8.
次の日、職場でも気がそぞろだった。なんだかやけによっちゃんのことが気になった。
そのまま家に帰ってもまた前日のような煮え切らないような気分になりそうだったので、仕事が終わってから、章一はよっちゃんの会社に行ってみることにした。
よっちゃんに連絡はしなかった。ただ、漠然と、よっちゃんの会社の周辺の様子が知りたくなったのだ。
章一には時々そんな時がある。何か、自分が必要とされ、自分がかかわることで「動くかもしれない」という予感めいたものを感じるのだ。これまで、いろいろな会社で働いてきて、たびたびその予感を感じたことがあった。そしてその予感に動かされるように物事を解決してきた。
よっちゃんの会社に近づくと、なんだか生暖かい風を感じた。十一月になり風を冷たく感じていたので、少しびっくりした。その風はなんのことはない、「よのすけ」というありふれた居酒屋の排気口から流れて来た風だったが、その排気口の所にふっとカンダさんが現れたのでびっくりした。マスクをしているし、前日カフェの外で見た時にも顔ははっきり見ていない。なのに立ち姿からカンダさんであることがはっきりとわかった。
章一がびっくりした同時にカンダさんもびっくりしたらしく、しかもカンダさんは章一を認識しているらしく、とまどいながらも深々と頭を下げた。
章一がさらにびっくりしてカンダさんを見つめていると、カンダさんは、こほんと咳をすると、肩にかけていたムーミンのトートバックから何やら紙と筆記用具を出して、文庫本を出して、文庫本を下敷きにすると立ったまま器用に、すらすらと何か書き始めた。
章一は呆然とそのカンダさんの姿を見つめていたが、ふと、「したためる」という言葉を思い出した。カンダさんが文字を書いている様子がこの「したためるだ!」と思ったのだ。
おいおい、何かしたためちゃってるよ…、と章一は思った。
カンダさんは何かを書き終えると、トートバッグから封筒を出し(例の手作り封筒と思われる)、今したためた紙を入れ、筆記用具を変え、何やら封筒にまたしたため、文庫本をしまい、しばらくもじもじと下を向いていたが、意を決したように章一の方に、一歩、また一歩と近づいて来て…、やっと手を伸ばすと届くような位置から、封筒を差し出した。
章一はその一部始終を見ていたが、困惑しきっており、差し出された封筒を数秒ただじっと見つめ、その封筒は章一に差し出された物なのだから…、と、とにかく受け取った。
カンダさんはそのまま走り去ってしまった。
章一はその後姿をしばらく見つめて、手元に残った封筒を見つめた。
封筒は裏が上になった形で渡され、ひっくり返して表を見ると『御礼』と書いてあった。
さっぱりわけがわからない。
なんだか、章一の心臓がドキドキと大きな音を立てている。中を見るのがこわかった。が、よっちゃんの親友としての使命を果たしたくて、章一は深呼吸すると封筒の中身を確かめた。
中には一筆箋が数枚入っており、字が詰まっていた。
あんな居酒屋の外で立ったまま、よくこんなに何枚も文章が書けたものだ…、と章一はあきれた。
『作日はありがとうございました。
私あなたさまのお名前を存じておりません。が、先日吉田様とご一緒におられた方だとは認識しております。
私、あのあと、あのカフェに戻ったのです。
誤解がないように申し上げておきます。
私、吉田様のお幸せを心よりお祈り申し上げております。ただ、吉田様の浮き立った心が吉田様を無防備にしているところが見えてしまいますため、何かお役に立てればと思っていただけです。
でも、それを思えば思うほど吉田様からはなにか、私が不穏な者であるとの認識が強まっているように見えまして、それが日々強くなっているように思えまして、苦しくて苦しくて困っておりました。
その苦しみを解決することが、すなわち吉田様のお幸せを強くする要素になることも、私、わかっております。が、どのような形でそれを示せばわかっていただけるのかが、わかっておりませんでした。
作日、皆さまが談笑されておられましたあのカフェの外で、苦しみの方が強くなってきてしまいまして、胸をかきむしっておりましたところ、皆さまが外にお出ましになられたので、気持ちが急いてしまいまして、持参の濃縮クランベリーのジュースをこぼしてしまいまして、とんだ失態を演じることになってしまいました。
皆さまに私の姿が見えないようにと念じつつあの場を離れたのですが、少し歩きまして、あの場所にて、私の苦しみを封じ込めようと用意しておりました封筒を、つい、握りしめたまま、我を忘れて、あの場から消え去りたいという思いにかられて逃げ出してしまっていたことに思い当たりました。
ふと気が付いたら握りしめていた封筒が見つかりませんでしたので、カフェまで探しに帰ったのでございます。そこで、あなたさまが、私が残しました物を回収してくださっている姿を拝見しました。
本来ならその時に走り寄り、お詫びおよびお礼を言うべきでございましたが、あの時には次にどのような行動を取っていいか、見当もつきませんでしたので、あなたさまのお優しい行動をただ陰ながら見守り、凍り付いたようになっておりました。
大変申し訳ございませんでした。
また、大変ありがとうございました』
一筆箋十枚からなるその手紙を読み終え、さてどうしたものかと章一は考えたが、どうすることもできなかった。
だた、よっちゃんに対するカンダさんの思いはわかったような気がした。たぶん、このままほうっておけば、よっちゃんが願っているようにカンダさんが近づいてくることはないだろう。
章一に何かしら伝えられたことで、カンダさんも気が済んだのではないだろうか。
すっきりというほどではないにしても、ひとまず何かが片付いたような気持ちがあり、章一はまた普通の生活に戻れるような気がしていた。