7、甘い甘い
ベッドに座って窓の外を眺める。もう外は真っ暗だ。真ん丸の月が見える。見たこともないくらい大きな月だった。
ふと思い出す。望遠鏡を持って、両親と一緒に真夜中に月を見に行ったことを。
あんなに嫌いな両親だったのに、写真を見ることもできないこの世界ではきっとすぐに顔すら思い出せなくなるのだろうと思うと、なぜかきれいな思い出ばかり蘇ってくる。
手の包帯を見下ろす。薬を飲んで間もなく、痛みはほとんどなくなった。
物思いにふけっていた亜佐を現実に引き戻したのは、背後から聞こえたノックの音だった。振り返って「はい」と返事をする。
入ってきたのはロイリだった。ベッドから立ち上がろうとする亜佐を、彼は手だけで制する。そのまま壁のスイッチに手を伸ばして、部屋の明かりを消してしまった。しかし月明かりが強烈で、彼の服のしわまでよく見える。
近付いてきたロイリは、シャワーを浴びたのだろう、髪が湿っていてさっきまでと印象が違う。
その赤い目がきらきらと光っているように見えて、亜佐は体を固まらせた。
彼が足をベッドにかけて、反対側にいる亜佐の手首を掴む。
「すまない、アサ。少し切羽詰まってる」
ベッドの上に引きずり上げられ、枕元に押しやられた。
ロイリの体が近付いて、亜佐を見下ろす。
「……こうやって見ると十八に見えるな」
髪は下ろしたし化粧も落とした。むしろ幼く見えるのではと亜佐は思う。ベルタが用意してくれた寝間着も、フリルとリボンのついた亜佐の世界で言う少女趣味なものだ。
「ベッドの上、月の光、怯える表情。全部女を扇情的に見せるんだよ」
ロイリがベッドから片足を下ろしてカーテンを閉じる。部屋は彼の表情が辛うじて見えるくらいの薄暗さになった。
「嫌だろう? さっさと終わらせよう」
「あ、あの、ロイリさん……」
「ロイリでいい。……こっちに舌を入れるなよ。牙に触れると怪我をする」
覚悟はしていたはずなのに、彼の顔が近付いて指が顎に触れ、脳内が恐怖に支配された。
「待って、あの」
顔を背けて彼の肩を押す。その手首を掴まれ、反転しようとした体が枕に押し付けられる。
「頼む、抵抗しないでくれ。加減がきかないんだ」
赤い目が僅かな光を反射してきれいに光っている。初めて見る目だが、本能で悟った。これは、欲を宿した目だ。
「ロイリさ……ロイリ……!」
せめてもう少し覚悟を決める時間が欲しい。
「わっ、わたし、初めてなんです……!」
絞り出すように叫ぶと、その体が止まった。
「キスが?」
小さく頷く。ロイリは少し呆れたように息を吐いた。
「安心しろ。初めてのキスなんて、生まれたその日に両親に奪われてる」
「うちの親はそういうのじゃなかったから!」
「これは体液を摂取する行為でキスじゃない」
「いいえ、これはどう考えてもキスです!」
「なら諦めろ」
ロイリの大きな手が頬を包む。強い力で有無を言わさず顔を拘束する。
「お前の初めては、俺だ」
唇が触れた。
頭の中で何かが弾けたような衝撃があった。ただ柔らかな唇が触れただけだというのに。
ロイリの舌が唇を舐める。こじ開けようとする舌に無意味に抵抗する。
「アサ、口開けろ」
小さく首を振る。抵抗したってどうにもならない事は分かっているのに、ただただこの行為が恐ろしい。
唇が離れて、代わりに彼の親指が触れる。指は舌とは比べ物にならない力で、唇と歯をこじ開けた。
「噛むなよ」
親指が亜佐の舌に触れる。歯が触れないよう必死に口を開いて、舌を撫でて絡め取る指にただ翻弄される。
親指が引き抜かれ、唾液があごに滴った。濡れた指をロイリが口に含んで、背中がぞわりと跳ねた。
「い、やだっ!」
悲鳴のような声が口から漏れ、思わず彼の手を掴む。反対にその手首を掴み返され押さえつけられ、彼の舌があごを汚す唾液も舐め取る。
「やだ、やだ……!」
足でシーツを蹴るがそれよりも引き寄せる彼の手のほうが強い。
「怖いよ……!」
「ごめん、アサ」
泣き声が唇に封じ込められる。すぐにぬるりとした温かい舌が侵入してきて、体を強張らせた。
苦い苦い煙草の味だ。口内を吸い尽くすように絡みつく舌を、ただただ震えながら受け入れるしかなかった。
ロイリの喉が鳴るたびに、羞恥心で死にそうになる。舌が痺れはじめて、喉の奥からか細い声が勝手に漏れる。
粘膜を撫でられ湧き上がるものは、きっと好きな人とのキスなら気持ちいいという感覚になるものだろう。今はただただわけの分からない感覚だった。
何分たったか分からない。上手く息ができずに頭の芯がぼんやりとしだす。ロイリの肩を掴んでいた手から力が抜けて、ベッドにぱさりと落ちた。
その音にロイリは体を震わせて、ゆっくりと唇を離す。亜佐は慌てて息を吸って、むせて咳込んだ。息を整えながら上半身を起こす。いつの間にか暗闇に目が慣れて、ロイリの夢心地のような、ぼんやりとした顔が見えた。
「甘いな」
赤い舌が唇を舐める。またぞわぞわと背中が鳴って、自分の手を握り締めた。
そういえば血を飲ませた時も、彼は甘いと言っていたような気がする。
「……あなたは苦かったです」
「煙草は嫌いか?」
「好きではないですけど、でも大丈夫です」
やめろと言っているわけではないと伝わっただろうか。「そう」と短く返事をして、ロイリは視線を下げた。
「それ、俺がした?」
彼の指の先を追いかけて自分の体を見下ろす。寝間着のボタンが上から三つ外れていて、胸元が丸見えだった。
慌てて手繰り寄せて、彼に見えないようボタンをはめた。
「全然覚えてない。駄目だな」
ロイリは額を撫でてため息をついた。
「体液を摂取している時の高揚感と性的興奮が似ている」
それはつまり、一歩間違えば取り返しのつかない事をされてしまうということか。
「十二歳の子供ならさすがに自制もきいただろうが、十八は、さすがに……」
「……見た目は変わらないでしょう」
「気の持ちようだ」
濡れた髪を乱暴にかき上げて、ロイリは俯いた。
「少し待ってくれ、体が重い。すぐに出ていくから」
「かまいませんよ、休んでいってください」
ぐったりとしているロイリを追い出すほど鬼畜ではない。彼に対する恐怖ももう薄れている。
ロイリはちらりと亜佐を見て、少し迷ってからベッドにごろりと転がった。
「……助かる」
目をつむった彼の呼吸は少し早い。今、彼の体の中でどんな事が起こっているのか想像もつかなかった。
「背中、撫でましょうか?」
「頼む……」
そばに寄って大きな背中をゆっくりとさする。
「毎回こんな風に体が動かなくなってしまったら大変ですね」
「フレデリカが言うには、体液摂取後の気だるさは徐々になくなるらしい」
「それなら、よかったです」
少しの間黙って背中をさする。数分でロイリの呼吸は落ち着いて、ゆっくりと体を起き上がらせた。
「ありがとう、だいぶ動くようになった」
亜佐は枕元のスタンドライトを点ける。白熱電球のオレンジの光が彼のまだ火照っている顔を照らした。
「俺のことが怖くなった?」
彼はこちらを見ない。その横顔をじっと見つめる。
「さっきは少し怖かったです。でも今は怖くないです」
「そうか」
少し笑って、ようやく彼は亜佐を見た。頭を撫でた手が頬に触れて、すぐに離れる。
「ごめん」
その顔には気まずそうな表情が浮かんでいる。
アドルフにべたべた触るなと言われたことを、かなり気にしているようだった。
「何というか、お前を見ていると、こう……小動物のようで、つい撫でたくなる」
近所の小学生扱いされているのではと思っていたが、違うようだ。人間ですらないと苦笑いする。
「決してやましい気持ちで触っているわけではないんだ。嫌なら手を払ってくれ」
落ち込んだ声色が可哀想になって、慌てて言う。
「嫌ではないんです。頭を撫でられるのは、そんなに嫌いじゃないです。ほっぺたを触られるのは、ちょっとビックリするというか、ドキッとしますけど……」
言っている途中で恥ずかしくなって、赤い顔を隠すように俯いた。ロイリは少し黙って、亜佐に手を伸ばすとその頭をわしゃわしゃと撫でる。
「あー、気が済んだ」
呟いて、ロイリはベッドから立ち上がった。
「戻るよ」
「はい」
乱れた髪を撫でつけながら亜佐もベッドから降りた。扉を開けて廊下に出たロイリが、「あ」と声を上げる。
「そうだ、何か入用なものはないか? あったらベルタに言ってくれれば用意する」
入用なもの、と少し考えて、ふと思い出す。
「入用なものというか、この世界にあるかどうか知りたいんですけど」
「何だ」
「ピアノです」
「あるよ」
歓喜の声を上げそうなほど喜んだ後に、亜佐が言うピアノとロイリの言うピアノが本当に同じものなのか不安になった。
「楽器で、白と黒の鍵盤が並んでる……」
「こういうやつだろ?」
そう言ってロイリは指で鍵盤を押すような動きをした。
「そうです!」
手を合わせて飛び跳ねて喜ぶ。急に希望が湧いてきた。こちらの世界でも何とかやっていけるのではないかという希望だ。
「ピアノが弾けるのか?」
「はい。ピアノの大学に通っていました」
「そうか。じゃあ買ってやるよ」
驚いてロイリを見上げる。
「……何を?」
「ピアノ」
激しく首を横に振る。ねだるために聞いたのではない。
「そんな高価なもの……」
「別に家が一軒建つほどの値段でもないだろう? ベルタ」
「はい」
すぐ近くからベルタの声が聞こえて、亜佐は飛び上がるほど驚いた。
「ピアノを買っておいてくれ」
「かしこまりました」
まるで本を買っておいてと頼むような軽さだ。いや、それも問題だが、ベルタがずっと扉の向こうに控えていたこともかなりの問題だ。嫌だとか怖いだとか、悲鳴を上げる亜佐の声がきっと聞こえていただろう。亜佐は混乱する。いや、でもやっぱり、それよりも下手したら七桁は軽くこえるような高価なものを買ってもらうほうが問題だ。
「ロイリさん、あの!」
「ロイリ」
「ロ、ロイリ……」
「気にするな。それくらい買ってやる甲斐性はあるさ」
「それくらい、で済むようなものじゃ……」
「じゃあな、おやすみ」
ロイリの手が伸びてきて頭に触れる。もう遠慮はないようだ。彼はにこりと笑うと、踵を返した。もう止められないと知って、迷いながらも背中に声をかける。
「おやすみなさい」
ひらりと手を振って、彼は廊下を曲がって見えなくなった。
大きく息をついて、恐る恐る扉の向こうを覗き込む。すぐそばに立つベルタと目が合って、あまりの気まずさに動けなくなった。
ベルタは無表情のまま尋ねる。
「シーツを替えましょうか?」
その意味を少し考えて、そしてかっと顔が赤くなるのが分かった。
「シーツを汚すようなことはしていませんので……」
しどろもどろ答える。
「それならば安心しました。ロイリ様に『俺が暴走している気配がしたら止めに入ってくれ』と仰せつかっていて、止めに入るか少し悩んだものですから」
やはり色々と聞こえていたようだった。体を小さくして、恥ずかしさのあまりいっそ消えてしまいたいと願う。
「それでは、ゆっくりとお休みになってください。私は隣の部屋に控えておりますので」
「はい……お休みなさい」
「お休みなさいませ」
頭を下げたベルタに小さく会釈して、扉を閉める。
駆け足でベッドに飛び込むと、亜佐は勢いよく枕に突っ伏した。