54、幸せの色
「俺がしよう」
医務室のベッドから降りようと足を垂らした亜佐にロイリが言う。
「いえ、ひとりで」
「俺がする」
選択肢はないようだ。
亜佐は「お願いします」と笑ってからロイリに両腕を伸ばした。
彼は亜佐の背中と膝裏に腕を差し入れて、慎重に持ち上げて隣の移動式ベッドの上に運ぶ。胎児の分とその他もろもろ、さらに亜佐自身も太ったので体重は妊娠前に比べると増えただろうが、彼は難なくそれを済ませた。
ゆっくりと体を横たえた亜佐をロイリが覗き込む。
「大丈夫か?」
彼の顔を見上げる。どこも痛いところはない。精神面では今のところ不安よりも高揚の方が大きい。顔中に心配という文字を貼り付けているロイリよりはよっぽど大丈夫だ。
しかしその気持ちも痛いほどわかる。
――亜佐は今から、手術室へ向かう。
妊婦生活後半も波乱続きだった。出血はするし、様々な数値が減ったり増えたりした。しかし胎児はそんなトラブルは物ともせずぐんぐん成長する。
ぐんぐん成長し過ぎて、今度はそれが困る事態を引き起こした。大きな胎児を腹の中に入れている亜佐は、双子を妊娠している状態とほぼ変わらないらしい。
ロイリは「俺の時もそうだった」と苦い顔をしていた。ロイリやアドルフもそれは大きな赤ん坊だったらしく、吸血人の中では小柄だった彼らの母親も苦労したようだ。
一ヶ月前から絶対安静にと医務室で過ごすことになり、臨月に入り三日経った今日。
あと一週間は腹の中に入っていて欲しかったらしいが、とうとう体に限界がきたらしい。
今朝何人もの医者に代る代る診察され、ぐったりしている亜佐から少し離れたところで医者たちが長い間話し合っていた。そしてキノスの「よし、切ろっか! 今日!」という一声で、腹の中の子の誕生日が今日に決まった。
ベッドに置かれているロイリの手に触れる。彼はすぐにその手を握り返した。
「大丈夫なのかそれとも怖いのか、嬉しいのか……よく分かりません」
「そうだな。そんな複雑な顔をしてる」
どんな顔だろうと自分の頬を撫でて笑う。
ロイリは亜佐の耳元に唇を寄せた。
「キスをしてもいいか?」
唇を引き結んで辺りを見渡す。フリードハイムは様子を見に来て、いつものように遠回しな激励をしてついさっき帰った。しかしキノスとヘンリッカがすぐそばで話をしているし、警護の軍人もふたりいる。
かなり迷って、首を横に振った。
「あとで、誰もいない時に……」
「分かった」
代わりに彼は指で自分の唇に触れて、その指で亜佐の唇を撫でた。それはそれで恥ずかしいし、間接ではなく本物が欲しくなってしまう。
やっぱりこっそりしてもらおうかと迷った時、ノックと共に扉が開いて亜佐は口をつぐんだ。
入ってきたのは見慣れた医者だ。キノスのそばに寄って、何やら話をしている。
「そろそろか」
呟いたロイリが、亜佐の手をさらに強く握る。負けないくらい握り返した。
ようやく心臓が強く鳴りはじめて、高揚を押しのけてじわりじわりと恐怖が近付く。
ヘンリッカとも会話をしたキノスは、亜佐とロイリを振り返ってにっこり笑った。
「さあアサ、こっちの準備は整ったよ。そろそろ行こうか」
「はい」
硬い声が出てしまい、誤魔化すようにロイリの顔を見上げて明るい声を出す。
「そうだ、ロイリ。産まれたら早めにアドルフさんとベルタに電話してあげてください。昨日ベルタから手紙が届いたんですけど、すごく心配していたから」
「分かった」
「あと、術後の私が起き上がれない間に、これ以上赤ちゃんの物を買ったら駄目ですからね。家に入り切らなくなりますよ」
「……分かった」
小さな返事には不安しかないが、近付いてきたヘンリッカとキノスが視界に入ってこれ以上言及するのはやめた。
ヘンリッカが亜佐の顔を見て目を細めて笑う。
「緊張しているな」
「はい、少し」
「心配するな。誰かさんに似た大きくて元気な子が産まれてくるだろうよ」
少し意地悪な口調で言って、ヘンリッカはロイリをチラリと見上げる。視線を受けたロイリがわざとらしく首を竦めて見せて、思わず笑いが漏れた。緊張が少しだけ解けたような気がした。
「王女様、行って参ります」
「ああ、頑張ってこい」
ヘンリッカは亜佐の前髪をかき上げて、額を撫でてから離れた。
キノスがベッドに手を付く。
「僕は切らないけど付き添いね。何も心配しないで。目をつむって開けたら、何もかも終わってるよ」
「はい、よろしくお願いします」
うんと頷いたキノスを見て、ロイリの顔を見上げる。
彼は亜佐の手を持ち上げ指にキスをして、次に額に押し付けた。
祈るように目を閉じたあと、彼はその手をそっと離した。
緊張で冷え切っている手が拠り所をなくして、途端に恐怖が押し寄せる。せっかくヘンリッカが気を紛らわせてくれたのに一気に吹き飛んだ。
何が怖いのか分からない。手術が怖いのか、腹の中の子が一体どんな姿で産まれてくるのか分からないのが怖いのか。漠然とした恐怖が一層頭を混乱させる。
どうして今さら怖くなるのか。ずっと怖かったのなら、もっと長い間ロイリに甘えることができたのに。
彼に向かって両手を伸ばし、震える唇を開いた。
「ロイリ、やっぱりキスして」
ヘンリッカやキノスが見ているが、もういい。
ロイリは目を丸くしてから、何も言わずに体を折り曲げた。
唇を重ねて、二度三度ついばむようにキスをして、ロイリが離れる。その上着を必死に掴んだ。
「大丈夫だって、言ってください……」
こんなことを言ったらさらに心配させてしまうんじゃないかと。こんな顔を見せたらさらに不安にさせてしまうんじゃないかと思っていた。
それなのに。
「大丈夫だ、アサ。大丈夫」
ロイリは子供でもあやすように、優しく笑って亜佐の頭を撫でた。
「この国一の設備に、この国一の先生方だ。こんなに素晴らしい環境で産めるなんてそうそうない。安心して産んでこい」
彼の手が亜佐の両手を包み込む。
「ここで待ってる。ずっとお前のことを考えているよ。俺とお前の子に会えるのが、楽しみで仕方がない」
まぶたにキスをして頬にキスをして、ロイリは額を合わせた。
そうだ。
この人はとても強くて頼もしい人だ。余計な心配しなくても亜佐の不安くらい、赤ん坊の分重くなったって、軽々と持ち上げて包み込んでくれる。
まるで恐怖が蒸発していくようだ。指先からじわりと温かさが戻ってくる。
「大丈夫になったか? もっと言おうか?」
顔を持ち上げ彼の唇にキスをして、「大丈夫になりました」と亜佐は笑った。
そして体を起こしたロイリの手を、そっと解いた。
「行ってきます」
「行っておいで」
彼の返事を聞いて、キノスに視線で合図をする。ゆっくりとベッドが動き出した。
「アサ」
部屋を出る直前、ロイリが亜佐を呼ぶ。
「終わったら、聞いて欲しいことがある」
「はい、楽しみにしています」
笑顔で手を振ると、ロイリも手を上げて指を振って。
彼も、その後ろで少し心配そうな顔をするヘンリッカも、閉まった扉の向こうに消えた。
*
しとしとと雨が降っている。
「うまくいったでしょ?」
その声に顔を上げると、そばの赤い水たまりの上に神様が座っていた。
立てた膝の上に顎を置いて、神様はにこにこ笑っている。
うまくいった、と言っていいのだろうか。
自分の大きな腹を撫でる。子供を持てたことはそれはそれは嬉しいが、亜佐が倒れたときのロイリの苦しみを思うと素直に喜べない。エヴァンスが亜佐を見つけるのがもう少し遅ければ、確実に死んでいた。
ありがとうと言う気にはなれず、神様をじっと見つめる。
「これってズルいことなんでしょ?」
問うと、神様はぺろっと舌を出してそっぽを向いた。
「お兄さんたちにバレたら怒られるんじゃないの?」
「バレなきゃいいんだ」
ふぅんと呟いて、亜佐は口に手を当て叫んだ。
「神様のお兄さん! 末っ子の神様が!」
その声に神様は飛び上がって驚いて、慌てて亜佐の口を小さな手で覆う。
「やめてよ! 聞こえちゃったらどうするのさ!」
やっぱりこの空間は別の世界やその神様のところにも繋がっているらしい。亜佐がこの吸血人の世界に来た時も水たまりを通ってきた。この空間のどこかに、亜佐の世界への帰り道があるのかも知れない。
ただ、今は驚くほど興味がない。帰るつもりなど毛頭ないからだ。
神様の手を引き剥がす。
「バラされたくなかったら、もう二度と私の体を弄ったりしないで。私だけじゃなく、私の子供や他の人間の人たちも」
神様はあからさまに唇を尖らせた。
「でも……兄様たちだってズルしてるし……それに、これが上手くいったら、他の人間も同じようにしようと……」
ぼそぼそと言った神様を睨み付ける。また叫ぶ振りをすると、神様は飛び退いて水たまりに体を半分滑り込ませた。
「分かったよ! 分かったからやめて!」
隠れるように頭を手で覆って、神様は叫んだ。
「だからもう意地悪しないで!」
「約束できるならしないよ」
「できるから!」
神様は両頬を膨らませて、わざとらしいほど可愛らしい顔で拗ねてみせる。少し可哀相になったが、こちらだって人命がかかっているので容赦はしない。
睨み合って、先に視線をそらしたのは神様だった。深く長いため息をついて、亜佐に向かって手をしっしっと振った。
「もういいよ。お願いもう帰って。終わったでしょ?」
何が終わったのかと考えて、ふと腹を見下す。自分の足すら見えないくらい大きかったはずの腹がへこんでいた。
急激に眠気がくる。耐えられずに水たまりに膝をついた。
「神様、約束だからね……」
「分かったよ、もう。約束ね」
その返事を聞く頃には上半身すら支えられなくなった。地面に頬をつけて、目の前の水たまりに肩まで浸かった神様の顔を見上げる。まだ拗ねているらしいその顔は本当に小憎たらしいが、これから始まる子育てではそんな感情は日常茶飯事なのだろうか。
「頑張って育ててね。バイバイ」
手を振って、ぽちゃんという水音と共に神様が消えた。
見送って、耐えられずに意識が暗転する。
それから何度か起きたような気がするが、あまりにもぼんやりとしていて本当に起きたのか起きた夢を見ただけだったのか分からない。
細く目を開く。今度は現実だろうか。それともまだ夢だろうか。
ゆっくりと視線を巡らせる。すぐにロイリの姿を見つけた。
彼は膝の上に乗せた本に顔を向けていたが、焦点はその上に定まっておらずどこか深い思考の中にいるようだった。ぼんやりと物思いに耽る顔もきれいだなと思う。
「ロイリ……」
名を呼ぶと、彼ははっと顔を上げ、そして泣きそうにも見える顔で笑った。
膝の上から本が落ちたが、彼は視線すら向けずに亜佐の頭を抱きしめた。額に押し付けられた唇の感触がリアルだ。きっとこれは夢じゃない。
「アサ、よく頑張ったな」
その言葉で、ようやく霧のかかっていた頭が少しだけ晴れた。腹に手をやる。もうそこには大きな膨らみは残っていない。
「……赤ちゃんは?」
「元気だよ。どこも何も異常はない。元気な男の子だ」
彼の言葉をひとつずつ頭の中で反芻して、じわりと涙を滲ませる。
無事に産まれてくれた。無事に産んでやれた。
妊娠生活は過酷で辛かったが、ロイリの言葉でその記憶はあっという間に霧散した。
亜佐の目元にキスをして、ロイリが笑う。
「やっぱり大きかったよ。よく腹に入れていたものだって、先生方も驚いていた」
「抱っこしましたか?」
「させてもらった」
「可愛かった?」
ロイリは目尻を垂らして、それはそれは幸せそうに笑った。
「天使のようだった」
いいな、と掠れた声で言う。早く会いたい。この腕に抱きたい。
しかし、幸せに浸る前に確認しておかなければいけない大事なことがあった。
「……目の色は?」
「まだ目を開いていないんだ」
深く息を吸って、そのままそれをため息にした。落胆と安堵が半分ずつ混じっているため息だ。
ロイリが指で額を撫でて立ち上がった。
「連れてこれるか聞いてみるよ」
「お願いします……」
彼が出ていった扉が閉まるのを見届けて、天井を見上げる。
大丈夫、きっと赤い目だ。
だって神様が上手くいったと言っていた。
そう考えて、むしろ不安になる。だってあの神様だ。いやしかし、神様は腐っても神様だ。
こんな事を考えているなんて、宗教院のお偉方に知られたら大変だ。そう言えばさっき神様を脅してしまった。ヘンリッカなら笑い飛ばしてくれるだろう。
ロイリの小さなノックが聞こえる。返事をすると扉が開いてロイリが入ってきて、その後ろからキノスがぬっと現れた。
「おめでとう! とっても大きな男の子だよ!」
耳に響く大声に、キノスの後ろにいた看護師がやんわりとたしなめる。しかし彼にはあまり効果がなかったようだ。
「元気だよー、すっごく元気!」
「先生、ありがとうございました」
「うん、君もお疲れ様。どこか痛いところはないかい?」
「痛いところは特に」
「今はまだ麻酔が効いてるからね。痛くなり始めたら鎮痛剤を出すから言ってね」
「分かりました」
それよりも、看護師に抱かれている赤ん坊の方が気になる。
キノスはすぐに気付いて、看護師から赤ん坊を受け取ると亜佐の枕元にそっと寝かせた。
毛布が分厚く巻かれていて、寝転がっていると中は見えない。
「頑なに目を開いてくれないんだよ。もう周りの大人ばかりヤキモキしててさぁ。王女と宗教院のお歴々と僕達で取り囲んでずーっと見てたんだけど、全く動じない。こりゃクラウゼ中佐レベルの大物になるよ」
まぶたを少し持ち上げるだけで見えるだろうに、赤ん坊から見せてくれるのを待ってくれているらしい。大人数でたったひとりの赤ん坊を取り囲んで見下ろしている様子を想像してしまった。
何とか毛布の中を覗き込もうと頭を持ち上げると腹がズキリと痛んだ。ロイリがクッションをひとつ頭の下に差し込んでくれ、ようやくその中が見えた。
「少ししたら迎えに来るね」
そう言って出ていったキノスに返事をすることもできなかった。
小さな顔に釘付けになる。
栗色の髪にくっきりした目鼻立ち。
赤い頬を指で撫でる。
まぶたは閉じているが、毛布の中の手足は動いている。起きているようだ。
「赤ちゃん」
名前はいくつか候補を決めていたが、今はそんな場合じゃない。
亜佐の声を聞いて、赤ん坊がぎこちなく顔を動かす。腹の中でずっと聞いていた声を探しているようだった。
「お母さんを見て」
もう一度その頬を指で撫でる。
赤ん坊が何か声を上げて。
そしてゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……目元がロイリそっくり」
思わず笑って言った亜佐の手を、ロイリが握り締める。
「そうだな」
そしてもう片方の手で赤ん坊の額を撫でた。
「ふたりで育てていこう」
「はい」
「愛しているよ、アサ」
「私も、愛しています」
ロイリ、と彼の名を呟いた声は、重ねた唇に吸い込まれた。
離れた彼が上着の内ポケットを探る。
取り出したのは小さな箱で、それを開いてロイリは亜佐の前に差し出した。
収まっていたのは、きらきらと輝く指輪だった。
「アサ、俺と結婚して欲しい」
真摯に見つめる赤い瞳に、亜佐は涙を落としながらも、何度も頷いてみせた。
「はい、もちろんです」
ロイリの顔に喜びが溢れる。彼は赤ん坊に顔を近付けた。
「聞いたか? 受け入れてもらったぞ」
耐えられずに噴き出すように笑う。
「何で笑うんだ」
同じように満面の笑みを浮かべる顔に触れて、亜佐は上擦った声で呟いた。
「幸せ過ぎて……」
辛いことはたくさんあったが、亜佐も、きっとロイリも、それを覆い隠すくらい今この瞬間が幸せで仕方がない。胸がはち切れそうだ。
ふたりで思う存分笑って、亜佐は腹を押さえる。
「いたた……笑ったらお腹に響く」
「止めようか」
亜佐にキスをして、赤ん坊の額にキスをして、ロイリはまだ笑っている亜佐に顔を近付ける。
そんな両親を泣きもせず見上げる赤ん坊の目は、宝石のように美しい、赤い瞳だった。
次回最終話です




