7.
いつもになく心の切り替えができず、章一はどんよりとしていた。
「どうしたい? ショーちゃん。ショーちゃんらしくないね」
と母が言うと、
「ほんとだ、ほんとだ」
と祖母が言った。
「え? そうかな?」
ととまどいながら、章一はなんだか居心地が悪くなり、うっかり味噌汁をこぼしてしまった。
「あ、いけね~」
と声をあげると、
「やけどしないようにな」
と母が言い
「ほんとだ、ほんとだ」
と祖母が言った。
母はすぐにシンクに立って、章一の足元を拭きながら、
「おやおや。だれかにしがみつかれているようだな」
と章一の足元を見つめた。
章一がこぼした味噌汁が章一のジャージの足元に人さま様の形を作っており、それはまるで、この間よっちゃんがこぼしたレモンサワーのシミのように章一の足にしがみついているように見えた。
「げ」
と章一は言った。
「大丈夫だよ。洗濯しちまえば」
と母が言った。
「なあ、母ちゃん、なんか人がいろいろこぼすことが重なるってことは、なんなのかな?」
と章一はポツリと言ってしまったあと、しまったと思ったがもう遅かった。が、章一の予想とは裏腹に、母はなんだかしんみりしていて、
「何をこぼしたんだい?」
と聞いた。
母はいつも、何かを見つけた時には喜々とするものと思っていたが、母もなんだかどんよりしているのがわかった。
「たとえば…、レモンサワーとか、それか、なんか紅いどろどろ、べたべたした飲み物…」
「ううううん…。レモンサワーというのは、まあ、それをこぼした人はきっとさっぱりした人だな。こぼしてしまったということは、さっぱりなれなかったことがあったんだな。紅いどろどろべたべたは…、そうだな、その人は断ち切れない思いを持っている可能性があるな…」
「そうか…」
「いいか、ショーイチ、なんかおまえ、自分のことのように思っているぞ」
と母は妙なことを言った。
「え?」
「ショーちゃんらしくない、というのはそういうことだ。おまえじゃない何か別の人の思いが強くなっている」
「え? じゃあいつもはどうなの?」
「いつもは、ショーちゃんはしっかり扉を閉めている」
と母が言うと、
「ほんとだ、ほんとだ」
と祖母が相づちを打った。
食後、母がシンクに向かって食器を片付けている音を聞き、章一は思い切って、カフェの所で拾ったカンダさんの封筒を母の所に持って行ってみた。
もう、触るのもいやだったが、自分でもどうしていいのかわからなかった。
母は、章一が差し出したコンビニ袋を見つめて、
「なにか拾ったんだね」
と言い、洗い物をしているビニール手袋のままその袋を受け取り、中を確かめた。
「紅い飲み物と言うのはこれか…」
と母は用心深く封筒を取り出し、封筒の紅いシミを見た。
「ふむ。この字はこの間の血ノ池軟膏の封筒の字だね」
「え、まあ」
と言いながら、章一が迷っていると、
「おやおや、これは苦とは…。それに黒いリボンじゃあ、縁起が悪いね」
と言いながら、母はその封筒を水で洗い、紅いシミを落とし、コンビニの袋もていねいに洗い、
「大丈夫。封筒にはひと様型に見えるものは付いていない。この人自身、すごく迷っているんだな」
と言い、
「これは明日乾かして燃やしておくから。大丈夫だから」
と言った。いつも疎ましく思っていた母のことを、なんだか、その日は頼もしく思った。
「燃やした灰はビニール袋に入れておくよ。まだよくわからないからね。でもたぶん、これも幸せの貯金になることは間違いない」
母はいつものように少しうれしそうに、きっぱりと言った。そのあと何も聞いてこないので、章一はほっとした。
「じゃ」
とだけ言うと、章一は部屋に戻った。なんだか気が晴れていた。
ふと祖母が寝付いたかどうかきになり、様子を見に行くと、
「ショーイチ、いつもありがと。からだだいじにせよ」
と言われ、章一ははっとした。
「そうか!」
「そうだよ」
と祖母は言った。
その夜、いつもなら次の日のことを思ってすぐに眠るのに、なんだか寝付けなかった。自分がリーダになって怪物退治のゲームをやり始めてしまい、午前三時頃まで起きていた。
怪物に槍を打ち込んでも、打ち込む場所を間違えると、怪獣は分裂してあちこちに分散して潜むことになり、その場所、場所でまた育ち始める。章一チームは窮地に立たされてしまった。
「後ろ、たのむ」
と深夜なのについ大きな声で言ってしまい、祖母が目を覚ましてしまったらしい。
「ショースケ、ショースケ」
と祖母が声を上げた。
章一ははっとわれに返り、そのゲームの主導をほかの仲間にたのむと、祖母を見に行った。
祖母は目をうるませており、うつろになっていた。
「どうした、ばあちゃん、だいじょうぶか?」
「ショースケすまないね。いろいろ、すまないね。からだだいじにせよ。ゆっくり休めよ」
と祖母が言うので、
「大丈夫だよ。ばあちゃん、ばあちゃんこそゆっくり休め」
と祖母に言うと、祖母は目を閉じて、静かに寝息を立て始めた。
章一の父、章介は章一が大学生になった時、三十九歳で他界した。
文房具を扱う会社で営業をしていたという話で、会社にまとめて物品を購入してもらうために、あちこちを飛び歩いていたという。
急性心不全という診断だったが、原因がはっきりしていたわけではない。ある朝、起きて来ないので母が起こそうとしたら、亡くなっていたという話だ。
最近、やっと章一のことがわかったと思っていたところだったのにまた父の名前を呼んでいるということは、祖母はその時のことを思い出したのかもしれない。その当時の章一は新しく通い出した大学の生活が楽しく、忙しく、父の葬儀のことなどをあまり詳しくは覚えていないのだが、きっと、母も祖母も一家の大黒柱を失い、心細い思いをしたのだろう。
いろいろな思いが一度に押し寄せ、その晩はあまり眠れないまま、朝を迎えた。