9、人間だから
茂った葉の間から木漏れ日がさす。
午後三時を回ったばかりの陽射しはとても暖かくて気持ちがいい。あちらの世界は十月で、もう少し肌寒かった。こちらは四季は存在するのだろうか。
亜佐が目を覚ましたのは昼過ぎだった。睡眠薬のせいだろう、休日に夕方まで寝ていたような気怠さに耐えられず、長い間ベッドの上で起き上がったり座ったりを繰り返していた。
ぼんやりと窓の外を眺めていると庭にガゼボを見つけ、どうしても行ってみたくてあまりいい顔をしなかったベルタに頼み込んでここに来たのはほんの十数分前。
白い柱のガゼボにはおしゃれな白いガーデンテーブルとイスが置いてあり、ベルタが淹れてくれた紅茶と見たことのない果物のケーキがのっている。
薬が抜け切っていないのか強い花の香りに酔ったのか思考がぼやけていて、そうでなければきっと余りの贅沢に罪悪感で押し潰されていただろう。
ベルタは少し離れた場所で立っている。一緒に座ってくださいと頼んでみたが、彼女は頑なに拒否した。
ケーキを頬張り、紅茶を飲み干してソーサーに置くと、ベルタがテーブルに近付いた。
「おかわりをお持ちしましょうか?」
「いいえ。ごちそうさまでした」
つるが絡みついてできている天井を見上げ、木漏れ日をぼんやりと受け止める。あと一時間くらいならこのままのんびりできそうだったが、食器を引いたベルタは亜佐のそばに立って言った。
「アサ様。そろそろお部屋に戻りましょう」
「……はい」
できれば何か気が紛れることをしていたかったが、これ以上わがままは言えない。ゆっくりと立ち上がって、差し出されたベルタの手に手を重ねてガゼボの階段を降りる。
レンガの道をとぼとぼと歩く。部屋に戻っても寝るくらいしかやることがない。手持ち無沙汰になると、きっとロイリの事ばかり考えてしまうだろう。
まるで恋をしているようだと考えて、亜佐は唇を引き結んだ。さすがにそれはない。昔から、じっくりと時間をかけて人を好きになるタイプだった。確かにロイリは今まで会った事がある男の中で一二を争うカッコよさだし、優しいし強いし、そしてファーストキスの相手だが――。
「アサ様」
亜佐を思考の淵から掬ったのは、足に感じた衝撃とベルタの声だった。
足元を見下ろす。亜佐に蹴飛ばされた小さな植木鉢が、少し離れた地面に転がっていた。
「やっちゃった……!」
慌てて鉢に駆け寄る。しゃがんで鉢に手を伸ばして、その時初めてそばの低木の向こうで誰かがしゃがみこんでいる事に気付いた。目が合う。日焼けした男には見覚えがあった。昨日、ここに初めて来た時にも目が合った、おそらく庭師だと思われる男だ。
男は驚いた顔のまま立ち上がって、数歩後ずさって頭を下げた。
「も、申し訳ございません……!」
亜佐は慌てて両手を振る。
「いえ、私こそごめんなさい! ぼーっとしてて、鉢を蹴ってしまって……! 割れてないかな……」
鉢に手を伸ばした亜佐に、庭師が慌てて声をかける。
「お嬢様、お手が汚れてしまいます」
「汚れたら洗えばいいので」
お嬢様という言葉に口をおかしな形に歪めながら、亜佐は鉢を手にとってくるくると回した。どこも割れたり欠けたりしていないようで、ほっと胸を撫で下ろす。
「よかった、壊れてないみたいです。すみませんでした」
また誰かが蹴ってしまったらいけないと、亜佐は鉢を庭師に差し出す。しかし彼は心底困ったように、亜佐と鉢とベルタを順番に見て受け取ろうとしなかった。
ベルタが近付いて、亜佐から鉢を取る。それを庭師に差し出すと、ようやく彼は手を伸ばして受け取った。振り返ったベルタは静かに言う。
「アサ様。使用人はあなたに近付かないようにと言い付けられています」
どうして、と尋ねかけて、すぐに気付いた。
「私が、人間だから……?」
ベルタは視線で頷いた。庭師の困ったような畏縮したような顔を見て、少しめまいを感じる。
これ見よがしに血の匂いをさせていなければ大丈夫だとなんとなく考えていたが、それは少し甘い考えのようだった。
自分の立場を理解していなかった。
庭師ににっこりと笑いかける。
「お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
「い、いいえ、とんでもございません……!」
「アサ様、お部屋に戻りましょう。お体に障ります」
「はい」
素直に返事をして、庭師に頭を下げた。そのまま彼の顔を見ずに踵を返す。庭を抜けて屋敷の中に入る。亜佐はいつの間にか俯いていた。
ロイリやベルタやアドルフがあまりにも丁寧に接してくれるのでつい客としてもてなされていたが、ここで仕事をする大部分の人々には、亜佐は厄介な滞在者なのだろう。
「アサ様」とベルタが呼ぶ声に、立ち止まって彼女を振り返った。
「どうかお気をつけくださいませ。あなたは血の匂いだけでなく、汗の匂いなどもとても」
少し黙って、ベルタは言葉を選んだようだ。
「わたくしどもには、魅力的です」
いたたまれなくなって俯いたまま小さく頷いた。汗なんて常時体から蒸発しているだろう。一体どんな匂いを漂わせているのだろうか。
「……私がそばにいたら、どれくらい……その、血を飲みたいって衝動がありますか?」
「そうですね」
ベルタは少し目を伏せて、それから顔を上げた。
「血の匂いを嗅いだときの衝動は、十時間ほど何も食べていない状態で、目の前に好物のケーキが置いてあった時くらい、ですね」
随分と可愛らしい例えをしてくれた。十時間なら、朝ごはんを食べたあと夕飯前まで何も食べられない状態か。その状態で好物のケーキ、例えばモンブランを目の前に差し出されたら、それはそれは魅力的だろう。
「すごくよく分かりました」
それと同時に、強い不安が湧き出てくる。
「ベルタさん、私のそばにいるのはすごく辛いんじゃないですか……? 私、自分の事は自分でできるから、ロイリにお願いして……」
「いいえ、問題ありません。わたくし、厨房の菓子職人と知り合いですので、ケーキはいつでも食べられるのです」
言い切った彼女に思わずそうかと頷きかけて、何かが違うことに小首を傾げる。
「ロイリ様は女を見る目は皆無ですが、仕事はできるお方です。わたくしをあなたのそばに付けるのが、あなたにとってもロイリ様にとっても最善であるとご判断なされたのです」
ベルタは一歩後ろへ下がり、そして初めて会った時と同じように、とても美しい礼をした。
「ロイリ様の大切なお客人をもてなすのはわたくしどもの仕事です。どうぞ遠慮なく、何なりとお申し付けください」
「あ、ありがとうございます……」
思わず顔を赤らめてしまった。彼女の行動全てが雇い主であるロイリのためだとは分かっていたのに。
「長く立ち話をしてしまいました。部屋に戻って、少しお休みに」
ベルタの言葉が途切れる。彼女の視線を追いかける前に、亜佐の背中に声がかけられた。
「アサ、探したぞ」
軍靴を鳴らしながら近付いてくるのは、夜に帰るはずのロイリだった。
「ロイリ……? どうしたんですか?」
「来い」
ロイリが亜佐の手を取る。遠慮のない強い力だった。彼を見上げて、その顔が青白いことに気付く。
「足りなかったんですか?」
「ああ」
短い返事とともに手を引かれる。大股で歩く彼に追いつくには、小走りになるしかない。
後ろを振り返る。ベルタも長いスカートを摘み上げ、小走りで後ろを付いてきていた。
ただでさえ運動不足の体は、さらに怪我と血液不足というハンデを負っている。すぐに息が切れ始め、足が回らなくなってくる。
「ロイリ……っ」
返事はない。横顔を見上げると、赤い目だけがちらりと亜佐を見た。
「走るの、辛い」
立ち止まった彼の腕に掴まって、ぜいぜいと息を吐く。
「ごめん」
謝罪の言葉と同時に亜佐の体が一瞬にして浮かび上がる。抱き上げられ肩に担がれたと気付いてから、亜佐は自分でもよく分からない悲鳴を上げた。落ちないように首にしがみついて、すぐ後ろにいるベルタを見る。
彼女の眉間に深いしわが寄っていて、ようやくこれはあまり良くない状況だと悟った。昨日、ベッドの上で「切羽詰まってる」と言ったロイリを思い出す。あの時よりも、ひどい状態かもしれない。
ロイリが立ち止まる。部屋についたのかと思ったが、見たことのない廊下だ。ロイリがそばの扉を開く。ふわりと煙草の匂いがして、そこが彼の部屋だと知った。
「ロイリ様」
ベルタが硬い声でロイリを呼ぶ。彼は鋭い視線でベルタを見て「入るな」とだけ呟いて、亜佐を担いだまま部屋に入った。
扉が閉じる直前、隙間からベルタの強張った顔が見えた。