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ところが、ルーシェの入学が近づくにつれて、僕は悪夢に苛まれるようになっていた。嫌な予感ばかりが頭をよぎる。僕がルーシェを捨てるだって?ありえない!僕の人生に幸せな時間をくれたのは彼女だ。絶対にない。夢が現実になるなんて!僕は夢を見るたびに、怒りと不安を感じていた。
そして、とうとうルーシェが入学してきた。ひときわ目立つ黒髪の少女はなぜか気恥しそうに俯いている。けれど、そんな姿さえ僕の目には愛らしく映った。
(ああ、夜会のエスコートができないなんて残念だな)
夜会とは入学式を終えた新入生を歓迎すべく、生徒会執行部が執り行うダンスパーティのことだ。僕はその準備や進行の打ち合わせで彼女を迎えに行けないのである。ものすごく残念な気分だったけれど、このうめあわせに彼女が大好きなダンスをいっぱい踊ればいいと思った。
夜会は午後七時から始まった。生徒会執行部は壇上にあがる。そして、生徒会長となられたエドワード殿下からの挨拶でパーティの幕は上がった。
「それではこれより、一年生の歓迎パーティを開催する。飲んで食べて踊って楽しんでくれ!ただし酒はないからな」
生徒たちはいっせいに笑った。さあ、楽しい夜会の始まりだ。僕は会場を一回りして、新入生たちの顔ぶれを覚えていく。一年生は白、二年生は青、僕たち三年生は赤の腕章をつけている。制服はないのでそれで学年を判断する決まりになっている。
途中、ルーシェを見つけて声をかけた。社交が苦手な彼女は壁の花と化している。
「ルーシェ」
「クリストファー様。お疲れ様です」
「ありがとう。それよりエスコートできなくてごめんね」
「仕方ありませんはお仕事ですもの」
「これから、会場を一回りしないといけないんだけど、一緒に来ない?」
彼女は首を横に振る。本当は僕が自慢したかっただけなんだけど、人混みが苦手なルーシェはやはり断った。
「そうか、じゃあ、あとで踊ろうね」
そう僕がいうと満面の笑みで「ええ、のちほど」と答えてくれた。僕は急いで会場を回る。その間もルーシェの様子をうかがっていると、一年生の男子が彼女に近づいた。たぶん、ダンスに誘ったのだろう。ルーシェは、断ったようで、その生徒はすぐに側を離れて行った。僕は、ほっと胸をなでおろす。
「お待たせ。僕らも踊ろう」
「お疲れではありませんか?」
「僕は大丈夫だよ。踊るの嫌?」
「いいえ、わたくしでよろしければ、ぜひ」
待っていましたとばかりに顔をほころばせるルーシェに腕をだすと、そっと小さな手が添えられる。僕らはフロアにでて三曲立て続けに踊った。彼女は全身で楽しさを表現するかのように踊る。僕も楽しくてうれしくて幸せだった。
せっかくルーシェが入学してきたのに、学年が違うせいで会えない。そればかりか、生徒会の仕事に勉強もあって、なかなかルーシェを昼食に誘う暇もなかった。それに、生徒会室はエドワード殿下の執務室もかねていたので、僕とクロトアはその手伝いもしていた。将来のためにも必要なことだった。そんなとき、クロトアはニヤニヤしながらいった。
「お前の婚約者、すっげぇ強いって噂になってるぞ」
「強い?」
「実技クラスはトップの上、演武であのヒース・ウィルスと手合わせして互角だったてさ」
「まさか……」
いや、でもその可能性はありえないわけじゃない。彼女は七歳の時から魔法の訓練を受けている。それに属性は入学式前に判定されている。だとすると、ほとんど生徒と手合わせしないウィルス先生が相手だったということはオールマイティ属性だということだ。
「お前知らなかったの?」
「属性までは……でも、七歳の時から魔法の訓練はしていたから」
「馬鹿。どんなに長く訓練したって天賦の才はこえられないだろう。このまま、座学の成績もよかったら、将来、王妃付きの近衛隊長に抜擢されかねないぞ」
僕はそれを聞いて考え込んでしまった。もし、彼女が望めばそれは実現してしまう。だが、ぼくはそこでふっと笑った。
「お?何笑ってんだよ」
僕は笑いながら言った。
「心配ご無用。彼女は社交が苦手なんだ。それに僕と踊るのが大好きなんでね」
「おお、おお、のろけてくれちゃって」
僕らは笑いながら、じゃれていた。そのときは、まだ、エドワード殿下の異変に気づいてはいなかった。
いち早く気がついたのは殿下の婚約者であるアリエス・ドラクロア公爵令嬢だった。社交界の紅薔薇と呼ばれるほど美しい深紅の髪をもつ聡明な女性である。その方が、殿下不在の生徒会室へやってきて開口一番こういったのだ。「最近殿下のご様子がおかしいのです」と。
クロトアはオレンジの髪をかきあげて「おかしいって?ちゃんと執務はこなしているぜ」と答えた。それでも、アリエスは納得のいかない顔で話をつづけた。
「妙にわたくしに贈り物をくださるのです。そのかわり、ランチをキャンセルされることがおおくなりましたわ」
僕はえっと驚いた。それがどうしておかしいのだろう。殿下は執務で忙しい時は、生徒会室で昼食を召し上がるし、常に護衛のアルバート・ロイド殿が側にいる。僕はとりあえず黙って話を聞いていた。
「わたくしたち、実はあまりうまくいっていないのです。会話と言ったら政治関連の話になってしまいますし、贈り物のセンスはわたくしには、あまり喜べるほどのものではありません。殿下がくださるものは高価な物なら何でもよいと言う感じなのです。けれど、最近は花だったり、控えめなブローチだったり……お二人は何かご存じありませんか?」
そういわれてクロトアは何かに気がついたようだった。太陽のような金の目を細めた。
「あの噂は本当だったってことか?」
「噂って?」
「まだ、ごく一部の目撃例しかないがな。どこぞの男爵令嬢と楽し気に話していたとか、その程度だ」
「浮気ということかしら?」
アリエスは、平然とそんな言葉を口にした。
「それなら、それで構いませんのに。嵌めを外したがっていたのは知っておりましたもの。わたくしといるとどこか窮屈そうにもみえましたし、わたくしもできるだけ殿下がくつろげるよう努力はしてきたつもりでしたけど……」
アリエス様は一瞬寂しげな表情を浮かべたがそれもすぐに消えて硬い表情になった。僕はとりつくろうわけではないけれど、「エドワード殿下は気さくな方ですから、誰にでもお声をかけることはよくあることですよ」と言ってみるものの、アリエス様の何かをあきらめているかのように硬い表情をくずさなかった。
「まあ、一応王子だからな。元々は、わがままな性格なんだよ。あいつは。アリエス、この件は俺があずかる。お前は今まで通り、あいつの婚約者として堂々としていればいいさ」
「わたくしとしては、婚約破棄していただくほうが楽なんですけど。やはり努力だけではどうしようもないこともありますから。それに婚約破棄は当人同士だけで決められることでもございませんしね」
アリエス様はどこか悟ったような口ぶりで、婚約破棄という爆弾発言を口にした。
「まあ、どうなるかわかりませんけれど、クロトア様にお任せますわ」
そういって彼女は執務室を出て行った。唖然としている僕にクロトアが言った。
「お前はしらないだろうが、あいつはあまり王の器というわけじゃないのさ。昔から、第一王位継承者としていろいろ苦労してたからな。俺がアイツの友人なのは、息抜きをさせるための陛下の配慮だったんだが。あいつの息抜きといったら、周囲の人間を困らせるようないたずらや無理難題を押し付けることだったからな。それでも、だいたいのことは冗談だと言って済ませてはきたが。まあ、学院に入ってからだいぶ気が緩んでいるんだろう。そばにはアルバートしかいないからな。まあ、俺から注意はしておくさ。だから、お前はあんまり気にするなよ」
「わかった」
僕はなんだか急にルーシェの顔が見たくなった。婚約というものは確かに本人の意思ではどうにもできないことがある。頭ではわかっていたが、それが現実だと突きつけられると酷く不安になった。