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砂糖菓子でできている  作者: 未礼
五章

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52、離すものか




 どうしてこんなに眠たいのか。

 ふらふらと宮廷の廊下を歩きながら、亜佐はそのまま寝てしまいそうなほどの眠気と戦っていた。

 思い返せば、ヘンリッカの私室で居眠りをしてしまった日の少し前くらいから、ずっとこの眠気に悩まされていた。

「アサちゃん、大丈夫?」

 後ろをついてきているエヴァンスがそう尋ねるのももう何度目か。

 瀕死の亜佐を見つけて医務室へ運び込んだのはエヴァンスらしく、それ以来彼はすっかり心配症へと変貌した。どうやら自分には人を心配性にさせる才能があるらしい。

 これ以上心配をかけないよう、振り返って笑顔で「大丈夫です」と言う。

 この症状は時々あった。月一のあの日の少し前に、こんな風に抗いがたい眠気に襲われる。

 ただここまでひどい上に期間が長いのは初めてだ。

 さっきもピアノに突っ伏して居眠りし、フリードハイムに叩き起こされて医務室に行ってこいと練習室を追い出されたところだった。

 エヴァンスに気付かれないよう細く息を吐く。さらに今日は吐き気もあった。薬があるのなら出してもらって、医務室で少し眠らせてもらおう。

 医務室までもうすぐだ。そんな時、前から歩いてきた人物に亜佐は目を輝かせた。

「ロイリ!」

 手元の封筒に落としていた視線を上げて、ロイリは亜佐を見つけて顔を綻ばせる。

 駆け寄ると、彼は亜佐の襟元のピンバッジを確認してから、頬を両手で包み込んだ。

 数日前に人間に関する法の説明会があり、ヘンリッカ王女手ずから壇上に上がり説明をしてくれたおかげで、件の法はすっかり周知された。初動の不手際に人間側から少し不安の声が上がったが、ヘンリッカが間に入りさらに当分警備を増やすことで今のところ大きな問題も混乱も起こっていない。

 その説明会以来、ロイリは亜佐に会うとピンバッジを確認してから顔中にキスを降らせる。

 恥ずかしいから唇はやめてくれとお願いしているが、この国ではそこかしこで行われている挨拶だと彼は笑ってやめてくれない。

 亜佐は降ってくるであろうキスを受け止めるため目を細める。

 それなのにいつまでたってもロイリは亜佐の頬を掴んだままじっとしていた。目を開くと、その眉間には深いしわが寄っていた。 

「……顔色が悪いな」

「ああ、ええと」

「今から医務室へ行くところです」

 大事にしないよう言葉を選ぼうと思っていたのに、先にエヴァンスがそう言ってしまった。ロイリはさらに顔を険しくした。

「どこが悪いんだ」

「大したことないんです。ちょっと眠たいだけで」

「眠い?」

「ピアノ弾きながら寝てしまったんですよ。この真面目でピアノ狂いのアサちゃんが」

 エヴァンスをじっとり見上げる。真面目は褒め言葉だがピアノ狂いは違う。しかしエヴァンスに何か言ってやる前に、ロイリが亜佐の腕を引いて歩き出した。もちろん行き先は医務室だ。

「ロイリ、仕事は?」

「昼休憩中」

「お昼ご飯は?」

「後でいい」

 亜佐の顔も見ずに彼は医務室の扉を開く。こうなればもう誰も止められない。

 宮廷の大きな医務室はいくつかの区画に分かれていて、人間用は一番奥に小さな個室がある。

 ロイリはノックをして、キノスの間延びした返事と同時に扉を開けた。

 扉の向こうで手を振るエヴァンスに諦めた顔で手を振り返して、亜佐は部屋の中へ引きずり込まれた。

「先生、見てやってくれ」

「おやおや、これはまた一大事?」

 食べていたサンドイッチを口の中に放り込んで、手で白衣をはたきながらキノスが立ち上がる。ロイリの手によって診察台の上に乗せられた亜佐は、困ったようにキノスを見上げた。

「いえ、違います。ただ、すごく眠たいだけで」

「眠たい?」

 診察台の前の丸イスに座ったキノスが首を傾げた。

「あと時々ですけど吐き気があって。その、月のものが来る前の症状が少し強くて、あと長くて」

「ふんふん、眠気がずっとあって、吐き気もある」

「はい」

「腹痛と出血は?」

「どちらもまだないです」

「満腹の時や空腹の時に吐き気が出たりする?」

 口元に手を当て考える。

「そう、ですね。空腹の時に強くなります」

 ついでにまだキノスの机の上に置いてあるサンドイッチのいい匂いも、今はなぜか不快だった。

 キノスはじっと何かを考えたあと、亜佐の顔を見た。

「君、月経不順だったよね」

「はい」

「直近の月経はいつだったか覚えてる?」

 眉をしかめて考える。

 神様のせいで死にかけ、治ったその後に一度だけあったはずだ。正確な日付が思い出せない。ロイリを見上げ小声で尋ねる。

「お腹が痛くて起き上がれなくて、あなたに腰を撫でてもらった日……」

 せっかく彼が部屋を訪ねてきてくれたのに、腰を撫でてもらっている間に寝てしまい、気付いたら残っていたのは置き手紙だけで寂しい思いをした日だ。

 ああとロイリが頷いた。

「俺が出張から帰ってきて、お前が医務室から部屋へ帰った日の、確か……三日後」

「じゃあ十二月三日だね」

 カルテにさらさらと記録して、キノスは立ち上がった。

「よし、診察しようか。クラウゼ中佐、カーテンの向こうに行っててもらえますか」

「分かった」

 亜佐の頭を撫でて立ち上がると、ロイリはカーテンの向こうへ消えた。

「アサ、そのまま寝転んで膝を立てて。ストッキング?」

「いいえ」

「じゃあそのまま」

 言われたとおりにしてキノスを見上げる。彼は亜佐の体に薄い布をかけ、近くの器具やら何やらが入った台をごちゃごちゃと漁る。そしてそのまま薄い布の、亜佐のスカートの中へ手袋をした手を入れた。

「内診をするね。ちょっと冷たいよ」

 内診と聞いて覚悟を決める余裕もなかった。突然の衝撃に思わず腰を引きかけて「動かないで」と怒られる。

 キノスのもう片方の手が下腹部を押さえる。内からと外から彼が調べているものは、亜佐がこの世界のロイリのそばで暮らしていくには必要のないものだ。

 彼が何を疑っているのかようやく分かったが、でもそれだけは絶対にない。

「うーん」

 指が引き抜かれ、キノスは脱いだ手袋をゴミ箱に放り投げた。

「ちょっと専門家呼ぶね」

 出ていったキノスがすぐに白衣を着た初老の医者を連れてくる。彼にも内診をされ、さらに全身を触ったり見たりしたあと、ふたりで小声で何かやり取りして初老の医者は出ていった。

「中佐、いいですよ」

 亜佐が衣服を整え終えたのを見て、キノスがロイリを呼ぶ。ロイリは硬い顔をしたまま、亜佐の隣に腰を下ろした。

 手に持ったバインダーに何か書き込んで、キノスは顔を上げてふたりに向かってにこりと笑いかけた。

「うん、妊娠三ヶ月から四ヶ月だね」

 ぽかんと口を開けて、亜佐は喉から裏返った声を漏らす。

 月経前の症状かホルモンバランスが大きく崩れている、そう言われるとばかり思っていた頭はその言葉を受け止めきれない。

 でも、だって、人間と吸血人には子供はできないはずだ。

 自分の腹を見下ろす。

 できないと、みんなが、言っていて。

「人間と吸血人は妊娠しないって……」

「うん、しないよ。猫が犬の子を身篭る事ができないように、人間は吸血人の子を身籠る事はできない。姿形はよく似ているけど、吸血人と人間は違う種族だ」

「……もう一度診察してください」

「君がそう望むのなら何人か連れてきてもう一度診るけど、僕もさっきの医者も……彼は王子殿下も取り上げた国随一の産科医だけどね、ふたりとも妊娠していると診断した。かなり高い確率で君は妊娠している」

「で……でも、どうして……!」

 悲鳴を上げるように言って、そこでようやく気付いた。

 キノスは、亜佐が誰か、他の人間との子供を身籠っていると疑っている。

 まさか。

 震えながらロイリを見上げる。

 そして彼の表情を見て、彼もキノスと同じ考えなのだと知った。

「違う……!」

 何度も首が外れそうなくらい横に振る。

「私は……!」

 ロイリの唇が「シラサキ」と震えるように動いた。

「違う!!」

 思わず手が出た。ロイリの襟元を強く握って怒鳴るように訴える。

 最近白佐木とは適度に距離を保って接している。

 以前のように話はするし、楽団でも関わることは多い。それでも前のように距離が近かったり食事に誘われたりは一切なくなった。

 白佐木の方から距離を取ってくれていた。

 襟元にしがみついたまま、ロイリの顔を見ることができない。彼は今、亜佐を疑っている。

 彼は今、亜佐を信じていない。

「アサ、落ち着いて。ちょっと座ろうか」

 亜佐の手をロイリから引き剥がして、キノスはゆっくりと診察台に座らせる。

 俯いた顔を上げられない亜佐を覗き込むように、キノスは体を屈めた。

「怖がらなくていいよ。正直に言ってほしい。誰かに無理やり、って事はなかったかい?」

「ありません……」

「朝起きた時、体に違和感があったりとか」

「ありません」

「僕以外の医者や研究者に医療行為を受けたことは?」

「ありません」

 全て覚えがなく首を横に振る。

「私には二十四時間警護がついています。部屋も要人用の客間で、窓は人が入れない作りになってる。部屋のあるフロアは元々警備がかなり手厚い。私に悪意を持って近付くのは難しいと……」

「お酒の席で何か」

「ありません。もう何ヶ月もお酒は飲んでません。……私は……私は、本当にロイリしか……」

 そう言いながら、絶望に襲われる。

 それはそうだ。ある日突然、お前の飼い猫は犬の子を孕んでいると言われてすぐに納得できる人がいるわけがない。それくらいありえない話だ。

「ロイリ」

 でも、それでも、それ以外ありえない。考え付かない。この人しかいない。

「私は、あなただけです」

 これまで何度も言い聞かせてきた。

「あなただけを愛しています」

 これまで何度も繰り返してきた。

「私は、あなたを裏切りません」

 これまで何度も何度も確認してきた。

 ロイリが不安になるたびに、自分が不安になるたびに。

 いつものように分かったと頷いて欲しい。そんなこと知っていると、微笑んで頭を撫でて欲しい。

「アサ」

 ロイリの声に、診察台から跳ねるように立ち上がる。胸元で握り締めている手が大きく震えている。視線をそれ以外にそらせない。よたよたと後ろへ後ずさった。

 今ロイリはどんな顔をしている?

 疑っている? 絶望している?

 裏切り者だと、憎んでいる?

「アサ」

 ロイリの手が伸びてくる。震える手に触れそうになって、もう我慢できなかった。

 その手から逃れるように、亜佐は踵を返して駆け出した。

「アサ!」

 背後から聞こえるロイリの声を全力で振り切る。

 部屋の外に飛び出すと「アサちゃん!?」と叫ぶエヴァンスの声がしたが、それでもそのまま走り続けた。

 この世界に来てから、これだけ必死に走ったのは初めてかもしれない。

 いくつか角をデタラメに曲がり、足が絡まって走れなくなった。壁に背中をつけてへたり込む。

 息をつめていたが、追いかけてくる足音は聞こえなかった。

 通行人がいなくてよかった。声を押し殺すことができず、亜佐は声を上げて泣いた。

 どうすればいい。

 ロイリに見捨てられたらどうすればいい。

 他の男の子供を身篭るような女には愛想が尽きたと言われたら。

 どうやって生きていけば。

 足元が溶け落ちるような不安に襲われる。この世界に落ちてきて、ひとりぼっちで震えていた時と同じだ。心細くてたまらない。

 腹に手を当てる。

 気持ちが悪い。腹も痛いような気がする。

 何をしたらいけないのか。さっき走ったのも駄目だっただろうか。

 どうすればいいのか分からない。

 どうしてこんな事になっているのかも分からない。

 あれだけ欲しかった子供が今この腹の中で生きている。絶対にロイリの子だ。それなのにどうして。

「ごめんね……」

 純粋にその存在を喜んであげることができない。こんなに酷い母親がいていいのだろうか。

 遠くから足音が聞こえる。それに気付いて顔を上げた頃には、その足音はずいぶん近くまで来ていた。

 腰を上げたと同時に、曲がり角に飛び込み減速したロイリと目が合った。

「アサ!」

 立ち上がれずに尻餅をついた体を、ロイリはあっという間に引き寄せて強く抱き締めた。

「ああ、よかった、見つけた……!」

 離れようともがくと、息ができないほどだった彼の腕が緩む。腕は緩んだが、また亜佐が逃げないよう両手首をきつく掴まれたままだ。

 顔を上げることができない。

「ロイリ……本当に、私は、あなたしか……」

「アサ、俺は」

「やだ、嫌だ、見捨てないで……」

 何度も首を左右に振る。

 もう抱きしめられていないのに、喉が引きつって息がしにくい。酸素が不足し始めて、耳鳴りが響く。それなのに。

「お前を信じる」

 そう言ったロイリの声だけは、はっきりと頭の中に響いた。

 呆然と彼を見上げる。

 信じて欲しいと願っていたのに、その言葉を唐突には信じることができない。

 ようやく大人しくなった亜佐の頬の涙を、ロイリは何度も流れ落ちるたびに拭った。

「体は辛くないか? 早く医務室へ戻ろう」

 立ち上がったロイリが腕を引くが、腰が抜けたのか全身に力が入らず立ち上がることができない。

「……亜佐さん?」

 少し離れたところから名を呼ぶ声がして、亜佐は体を固まらせた。すぐに振り向くことができない。

 声で分かる。どうして、こんな時に限って会ってしまうのか。

 泣き過ぎて腫れぼったく、ちゃんと開かない目を白佐木に向けた。

 彼は目を丸くして一歩足を踏み出して、それからロイリを睨み付けた。

「……何泣かせてんだよ、お前」

「白佐木さん……」

「何したらそれだけ泣かせられんだよ……!」

 ロイリはちらりとだけ白佐木を見て、すぐに亜佐に視線を戻した。亜佐のわきに手を差し入れて「立てるか?」と抱き上げる。やはり足に力が入らずふらりとよろけた。

 その手をロイリと、駆け寄ってきた白佐木が掴んだ。

「お前のほうが亜佐さんを幸せにできるって、そう思ったから俺は諦めようとしてんだよ! それなのに……不幸にするなら、泣かせるんなら手ぇ離せよ!」

 人間には恐ろしいはずの赤い目を睨み付け、白佐木が叫ぶ。

「俺だって亜佐さんが好きなんだ……!」

 ロイリの手が、さらに亜佐の腕を握り締めた。

「絶対に渡さない。離すものか」

 睨み合って数秒。

 じっとロイリを見上げる。人を殺せそうなほど強い視線にも、亜佐の腕をへし折りそうなくらいの強い力からも、嘘など微塵も見て取れない。

 白佐木が震えた息を吐いて、ぎりりと歯を鳴らして、何度も何度もためらいながらゆっくりと亜佐の手を離した。

「……亜佐さん、ちらっともこっち見てくれないんだもんな。どれだけ脈なしだよ、俺」

「……ごめんなさい」

「その男が嫌になったら、遠慮なく俺に乗り換えていいよ」

「ありがとう、でも……ごめんなさい」

 そんな日はきっと一生来ない。

 白佐木はふらりと一歩下がって、それからロイリを指差した。

「今度俺の前で泣かせてみろ! 絶対奪い取ってやるからな!」

 吐き捨てるように言って、白佐木は亜佐を見る。すぐに断ち切るように踵を返すと、角を曲がってあっという間に姿は見えなくなった。

 ロイリが握り締めていた腕をようやく緩めた。

「信じてくれるんですか……?」

「信じる」

「本当に……?」

「本当に。お前が俺を裏切るはずがない。そうだろ?」

「……そうですよ」

 耐えられずに、二度三度ロイリの胸を叩く。

「そうですよ……!」

「ごめん、一瞬だけ……一瞬だけ疑ってしまった」

「馬鹿!」

「ごめん」

 謝るロイリの肩に倒れ込む。彼は軽々と受け止めて、そして亜佐を抱き上げた。その肩にぐったり体を預ける。

 安堵と不安に泣いて泣いて、ただただ消耗して泣き続けることすらできなくなった。

 消毒液の匂いがして顔を上げる。いつの間にか医務室に戻ってきていたが、数分前までの整頓されていた部屋は今は見る影もない。なぜか部屋は書類にまみれていた。

 その真ん中で、書類を抱えたキノスが顎に手を当てひとりで何やら呟いている。

 床を白く染める書類を踏まないようにロイリが亜佐を診察台の上に座らせた。それを見計らったように、キノスはふたりに歩み寄ってきた。

「ねぇアサ。神さまがさ、血を混ぜようと思う、って言ってただろう?」

 そう尋ねながらも、キノスの瞳は書類に落ちたまま忙しなく左右に動く。

「ずっとさ、君の血に、何かの血を混ぜたと思っていたんだ。あの時君の体に現れた症状は拒絶反応によく似ていたから」

 確かに、キノスは何度かそう亜佐に話していた。

 彼の腕から紙がひらりひらりとこぼれ落ちる。

「でももし、血を混ぜるの意味が、吸血人と人間の血を混ぜる……異種族間で子供を作らせるって意味なら?」

 顔を跳ね上げる。

 切れ長の目を真ん丸にしているロイリと目を合わせて、それからまたキノスを見た。

 あの時の神様の言葉を思い出す。

『血を混ぜてみようと思うんだ』

『君もきっと喜んでくれるよ』

 確かに喜ぶだろう。それがロイリとの子供なら。

 キノスはまた書類に視線をやり、ぶつぶつと独り言のような声で話し始める。

「それなら、クラウゼ中佐しか受け入れていない君が妊娠した理由になる。今、君のデータを隅から隅まで見てみたけど、吸血人の特徴は見られなかった。なら人間のまま、吸血人の子を宿せるよう…………いやしかし、そんなことが…………まさか…………それによって、拒絶反応が…………アサの血が、自身の吸血人的部分を治癒したとしたら…………いや、でもそれなら治癒力の消失はどう説明すれば…………亜種……進化……いやでも……でも」

 言葉を切って、キノスは長い間黙り込む。それからぐっと手に持った書類の束を握ると、それを天井高く放り投げた。

「ああもう! 僕達が命を削って行っている研究を、一瞬にして無意味なものにしてしまう……! 神様なんか大嫌いだ!!」

 舞い落ちる書類の向こうに、髪を掻き乱すキノスが見えた。

 最後の一枚が地面に落ちて、がっくり項垂れている彼に亜佐は尋ねる。

「人間や動物の血を摂取しなくなって寿命に影響が出ているのなら、いっそ混ぜればいいって事ですか?」

「そういう事なんじゃない?」

「そんな……単純な事なんですか?」

「そんなわけあるか、って言いたいけど……」

 言葉を切って深い深いため息をついて、キノスはぞんざいな手つきで書類を拾い始めた。

 手伝おうとしたがロイリに止められ、診察台の上でぼんやりとふたりを見やる。

「そうか……あの日の晩、私がロイリの子供が欲しいって泣いてるのを見て思いついたのか……」

 本当はやっちゃダメなこと、と言っていた。神様の世界にもルールはあるのだろう。

 兄神様たちにバレて、こっぴどく怒られればいいのに。

 大きなため息をついてから、亜佐はじっと自分の腹を見つめた。

 本当にここに赤ん坊が入っているのだろうか。

 温めるように両手を当てる。まだ全く膨らんではいない。

 それでも、本当に。

 拾った書類をキノスに渡し、ロイリが亜佐のすぐ隣に座り肩を抱く。その顔をじっと見上げる。

 この腹の中に、この世界で一番愛しい人の子供が。

「君のお腹の中の子がクラウゼ中佐の子だと仮定して話を進めよう」

 ぎくりと視線を下げる。いつの間にかキノスが目の前の椅子に腰を下ろしていた。

 ロイリの子だと信じて疑わなかったが、実際に第三者からそう言われると心臓が強く鳴る。

 キノスの言葉を何度も噛み締め、徐々に大きくなる歓喜に体を震わせる亜佐とは裏腹に、彼は珍しく真面目な顔で話し出した。

「前代未聞の出来事だ。前例がない。何が起きるか分からない。三、四ヶ月まで育ってるって事は母体はちゃんと胎児だって認識してるみたいたけど、胎児が本当に人の形をしているのかも僕たちには分からない」

 亜佐の肩を抱くロイリの手に力がこもる。

「それにアサ、君の骨格では吸血人の、しかもその中でも背の高いクラウゼ中佐の子は産めない可能性が高い。大事を取って早目に腹を切ることになると思う」

「はい」

 躊躇なく返事をした亜佐を、ロイリが見下ろす。

 怖くないわけではない。しかしそれは全ての妊婦に起こり得ることだ。

 ベルタだって辛い怖い手術を乗り越えて、今元気な赤ちゃんと一緒に暮らしている。

 この子のためなら。ぎゅっと腹の前で手を握り締める。

「あと、あまりしたくない話だろうけど確認をとっておくね。万が一の時は、胎児ではなく君の体を最優先にする。それは同意してもらえる?」

 この子のためなら。そうやって繰り返し必死に心を支えようとする亜佐を叩き潰すような言葉だった。何も言えない亜佐に、キノスは目を細める。

「同意できないのなら、僕たち宮廷医師は君の妊娠に協力できない。今ならギリギリ堕胎できる」

 驚いて、それから強くキノスを睨み付けた。

「助けられる命を助けるのが医者の役目だ。君と胎児、万が一の時に助かる可能性が高いのは、間違いなく君だ」

「そんなの……っ!」

「君の子供に対する思い入れが人一倍強いのは知っているよ。だからこそきちんと同意をもらいたい。ただでさえ君は特殊なんだ。僕たちだって、初めての事例を手探りで挑むんだ。一秒を争う場面で君と意見が合わずに治療が遅れて……ふたりとも死んでしまったらどうするの?」 

 立ち上がった亜佐の手を、ロイリが掴んで引いた。その顔には、わざと押し殺しているのか何の感情も浮かんでいなかった。

「俺も先生と同じ考えだ」

 呆然とロイリの顔を見る。どうして、と言葉にならない。

 ふたりの子供だ。ふたりの子供なのに。

「どうして、そんなことを言うんですか……!?」

 信じるなんて言ったくせに。

「やっぱり、信じてないんだ……! 自分の子じゃないって思ってるから、そんなことが言えるんだ!」

 ロイリの眉が吊り上がる。

「中佐、乱暴は……」

 止めようとしたキノスの手を払い除け、ロイリは亜佐の肩を強く掴んだ。

「お前は……!」

 彼の顔に浮かんでいるのは強い怒りだった。

「お前は、また俺にあんな思いをさせる気なのか……!? 俺はまた、お前が死ぬのをそばで看取らなければいけないのか!」

 耳をつんざく怒声に足が震えて、診察台の上に座り込む。それでもロイリは止まらない。覆いかぶさるように、彼は怒りと言うには悲痛なものを亜佐にぶつけた。

「俺だってお前との子供が欲しかった! 子供が欲しいというお前の願いを叶えてやりたかった! それが叶ったことを、お前と同じくらい喜んでる! でももし、お前に何かあって子供だけが残ったら、俺はどうしたらいいんだ……! お前を殺した子供を、俺はひとりきりで、どうやって愛したらいい……! もし、ふたりともいなくなってしまったら……俺は……」

 片手で顔を覆って、ロイリは何度も首を横に振った。

「もうあんな思いをしたくない……苦しそうに呻くお前の息が止まるのを、何もできずにただただ待つだけの、あんな……」

 彼の涙を思い出す。ひとりにしないでくれと、お前がいないと生きていけないと泣いた彼の顔を。

「頼むアサ……お前がいなくなるくらいなら、子供なんて……」

 この腹を見つめながら、ロイリはそれ以上言葉を続けることができなくなった。

 腹の中の赤ん坊はまだ言葉を理解できないし、耳が聞こえているのかすら分からない。

 それでも、その言葉の続きを言うことなんてできなかったようだ。

 彼を信じ切ってあげられなかった。ひどい言葉をかけてしまった。

 一瞬でも疑われてあれだけショックを受けたのに、同じことを彼にしてしまった。

「ごめんなさい……」

 ロイリの手が震えて、肩から離れる。

「ごめん……痛かったか?」

 首を横に振る。

「ごめん」

 ロイリは呟いて、診察台に座り込んだ。

 膝の上で強く握り締めている手を見つめる。

「……分かりました。万が一の時は、キノス先生の指示に従います」

 ロイリが深く俯く。亜佐はキノスの顔を見て、懇願するように祈るように指を組んだ。

「だから、万が一なんてないように、どうか……」

 ふたりのやり取りを見ていたキノスは、ようやくいつもの笑顔を浮かべた。

「うん、分かったよ。……不安を煽るようなことを言ってごめんね。そうならないように全力を尽くすのが僕たちの役目だ。ここでなら、この国最高水準の医療が受けられる。全力で君と赤ちゃんを支えるよ」

「信頼しています、先生」

 うんうんと頷いて、キノスは「よしっ」と膝を叩いてロイリを見た。

「しっかりしてください、お父さん」

「……してる」

 呟きながら、ロイリは顔を上げる。大きく息を吸い込んでから彼は背筋を伸ばした。

「うーん、宗教院とヘンリッカ王女と今後の方針を話し合うまで、周りには黙っておいた方がいいですね」

「そうだな。警護隊長とフリードハイム氏には伝えておこう。俺から言っておく」

「はい。さっきの産科医には一応口外しないでとは言ってますけど、後でもう一度念を押しておきます」

「了解した。まず王女殿下と話をしよう。午後からお会いするから、その時に時間を取っていただけるようお願いする」

「ええ、じゃあそっちはお願いします」

「あの……」

 次々と決まっていく事柄に、亜佐は不安になって口を挟む。

 とても大切なことを聞きそびれていた。首を傾げたキノスに尋ねる。

「生まれてきた子供が本当にロイリの子供かどうか調べる手段はあるんですか……? 身体的特徴は私に似ると思うんですけど……」

 キノスは顎をさすって唸り声を上げる。

「うーん、そうだねぇ。中佐の子だって断定できる手段はまだないんだ。ただ、吸血人の子かどうかは分かるよ。肌と髪の色は君に近いけど、恐らく目は赤目になるはずだ」

 やはりDNA検査などはまだできないのかと落胆したが、赤目になるという言葉には驚いた。

 昔、ロイリと話をしたことがあった。もしふたりの子供が生まれたら、おそらく黒い目だろうと。

「簡単に言うとね、君たち人間の虹彩は、茶、黄、青で構成されていて、君の黒に近い焦げ茶の目は優性の茶一色で構成されてる。対して吸血人は赤と茶の二色で構成されていて、しかも赤のほうが優性だ」

 確かメラニン色素がどうのこうのだったはずだ。よく思い出せない。

「僕たちがいい例だね。僕はほとんど茶が入っていないから薄い赤に見える。クラウゼ中佐は茶が多めに混じっているから、濃い深紅色だ」

 ふたりの虹彩を交互に眺め、うんと頷く。

「だから君と中佐の子なら、中佐と同じかもう少し深い赤色になるかもしれない。どちらにしろ人間にはありえない色になるから、必ず分かるよ。ま、極稀に劣性の茶色がでることもあるし、全て理論上の話だから……うん、産まれてからのお楽しみだね」

 ヘンリッカや宗教院まで巻き込んで、生まれてきた赤ん坊が人間の特徴しか持っていなかったらと思うとゾッとするが、もう信じるしかない。

 亜佐が信じてやらなければならない。

「もう質問はない?」

 首を縦振る。質問はない。

 だだ、そろそろ限界が来ていた。

 キノスのデスクを指差す。

「サンドイッチの匂い……気持ち悪い……」

「サンドイッチ……ああー、匂いつわりか! 中佐、もう戻られます? サンドイッチ持っていってください」

 慌ててサンドイッチの紙袋を閉じて、キノスはそれをロイリに差し出した。

「頂くよ。ちょうど昼飯を食いっぱぐれていたところだ」

 少し苦笑いして受け取って、ロイリは亜佐を振り返る。

「アサ、戻るよ」

「はい、お気をつけて」

 亜佐の体に触れるかどうか迷ったようにロイリの手が宙をかく。その手に触れると、彼は指を絡め取って唇を押し付けた。

「今日はもうゆっくり休め」

「はい」

「無理をするなよ。食べられるようなら少しでも口に入れろ」

「はい」

「あとは」

 ロイリは口をつぐむ。たっぷり時間を置いてから、重たそうに唇を開いた。

「言いたいことがたくさんある……」

 困ったようなロイリの言葉に、唇から笑いが漏れた。心配性の彼は、これからどれだけ不安な日々を過ごすのだろうか。

「あとでゆっくり聞きますよ。まとめておいてください」

 うんと頷いて、彼は亜佐の頬に指先で触れる。次に肩に触れて腕に触れて、最後に腹に伸ばされた。

 しかし指は触れる前に引っ込められ、ロイリは踵を返してあっという間に部屋を出ていった。

 触ってもらえなかった腹に代わりに触れて、亜佐は診察台の上で横になる。

「ひどい車酔いみたい……さっきより酷くなってます」

「ははは、妊娠してるって分かった途端につわりが酷くなるって聞いたことあるけど、ホントなんだねぇ。この部屋の匂いは大丈夫そう?」

「もう少しサンドイッチの匂いが消えたら、大丈夫だと思います」

「なら少し休んで、その後色々採取させて」

 目を輝かせるキノスが持ち上げたステンレスのバットに注射器や試験管が並んでるのを見て、妊娠した喜びに浸るのはもう少し先だと亜佐は悟った。




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