母と父
母の目を見つめながら一歩踏み出してみると、母は後ずさる。
そんな母を追い詰めるように一歩一歩距離を詰めていくと、私は母の手を掴んだ。
「お母様、私は子供で何もわからないかもしれない。でもお母様が苦しんでいる姿を見たくない。お母様はこの前私に言ってくれたよね?言いたいことがあるなら言いなさいって。だからお母様も言いたいこと言わないと、何も伝わらないよ」
母は私の言葉に目を伏せると、唇を噛んだ。
「お母様……ッッ」
訴えかけるように母を見つめていると、控室の扉がノックされ静かに開かれる。
そこに現れたのはタキシード姿のお父様とお兄様。
母は父の姿に瞳を揺らすと、一度深く目を閉じ、しっかり私を見つめた。
「あなたの言うとおりね。言わなきゃ伝わらない……わかっていたんだけれど……言葉にするのが怖ったわ。私は臆病だから……」
母はそう一人こちると、私の頭を優しく撫で立ち上がった。
「玄奘様、話したいことがございます。こんな事を言うのは、一条家の嫁として恥じるべきなのかもしれません」
母はそこで言葉を止めると、父へと近づいていく。
父はそんな母の突然の言葉に、唖然としていた。
「私はあなたに嫁げたことを幸せに思っております。だけどあなたに会えない時間が長く、とても寂しいと思っておりました。この御披露目が終われば、また遠くへ行ってしまわれると思うと胸が苦しいのです。どうか去る前に、私と話す時間を頂けないかしら?」
その言葉に父は目を見張ると、母を見つめたまま固まった。
私は母の様子に小さく微笑むと、父の後ろにいた兄の手を掴み、そのまま控室を後にする。
兄は状況が飲み込めていないようすだけれども、私の引く手についてきてくれた。
あの二人、政略結婚じゃなかったんだ。
お母様はお父様の事が好きで、寂しく思ってたんだな。
もっと早く素直になればよかったのに。
でもこれからちゃんと幸せになってもらえたら嬉しいなぁ。
そんな事を考えながら私は会場へと速足で向かった。
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―――――――――――――――――控室では(桜子視点)―――――――――――――――――
二人きりになった控室は静寂に包まれていた。
私は目を伏せ、愛しい彼の顔を見ることができない。
あぁ……呆れられてしまったのかしら。
涙が溢れ出るのを堪えながら、その沈黙に耐えていると玄奘がおもむろに動いた。
彼は立ちすくんでいた私を優しく包み込むと、そっと胸の中へ閉じ込める。
「僕は君に嫌われているのだと思っていたよ。桜子は昔よく笑っていたのに、僕と結婚したとたん笑わなくなってしまったからね」
「それは……ッッ、一条家の嫁に恥じぬようにと……あなたに認めてもらいたかったから……」
「あの時……強引に君を婚約者にしてしまったことに負い目を感じていた。だって君は一度僕の婚約話を断っていただろう?」
「あれは……だってあなたには別のお慕いしていた方がおられたでしょう?だから……ッッ」
「うん?ど、どういうことだ?僕は今も昔もずっと君だけだよ。一体何を勘違いしているんだい?」
「えぇっ、だって……あなたの傍にいたあの、春香様がおっしゃっていたわ。あなたに告白されたって」
「はぁ!?!?そんな事あるわけないだろう!あいつが俺に言い寄っていただけだ。僕は一度も彼女を好きだと思ったことも、告白したこともない!」
その言葉に私は目を丸くすると、恐る恐る顔を上げた。
うそ、全部私の勘違いだったの……?
てっきり玄奘様と春香様は愛し合っていたけれど、彼の両親が強引に私との婚約話を進めたものだとばかり思っていたわ。
だって春香様は分家の分家、私は本家の中で、玄奘様と唯一年が近い女性だったから。
だけど私は嬉しかった、だって幼い時からずっと彼に片思いしていたから……。
私はずっと彼の心を和らげ、好きな方と結婚出来なかった彼の重荷にならぬよう、一条の嫁として完璧に振る舞おうって結婚した時に誓った。
笑う事も忘れ、泣くことも忘れ、必死に感情を押し殺して……一条家の発展の為だけに私は生きてきた。
私は感情を捨て、玄奘様の心を手に入れることを諦めていたわ。
彩華を生んで、私は彼の面影がある彩華に、立派な一条の娘となれるようにきつくあたっていた。
それでも彩華は、こんな私の傍に居てくれて、話しかけてくれた。
それがどれだけ救いになったか。
彼女と触れあっていくにつれて、今まで忘れていた感情を思い起こされていく。
今まで蓋をしていた想いが溢れ、彼の心をもう一度欲しいと願うようになってしまった。
そうして彩華の純粋な笑顔に、優しさに、人を思いやる気持ちに、私はようやく素直になれた。
まさかすでに手に入れているなんて考えもしなかったわ。
一筋の涙が零れ落ちると、彼の顔が近づいてくる。
「早く言えばよかったわ。そうしていれば、あなたと結婚できた大切な時間を無駄にすることはなかった」
その言葉に玄奘は私を強く抱きしめると、息がかかる距離で止まる。
「今からでも遅くない。僕は君を愛しているよ、昔も今もこの先もずっと永遠に」
「私もです、玄奘様」
彼を受け入れるように目を閉じると、柔らかい唇が触れた。
そのまま玄奘の唇に囚われると、私は確かめ合うように彼の首へ手をまわしたのだった。