままじゃ、まず勝てないぞ」
「分かってる。あんまりしつこく言わないで。殺されたいの?」
「やってみろよ」
「同じ電車に乗り合わせて、この人に痴漢されましたーって、泣きながら叫ぶ」
「社会的に抹殺する気か!」
「あなたのために一生を棒に振るなんて、そんなバカなことするわけないでしょ。あんまりこっち見ないでよ、メガネ野郎」
「だからメガネかけてねぇよ、いつまで言ってんだ」
結ノ介は初めて、麗の発言を疑う。
一体どこが控えめで大人しいのか。
夜子が二人の間に入った。
「翠も五野くんも落ち着いて。とにかく今日、写真屋さんに行って、もう一回ミスコン用の写真撮ろう」
瞬く間に、翠は屈託顔になる。
「どうしたの?」
「上手くできるかどうか分からない」
「どういうこと?」
「緊張するの。カメラを向けられると。それに、人前でうまく笑えるか自信ない」
結ノ介は納得する。
「それであの写真になったわけか」
「しかたないでしょ。私からすれば、知らない人にカメラのレンズを向けられて、すぐ笑顔作れることの方が不思議よ」
ポスターの写真は、写真屋で撮ったものでなければならないので、これは避けられない。
夜子は勇気づけるように、翠の手を握り、
「じゃあ、カメラの前で笑う練習から始めよっか」
「うん……」
翠は消え入りそうな声で答えた。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
またお会いできることを祈っています。