番外編、執着から
ロイリ視点。
1話から22話の間の、執着が愛に変わるまで。
可愛らしい娘だと思った。
薄暗い森の中で初めてアサに会った時のその印象は、今も変わっていない。
いつもはにかんだように笑っている顔は、くるくると表情をかえる大きな黒い瞳のせいで実年齢よりもずっと若く見える。
それなのに、キスをする時に触れた腰は細い。肉付きは薄いが、腰から太ももにかけてのラインも頭身も大人のそれだ。
もし子供のものであれば、彼女にこんな劣情を抱かずに済んだのだろうか。
ロイリは額を手で覆ってため息をつく。
どちらかと言えば、年上で気の強い女が好みだったはずだ。
例えば今目の前でこの手首を掴み脈を測っている、二歳年上の元婚約者のように。
「大きなため息ねぇ、ロイリ」
時計から目を離し、カルテに何か数字を書き込みながらフレデリカが笑う。
アサの血を飲んでから一週間と少し。こうやって一日に一度はフレデリカの元を訪れ、診察を受けることを義務付けられていた。それは飲血衝動が特に強いと言われている二、三ヶ月間は続く。
「昨日アサと仲直りしたんでしょう?」
「した。警護をつけるのなら庭に出てもいいと言ってある」
「心配なのは分かるけど、ちゃんとベルタも警護も、あなたのお兄さんの会社の私兵もついているんだから」
それももちろん心配だが、ため息の原因ではない。
フレデリカも気付いたようだ。
「何か気になることがあるのなら、全て私に報告してちょうだい」
訝しむような視線を横へ流す。
「報告だとか、そんな大層なことじゃない」
「それでもよ。私に相談して」
少しの間視線をそらしたままでいたが、フレデリカは言うまでこのままでいるつもりらしい。もう一度深い息をついて前髪をかき上げる。
彼女なら何か解決法を知っているかもしれないと、ロイリは重い口を開いた。
「……アサを抱きたくて仕方がないんだ」
やはり斜め上の相談だったらしく、フレデリカは眼鏡の奥の目を点にする。迷ったが、もうここまで言ってしまったのだからともう一度口を開いた。
「しかもその衝動が、少し……暴力的だ」
アサの口内を犯しながら耐える衝動は、今まで考えたこともないおぞましいものばかりだ。
「いつか理性では抑え切れずに、彼女に無理矢理……酷いことをしてしまうんじゃないかと、怖い」
いつの間にか俯いていた顔を上げることができない。そんなロイリを、フレデリカは体を屈めてまじまじと見上げた。
「……何だ」
「いや、あなたの口から怖いなんて言葉が出てくるなんて。どんな顔して言ってるのかなと思って」
「俺を何だと思ってるんだ。怖いものくらいある。マレク大佐とか」
肩を竦めて冗談めかして言ったが、彼女はその茶番に付き合うつもりはないらしい。
腕を組んで、ハッキリと言い切る。
「全てアサの血の影響よ。彼女の体液に慣れたら、その衝動も収まっていくわ」
「今現在の対処法はないのか?」
「そうね。出すもの出してスッキリしてから体液の摂取に臨むくらいかしら」
フレデリカらしい物言いに眉を寄せて目を細める。今度は彼女がおどけたように肩を竦めた。
「どこかで発散してきたらいいでしょ」
ロイリは口をへの字に曲げる。確かに、娼館にいくなり街で女を買うなり方法はいくらでもある。
想像して、湧き上がったのは耐えられない嫌悪感だ。吐き捨てるように言う。
「今、アサ以外の女に触れたくない」
「はー……重症ね。まるでアサに惚れちゃったみたい」
眉を寄せてフレデリカを見て、しかしすぐに視線をそらす。咄嗟に否定できなかったからだ。
数日前、アサの頸動脈を食い千切り血を飲もうとした自分を止めるため、腕にナイフを突き刺した時。
その傷を治そうと彼女からキスをしてきたあの時の、泣き顔と震える唇の感触が頭から離れない。
その感覚が、人を愛したときのものとよく似ていた。
「……アサと出会ってまだ一週間と少しだ」
呟くと、フレデリカが「何だかデジャヴだわ」と笑った。
「日数なんて関係ないのよ。人は一目惚れができる生き物なんだから。私があなたにしたようにね」
盛大に顔をしかめてみせる。よくもまあそんな話ができるものだ。まだフレデリカを愛していると、きっと気付いているだろうに。
そう考えてからロイリは体の動きを止める。
フレデリカを愛している。そうだ、愛しているはずだ。
それなのに、一週間と少し前、亜佐と出会うまでこの体の中に存在していたその感情が、今どこにあるのか分からない。
「……百面相ねぇ」
フレデリカの声にはっと顔を上げる。茶化すような声とは裏腹に、彼女は真面目な顔をしてロイリをじっと見つめていた。
そんなはずがない。想い合ったあの日から、何度も彼女にキスをして愛を囁いてきた。彼女が他の男のものになったあとも、何年もずっと彼女だけを見てきた。たった一度胸に抱いたあの日の幸福感はまだ体の奥に残っている、はずだ。
表情を隠すように手で口元を覆ったのは無意識だ。この戸惑いをフレデリカに見られたくなかった。
「……今あなたの中で渦巻いてる感情、それは愛だの恋だのそんなものじゃない。アサに対する執着よ」
執着。心の中で繰り返して、それがしっくりくるかを確かめる。
「だってあなたは今、アサがいなければ死んでしまうもの。だからあなたは本能的にアサを守らなければと思うし、彼女が大切で愛しくてたまらない」
医者が言うのなら、そうなのだろう。ただ、ピースははまるがどこか隙間が空いているような、そんな違和感や不安は消えなかった。
「じきに何もかも落ち着くわ。体液摂取後の倦怠感もだいぶマシになってきているでしょう? そんな感じでアサに対する性的欲求も過剰な執着心も、じきに収まってくるはずよ」
「……分かった」
掠れた声を出してしまい、肩を竦めたフレデリカがロイリの膝をぽんと叩く。
「はい、お終い。疲れてるならもう少し休んでいってもいいけど」
「いや、いい。帰るよ。アサが心配だ」
「はいはい、また明日ね」
「ああ」
立ち上がって、医務室をあとにする。
アサに対する暴力的な衝動も執着もすぐになくなると聞いて安心すると思いきや、胸に残っているのは何とも言えない寂寥感だ。
自分が一体どうしたいのか分からない、という気持ちすらも、じきになくなっていくのだろうか。
ロイリは脇に抱えていた軍帽を目深にかぶり、誰にも見られないように表情を隠した。
****
アサは身の回りにはいないタイプの女だった。
ロイリを平手打ちし怒鳴りつけたことは夢だったのではないかと思うくらい、彼女は内気で大人しかった。
控えめで常に周りに気を配り、一歩下がって周囲を眺めている。ひねくれ者とアサは自称したが、そう呼ぶには彼女は上品すぎる。
アサのそばにいると安心する。
彼女はまるで心を読んでいるように、踏み込まれても大丈夫なラインと踏み込まれたくないラインを見分ける。表情や目の動き、声色の変化を見ているのだろうか。踏み込まれたくないと思うことには触れないようにしているのが分かった。
アサと話していると、色々なものが溶けていく。
例えば我慢していたものだとか苦しんでいたものだとか、それを溶かされて少しずつ自ら吐露して、彼女は静かにその苦しみや我慢を認めてくれるのだ。
それを解決する能力はアサにはない。それでも彼女とゆっくりと話をすると、今まで経験したことがないほど心が穏やかになる。
きっと他の吸血人たちもそうなのだろう。
アサはあっと言う間にベルタを陥落させた。あのベルタをだ。気難しくなかなか他人に心を開かないあのベルタが、お茶会でアサと同じテーブルにつき、世間話に花を咲かせたり一緒に婦人誌を見たりしているらしい。初めて聞いたときは耳を疑った。
放っておけないと、ベルタは少し悔しそうに言っていた。その気持ちがよく分かる。
他人のことばかり気にかけ、頼りないようで実はしっかりしているのかと思いきや、本当に頼りなかったりする。体も弱い。力もない。怖がりで泣き虫だ。こういうものを庇護欲と言うのだろうか。
エレオノーラとは対照的な立ち振る舞いということもあっただろうが、初めはアサを腫れ物のように扱っていた使用人たちも、一ヶ月が経つ頃には随分とアサに絆されていた。
常に笑顔を絶やさないアサの周りには、いつも居心地のいい空気が漂っていた。
そしてアサの血を飲んでから二ヶ月が経ったか経っていないか。
ようやく義務付けられていた一日一回の診察がなくなり、久しぶりに丸一日の休暇が取れることになった。
タイミングが合わずになかなか聞けなかったアサのピアノをようやく聞くことができるだろう。
ロイリはぼんやりとまぶたを持ち上げる。
甘い匂い、アサの髪の匂いだ。
薄暗い視界を半分黒いものが覆っていた。それがアサの頭だと気付いて、ここがアサの部屋でもう日が昇る時間だと知って、ロイリは勢いよく上半身を起き上がらせた。
まだよく眠っているアサと自分の衣服を見る。乱れもなければ体に違和感もない。大きく息を吸ってから安堵のため息を付き、もう一度ベッドに体を横たわらせた。
昨日の夜のことを思い出す。キスをしたあと、彼女の声を聞きながら眠ってしまったようだ。
彼女の匂いと声に、一日中張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れてしまった。何か楽しそうに話をしていたというのに、悪いことをしてしまった。
浅い寝息を吐く彼女の、顔にかかる髪を摘み上げる。
体液摂取後の倦怠感はほぼなくなった。
それなのに、彼女をこの腕に抱きたいという気持ちは変わらない。
暴力的な衝動は減った。いや、抑えつけるのが上手くなったといったほうがいいだろう。理性が働くようになった。
もうキスの最中に無意識に彼女の服を脱がせようとすることは――アサが煽ったりしなければ、なくなった。
そっと、起こさないようにその額を撫でる。
湧き上がるのは愛しいという感情だ。
これが血によって作られた偽物の感情だなんて思えない。こんなにも触れたくて仕方がないし、こんなにも口付けをしたくてたまらない。
頬にそっと唇を押し当てる。少しためらって、唇の端にもほんの少し。そして罪悪感に苛まれる。
普段から体液摂取という名目で唇を合わせているとはいえ、それ以外のキスは夫婦や恋人同士でなければ許されない行為だ。触れた場所を指で拭う。
罪悪感から逃げるようにベッドから降り、ロイリは部屋をそっと抜け出した。
ベルタと話をしてから自室に戻りシャワーを浴びる。
アサが起きる頃に部屋を訪ねて一緒に朝食を取ろうと思っていたのに、ふと気付くと濡れた頭のままベッドに横になって眠っていた。
時計を見る。もう八時半過ぎを指していて、顔を手で覆った。
昨日から少したるんでいる。しっかりしなければ。
考えなければならないことも、しなければならないことも大量だ。仕事でも、プライベートでも。
俯いたロイリの耳に微かに音楽が届く。顔を上げて耳を澄ませる。
ピアノの音だ。
アサはもうサロンでピアノを弾いているらしい。
ふらりと立ち上がる。引き寄せられるように扉に近付いて、我に返った。扉に額を押し付ける。
アサのこととなると、なぜこんなにも我を忘れてしまうのか。
扉に手を付いて少し考えて、結局持って帰ってきていた仕事を両手に抱えてアサに会うためにサロンへ向かった。
階段を降りるたびにピアノの音は鮮明になる。
音楽好きの母親の影響で耳は肥えていると自負している。アサの腕前は思っていたよりもいいらしい。
一階に辿り着く。扉の前に立っているのはエヴァンスだ。
彼がそこにいるということは、ベルタは中にいないのだろう。エヴァンスはこの姿を認めて短く敬礼をし、にかっと笑った。
「ベルタは休憩です。すぐに戻ります。帰ってきても部屋に入れない方が?」
「そうしてくれ」
返事をしてノックをしようと手を持ち上げる。それをエヴァンスが遮った。
「アサちゃん、ピアノ弾いてる時はノックの音には気付かないですよ」
彼の顔を見て、試しにノックをしてみる。返事もなければ聞こえてくるピアノの音には何の乱れもない。
そっとドアを開ける。
篭っていたピアノの音が鮮明になる。楽器が奏でる音がそのまま耳の鼓膜を震わせ、立ちすくんだ。
明るい室内の大きな窓のそばだ。木目のピアノの前に、アサはいた。
「……美しいな」
「上手だなじゃなくて?」
「美しい」
ピアノを弾く彼女から目を離すことができない。大きな衝撃を受けた時のように、足が動かない。
そんなロイリの背中をエヴァンスがぐいぐいと部屋の中へ押し込んだ。
「部屋の中でひとりで思う存分惚気けてください」
肩越しに彼を見て、部屋に入る。背後から扉の閉まる音が聞こえたが、アサはそれでも気付かない。ものすごい集中力だ。
どんな脳の作りをしていたら、あんな風に十本の指が別の生き物のように素早く動くのだろうか。
目を閉じた顔を少し上向きにして、まるで歌っているように彼女は口角を上げている。
その横顔を見つめていると、美しいという言葉がまた浮かぶ。
もうそろそろ、この感情を認めなければならないのかもしれない。
曲が終わり、ロイリに気付いたアサが少し驚いたあと嬉しそうに笑う。手を差し出すと、当たり前のように彼女はこの腕の中に収まった。
「キスをしようか」
もし。彼女からキスをしてもらって、もしあの時のように愛しいという感情が浮かぶのなら。
もう認めなければならない。
戸惑った赤い顔がゆっくりと近付く。緊張しているのか震える唇が、そっと触れた。
その途端体の奥底から次々と湧いて出てくる感情に、もう押しつぶされてしまいそうだった。
苦しいのに、もっと近付きたい。
そう思った瞬間、アサの細腕が首に絡みつく。求めるように彼女の体が近付いて、耐えきれずにその体を膝の上に引き上げる。
このままここで彼女の何もかもを自分のものにしたい。
誰かに取られてしまう前に、全てを。
びくりとアサの体が震える。おかげで我に返った。
彼女の下着を引き下ろそうとしていた手を離して、その手で肩を押し体から引き剥がす。
「アサ、これ以上は……」
本当に、奪ってしまう。
アサの指がロイリの顎を汚した唾液を拭い取る。そのぬるりと光る甘い指を舐めて、ロイリは全ての指にキスを落とす。
「アサ」
この人を愛している。
愛してしまった。
初めは麻薬のような血が見せた錯覚だったのかもしれないし、初めから何か特別なものを感じていたのかもしれない。
「あなたは私がいないと死んでしまうから、だから本能的に私に執着してるそうです」
「……そうだな」
違う、それは違うと、今なら言い切れる。この狂おしいほどの想いは錯覚や血に対する執着ではない。
だって彼女に拒絶されただけで、こんなにも苦しくて息ができない。
だって彼女を抱き締めただけで、こんなにも幸福感に包まれる。
「お前がいないと生きていけないんだ」
アサの頬を両手で包み込む。
今彼女にキスをして、アサがそれに答えてくれたとして、ふたりが添い遂げられる未来はこの世界にはない。
絶対に愛してはいけない人だった。
それでももう。
自覚してしまった身を切り裂きそうな想いを、見て見ぬふりはできそうになかった。




