一話
新人賞の応募原稿を、最初から最後まで、毎日少しずつ上げていきます。
六月の始め、梅雨入りを一週間前に控えたある日。
五野 結ノ介はかつてない緊張感を持って、屋上への階段の前に佇んでいる。
制服のブレザーのポケットに入っている一通の手紙が全ての原因だ。
帰り支度をしているとき、教科書とノートしか入っていないはずの机から、猫ちゃんのシールで留められた可愛らしい封筒を見つけた瞬間、反射的にブレザーのポケットに突っ込んだ。
通学鞄も持たず、いそいそと男子トイレの個室に入り、手紙の差出人が灰半 夜子であることを知って、狂喜のあまり心臓が止まるかと思った。
名前の部分をもう一度確認し、何故か一度便座に腰掛けた。
落ち着こうとしたのかも知れない。
慎重にシールをはがし、ゆっくりと便箋を引き抜いた。
そこには感心するほど綺麗な字で、「放課後、屋上で待ってます」と書かれていた。
何度も読み返したが、これが日本語によく似た言語で、別の意味を持っていない限り、待ち合わせの申し出だ。
結ノ介は淡い期待をする。
まさか彼女の方から?
灰半 夜子は結ノ介の片想い中の女の子だ。
結ノ介はある事情で県外からこの高校に入学し、今春晴れて高校一年生になった。
入学式の後、同じクラスの隣の席に夜子がいた。
清潔感のある身だしなみ、愛嬌に満ちた表情。
目が合って、柔和な笑顔で「これからよろしくね」と言われ、夜子のセミロングの髪がふわっと春風と戯れた瞬間、結ノ介は恋に落ちた。
高校入学と同時に慣れない土地での一人暮らしも始まったわけだが、やはり多少なりとも不安を感じていた。
夜子の笑顔はその不安を簡単に吹き飛ばしてしまった。
夜子は社交的で、器用で、要領がよく、また誰に対しても愛想が良かった。
圧倒されるような美人ではなく、誰とでも仲良くなれそうな愛嬌のある可愛い顔立ちと雰囲気を纏っているのだ。
新クラスが始まって一週間後のホームルームで、夜子はクラス委員長に立候補したのだが、誰も反対する素振りを見せなかった。
結ノ介と夜子は席が隣同士なのだから、話す機会が多そうなのだが、そんなに上手くは行かなかった。
夜子の周りには常に彼女の友達がいるのだ。
女の子の会話に割り込む度胸などないし、授業中は彼女の勉学の邪魔したくない。
結果として、登校時と下校時の簡単な挨拶と、小休憩や昼休みに彼女が友達に捕まるまでの一瞬しか話せない。
その少ない機会に、夜子はごく自然に他の友達と話すように接してくれているが、結ノ介は緊張で舞い上がってしまって、気の利いた冗談なんか言えない。
それどころか自分でも何を言ってるのか分からないときすらあり、話し終った後で、自身の不甲斐なさで落胆するのが常だ。
入学して二か月が経ち、六月に突入しても、それは変わらなかった。
ただ最近良くないと思っていることがある。
夜子は男女問わず人気者で、クラスの女の子全員と仲が良い。
それは結ノ介にとっては別にいい。
問題は男で彼女に好意を持っている者が多いことだ。
例えば、その連中でクラスの誰が可愛いと思う? みたいな勝手な議論が始めると、まず間違いなく夜子の名前が上がる。
結ノ介は水を向けられると、いつも答えられない。
別にいねぇよ、と決まってお茶を濁す。
本気すぎるのだ。
あの子可愛いくね? あんな子と付き合えたらな、というレベルじゃない。
雑誌やテレビでアイドルに対して抱くような気持ちではなく、夜寝る前にその日彼女とどれだけ仲良くなれたかという成果を確認したり、朝起きて今日は何の話をしようかという話題について考えを巡らせたりする現実的な問題だ。
夜子からの手紙は、そんな閉塞した日々をぶち壊す僥倖だ。
結ノ介は階段を一歩ずつ上り、期待に胸を膨らませながら、屋上への重厚な鉄製のドアに手を掛けた。
夜子はまだ来ていないようだった。
屋上には誰もいない。
ここに用があるやつなんてそういない。
夜子の笑顔で迎えられると勝手ながら期待していただけに、少し拍子抜けした。
早く来てほしいなと思ったが、こういうときに落ち着かないのはカッコ悪いなと思い直し、気長に彼女を待つことにする。
一陣の突風が横から吹きつけた。
ふと視界の端で流麗な帯状のものが翻るのが見えた。
目を向けると、知らない女の子が階段室の壁に体を預けて寝ていた。
上履きのラインの色から同学年だと分かる。
綺麗な子だなと思った。
背景がところどころにひびの入った素っ気ないコンクリートの壁じゃなく、どこかの湖のほとりの年老いた樹木であれば、幼い頃母親に読み聞かせてもらった童話の中の妖精か眠り姫だ。
彼女は超然とした可憐さを放っている。
触れてはいけないもの。
不可侵の少女。
そよぐ風でさらさらの前髪と長いまつげが揺れる。
長い髪の細い束が、新雪のような白く滑らかな頬を優しく撫でる。
視線が釘付けになり、胸が騒いだ。
結ノ介の右手が伸びていく、彼女との間に抗い難い不思議な引力があるように。
冬休みの間、立ち入り禁止の校庭に誰よりも早く登校して、その非日常的な白銀の世界に足を踏み入れるような感覚を覚える。
たぶん日常から飛び出すときは、いつだって胸が騒いでドキドキする。
心臓の鼓動がうるさく、視界が揺らぐ。
少女のあどけない口唇から漏れる寝息と、耳元を通り過ぎる微風の区別がつかない。
まだ初夏は遠いはずだが、屋上は不思議なくらい熱い。
ひびだと思っていた壁の傷のいくつかは、絵とも模様とも呼べない落書きだった。
彼女をひと目見たときから、何かがおかしくなっているのかも知れない。
少女が急に「う~ん」と声を漏らした。
結ノ介はようやく我に返った。
俺は今何をしようとしてた?
眠っている女の子に無断で触れようとしていたのか。
少女は苦しそうに身じろぎしている。
コンクリートの固さは眠るのに不向きだ。
こんなところで寝ていたら体に良くないし、何よりこれから夜子がやって来る。
結ノ介は少女を起こすことにした。
恐る恐る声を掛ける。
「おい、ここは寝るところじゃないぞ?」
硬い素材がすれ合う無機質な音がした。
屋上のドアが開き、誰かが来た。
咄嗟に向き直ると、夜子がいた。
知らない人でなくて良かったと思い胸を撫で下ろしたが、もしかしたら彼女は妙な誤解をしたかも知れない。
そう考えると、最も来てほしくない人物だったのではないか。
安心していいのか、落胆しなければならないのか分からない。
結ノ介の葛藤をよそに、夜子は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「手紙呼んでくれたんだね、良かった」
安堵の表情を湛えていたかと思うと、一転して申し訳なさそうに眉をひそめ、健気に両手を合わせ、
「遅れてごめんね。友達にちょっと捕まっちゃって、待たせたよね」
「全然待ってない、俺も今来たところだよ」
笑って答える結ノ介は、すぐ傍から剣を孕んだ眼差しを向けられていることに気づく。
眠っていた少女が目を覚ましたようだ。
その表情を見て、結ノ介は気圧された。
先程までのお姫様然とした面影は跡形もなく雲散霧消していた。
代わりに問答無用で敵を射殺するような鋭利な視線と、殺伐とした様相を呈していた。
きつく食いしばられた口には、鋭い牙が隠されているかも知れない。
まるで獰猛な野生の肉食動物の本能的な臨戦態勢だ。
少しでも近づけば、あるいはわずかでも気を抜けば食い殺されてしまいそうだ。
そのただごとではない形相に結ノ介は鼻白んだ。
「俺はただ起こそうと――」
言い終る前に、バチーンッ! と左頬に強い衝撃が走った。
二、三歩後ろへとよろめき、痛みに頬を抑える。
ビンタをされたのだと分かった。
「いきなり何すんだよ!」
何でいきなりビンタされなきゃいけない?
じわじわと怒気が込み上げてくる。
少女は答えない。
敵愾心を露わにして結ノ介を睨み、彼から隠れるように夜子の背中に飛び込んだ。
どういうことだ?
夜子が少女に「どうしたの?」と聞くが、やはり答えようとしない。
夜子は結ノ介に向き直り、
「何かあったの?」
「その子が寝てたから起こそうとしたんだよ。そのとき灰半が来て、そしたら目を覚ましたその子がいきなりビンタを……」
少女は特に反論もせず、明後日の方向を向いている。
少女の代わりに、夜子が謝った。
「そっか、ごめんね。起きて知らない人がいたからびっくりしたんだと思う」
「灰半が謝ることじゃないだろ。まぁ、そこまで考えが回らなかった俺も悪いわけだし」
灰半の言うことはもっともだと思うし、自分にも非がある。
それを認めないのは違うし、そもそも彼女を触ろうとしたのは、最低の行為だ。
結ノ介は少女に見据え、
「悪かったよ、ごめん」
頭を下げると、少女は何度かちらちらと結ノ介を見やり、しばらくしてぽつりと呟く。
「……こっちも悪かったと思う」
二人の様子を見て、夜子は穏やかに微笑み、「偉い、偉い」と言って少女の頭を撫でた。
少女の方が長身であるため、少し腰をかがめてなでなでを堪能している。
結ノ介が内心、俺は? と尻尾を振っていると、夜子は結ノ介の頭を撫でるようなジェスチャーをして、
「五野くんもしてほしい? なでなで」
是非! と心の中では勢い良く挙手したが、
「からかうなよ」
結ノ介は拳を背中できつく握る。
俺のバカ! 一万円出して、してもらいくらいなのに!
覆水盆に返らずと諦め、
「その子って灰半の友達?」
「そうだよ。翠は私の親友なの、小学校からの大親友だよ!」
少女のフルネームは黒凍 翠というらしい。
翠は夜子の胸の中で、胡乱者を見るような眼差しを結ノ介に向け、夜子に「その人、だれ?」と聞いた。
結ノ介は夜子の手前、もちろんあからさまな不平不満は漏らさないが、何故俺が不審者扱いされなければならないと思った。
「私のクラスメートの五野 結ノ介くん。席が隣なの。よくお喋りするんだよ」
翠は結ノ介を舐めまわすように眺めた後、
「何かされてない?」
「失礼なやつだな!」
結ノ介が叫ぶと、翠はすぐ夜子の背中という彼にとっては手も足も出せない聖域に引っ込んでしまう。
行場を失くした怒りは、ストレスとして溜まる一方だ。
しかし、別に翠にどういう態度を取られようと、それほど大きな問題じゃない。
結ノ介は気を静め、にこやかに言う。
「ところで、灰半は俺に用があるんじゃないのか? その、ふ、二人きりの方がいいなら、その親友さんにはそろそろご退場願おうと思うんだけど」
翠がひょいっと顔を出し、夜子の肩越しに睨みつけてきた。
結ノ介はそれに応戦するように白々しい笑顔を向けた。
「あの手紙ね、実は五野くんにお話しがあって書いたの。直接向かい合って話したくて」
「分かるよ、その気持ち。やっぱり面と向かって伝えるべきだよな」
「うん。やっぱり五野くんは話が分かるなぁ」
「いやいや、それほどでも。ま、そういうわけだから、ここからは俺たち若い二人で」
結ノ介が翠の退席の催促をすると、夜子がかぶりを振った。
「翠は私が呼んでおいたの」
「え、……呼んだ?」
「うん。話っていうのは翠のことなの。私たちに協力をしてほしくて」
結ノ介は混乱する。
何? 意味が分からない。
協力って何?
まったく知らない女の子のことで?
あぁ、とにかく、あの手紙がラブレターじゃないことと、これから話されることが愛の告白でないことは覆らないんだろうなぁ。
悄然とする結ノ介を前に、翠は不満顔だ。
「なんでこんなやつに……役者不足だよ。荷が重すぎるよ。ぽっちゃりくんが運動会で優勝決定戦のリレーのアンカーに大抜擢されるくらい荷が重いよ」
そりゃ確かに荷が重い。
他に適任者がいるはずだ。
「それに何かむっつりっぽいし。あーゆーのに限ってヤバいこと考えてるよ。思考の半分が女体の神秘についてで、後は三割が爆弾、一割五分が露出、残りが女王様だよ、きっと」
「ホントのやべーやつじゃねぇかよ! 全部聞こえてんだよ、ってか、偏見がすごいな!」
翠がまた夜子の背中に隠れるのを見て、結ノ介は辟易する。
「灰半、そろそろどういうことか、ちゃんと説明してくれないか?」
夜子は鷹揚に頷き、
「具体的なことと、後は親睦を深めるために、ゆっくりお茶を飲みながら話したいんだけど、五野くんはこの後何か用事がある?」
「何もないよ」
あってもこの瞬間消滅することになっただろう。
夜子とお茶する以上に大事な用事などあるはずがない。
翠は依然として不満げだ。
結ノ介だって、できれば夜子と二人きりがいいと思っている。
それでも夜子の親友なのだから、体裁は取り繕わなければならない。
夜子が翠を執り成しつつ、「それじゃ私に付いてきて」と言った。
何かのご縁で、私の小説を読んでくださったあなた、ありがとうございます。
またお会いできることを祈っています。