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少女コンプレックス  作者: 小野寺 大河
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四話

新人賞の応募原稿を、最初から最後まで、定期的に少しずつ上げていきます。

 結ノ介が自宅のアパートに帰宅すると、二十時を過ぎていた。

 地元を離れ、県外の高校への進学を機に、この学生アパートで生活を始めた。

二階建ての1K。

 入ってすぐユニットバスと手狭なキッチンがあり、そして短い廊下の先に六畳の洋室があるという間取りだ。

 六畳の部屋には、テーブルやベッドなどの必要最低限の家具と、調度品、木製の安い本棚がある。

 本棚は文庫と単行本が作家ごとに整然と並べられている。

 最も好きな作家は本棚の最上段に配置し、特に気に入っている本は、書店でよく見られるように表紙を表にしてある。

 ベッドに学生鞄とレジ袋を放って、勉強机に着く。

 食事の準備を始めなければと考えながら、今日自分に起きたことが全部嘘か夢だったように感じていた。

 自室に帰り、見慣れた風景の中にいるが、まだ体が熱に犯されているのが分かる。

 特別な時間の余韻としてまだ残っているのだ。

 さっきまでのことが嘘のように感じるのも、この熱のせいだ。

 鞄に入れたままにしていたスマホを取り出す。

 姉からの着信が数件ある。

 毎晩食事の後くらいにかかってきて、その日の出来事を話す。

 姉には「後でこちらから電話する」とラインする。

 妹からも珍しくラインが来ていた。

 俺が電話に出ないことで取り乱した姉の反応を見て、送ってきたのだと予想できる内容だった。

簡単に返信しておく。

 賢い妹にはそれで充分だ。

 そのとき、夜子からラインが来た。

 慌てて開くと、翠の連絡先と「今日はありがとう」というメッセージがあった。

 夜子に、翠に連絡するように言われたことを思い出し、文面を考える。

 しばらく考えを巡らせ、「これからよろしくな」と打った。

 夜子への返信はゆっくり時間をかけて取り組む方がいいと判断し、一旦スマホを机の端に置いた。

 今日は本当に特別な日だった。

 夜子のアルバイト先に行った。

 連絡先を交換した。

 それらを経験した男が、他にどれだけいるだろうか。

 自分しか知らない情報がある。

 それが、大きなアドバンテージに思える。

 とんでもなく嬉しくて、特別なことである気がする。

 机の上のデジタルの置き時計を茫然と眺めながら、夕食の献立を具体的に何にしようかと考えた。

 実際に調理に取りかかろうと行動に移そうとすると、どうしようもなく億劫になってしまい、椅子から立ち上がれない。

 もの凄く疲れたのだ。

 空腹にも関わらず、夕食の準備を怠るほど疲弊。

 夜子との時間は楽しく刺激的だ。

 何を話そうかとか、どう答えるべきなのかとか、自分の表情や細かい仕草に及ぶまで一つ一つ細心の注意を払うというのは、多大なエネルギーを消耗する。

 喫茶店で甘い物も頼めば良かったと少し後悔した。

 糖分を補給することで、もっとうまく立ち振る舞えたかも知れない。

 ベランダのガラス戸が叩かれた。

 結ノ介は驚くことなく、重い腰を上げ、閉めきられていたカーテンに手をかける。

 洗濯機がある窮屈なベランダに、月黄泉つくよみ うららが立っている。

 小柄なシルエットと飄々とした表情。

 戸を開けてやると、麗は神妙に「お邪魔します」と言ってから、猫が見せるような動きで素早く入ってきた。

 麗はクラスこそ違うが、同じ高校の同級生で、このアパートの隣人でもある。

 彼女は大抵部屋着のような恰好で訪ねてくる。

 袖の余ったパーカーに、ルームパンツの裾は二、三回くるくると捲られ、細い足首と小さな素足がむき出しになっている。

 長い髪は日によっては、適当にくくられている。

 麗との出会いは引っ越してきたその日だった。

 入居の挨拶に行くと、結ノ介が入学予定の高校の女生徒用の制服を見つけたのだ。

 話を聞くに、やはり彼女は同じ高校に通う同級生だった。

 しかも結ノ介同様、県外から引っ越してきて、不慣れな一人暮らしを始めるという。

 同じ境遇である二人は、お互いに相談や手助けをする関係になったというわけだ。

 麗は手に提げていた小さな弁当袋を差出し、

「これ、ありがとう。今日もおいしかったよ」

「どういたしまして」

 結ノ介はそれを受け取る。

 このやり取りは習慣になっている。

 出会って最初の頃、昼食の話になったとき、麗がパンばかりだと言った。

 麗は食事に対して驚くほど頓着がなく、放っておくと甘くてふわふわの菓子パンばかり食べるらしい。

 しばらくは様子を見ていたのだが、あまりに話の通りなので、それ見かねた結ノ介が「手間変わらないから、お前の分も用意してやる」と強引に約束した。

 それ以来、毎朝麗に弁当を渡し、学校が終わって帰宅した後、麗の好きな時間に返しに来てもらっている。

「いつも悪いね。大変なら、君の分だけ作るようにしなよ」

 麗は弁当を受け取るときに、申し訳なさそうにするのだが、元はと言えば結ノ介のお節介に過ぎず、また空の弁当箱をお礼と共に返されることが気持ちいいのだ。

「一人暮らしして分かったんだけど、料理って自分のためだけに作るの結構面倒なんだよ。別に簡単でもいいかって手抜くっていうか、モチベーション保てないっていうか。誰かのためにだったらまだ楽なんだ」

 弁当箱は洗って返される。

 結ノ介は「別にいい」と言うのだが、麗としては譲れないらしい。

 弁当箱の返却に関して一言あるとすれば、それは彼女の来訪の仕方だった。

「ベランダからじゃなくて、玄関から訪ねてくればいいだろ」

 このアパートは全ての部屋が同じ間取りで、それぞれの部屋のベランダはほとんど何の隔たりもなく横並びになっている。

 麗は大した苦労もなく、ひょいっとベランダ伝いに結ノ介の部屋を訪れるのだ。

「迷惑かい?」

「迷惑じゃないけど、玄関から来る方が普通だろ。ベランダから来る意味がないよ」

「ベランダの方が、面白いじゃないか。君が迷惑でなければ、僕の無礼を許してほしい」

 麗がそう言うならと、結局許してしまう。

 麗はめざとく、ベッドの上のレジ袋を見つけ、

「包帯と絆創膏と、……冷却シート? どこか怪我したの? それとも熱?」

「いや、そういうのじゃないよ」

「それは良かった。君に何かあったら、大変だからね」

 麗はガラス戸の遥か向こうの空に、視線を移し、

「今夜は月が隠されているね。家路につく人たちは、迷わずちゃんと帰れるかな」

 そして、ベッドとテーブルの間に、ぺたんと座り、足を寛がせた。

 この場所は、今や麗の定位置となっている。

 弁当箱を返しに来た後、そのまま結ノ介の部屋に入り浸ることが多い。

 会話をすることもあれば、それぞれが別々のことをすることもある。

 二人の相性は、沈黙が苦にならない関係性を彼らにもたらした。

 結ノ介としては、疾しいことをする気はなく、後ろめたいことはないはずなのだが、麗の親御さんに申し訳ないと感じる。

 疾しいことをする気はなくても、男女にはそういうことがある可能性を孕んでいるものだという一般論のせいだろう。

 それでも麗を追い返さないのは、二人は確かに男と女だが、結ノ介が麗にどこか性別を超越したものを感じているからだ。

 その結果、二人の関係が現在の在り方に落ち着いているのだ。

 麗は体育座りの恰好になり、

「今日は帰りがいつもよりも遅かったね」

「ちょっとな。クラスの子と、その友達と寄り道してたんだ」

「クラスの子とその友達? それって女の子?」

「そうだけど。両方女の子」

 黒目勝ちな瞳に囚われる。

 麗は超然とした雰囲気を持っているが、それでもごく稀に、彼女から男女の緊張を感じることがある。

 思い違いだろうが、その一瞬、結ノ介は体を強張らせてしまう。

 そういうときはいつも姑息なことを考えてしまうのだが、結局事実を有体に話す。

 この聡明な友人相手に与太話が看破されない自信がないということが大きい。

 だから真剣な場面で、彼女を前にすると、常に正直でいることになる。

 ただ、夜子への想いはまだ話していない。

 隠しているわけではなく、わざわざ話すことではないと思っているからだ。

「君は本当に社交的だね」

 麗のこの言葉が、嫌味じゃないのは承知している。

 知り合って間もないが、麗には陰湿なところがない。

 麗の結ノ介への称賛には、他意がない。

 結ノ介は買い被られているのだと心苦しくなる。

「どっちがだよ」

 麗はとにかく知り合いが多い。

 校舎を一緒に歩いていると、数メートル置きに声をかけられたり、手を振られたりする。

 麗の可憐な笑顔と個性的な話術は、他人を惹きつける力を持っている。

「浅く広い交友関係を築いていることだけが、必ずしも社交性があることにはならないと思うよ。深い付き合いの友人を持つことの方が重要ではないかな。例えば、一緒に寄り道をするクラスメートとかね」

「麗の言う広く浅くってのも、俺からすれば充分すごいことだと思うけどな。それに今日のは、深い付き合いをしてるからってわけじゃなくて、これから仲良くやっていこうみたいな感じだったし」

「それは素晴らしいじゃないか。今後特別な人になるかも知れないと予感することも、相手からされることも、どちらもすごいことだ。信頼することも、信頼されることも、好人物でなければできないよ」

 確かにそうだな、と納得したが、今日の寄り道がそれに当てはまるかどうかは一考の余地があった。

「まぁ、麗の言う通りだと思うけど、寄り道した二人のうち一人からは、あんまり仲良くしたいとか信頼しようっていう感じがしなかったかな。睨まれるわ、罵倒されるわ、頬張られるわ、散々だったよ」

 翠の辛辣な態度を思い返す。

 最悪の出会いと言って良いかもしれない。

 でも――、包帯やら絆創膏やらが入ったレジ袋を一瞥する。

「どうしようもなく悪いやつ、ってわけでもないみたいだけどな」

「やはり君はすごいね、どんな相手であっても、良い所を見抜いてしまうんだね」

「過大評価はもうやめてくれ。俺は麗に、不当に褒められるたびに心苦しいんだから」

「では、ミスコンの話でもしようか」

何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。

またお会いできることを祈っています。

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