6、彼の正義
もう屋敷の間取りを覚える気はなかった。血の少ない頭ではこんな複雑なことは覚えられないと開き直ったからだ。
音もなく歩くベルタの後ろを歩きながら、廊下に飾られた絵画や置物をぼんやり眺める。芸術はよくわからないが、とてもきれいだとは思う。しかし数が多すぎる気がする。ロイリの兄夫婦の趣味なのだろうか。
「こちらでございます」
ベルタが静かに扉を開け、頭を下げて中へ入るよう促す。
映画で見たことがある。長い長いテーブルだ。四人分のナプキンと食器がもう用意されている。
そろりそろりと足を踏み入れて、部屋の反対側でふたりの男が話をしているのが見えた。ひとりはロイリ、もうひとりはロイリと同じような背格好の男だ。コートを着ていて、帰ってきたばかりのようだ。
彼らはこちらに気付いていない。頭を寄せ合って、小声で何か話をしていた。
大切な話のようだった。声をかけるのを躊躇して、ベルタを見上げる。彼女もどうするか思案していた。
「すまない」
ベルタが声を発する前にロイリが声を上げた。それはとても悲痛な響きで、ベルタが微かに表情を変えたくらいだ。
「アドルフ、すまない。親父が積み上げてきたものを……俺が全て壊した」
絞り出すような声だった。
何の話をしているのかすぐに分かった。顔を強張らせる。
ロイリと話をしているアドルフと呼ばれた男の顔は見えない。ただ、身なりからなんとなく彼の兄なんだろうと思った。
アドルフは少しの間ロイリを見つめて、そして笑ったようだった。
「いいんだよ、ロイリ。お前が生きていてくれたことが、本当に嬉しい」
俯くロイリをゆるりと抱きしめて、彼はその頭を撫でる。
「地位も爵位も命あってこそだ。命は帰ってきてくれたんだろう? なら他のものだってどうにかなるさ。どうにかならなかったらその時考えればいい」
「……適当だな」
「それくらいが一番いいんだよ。お前は生き急ぎ過ぎだ。まだ若いのに」
ぽんぽんとロイリの背中を叩いて顔を上げたアドルフと目が合った。
彼はにこりと優しい顔で笑った。
「たまにはゆったりと辺りを見渡してみるといい。可愛らしいお嬢さんとお会いできるかもしれないよ。こんな風に」
ロイリが顔を上げる。目が合って、彼はしまったという風に顔を歪めた。亜佐に今のやり取りを聞かせたくなかったのだろう。
俯いた亜佐に、明るい声がかけられる。
「やあ、君が噂の人か」
亜佐はギクリと体を震わせて、一歩後ろへ下がった。
アドルフは気にした様子もなく亜佐の前に歩み寄ると、ロイリとよく似ている目を細めて笑った。
「はじめまして、ロイリの兄のアドルフだ。ようこそクラウゼ家へ」
手を差し出される。微かに震える手で握手をして、「はじめまして、亜佐と言います」となんとか声を出した。
「そうか、アサ」
アドルフは亜佐の手を両手で握りしめた。
「私の弟を助けてくれてありがとう。感謝してもしきれない」
違う、違うんだと首を振る。アドルフから手を離すと、胸の前で握り締めた。
「違うんです……」
恐ろしくてアドルフの顔を見ることができない。
「私を助けなければ、ロイリさんは怪我をすることも血を飲むこともなかったんです……」
いっそ怒られて怒鳴られて嫌われてしまいたい。しかしそれを恐ろしいと思う自分もいる。また涙が溢れてきて、自己嫌悪に陥る。どうしてこんなに弱いんだ。
「私のせいで……ごめんなさい」
「アサ」
いつの間にかそばにいたロイリが肩に触れる。
「ごめんなさ……」
ふらふらと後ずさってその手から逃れた。
「アサ、こっちを見ろ」
ぎゅと目をつむり、首を横に振る。
ロイリの怒鳴り声がまだ耳にこびりついている。あの時、言い返す権利なんてなかったんだ。事の重大さを理解していなかった。
事情を察したらしいアドルフが、ふふと笑った。
「君を助けないなんて、そんな選択肢はロイリにはないんだよ」
顔を上げて、アドルフを見る。
「もし君が助けを拒否したって、きっとロイリは力づくでも君を助けていた。君が盗賊に捕まりたいって言ったって、それでも無理やりでも保護しただろう。それが彼の正義だからだ」
アドルフは腰を屈めて、亜佐の視線に合わせた。
「君は結局、どう足掻いたってロイリに助けられる運命だったんだ。だから、助けなかったら、なんてもしも話は無意味だと思わないかい? お互い助け合って、ふたりとも生きてる。これからもお互い助け合っていけば、死ぬことはない。それが事実だ」
ロイリを見上げる。彼はその通りだとでも言いたげに、何度か頷いた。
「辛い思いをしたね。大きな決断を短時間でしなければならなかっただろう。でも君はロイリに死んでほしくなかった。だから血を飲ませたんだろう?」
うんと頷く。ぐずぐずと鼻をすすって、涙を手の甲で拭う。
「ロイリさんが死んでしまうのが怖かった……命をかけて私を助けてくれた人を死なせたくなかった」
「誰も君を責めたりしないよ」
頷いた亜佐を見て、ロイリが頬に触れて残った涙を指で拭った。
「アサ、俺は……」
そのまま両手で亜佐の頬を包んで、ロイリは少し言い淀んだ後口を開いた。
「俺は死にたくなかった」
うんと頷く。生きていてよかった。この人が死ななくてよかった。
「あの時、怒鳴ってごめん。あれに本心はひとつもない」
「はい」
「お前に、あの時死んでしまえばよかったなんて、そんなことを言わせてしまったことを後悔している」
「私も本心じゃありません。私も、死にたくなんてなかった」
「うん」
こつんと額が触れ合う。すぐに離れて顔を上げると、ロイリは目をそらして少し居心地の悪そうな照れたような顔をしていた。
「せっかくの化粧が落ちたな」
誤魔化すように笑ったロイリの顔を、アドルフが覗き込む。
「仲直りのキスはしないのかい?」
その言葉に、亜佐は飛び上がって数歩後ずさった。
「だって今、する雰囲気だっただろう?」
「後で部屋でやる」
「ここでも構わないよ」
「アサが恥ずかしがるから」
ふたりのやり取りを、唇を戦慄かせながら聞く。恥ずかしいとかそういう次元の話ではない。
「私の国では……人前で、その、キスをしたりしませんので……」
「そうなのかい。恥ずかしがり屋な国だね」
「そもそも、恋人や夫婦以外はキスをしません」
アドルフは目を丸くしてロイリを振り返った。
「君たちそういう仲じゃないのか?」
「違う。昨日会ったばかりだぞ」
ロイリの言葉にアドルフは少し渋い顔をした。
「ロイリ、あまり恋人じゃない女性をべたべた触るんじゃない」
その言葉で、やはりロイリのスキンシップは過剰なのだと知った。アドルフに窘められるように言われて、ロイリは少し憮然とする。
「だって子供だろう」
「……えっ」
素っ頓狂な声を上げた亜佐は、ロイリと少し見つめ合ってから恐る恐る尋ねた。
「十八歳は子供ですか?」
「え」
次はロイリが素っ頓狂な声を上げる番だ。
「もうすぐ十九になります」
「……からかってる? いや、お前はそんなことしないか」
こんな状況で冗談を言ったりなんてしない。
「何歳だと思ってましたか?」
「……初めは十二歳くらいだと。化粧した顔を見てから十五くらいに訂正した」
十二歳なんて小学生ではないか。ようやく理解した。彼のスキンシップは、近所の小学生を可愛がるような感じだったのではないだろうか。
「さすがに十八歳は子供じゃないねぇ」
アドルフが笑って言って、ロイリは顔をしかめる。さすがに大人だと胸を張って言えるような年齢ではないが、大人の男のスキンシップを無邪気に受け入れられるような子供でもない。子供じゃなければ何か不都合があるのだろうか。
くしゃくしゃと頭を掻いて、ロイリは気まずそうに言う。
「女は若く見られたほうが嬉しいんだろ?」
「限度があります」
言い切ったのは亜佐の後ろにずっと控えていたベルタで、アドルフはそれに腹を抱えて笑っている。
「あの、大丈夫です。背が低いせいでよく年下に間違われていたから」
少し落ち込んだ表情のロイリを慰めようと言うと、ロイリは力なく笑って亜佐に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。その様子を見てアドルフがまた笑う。
「お前は昔からそうだったな。文武両道でその顔、わんさか女は寄ってくるのに、扱いが下手で下手で。おまけに言葉も足りない。距離感をつかむのも苦手」
「うるさいな。もういいからさっさと着替えてこい、アドルフ。先に食べてるからな」
アドルフの背中を押して、ロイリは手を振った。もうこの話はお終いにしたいらしいが、アドルフはすぐそばの扉に手をかけて、肩越しにロイリを振り返った。
「アサにはもう、お前が女の尻に敷かれるタイプだってバレてると思うよ」
思わず吹き出して、慌てて口元を押さえる。ひらひらと手を振って出ていったアドルフを睨んで、それからロイリは亜佐を見下ろした。
「……アサ、笑っただろう」
口を押さえたまま首を横に振る。ロイリはじっとりと亜佐を見下ろしてから、頭をかいてため息をついた。
そして気を取り直したように顔を上げる。
「ああ、アサ。言い忘れるところだった」
手を打ったロイリが、亜佐の耳元に顔を近付ける。
「俺がお前の血を飲んだということは、この屋敷では俺とアドルフとベルタしか知らない。お前は表向きは軍の要請でここで保護しているという事になっている」
「はい」
「誰かに何か聞かれても、俺に口止めされてると言っておけ」
「分かりました」
「お取り込み中、かしら」
突然聞いたことのない声が会話に割り込んで、亜佐はロイリから少し離れて声の方、扉を振り向く。
それはそれは豪奢なドレスを着た、とてもきれいな女の人がいて、彼女は亜佐と目が合ってにっこりと微笑んだ。
「アドルフ様に可愛らしいお客様がお見えになっていると聞いたのですが、あなたかしら?」
「そうです、エレオノーラ」
ロイリが亜佐の前に歩み出た。
「紹介します。アサです。わけは話せないのですが、少しの期間この屋敷で保護することになりました。見ての通り人間です」
エレオノーラと呼ばれた女はまじまじと亜佐の目を見つめて、驚いたような顔をして持っていた扇子で口元を覆った。
「人間……」
「アサ、彼女はアドルフの奥方のエレオノーラだ」
「……少しの間お世話になります。よろしくお願いします」
頭を下げて、彼女を見上げる。エレオノーラはまたにっこりと笑った。
「よろしく、アサさん。何か困ったことがあったら、遠慮なくわたくしにおっしゃってちょうだいな」
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げる。
頭を上げると、もう彼女の視線は亜佐ではなくロイリに向かっていた。
「ロイリ様、お久しぶりではありませんか。寂しかったんですのよ」
甘えるような声でエレオノーラにそう言われ、ロイリは目を細めて微笑んだ。見たことのない笑顔だ。
「申し訳ございません、エレオノーラ。軍部は本当に人使いが荒くて、帰る暇もない」
「とてもお忙しくていらっしゃるのね」
「五日前からセデルベルイまで出張へ行っていました。山を越えなければいけないので、馬で」
「まあ! あんなところまで」
恐らく地名だろうが亜佐には理解できない。なのでぼんやりとロイリの横顔を見る。
兄嫁に気があるのではないかと疑いたくなるくらい柔らかな笑みを浮かべていて心配になる。確かにこんな美人に寂しかったと甘えられて悪い気がする男などいないと思うが。
すぐにアドルフが合流して、四人で食事になった。前菜から始まるフルコースで、これなら栄養たっぷりでロイリもすぐに耐性がつくかもしれない。
さっきとは打って変わってアドルフに甘えるエレオノーラだったが、アドルフは亜佐の世界の話を聞きたがった。
徐々にエレオノーラの顔が曇り始め、それに焦ったがアドルフの好奇心あふれる質問に答えないわけにもいかない。
ようやく食事も終わりの頃、壮年の男がアドルフに近付いて何やら耳打ちし、アドルフは肩をすくめて立ち上がった。
「ごめん、仕事だ」
「そんな……」
悲痛な声を上げたエレオノーラを軽く抱き寄せて、アドルフはその頬にキスをした。
「ごめんよ、エレオノーラ」
彼女の額を指で撫でて、アドルフは体を起こして亜佐とロイリを交互に見た。
「アサ、また話を聞かせておくれ。ロイリ、あとは頼んだよ」
「分かった」
頷いたロイリにひらひらと手を振って、アドルフはあっという間に部屋を出ていった。
「お忙しいんですね……」
呆気にとられて呟くと、食べ終わったロイリがナプキンで口を拭きながら答えた。
「一応社長だからな」
驚いた後に納得する。だからこんな大きな屋敷を建てられるのか。廊下に並べられた無数の絵画や置物は、恐らくエレオノーラの趣味だろうが。
フォークを置いて、ごちそうさまでしたと手を合わせる。
痛み止めが切れたのか、右腕に疼痛が始まる。
フレデリカからもらった鎮痛剤は部屋に置いてきてしまった。早く部屋に戻りたい。
アドルフがいなくなった途端にロイリにしなだれかかるように甘えるエレオノーラを見ているのも嫌だった。
どこに行っても見かける、苦手なタイプた。
「アサ、大丈夫か? 顔色が悪い」
はっと顔を上げる。いつの間にかロイリが亜佐を見ていた。包帯を押さえていた手をそっと下ろす。
「大丈夫です」
「腕が痛むのか? 薬は?」
尋ねながらロイリはエレオノーラの腕を解いて立ち上がる。
「部屋にあります」
「そうか、ならもう部屋に戻れ」
亜佐のそばに寄ってロイリは手を差し出す。少し躊躇してから手を重ねて立ち上がって、彼を見上げた。近くで見て気付いた。彼の顔色もあまり良くないように見える。
腰を折って、ロイリは亜佐の耳元に顔を寄せた。
「後で部屋に行く。体が辛ければ寝ていてくれ」
唇を引き結んで頷いた亜佐に、ロイリも頷いた。彼は亜佐の頬に手を伸ばしかけて、そして顔をしかめて手を引く。少し笑うと、ロイリも苦笑して体を離して顔を上げた。
「それではエレオノーラ、私たちはもう休ませてもらいます。おやすみなさい」
「ロイリ様……おやすみなさい」
それはそれは悲しそうな声でエレオノーラは言ったが、ロイリはなんの未練もないようにベルタを振り返った。どうやら八方美人の兄嫁にほだされているわけではないようで安心した。
「頼む、ベルタ」
「かしこまりました」
ベルタの返事を聞いて、ロイリはさっさと部屋を出て行ってしまった。もしかすると、そろそろ限界が近いのかもしれない。
「お部屋に戻りましょう」
ベルタに言われて「はい」と返事をする。
ふと視線を感じてちらりと背後を振り向くと、口元に扇子を当てたエレオノーラがじっと亜佐を見つめていた。