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紅い物  作者: 辰野ぱふ
2/11

2.

 だいたい、じいさんが母のことを「タマコさん」などと名前で呼ぶところが、章一には気にくわなかった。今まで住んだ場所で、母が自分の名前を明かしたことがあっただろうか? 少しの間仲良くしていた人はいたけれど、だいたいは皆、姓の「スミノエ(住江)さん」と呼び、学校つながりの人は「お母さん」、近所の人なら「奥さん」とか言っており、だれも「タマコさん」なんて呼んでいたことはなかったのだ。

 この店の何が変かといえば、このじいさんと母の相性が良く、それがこの街に来た時からずっと続いているということ自体が一番変なことだった。


 友達とは夕方新宿の居酒屋で会った。

 章一は、いつもいてもいなくてもいいような存在だったが、ほかには声をかけてくれる人などいないので、少し浮き立った気持ちになる。だが、参加しても章一が着いていける話題はほとんどなく、なんだかぼんやりと人の話を聞き、なんとなくそこにいるだけだった。

 その日は、NHKの歴史ドラマと、なんだかアイドルが主役の朝のドラマで話が盛り上がっていたのだが、章一の家にテレビはなく、章一はドラマに興味がなかったので、ただぼんやりと話を聞いていた。

 それだけでもけっこう楽しい。なんなのだろう? この楽しさは? とふと章一は思った。皆が盛り上がっている場所で、自分も違和感なくただそこにいられるというだけでけっこう楽しいのだ。日ごろそんなに楽しみがないからだろうか。

 ドラマに出演している俳優のゴシップなどにも話は広がっており、章一は話に入れないながらも、話の内容はわかるので、なんとかその場にいて、疎外感を感じることはなかった。と、章一の隣に座っていた、いつも章一に声をかけてくれるよっちゃんがレモンサワーをこぼした。

「あ、いけねえ、わりぃ、わりぃ」

 とよっちゃんは、あわてており、周りにいた女子が「やだ~」、「気をつけてよ」などと言いながらティッシュを出し、始末を手伝った。店員が布巾を持って飛んで来て、テーブルの上はすぐにきれいになった。

 が、章一はよっちゃんのズボンにシミになって残った、「人さま様」の形に目が行ってしまった。

 よっちゃんは濃いグレーの綿パンツをはいており、その足にしがみつくように、細い人さま形がついていた。十センチくらいのシミだ。だれもそんなもの、気にしないだろう。だが、よっちゃんの足が動くと、そのシミはまでまる生きているように、よっちゃんのズボンから落ちないように必死にしがみついているように、章一には見えてしまうのだった。だが、章一はそのこと自体には触れず、遠回しによっちゃんに聞いてみた。

「おい、よっちゃん! 変なこと聞くけど、人につきまとわれるとか、そういうことが最近あったりしなかった?」

 それはあまりに唐突な質問だったからか、よっちゃんは、一瞬真顔になり、残ったレモンサワーをごくりと一口飲み込んだ。

「ごめん、ごめん、変なこと聞いて」

 章一はすぐに謝ったが、よっちゃんの顔がどんよりしてしまったことがわかった。そして、めっきり口数が少なくなってしまった。

 章一は悪いことをしたな、と思った。何か、よっちゃんの心にわだかまっている物に触れてしまったのかもしれない。

 六人集まっている中で、章一とよっちゃんはなんだかほかの人から切り離されたような感じになり、章一も居心地が悪くなってしまった。

 章一が感じていた楽しさも急にしぼんでしまった。章一はなんとか、よっちゃんの機嫌が元に戻らないものかと考えていた。

 と、その時、よっちゃんがぼっそりと、章一にだけ聞こえるような声で言った。

「なあ、スミノエ。おまえ、女性とつきあったこととかないだろ?」

 へ? という感じだった。

 章一はそれはかわいい女性やきれいな女性は好きだ。できればつきあってみたいと思っている。だけれど、この自分がかわいい女性やきれいな女性とつきあうという状態を想像できないのだった。

 小学生、中学生くらいまでは普通に女の子と話したりできたのだが、思春期を過ぎるころから女の子自体が苦手になってしまっていた。

「ぼくが、女性とつきあうことが、なにか関係あるの?」

 と章一はよっちゃんに聞いた。

「いや、ただ…。スミノエは、女性につきまとわれるようなことはないだろうと思ってね」

 とよっちゃんが章一のことを鼻で笑った。

「だから何?」

 よっちゃんが何を言いたいのかわからなかった。

「誰かにつきまとわれたことがあるのか?」

 とよっちゃんの方が聞いてきた。

「え?」

 と章一はしばし考えてしまった。たぶん、そういうことはない。章一はなるべく自分の印象を残さないように気をつけているようなところがあった。人にあまりかかわらないから、つきまとわれることもないのだろうと思われた。

「たぶん、つきまとわれたことはないな」

「じゃあ、なんでおれが人につきまとわれてるって言ったんだ?」

 とよっちゃんは不快な感じで聞いてきた。

「いや、べつに…。なんかそんな感じがしたからさ」

「なんで?」

 とよっちゃんがしつこく聞く。

 章一はまたしばし考えてしまった。よっちゃんのズボンに残された「人さま様」のシミの話をしたら、よっちゃんは何と思うだろうか? なんだか、そのことは言いたくないような気がした。

「なんかさ、おれ…、霊感的なものがあるんだよ」

 と言ってしまって、一瞬、この答えも変だったな、しまったな、と思った。けれどよっちゃんは深刻な顔をして、章一を見つめ、

「おい、帰りどこかでお茶飲んで行かないか?」

 と言ってきた。

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