5、屋敷と女中
ぽかんと口をあける。顎が外れるかと思った。
広大な庭、巨大な屋敷。いや、もうこれはちょっとした城と言ってもいいのではないか。
ただでさえ馬車と車が行きかう近代ヨーロッパのような街並みに驚いていたところだったというのに。
車の窓からその光景に呆気にとられていると、運転していたロイリが降りてきてドアを開けてくれた。
「……すみません、ありがとうございます」
礼を言って恐る恐る降りる。
「すまない。今、庭の工事をしていて奥まで車を入れられないんだ。体が辛いようなら抱いていくが」
「いえ! 大丈夫です。歩けます」
そうは言ったが、フレデリカが用意してくれた地面を引きずる長さのワンピースを着ているせいで足元がおぼつかない。
時々ついてきているか確認するように振り返るロイリの後ろを歩きながら、亜佐は田舎者のようにきょろきょろと辺りを見渡した。
ロイリは爵位はまだないと言っていたから、貴族ではないと思っていた。しかし、これが貴族でないというなら、この世界の貴族とは一体どれほどのものなのだろうか。
「大きいお家ですね……」
「当主である兄がうまいことやってるからな」
口から間抜けな声を漏らしながら広い広い庭を歩く。
誰かが好きな花なのだろうか、バラによく似た花が咲き乱れている。そしてその花の向こうにいる黒く日焼けした中年の男と目が合った。恐らく庭師だろう。
驚いたように目を丸くした彼に思わず会釈をすると、彼は慌てたように帽子をとって深く頭を下げた。亜佐も慌てて立ち止まってお辞儀をして、ロイリに駆け寄った。
「まずは、どうするか」
歩きながらロイリが独りごちる。
「先に少し休んだほうがいいな、それから」
「あの、先にシャワーを浴びさせてもらえませんか……?」
ようやく言えた。軍にいる時に機会を窺っていたが、とうとう言い出せなかったことだ。
「ああ、そうだな。昨日から風呂に入ってないのか」
急に恥ずかしくなって彼から一歩下がって歩く。とても汗臭いだろう。
間近に迫った屋敷はますます大きい。
巨大な扉を開いて、ロイリはさっさと屋敷に入っていった。亜佐は「お邪魔します」と小さく呟いて、恐る恐る扉をくぐる。
大きなホールに豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。またしても口を開けて眺めていると、ロイリが声を上げた。
「ベルタ」
ロイリを見て、彼の視線を追いかける。奥の扉を閉めて音もなく近寄ってくるのは、紺色の服に白いエプロンをつけた年若い女だ。彼女は無表情のまま、美しい所作で頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ロイリ様」
「ああ。彼女がさっき電話で言った客人だ」
ベルタと呼ばれた女が亜佐を見る。
「アサ、彼女はベルタ。ここにいる間、お前の世話をする女中だ」
「えっ」
驚いて声を上げる。女中、メイドとかいうものだろうか。世話をするというのは、一体どこまでしてくれるのだろうか。
「あの、私、自分の事は自分で……」
「アサ様。よろしくお願いいたします」
亜佐の声を遮ってベルタが頭を下げる。よく通る声だ。口をつぐんで、亜佐も頭を下げた。
「よろしくお願いします……」
「ベルタ、アサに湯を使わせてやってくれ」
「承知いたしました」
ロイリは亜佐を振り返る。
「風呂に入った後、少し休んでいろ。夕食の時に兄夫婦を紹介するよ」
行ってしまうのかと不安になりながら、小さく頷いて「分かりました」と返事をする。
「ベルタ、頼んだ」
「かしこまりました」
ベルタの返事を聞いてから、亜佐の頭をくしゃりと撫でてロイリは踵を返した。そしてベルタが出てきた扉の向こうへ姿を消した。
「アサ様、こちらへどうぞ」
「は、はい」
様付けに違和感を感じながらも、歩きだした彼女の後ろを付いていく。
大きな屋敷をくねくねと、階段を登ったり長い廊下を歩いたり。部屋につく頃には、亜佐はぜいぜいと肩で息をしていた。道順は全く覚えられなかった。今ここでひとり放り出されたら、屋敷の中で遭難する自信がある。
「こちらがアサ様のお部屋でございます」
そういってベルタが開けてくれた扉を、こわごわとくぐる。あまりの広さに絶句した。
亜佐が向こうの世界で住んでいたワンルームマンションの、二倍ほどの大きさがある。
またしても間抜けな声を出しながら中へと進む。天蓋付きのベッド、革張りのソファの近くには、火はついていないが暖炉まである。
白くて可愛らしいデザインの鏡台の前を通りかかって、その鏡に写った自分に飛び上がるほど驚いた。
髪の毛はベタベタだし肌も薄汚れている。こんな格好で色んな人に会ったのかと思うとめまいがした。
「こちらへ」
奥の扉を開いてベルタが言う。どうやら部屋に備え付けの浴室があるようだった。まるで高級ホテルの一室のようだ。もちろん、高級ホテルになんて泊まったことはないけれど。
浴室には大きな猫足のバスタブが置いてあり、もう湯が張ってある。温かい湯気に包まれてほぅと息をついた亜佐の背中に、ベルタが「失礼します」と声をかけて触れた。驚いて肩越しに振り返ると、彼女はワンピースの背中のボタンを外しているところだった。
「あ、あの、自分でできますから大丈夫です……!」
慌てて声をかけると、彼女は出会ってからぴくりとも変わらない無表情のまま亜佐を見下ろした。
「お怪我をされていると伺いました。包帯が外れるまではお手伝いさせて頂きます」
「ええと、あの……すみません……」
申し訳無さに謝って前を向いて、そして「お手伝い」とはどこまでのことなのかと顔を青くする。服を脱がすだけなのか、それとも風呂の中までついてくるのか。
考えているうちにあっという間に服を脱がされ下着を脱がされる。亜佐は胸の前で両手を握りしめ、銭湯みたいなものだと自分に言い聞かせた。ただ、出るところは出ていて引っ込んでいるところは引っ込んでいる均整のとれた体のベルタに、こんな貧相な体を見せるのが恥ずかしくて仕方がなかった。この国の人は、何もかもが大きい。
「包帯も取りましょう。後で巻き直します」
「……はい」
声を震わせながら、差し出された手に右手をのせる。彼女は慣れた手つきで包帯を解くと、亜佐の手を取ったままシャワーを手のひらで指した。
「こちらへどうぞ」
まずいと思いながらも拒否できずに言われるがままにシャワーの下の椅子に座る。ベルタは腕を捲り長いスカートをたくし上げて紐で縛ると、シャワーを手に持って蛇口をひねった。やはり全てしてくれるらしい。
何度かやんわりと自分でできると言ってみたが、彼女は「傷口が濡れるといけませんので」と決して折れなかった。とんでもない所まで丁寧に洗われバスタブに浸けられた時には、亜佐はもう自棄になっていた。
四肢を投げ出してベルタに全てを委ねる。温かいお湯に浸かりながら丁寧に頭を洗ってもらって、気持ちよさのあまりにうとうととしたくらいだ。
風呂から出ておそらく絹であろうバスローブを着せてもらい、鏡台の前で髪まで梳いてくれて、このままここにいるときっと駄目人間になってしまうと亜佐は恐怖した。
「では、ゆっくりとお休みくださいませ。お時間になりましたら参ります」
紅茶と茶菓子を用意してくれたベルタが部屋を出ていきようやくひとりきりになって、亜佐は深いため息をついた。
ソファに寝転がる。足を伸ばしても大丈夫な大きさだ。少しの間ならいいだろうと、だらしなく足を投げ出した。
疲れた。とても疲れた。気を抜くと、すぐにでも眠れてしまいそうだ。今が何時なのか確認しようと頭の辺りを手で探って、そしてこの世界に携帯電話などないことを思い出す。
パソコンもない。テレビはあるか分からない。ピアノは、ピアノはないのだろうか。手を持ち上げ、見えない鍵盤を押す。音は頭の中で流れている。
ピアノが好きだった。叔母に引き取られ月謝が払えなくなった後も、こっそりとピアノを弾かせてくれたピアノの先生が大好きだった。音大に入り、ピアノの先生になるのが夢だった。それはもう、叶わないのか。
じわりと溢れてきた涙が流れ落ちないように目をつむる。すぐに襲ってきた眠気にすっかり負け、ふと目を覚ますとベルタが顔を覗き込んでいた。
「う、わっ」
思わず声を上げて、そして慌てて謝る。
「ごめんなさい、大きい声を出して……」
「いいえ、こちらこそ申し訳ございません。息をしていらっしゃるか、不安になりまして。お加減はいかがでしょうか?」
「少し寝たおかげでだいぶ良いです」
「それはようございました」
驚くほどの無表情でそう言って、ベルタは鏡台を手のひらで指した。
「そろそろ夕食の時間でございます。髪を結ってお召し物を替えましょう」
「……はい」
夕飯を食べるのにわざわざおしゃれをするのかと思ったが、そう言えばロイリの兄夫婦と挨拶をすると言っていた。このボサボサの頭ではさすがに不味いだろう。
ベルタが持ってきてくれた洋服の中から一番落ち着いた色味で装飾も少ないものを選ぶ。レースやフリル、ピンクの花柄はとても可愛らしいが似合う気がしない。
着替えも全てベルタがしてくれ、髪も結ってもらいワンピースに似合う髪飾りもつけてもらう。ベルタが死んでいるんじゃないかと不安になるのも納得の血色のない顔に頬紅も口紅も塗ってもらった頃には、ここに来た時の薄汚れた姿からは見違えるほどになっていた。
鏡越しのベルタが出来ばえに頷いた時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。おそらくロイリだろうと扉を振り返る。それと同時に扉が開いて、部屋に入ってきたのはやはりロイリだった。
彼は軍服を脱いで、スタンドカラーのシャツにスラックスというシンプルな格好をしていた。
「アサ、具合は」
「ロイリ様」
ベルタの鋭い声がロイリの言葉を遮った。
「ノックをされたら返事をお聞きになってからお入り下さいませ。女性のお部屋でございます」
ぴしゃりと叱られ、ロイリは首をすくめて「すまん」と謝った。
こんなにカッコいいのに、あんなに強いのに、フレデリカといいベルタといい、気の強い女にはめっぽう弱いらしい。思わず笑って、口元を手で覆う。
「……アサ、今笑っただろう」
そばまで来たロイリが亜佐を見下ろす。「すみません」と謝ってから、亜佐は笑いの引かない顔をロイリに向けた。
彼は少しだけ目を丸くする。
「きれいにしてもらったな」
「はい、お風呂にも入れてもらって、さっぱりしました」
「可愛らしい娘だとは思っていたが、こんなに美人だとは思わなかった」
ロイリがさらりと言った言葉に、驚いて体を固まらせる。男の人に可愛いだとか美人だとか言われたのは初めてだった。なので何と返せばいいのか分からずに少し頬を赤らめて慌てふためく。
「そ、そんなこと言われたの初めてです……」
「本当に? お前の世界の男は見る目がないな」
「化粧のせいです。ベルタさんの腕がいいんです」
頬を押さえて視線をさまよわせると、ロイリは少し笑ったようだった。彼は手を伸ばして何度もしたように頭を撫でようとして、手を止めた。今撫でるとせっかく整えた髪が乱れてしまうと思ったのだろう。
「具合はどうだ」
「大丈夫です」
「そうか。なら、準備ができたら食堂においで」
代わりに指先で頬に触れて、ロイリは踵を返して部屋を出ていった。
「……この世界の人は、スキンシップが過剰です」
赤くなった頬を隠すように手で覆う。数時間後には頬に触れるなど可愛く見えるくらいの接触があるというのに、こんなことで恥ずかしがっていて大丈夫だろうかと亜佐は不安になった。
頭を少し整えたベルタが顔を上げて「食堂へ」と言って、亜佐は心の中で大きなため息をつきながら立ち上がった。