三話
新人賞の応募原稿を、最初から最後まで、定期的に少しずつ上げていきます。
その後、二時間ほど会話をした。
ミスコンのことより世間話が多かった。
外に出ると夜の帳が下りかかっていて、湿気を多く含んだ夜気を肌に感じる。
三人とも途中までは同じ方向だった。
やがて翠の家への別れ道に差し掛かったとき、翠がいきなり近くのコンビニに駆けていった。
結ノ介と夜子は意味が分からず、とりあえず待っていると、レジ袋を提げた翠が戻ってきた。
そして、「これ」と言って、結ノ介にレジ袋を差し出す。
受け取り、中を確認すると、包帯やバンドエイド、湿布、冷却シートなどが入っていた。
翠がぶつぶつと小声で、
「ほっぺた、どれでもいいから、使って」
と切れ切れに言って、「それじゃ、また」と二人に別れを告げた。
結ノ介は少し、いやすごく驚いた。
こういうこともするのか。
去りゆく翠の背中を眺める。
夜子の家の方向に、結ノ介が乗るバスのバス停がある。
夜子は「行こうか」と言って歩き始めた。
「結構遅くなっちゃけど、家の人大丈夫?」
「俺一人暮らしだから、遅くなっても平気だよ。灰半こそ大丈夫なのか?」
「この時間なら大丈夫だよ。それより一人暮らしなんだ。なんかすごいね」
「別にすごくなんかは」
「家事とかどうしてるの? 学校が終わってからやってるんだよね、宿題ある日とか大変じゃない?」
「実家にいた頃から、家事は結構やってたし、掃除とかは休みの日にまとめてって感じで」
「へ~。じゃあ料理とかも結構できるんだ?」
「簡単なものなら。面倒だけど、なるべくは台所に立つようにしてる」
「あ、じゃあお弁当とかも自分で作ってるの?」
結ノ介が頷くと、夜子は「すごいね!」と感嘆の声を上げた。
結ノ介はくすぐったいやらドキドキするやらで、大忙しだ。
「灰半ってさ、友達想いだよな。黒凍のために、何とかしたいって思ったんだろ。黒凍も完全に灰半に懐いてるっていうか、信頼してる感じで、灰半ってホント面倒見良いし、誰とでも仲良くなれるよな」
「急にどうしたの? 褒めても何もでないよ」
「いや、見返りとか求めてるんじゃなくて、俺はただ思ったことを言ってるだけで。俺なんかこうして話してもらってるだけで、有難いっていうか、恐れ多いっていうか」
結ノ介は夜子の目が見られない。
本当は見返りを求めている。
灰半のことを褒め倒して、気に入ってもらおうとしてる。
少しでも良い人だと、一緒にいて楽しい人だと思われたいのだ。
「なにそれ、私そんな大層な人間じゃないよ。それに五野くんだって、私と翠の無理を聞いてくれてるじゃない」
「それは人の頼みは断れないし、クラスメートからのお願いだったらなおさらだよ」
「やっぱり良い人だね」
灰半からの頼みだったから引き受けたのだ。
今より多く話す機会がほしいから。
仲良くなりたいから。
調子の良いことを並べ立てているが、結局はそういうことだ。
「それはそうと、灰半はミスコンに出ようと思わなかったのか?」
「思わないよ。私なんか出ても仕方ないよ」
「そんなことないと思うけど」
出たら絶対一票は入る。
それどころか、間違いなく上位になる。
「結構良いところまで行くと思うけどな。クラスにも結構いるんだぞ、灰半のこと可愛いって言ってる男が」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ。五野くんも私に投票してくれるの?」
「そうだな。他のクラスによく話す女子とかいないし、灰半にするんじゃないかな」
自分の気持ちを知ってほしいのか、知ってほしくないのか、どっちなのだろう。
「消去法なの?」
夜子は悪戯っぽく笑った。
「いや、そういうわけじゃないけど。知ってる子に投票しようと思うだろ」
「本当?」
夜子は愉快そうな微笑を見せた。
結ノ介は楽しいと思う。
夜子は、自分を冗談や軽口を言える相手だと思ってくれている。
彼女との距離が近くなった気がするのだ。
「本当だよ。ところで黒凍はなんでミスコンに出ようと思ったんだ? どう考えてもそんなタイプじゃないだろ。そのへんのことはまだ聞いてないんだけど」
「実は私も分からないの。ただ、お願いだから助けて、って言われて」
「灰半が知らないんじゃ、しょうがないか」
「好きな男の子でもいるんじゃない?」
「そんなもんかね」
いつもなら部屋で過ごしているのに、今日は夜子と二人きりで夜道を歩いている。
時折、通行人やヘッドライトを照らした車と、すれ違ったり追い越されたりする。
一度も通ったことのない道を歩いていると、日常とは別の世界に来てしまったようで、妙な昂揚感を覚えた。
ここは昼の教室ではない。
普段は考えるだけで終えてしまうことを言えるような、学校での自分のキャラクターを守らなくてもいいような、特別な時間であるように感じる。
「今日さ、カフェに誘ってくれただろ」
夜子を一瞥すると、可愛く頷いた。
「こういうことって、よくするのか? つまり、男と一緒に放課後どこかへ行ったりとか」
言葉の末に向かって語調が弱まっていく。
「しないよ、そんなの。誰でも彼でも誘ったりしないよ」
夜子の答えに安堵する。
「そうか。そうだよな。なんかごめん、変な勘繰りみたいなことしちゃって」
「いいよ、謝らなくても。まぁ、誘われることはあるけどね」
「……そうか、そうだよな。灰半だったら、そりゃ誘われることもあるよな」
そうだろうとは思っていたが、気持ちが沈んでいく。
「それじゃあ、何人かで遊びに行ったりするのか。それとも二人だけで、とか?」
「二人では行ったことないよ」
結ノ介は、胸を撫で下ろした。
夜子といると、本当に忙しい。
「ということは、その、彼氏とかそういう感じの人、まだいないってことなのかな。答えたくなかったらいいんだけど。プライベートなことだし、うん」
要領を得ない言い方になってしまう。
固唾を飲んで夜子の言葉を待つ。
「いないよ。今までいたことないし」
「へー、そうなんだ、へー、いたことないのかー、へー……」
結ノ介の頭の中でクラッカーが鳴る。
彼氏いないんだ!
ってことは、俺にもチャンスが!
「誰でも彼でもお茶に誘ったりしないけど、仲良くなりたいなと思う人だったら、二人きりでも行くかもね」
そう言って照れながら微笑む夜子を、結ノ介はすごく可愛いと思った。
それと同時に、どうしようもない多幸と不安が押し寄せた。
本当にこの子に恋をしているのだと思い知った。
彼女の一言ひとことに一喜一憂してしまう。
言葉や行動や仕草が、何でもできるような気になるほど明るい気持ちにさせたり、何をやっても上手く行かない気がするほど悲しくさせたりする。
つまり、自分の世界は、彼女のものなのだ。
隣を歩く夜子との距離がもどかしい。
ほんの少し前まで、あの手紙を見つける瞬間まで、並んで歩くときの距離はとても親密なものだと思っていた。
しかし今は、その距離さえ他人行儀に感じる。
より近くに、と彼女を求めていく。
茫洋とした夜の空は、深い黒で塗りつぶされ、巨大な綿菓子を四方から引っ張ったような雲が、広い範囲で漂っている。
それは途切れることなく、ゆっくりと空の端へと移動していく。
黒に近い灰色の中に、一か所だけ薄らんでいるところがあり、そこが雲の切れ間なのだろうと思う。
その窪みのようなわずかな隙間から、ぼんやりとした明かりが漏れ、辺りが少しだけ明るくなる。
青白い月明かりに照らされた夜子をそっと見る。
すっきりとした輪郭が縁どる横顔には、密やかな美しさが宿っている。
二人で肩を並べて歩く、この時間が終わらなければいい。
ずっとこうして夜風を感じながら、二人だけの時間が続くことを願う反面、この近いようで遠い距離に満足できない気持ちもやはりあるのだ。
ただ彼女の横顔を少しでも長く見ていたいと思い、ちらちらと盗み見ては、気づかれて不審に思われないように、すぐに視線を外すことを繰り返す。
「五野くんはそういう話ないの?」
「え、俺?」
完全に虚を衝かれた。
「どうなの? クラスに気になる子とかいないの?」
二つの瞳が向けられている。
結ノ介は視線を逸らした。
いる、今まさに目の前に。
そんなことは言えるわけもなく、
「いやぁ、まだ皆のことよく分からないし、どうかな。俺はあんまり積極的に女子と話す方じゃないから」
「そっか。五野くんなら、きっと良い子が見つかるよ」
夜子の言葉を素直に喜べない。
それは夜子が結ノ介のことを現時点で何とも思っていないということを示唆しているからだ。
夜子が好意を持ってくれている、なんて都合が良過ぎると分かっているつもりでも、それが言葉の端から読み取れてしまうと、やはり落胆する。
冗談っぽく、夜子とだったら二人で遊びに行きたいけどな、と言ってしまいたい欲が湧き上がる。
夜子の反応が好意的であって欲しいが、仮に「二人ではまだちょっと……」と感触が良くなくても、「冗談だよ」と主張してしまえばいい。
ただ、取り繕う余地もなく拒絶されたら、という想像をしただけで息が止まりそうになる。
夜子は顔を少し赤らめ、
「男の子とこういう話するの、なんか恥ずかしいね」
それからは、他愛もない話をした。
間違えないように、とそれだけを気を付けた。
夜子の家と、結ノ介が乗るバス停との分かれ道に差し掛かる。
突然、夜子が言った。
「そうだ ライン交換しようよ」
その提案を結ノ介は快諾した。
断る理由がない。
夜子は翠の了解を得た後、彼女の連絡先を送ると言った。
「翠にもラインしてあげて」
「灰半が言うならするけど」
結ノ介はわずかに眉をひそめ、
「でも、邪険にされるだけじゃないか」
「大丈夫だよ。きっと喜ぶと思う。それじゃまた明日」
夜子が手を振った。
「あぁ、また明日」
結ノ介は逡巡し、「あのさ、」と切り出す。
夜子は振り返り、「うん?」と小首を傾げた。
「灰半にもラインしていいか」
と言った後、付け加えるように、
「ほら、ミスコンのことで」
心の中で嘆息する。
取り立てて理由が無くても連絡していいか、と言えない自分が不甲斐ないのだ。
どうしても拒絶されることが怖い。
それはずっと、心の中で重い鉛のように横たわり続けるのだろう。
片思いの宿命なのかも知れない。
「もちろんいいよ」
夜子は屈託のない笑顔を向けた。
何かのご縁で、この小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
またお会いできることを祈っています。