53、存在している
天井の木目を数える事にはもう飽きた。
点滴の落ちる水滴を数える事にもだ。
二日ほどまともに食事を取れていない体は重たく、亜佐は医務室のベッドにだらりと体を横たえる。
キノスは少し前に呼ばれて出て行ったきりだ。警護の軍人に気晴らしの話し相手になってもらおうかと思ったが、今日はエヴァンスではない。もうバレているであろうこの体調不良の原因だが、まだそれを口に出すことは許されていなかった。
亜佐の妊娠をロイリとキノスから知らされたのは、ヘンリッカと宗教院のごく一部、宮廷に務める産科医と近衛師団の師団長、エヴァンス、そしてフリードハイムだけだった。
しかし度々医務室を訪れる亜佐の症状がつわりに似ていると看護師の間で噂になり。洋服の上からでも腹の膨らみが分かるようになった頃には、周囲は亜佐を妊婦として扱い始めた。
エヴァンスは亜佐の妊娠を聞いて、まだ父親が誰かを伝えていないのに「とうとう中佐の重い愛が種族を超越したか」と目を丸くして驚いていた。亜佐に近しい人々も噂を聞いたり膨らんだ腹を見て、同じように父親はロイリであろうとあっさり信じた。
しかしやはりと言うべきか、大半の人々はあれだけ大切にされていたのに裏切るなんてと陰口を叩いた。
そもそも婚前交渉を良しとしないこの国で、未婚の亜佐が妊娠していること自体があまり歓迎されたこととは言えず。
ひそひそと聞こえてくる中傷や、もう治まってもいい時期なのにいまだに残るつわり、鍵盤を滑る視線に酔ってピアノもまともに弾くことができず。
大きなトラブルはないが小さなトラブルは度々起きていて、普通ではない妊娠に対する恐怖心で精神状態は限界に近い。
そんな追い詰められた状態の亜佐を支えたのは、時間を見つけては足繁く亜佐の元に通いそばにいてくれるロイリだった。
彼は相変わらず宮廷内で亜佐に会うと、微笑みかけて触れてキスの雨を降らせる。
その変わらない態度は、一時的にでも亜佐を中傷から遠ざけてくれたのだった。
聞き覚えのあるノック音が聞こえて、亜佐は壁の染みを数えるのをやめて返事をする。
入ってきたのはやはりロイリだ。
「そのままでいい」と彼は手で制したが、亜佐は構わず起き上がりベッドの縁に腰を掛けた。
「……見るたびに痩せていくな」
持っていた封筒をベッドに置いて、亜佐の目の前に丸椅子を移動させて座ってから、ロイリは眉を垂らした。
「九ヶ月くらいから急に太りだすってベルタが言ってましたから」
「今が心配だ。これからどんどん腹も大きくなるのに、そんな細い体で支えていられるのか?」
「一度に大きくなるわけじゃないんですから、大丈夫ですよ」
笑いながら言うと、ロイリは「笑い事じゃない」とむっすり言ってから膝の上に置かれていた亜佐の手を取った。
「ちゃんと食べられる時は食べてます」
「今は何か食べられそうか?」
「……素麺が食べたい。ミョウガと大葉をいっぱい乗せて麺つゆをかけた素麺」
「ソー……お前の世界の食べ物?」
頷いて、その拍子に涙が落ちた。たたでさえよく泣くこの体は、キノス曰く妊婦特有の情緒不安定期真っ最中らしい。一日何回泣けば気が済むのか分からない。
ロイリもようやく突然泣き出す亜佐に慣れたようで、いつものように困った顔で亜佐をゆるく抱き締めた。
「ホームシック?」
「……どちらかと言うとフードシックです」
そんな言葉があるのかどうか知らないが、やはりロイリには通じなかったらしい。
「今度、コックの友達が調理場を使わせてくれるそうで、その時に作ってみます。多分素麺じゃなくてうどんになると思うけど」
「上手く作れたら俺にも食べさせてくれ」
「食堂のメニューにしてもらえるように頑張ります」
音を立てて額にキスをして、ロイリは丸椅子に座った。
手は繋いだままだ。前屈みになった彼の視線は、自然と腹に落ちる。
妊娠が分かってから、彼はまだ一度もこの腹に触れていない。
彼を信じるとそう決めたのに、触れようとしない理由を邪推しては落ち込むことを繰り返していた。
「……服の上からでも分かるようになってきたな」
「ええ、もう周りにはバレてますよ。警護隊の人たちなんて、私に荷物を持たせようとしないんですから」
「……他人に何か言われたりはしていないか?」
ぴくりと手が震えた。
ただでさえロイリは忙しい仕事の合間を縫って会いに来てくれている。そして彼も亜佐と同じくらいこの不安定な妊娠を心配しているだろう。
顔を上げた彼に微笑みかける。これ以上心労をかけたくなかった。
「大丈夫ですよ、ロイリ。何も心配しないでください」
産まれるまでの辛抱だ。赤い目の子が産まれたら、みんなロイリの子だと分かってくれるだろう。
あと数ヶ月の我慢だ。大丈夫、大丈夫と何度も自分に言い聞かせる。
母親になるんだ。これくらいのこと、耐えなければ――。
「……お前の強がりを見るのが辛い」
絞り出すように呟かれたその言葉に、作った微笑みが凍りついた。
「もう何年一緒にいるんだったか……お前が俺の表情を読めるように、俺だってお前が何を考えているのかくらい分かる」
維持できなくなった笑顔の成れの果てを、ロイリがゆっくりと指で撫でていく。
「俺にできることはないか? 何かしてやりたいんだ」
何かして欲しいこと。
そんなもの、ひとつしかなかった。
「……ひとつだけお願いしてもいいですか? すごく簡単なこと」
「いいよ」
「お腹を撫でてください」
ぎくりと体を強張らせて、それからロイリは亜佐の手を離した。
彼を見つめていた顔が不安に歪んだのだろう。ロイリはまた強く手を握り直し、そして亜佐と同じように顔に不安と戸惑いを浮かべた。
「どうして触ってくれないのか、ずっと不安でした」
「ごめん、……俺は」
ロイリの目が揺れて、腹に落ちる。
「……俺は、お前とその子に、ひどい事を言った」
ひどい事。思い当たるのはあれしかない。
医者に従えないのなら堕ろそうと言ったキノスに同意した時の。
俯いた彼の顔を覗くように見上げる
「万が一が起こって欲しいと思いますか?」
目を見開いて、ロイリはその発言の意図が掴めなかったようで睨むように亜佐を見る。
「そんなわけがあるか」
「もし万が一が起こって、それがあなたでも対処のできることだったら?」
「この命に代えてもどうにかする」
「この子はあなたの子だと思いますか?」
「俺の子だ」
「この子を、愛していますか?」
真剣な目が亜佐を見て、それから腹に落ちた。
「愛しているよ。当たり前だ」
その言葉を聞いて、胸の中に渦巻く不安が溶けていくようだった。もちろん全てを消すことはできなかったが、ずっと体の中を蝕んでいた気持ちの悪さは一瞬で吹き飛んだ。
「だったら、誰も怒ってませんよ」
彼の手を引く。
「触ってください」
腹の目の前まで彼の手を引っ張ると、恐る恐るその手が動く。そっと、まるで綿菓子を触るようにそろりそろりと表面を撫でて、ロイリは感嘆の息をついた。
「本当に大きいな……」
「順調に大きくなってるみたいですよ。平均より少し大きいって」
「まだ動かない?」
「もうそろそろだと思います。これかなっていうのは何度かあるんですけど」
「楽しみだな」
体をかがめて、ロイリは圧迫しないように慎重に腹を抱き締めた。その金の髪に指を絡ませる。
「あなたがこうやってお腹を撫でてくれて、この子があなたの子だって信じてくれているのなら、私は誰に何を言われたって耐えられますよ」
赤い目が亜佐を見上げる。
「……ずっとそばにいてやれなくてごめん」
首を横に振った。
「あなたが鍛えてくれた警護隊の人たちが、しっかり守ってくださっていますから」
「……うん」
体を起こしたロイリに抱き締められ、そのままその胸に体を預ける。
落ち着く匂いと心臓の音だ。安心したせいか、空腹を感じられるようになった。
腹の中がもぞりと動いたような気がする。赤ん坊か、それとも空腹のせいか。やはりまだ分からない。
「アサ、聞いて欲しいことがあるんだ」
耳元で囁かれた声に、顔を上げて小首を傾げる。
ロイリはベッドの上に置いていた封筒を手に取った。
「神誓書がようやく通った。あとは俺が最後の署名をして提出するだけだ」
封筒から取り出したのは、美しく装飾された一枚の紙だ。署名欄にはまだ何も書かれていない。
ようやくだ。これで彼は、誰のものにもならなくなる。亜佐以外の、誰のものにも。
「後悔はありませんか?」
「ない」
即答して、ロイリは椅子から立ち上がった。
ベッドの縁に腰を掛ける亜佐の前に片膝をついて、両手を取る。
「俺の一生を、お前とその子に捧げると神に誓う」
はいと返事がしたかったのに、喉が詰まって声が出ない。何度も何度も深く頷いて、今どれほど幸せな気分でいるのかを伝えるために強く手を握り返した。
どちらともなく額を合わせ、笑い合う。
そしてキスをしようと顔を傾けた時、扉をノックする音が聞こえて亜佐はロイリの肩を掴んで引き剥がした。
ロイリは唇に人差し指を押し当ててから亜佐の顎を引いて続きをしようとしたが、ぶんぶんと首を横に振ってもう一度彼を引き剥がした。もしキノスなら、ノックのあと返事がなくても入ってくる。
「……あとで続きをするからな」
わざと拗ねたような声でそう言って、ロイリはようやく亜佐から離れた。
「はい、どうぞ」
亜佐の返事を聞いて入ってきたのは、ヘンリッカだ。彼女は亜佐の前に立つロイリを見て歩みを止めた。
「おっと、邪魔をしたかな?」
「キスをしようとしていたところでした」
敬礼をしながらロイリがそう言うので、亜佐は慌ててその袖を引く。王女に何てことを言うんだ。
「ははは、邪魔をしてすまなかったな」
しかしヘンリッカは大して気にした様子もなく、手で払ってロイリの敬礼を解かせると丸椅子を引き寄せて亜佐の前に腰を下ろした。ロイリはそのそばで後ろ手を組み、直立の体勢を取った。
「アサ、つわりに効くらしい紅茶を教えてもらってな。癖もなく飲みやすいらしいから、一度飲んでみるといい」
そう言って差し出された紅茶のパッケージを、亜佐は喜んで受け取る。
「ありがとうございます」
「今日は調子が良さそうだな」
「はい、今はとても」
亜佐の返事ににこりと笑ったヘンリッカの視線が、ふとベッドの上の書類に移った。
それが神誓書だとすぐに気付き、彼女はそれを鷲掴みにして叫ぶ。
「待て、まだ提出していないな!?」
「はい。今朝方、審議が通ったと連絡が来たばかりですので」
ロイリの答えに彼女は胸を撫で下ろす。
「危なかったな。提出していれば、さすがの私でも取り消すのは困難だったぞ」
ロイリが眉根を寄せる。
「……どういう事でしょうか」
「亜佐の妊娠について宗教院と話をしていると言っていただろう? 一部の保守派がごねていたんだが、ようやっと意見がまとまった。今日はそれを伝えに来たんだ」
もうひとつの丸椅子を指差して、ヘンリッカはロイリに座るよう促す。頭を下げてから座ったロイリと亜佐の顔が見える位置に移動して、ヘンリッカは足を組んで話し始めた。
「御神がアサの夢にご来臨されたことと、その時のお言葉。そして今回のアサの妊娠を、御神が吸血人をお救いになるために起こした奇跡だと、宗教院が認めることになった。……産まれてきた子に吸血人の特徴が見られたら、との条件付きで」
宗教院に認めてもらえたらと亜佐は期待したが、最後の言葉でがっくりと肩を落とした。
結局、産まれるまでこの状態は続くらしい。
「すまないな、アサ。お前の不貞を疑っているわけではないんだ。キノスやお前の警護隊から事情聴取をして、その可能性がほぼないことは聞いている。お前たちがどれほど深く愛し合っているかも、私はよく分かっているつもりだ」
「……はい」
もちろん、ヘンリッカがそれを信じてくれていることほど心強いことはない。
「ただ、大勢を動かすには確証が必要だ」
「承知しております」
不安はあるが耐えられる。ロイリがこの腹に触れ、愛しているよと囁いていてくれる限り。
両手を下腹部の膨らみに当てる。
「なあ、アサ。どちらだと思う? 男か女」
ヘンリッカの突然の問いに、驚いて腹を見下ろす。ただただ無事にとしか思っていなかったので、そういえば性別について考えたこともなかった。
それなのにどうしてか、頭の中に思い浮かんだのは。
「男の子……のような気がします」
「そうかそうか、楽しみだな」
嬉しそうに笑ったヘンリッカの顔を見て、突然輪郭がぼやけていた赤ん坊の想像図が、くっきりと色を持つようになった。
男の子だろうか。どっちだろうか。ロイリに似ていたらどうしよう。親馬鹿になってしまうかもしれない。将来のお嫁さんにヤキモチを焼いてしまうかもしれない。
ロイリは男の子と女の子のどちらがいいだろうと顔を見たが、彼は眉根を寄せ何か考え込んでいた。性別について考えている、そんな顔ではなかった。
険しい顔のまま彼はヘンリッカに尋ねる。
「産まれた子供に吸血人の特徴が見られた場合、宗教院は奇跡を認めた後どうなさるおつもりなのですか?」
「御神の奇跡により吸血人と人間との子が産まれたと正式に発表する。お前たちにはできるだけ平穏な暮らしをさせてやりたいが、子を産んでしばらくは救世の子だ何だと周りが騒がしくなるだろう」
ロイリの顔がさらに険しくなる。
「当分の間、アサと赤ん坊の警護強化を行うべきです」
「もちろんだとも」
「出入りの多い宮廷よりは、隣接する宗教院の方が安全かと」
「私も同じ考えだ。院も発表後の受け入れには賛成してくれている」
「了解いたしました。宗教院の警備は軍本部の管轄ですね。では現在の警護隊を再編し、本部と連携して宗教院の警備と」
取り出した手帳にさらさらとメモを取っていたロイリは、その手をヘンリッカに掴まれて言葉を切った。
「その話し合いはお前抜きでする。クラウゼ、お前は今後一切アサの警護に関わることはできない」
ロイリは深く眉間にしわを寄せ、ヘンリッカを睨むように見た。
「なぜでしょうか」
「奇跡の子を父無し子にするわけにはいかんからな。法を整えてお前達が籍を入れられるようにする」
「えっ」
素っ頓狂な声を上げたのは亜佐だ。ヘンリッカは亜佐の顔ににやりと笑いかけて、それからロイリを見やった。
「…………アサと、籍を」
呟いたロイリの顔に、いつもの無表情で隠しきれなかった様々な感情が浮かぶ。彼が口元を手のひらで隠す寸前、溢れる感情に震えた唇がヘンリッカにも見えたらしい。ロイリのそんな顔を見るのは初めてなのだろうか、彼女はさも愉快そうに笑った。
「妻の警護を夫にさせるわけにはいかんだろう。私情が入る。禁止されているわけではないが、夫婦で同じ仕事に関わることは避けられてきたしな」
妻、夫、夫婦。ふたりにはこれから一生関わることがないと思っていた言葉たちだ。
ロイリは手帳に目を落とし、一瞬ためらったあとに書き込んだ文字の上に横線を引いて消した。
「今、師団長と話し合っているところだ。エヴァンスを大尉にし、統括させる事になるだろう。あれにできると思うか?」
「問題ありません。適任かと存じます」
うんと頷いて、ヘンリッカは膝の上に置いていた神誓書に触れた。
「と、言うことだ。だからこれは、必要ない」
神誓書を持ち上げて、ヘンリッカは紙の封筒ごと書類を真っ二つに引き裂いた。
ロイリが数年かけて苦労して手に入れた書類だ。亜佐は思わず「あぁ……」と声を上げてしまったが、当のロイリは表情も変えず、ゴミ箱に放り込まれたそれに視線すら向けなかった。
そうか、と目元がじんわり熱くなった。
もう必要がないものだ。
「どれくらい先になるか分からんが……諸々が落ち着けば、警護さえ連れていれば少し外に出ることもできるやもしれんぞ」
情報過多でパンク寸前だった脳内が、ヘンリッカの言葉にとうとうパンクした。
亜佐はベッドの柔らかい布団の上へ、上擦った悲鳴を上げながらひっくり返る。赤く染まった頬を両手で押さえて唇を震わせた。
「ちょっと待って……」
「ああ、待ってやろう」
ヘンリッカの笑いを含んだ声に「どうしよう……」と呟く。
「つわりが吹き飛んだ。せっかく紅茶を頂いたのに」
笑う声が聞こえた。ふたり分だ。
「普通に飲んでも美味いらしいから、午後のお茶の時間にでも飲んでくれ」
「はい、ありがとうございます」
起き上がって、喜びと感動とあと何か色々と混じった顔で笑いかけると、ヘンリッカも噴き出すように笑ってから腰を上げた。
「さて、伝えたかったことはこれくらいかな。私は執務に戻る」
続いて立ち上がろうとした亜佐の肩を彼女が押して制する。
「また様子を見に来るよ」
「はい。ありがとうございます」
座ったまま頭を深く下げた亜佐に微笑みかけてから、立ち上がって敬礼するロイリに答礼してヘンリッカはあっという間に部屋を出ていった。
ロイリと目が合う。彼はまた笑って、まだ赤いだろう亜佐の頬に指を這わせた。
嬉しいことも幸せなことも全て何もかも、腹の中の子がロイリの子だという前提で進んでいる。
亜佐は少し震える手で腹を撫でながら、中の子に向かって呟いた。
「お願いだから、赤いおめめで産まれてきてね」
元の世界で、妊娠中に食べるときれいな目の子供が産まれるという食べ物の話を聞いたことがあるが、一体何だったか思い出せない。
ロイリが亜佐の手に触れて、腹に唇を寄せる。
「あまり母様を困らせるなよ」
いつも亜佐を甘やかす時とはまた違う優しい声が聞こえて、喉まで出かかっていた食べ物の名前が見事に吹き飛んだ。彼はこんな声も出せるらしい。
「……男の子か」
ロイリはロイリで、そう呟いて意識をどこかへ飛ばす。
何を考えているのか手に取るように分かる。数ヶ月前に彼の兄が同じような顔をしていたからた。
「……待ってください。まだ男の子だとは決まってないし、どこかで噂を聞いたらしいベルタが赤ちゃんのお下がりを置いておいてくれるって言ってるから、まだ服とか赤ちゃん用品とか買わないでくださいね」
何か反論しようとしたのかロイリは口を開いて、すぐに閉じた。
渋い顔をした彼がボソリと言う。
「……アドルフの気持ちが今ならよく分かるよ」
亜佐にはベルタの気持ちがよく分かるようになるのかもしれない。
「産まれるまで、男は環境を整えてやるくらいしかできないのに」
少し困ってしまうが、しかし子供のことを考え行動してくれることがこんなにも嬉しくて仕方がない。
その気持ちをどう伝えればいいのか分からずに、とにかく抱き締めたくて彼の頭に手を伸ばす。しかし逆に抱え込まれ、ロイリの胸の中にすっぽりと収まることになった。
「さっき中断したプロポーズ。やり直すから一旦保留にしておいてくれ」
「はい、楽しみにしています」
ここ数ヶ月で叶うはずのなかった事が次々と叶い、もしかしたら夢を見ているのではと錯覚する。
ロイリの腕に触れる。その感触を確かめながら肩に触れ首に触れ、最後に頬を撫でた。
驚いたことに、これは夢ではないようだ。確かに彼はここに存在しているし、自分も、そしてふたりの子供もここにいる。
「もし外に出られるようになったら、どこへ行きたい?」
亜佐の手に頬を擦り付けながらロイリが尋ねる。
行きたいところはたくさんある。アドルフとベルタたちの家にも行ってみたいし、この世界にはどんな店があるのかも見てみたい。
面白いと噂の演劇や、オーケストラのコンサートにも行ってみたい。
でも、一番最初に行きたいのは。
「ロイリのお父さんとお母さんと、あと、バンドラーさんのお墓参りに行きたいです」
ロイリは目を丸くして、すぐに優しく笑った。
「分かった。一緒に行こう」
その日から、ロイリは廊下で亜佐に会うといつものようにキスをして、そのあと足元に片膝をついて腹にもキスをするようになった。
その姿を見て、亜佐を裏切り者だと罵る声は、いつの間にか聞こえなくなっていった。




