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 神ーー無限、人間ーー有限



 自分の思想が固まってきたので、祖述しておきたい。


 先日、カーネギーの「人を動かす」という本をパラパラ読んだのだが(ははあ、これが諸悪の根源か)と自分などは思った。世界的には立派な自己啓発本という事になるだろう。


 現代というのは、簡単に言えば、「生」を無限化した時代と言えるのではないかと考えている。生の無限化というのは、わかりやすく、貯蓄は無限に増えるし、自分の地位は相対的に、努力すればどんどん上に行けるという事で、生きる事は前方に開かれ、未来に行けば行けば行くほど良い、というような発想だ。


 こういう考えは近代から現れてきて、人間が自然を征服し、巨大な社会を作り上げてきたという事と関連している。人間は運命に敗北する哀れな存在ではなく、運命に勝利し得る。人間は、自由であり、努力すれば富が得られ、それは「良い事」だ。古代の賢者が、欲望を抑えるのを説いたのとは逆に、現代は欲望を奨励する。それが「経済的価値」を生む、「生産性」を上げるのであれば、良い事らしい。


 生きる事は、経済学と結びついて無限に前方に広がるものとなった。自分は以前からその考えに疑問を持っていたのだが、自分の中にもその考えがしっかり根を張っているのも確かだ。例えば、「文学」などをやっていてもいつの間にか「頑張って文学をやって作家になって夢を叶える」という風になってくる。作家の頭脳が世俗的精神に汚染された現在、作家に、世俗とは違う価値観や思想を求めても無駄という事になるだろう。宗教も芸術も、我々の価値観と完全に一致するものとなった。


 総括すると、現代は「生」を神とした時代と言えるかと思う。かつてはそうではなかった。生の上に神があった。人間は、人間を超えるなにものかを絶えず崇めていた。それ故、悲惨な我々の人生は「来世」には救われると思われた。しかし、我々は悲惨を克服した、と現代人は言うだろう。そこで、我々は自分達の生を超えるものを発見するのが不可能になった。自分達自身が、最終目的となった。


 古代の価値観はこれとは異なる。人間は、人間を超えるものによって圧倒され、敗北する。神は全知全能だが、人間は有限で哀れな存在だ。我々は神の手の中では子供に等しい。人間の有限性そのものははっきりしているが、それを悲劇的に描き出す事に偉大さがあった(ソフォクレス)。我々は、偉大さを失ったがその代わり、幸福を手に入れたという事になるかもしれない。


 自分達が絶えざる幸福である事、あるいは幸福でなければならないという事、不幸だという事は「悲劇」ではなく、「罪」だという事。なぜなら、誰しもが努力し、幸福にならなければならないし、それが可能な時代なのだから、そうしなければいけない。貧しいのは「自己責任」だという言葉はそういう価値観から発せられていると思う。


 そのような世界で、果たしてどんな風に生きれば良いのだろう?


 自分は、文学というものの最高点をソフォクレス・シェイクスピア・ドストエフスキーの三人に置く。いずれも、主体の自由とか、意志とかいうものの限界を描き出したように思われる。人間の主体的な行為は、やがて運命に敗北していく。この運命は「自然」であったり「神」であったりする。いずれにしろ、人間はそこに敗北していく。

 

 何故、人間は敗北しなければならないのか。勝利の可能性はないのか。人間は運命を捻じ曲げられるのではないか。人間は自分達を神とし、現に神となれるのではないか。


 努力して、成功し、何十億という金を手に入れ、世界中の人々からフォローされ、一挙手一投足が話題となる。もはや、我々は運命に勝利した。これこそが、現代が古代を乗り越えた証左であり、過去などというのはくだらない踏み台であったにすぎないのだ。今の私達は「幸福」だ。私達は努力して、幸福を手に入れた。古代の賢者は間違っていたのだ。


 果たしてそんな風に言えるだろうか?


 幸福という概念は、意識の内部におけるものとなった。古代ギリシアの「エウダイモニア」という言葉は「存在としての幸福」を意味していた。この場合、「存在としての幸福」だから、「名誉ある死」というのもエウダイモニアに属するらしい。現代では、名誉ある死というのは幸福という言葉に組み入れられない。幸福とは、意識内部における快楽の数値のようなものになった。


 我々が強固に閉じこもっている場所はどこか。我々は「自己意識=幸福」の内部にとどまっている。例えば、自己犠牲というものが賞賛される事はあっても、自分がそうしたいわけではない。誰かがやってくれれば褒める事、いいねボタンを押すこと、そこにためらいはない。ただ、自分が自己犠牲になれと言われれば、我々はそっと辞退する。幸福は自己意識と結びついて存在する。生の絶対化は、その外部にあるものを認めない。だから、我々の内部は我々の幸福を目指して進み、そこに限界を感じない。外部が排除された為に限界が存在しなくなった。

 

 我々はその中にとどまっていて、自分の順位を上げる事を望んでいる。順位が下がれば「努力が足りなかった」と反省するか、ルサンチマンを持って上位の人間を攻撃するしかない。上位の人間は、「これは努力の結果」と言い、下位の人間に「どうしたら私のようになれるか」とノウハウをありがたくも語ってくれる。そこで、生の絶対化は、疑われる事はない。疑われる事のない場所において、ぐるぐると我々が動いているにすぎない。


 我々は神を失い、自分達を絶対化し、その価値観については確定的なものとした。これに疑いを入れると、排除される。「俺は芥川賞にも新人賞にも興味ないが、俺の作品は一流なんだ」と言えば、バカにされて終わる。彼が仮に百年後に評価されるとしても、彼を馬鹿にするのが「正しい」。


 こういう世界においても、自分のやりたいのは、限界を見出すという事だ。だから、自分も神を信じるようになるのかもしれないし、それは超越的(宗教的)ではなく、超越論的(哲学的)なものとなるかもしれない。何故、限界を見出すのだろう。それは、人間の精神の自由は、自由を自壊させる所まで行かないといけないと直感しているからという事になる。


 仮に自分が成功者になり、自分を神としても、そこに、人が人である限りの限界が現れるだろう。自らを神としたラスコーリニコフは、自分は神ではない、人間であると気付かざるを得なかった。そして、自分が有限な人間であると認知する事が、遠方にある神の存在を呼び込む。もちろん、神がいなくても構わない。ただ、神という存在を仮定して、始めて人とは何者かという問いに答えが出る事になる。


 古代ギリシアでは、神という全知全能に比べ、人間は有限であるが、それでも人間が意志を持って進む事に根底的な偉大さがあった。セルバンテスの「ドン・キホーテ」もまた、主人公の意志と行為が英雄的であると共に滑稽なものである事が、彼が神になろうとした人間であると思わせる。人間の偉大さというのは、自らを有限の存在として認知する事にあるので、自分を無限の存在と過信する事にあるのではない。


 前者において、人間は自分の存在を滑稽なものと笑わざるを得ない。後者は生真面目に、自分の未来と自分を信じて進むが、その存在は他者から見ると滑稽だろう。突き詰めると、究極的な他者とは、人間にとっての神ではないかと思っている。神から見た時、人間は滑稽で哀れであろう。しかしその視点を「人間」が得られる事、人間がその視点を持って人間を眺められたという事、そのポイントに過去の偉大な文化の秘密はあったのではないか。自分はそんな風に思う。


 それで、自分はこのような自分の滑稽さと哀れを日頃感じているという次第である。しかし、それを自分が他人に対して「優越」しているポイントだと認識すると、自分はまたあの哀れで滑稽な、自分を神とする存在へと舞い戻ってしまうだろう。この箇所に留まるには精神の力がいる。しかし、そんな精神を持たせてくれるようにするものは現在にはほとんどない。ただ過去ーー古代から学ぶ他ないと感じている。


 



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