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砂糖菓子でできている  作者: 未礼
五章

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48/57

48、羨望




 その日の夜、夕食を終えシャワーを浴びた亜佐の部屋を一番に訪ねてきたのは、ロイリではなく宮廷で働く電報員だった。

「アドルフ・クラウゼ様から電報です」

「ありがとうございます」

 白い封筒を受け取って、頭を下げて電報員を見送る。

 亜佐の部屋にもロイリの寮の部屋にも電話はない。宮廷に共用のものはあるがこちらからの一方通行なので、アドルフは亜佐やロイリへの連絡に電報や手紙を使っていた。

 手紙は届くのに一週間はかかる。なので急ぎの用事の時は数時間で届く電報だ。

 亜佐がアドルフから電報を受け取るのはこれで二度目だ。一度目は、彼らの長男が無事生まれたという報告だった。

 まさか二人目がと高揚しかけたが、考え直す。予定日までまだあるはずだ。

 扉の近くに立っているエヴァンスと首を傾げあって、ひとり部屋の中に戻る。宮廷内にあてがわれている亜佐の部屋は、廊下と寝室の間に応接室がある。そのソファに座って手紙の封を切った。

 そして、電報員によって書かれたきれいな字に目を走らせ、亜佐は手紙を取り落としそうなほど動揺した。

 臨月まで一ヶ月近くあるはずのベルタに早産の兆候があり、赤ん坊に少しでも長くお腹の中にいてもらうために一週間前から入院していた。しかしベルタの消耗が激しく、母体を優先して今日の昼過ぎに手術室に入ったらしい。

 心配をかけると思ったけど念のために伝えておくよと締めくくられた電報を、手で強く握り締める。

 時計を見る。今は二十時過ぎだ。電報員が電報を受け取った時間は十五時。さすがにもう手術は終わっているだろうか。

 座っていられず立ち上がる。

 手術、きっと帝王切開だ。この世界の医療水準は、亜佐がいた日本ほど高くない。

 封筒を持ったままソファの周りを行ったり来たりする。落ち着かなければと頭の中で自分に言い聞かせる声が、すでに上ずっていてどうしようもない。

 とにかく誰かに大丈夫だと言って欲しくて部屋の外に出た。

「アサちゃん?」

 エヴァンスが驚いたように声を上げる。すがるように彼を見上げた。

「ロイリは……?」

「まだ来てないよ。……大丈夫?」

 エヴァンスが亜佐の顔を覗き込むように体を屈めた。顔色が悪いのかもしれない。

「とにかく、何か羽織って……」

「アサ」

 エヴァンスの声を遮って名を呼ばれる。声のした方を振り返ると、ロイリが軍服のマントを翻して大股で歩いてくるところだった。

「ロイリ……」

 駆け寄ると、彼は亜佐が手に持つ電報に目をやり亜佐の肩に触れた。

「俺も電報を受け取った。中で話を……」

「ベルタも赤ちゃんも大丈夫ですよね?」

「アサ」

「だって、一ヶ月前に会った時は順調だって言ってたのに……!」

 手術はどれほど難しいものなのか。ベルタは大丈夫なのか。手術が成功しても早産だ。出てきた赤ん坊は外の世界で生きていけるのか。

 ロイリの顔を見て一気に不安が溢れ出す。

 通行人がこちらを見ている。早く中に入らなければと思うのに、頭の中は真っ白で、ロイリにしがみ付くので精一杯だった。

 ロイリが亜佐の脇に手を差し入れ、子供にするように抱き上げる。亜佐はその首筋に顔をうずめた。

「エヴァンス、応接室にいる。電報員には俺がここにいる事は伝えたから、来たら通してくれ」

「了解」

 硬いエヴァンスの返事が聞こえて、ドアが開いて閉まる音がした。ロイリは亜佐を抱いたままソファに座る。

「落ち着いたか?」

「……はい。取り乱してごめんなさい」

「いいよ。俺も仕事を全部押し付けて来たくらいだし」

 それはとても珍しい事だ。

「大丈夫ですか……?」

「大丈夫だ。今日は早く上がれるように調節していたから」

 頭を撫でていた手が、背中に回されこの体を強く抱き締めた。

「手術はもう終わっているだろう。直に連絡がある」

 うんと頷いた。背中の手が食い込んで少し痛い。ロイリらしくない乱暴な抱擁に、彼も不安でいる事に気付いた。

 滲んでいた涙を拭って、彼の胸に額を押し付ける。そのままじっと時計の音だけを聞いていると、その沈黙に耐えられなくなったのはロイリが先だった。

「何か気の紛れる話をしよう」

 顔を上げる。気の紛れる話、と口の中で復唱した。

 生憎と時間があっと言う間に過ぎ去るような楽しい話題はなかったが、彼に伝えなければいけないことは思い出した。

「手帳、見つけましたよ。ベッドの足とチェストの間にはさまってました」

「そうか。助かるよ、ありがとう」

「いいえ。持ってきますね」

 まだ力の入らない体でのろのろと彼の膝の上から降りて、寝室へ向かう。机の上に置いていた手帳を手に取って、それからそばに置いていたアルバムも持ち上げた。これはちょうどいい気の紛れるものだ。

 応接室に戻って礼を言うロイリに手帳を渡す。それから彼のすぐ隣に座り、彼の膝の上にアルバムを乗せた。

「何?」

「気が紛れるものです。ちょっと前に仕事で来てたアドルフさんと偶然会ったんですけど、その時にもらったんです」

 言付けてもらおうと思っていたけど直接渡せてよかったよと、アドルフは笑っていた。そう、その時も家にいるベルタの様子はどうだと聞いて、彼はそれはそれは幸せそうに笑いながら順調だよと言っていたのに。

 暗く沈み始めた思考を首を振って追い出し、ページを開く。ロイリの顔を覗き込むと、案の定彼は眉をひそめていた。

 そこに写っているのは、幼少期のロイリだった。

「写真の整理をしたみたいで、少し分けてくださったんです。ロイリも持ってるけど、私にもって。ほら、ロイリのご両親の写真も」

 白黒の家族写真だ。とても厳しそうな男性と、ロイリとアドルフとよく似たとてもきれいな女性だ。

「ロイリもアドルフさんもお母さん似ですね」

「そうだな。アドルフは性格も母親似だ。俺の堅っ苦しい性格は父親似」

 そう言ってロイリは、両親の写真を指で撫でた。

「ロイリ、可愛い」

 母親に肩を抱かれて立つロイリは、まだ五つくらいだろうか。

 この頃からもうそれはそれは可愛らしい顔だ。

「写真は苦手なんだ」

「どうして?」

「楽しくもないのに笑うのが苦手で、いつも笑え笑えと囃し立てられていたから」

 ロイリらしいと笑った。確かに仏頂面の写真が多い。

「でも、この写真はちゃんと笑えてますよ」

 亜佐が指を指したのは、アドルフとベルタの結婚式の時の家族写真だ。ふたりの後ろに正装をしたロイリも写っている。

 その写真の彼は少し目を細め口元を緩め、柔らかい笑顔を浮かべていた。

 ロイリが似たような顔で笑った。

「この写真を撮る前にお前の話をしていたんだ。それで釣られて笑ってた」

「え、どんな話をしていたんですか?」

「アドルフが、ここにアサがいればよかったのにって」

 そう言って、ロイリは写真の中の彼の隣を指差した。

「お前宛てに写真を持ってきたんだろう? 結婚なんかで家を分ける時、写真を分け合う風習がある。お前もすっかり家族扱いだな」

 ぱっと顔を上げる。家族、と言うことは。

「わっ……私、ずっとお兄ちゃんとお姉ちゃんが欲しかったんです……!」

「よかったな。手に入ったぞ」

 感動で声を上げながら写真を見る。家族と、思ってくれているのだろうか。一緒に暮らした期間は一年と少しだったが、それほど大切に思ってもらえているのだろうか。彼らがずっと大切に思ってきたロイリの隣に立つ事を認められたのだろうか。

 写真のふたりの笑顔が滲む。

「ベルタ……」

 写真をもらった礼をちゃんと言いたい。ソファの上に膝を立て、顔をうずめた。

 唇を強く噛んだが、涙は耐えられなかった。

 ロイリの手が肩を抱くように触れる。

 彼はいつも亜佐が泣くと、泣き止ませようとするでもなく静かに泣き止むのを待ってくれた。

 時々パラパラとアルバムのページを捲る音が聞こえる。それが鳴り止み、パタンと閉じる音がして、亜佐はようやく顔を上げた。

 礼を言いながらハンカチを受け取る。

「お前の国の結婚式はどんなものか教えてくれ」

 肩を抱いていた手で頭を引き寄せて、濡れた目尻に唇を寄せながらロイリはそう言った。

 涙を舐めとる舌に好き勝手されながら考える。亜佐の国といえば白無垢だが、神前式に参加したことがないのでどんな流れかわからない。

 ピアノ教室の先生に招待してもらった、彼女の娘の式を思い出す。

「ええと、白いウェディングドレスを着るんです」

「白と決まってる?」

「絶対じゃないけど、でも白いドレスに憧れる人は多いですよ。男の人はタキシードを着て、それで教会で式を挙げます」

「それはこの国でも同じだな。宮廷の大聖堂に入ったことはあるか?」

「一度だけありますよ。ステンドグラスがすごくきれいでした。私の国にもステンドグラスはあったけど、あんなに大きなものは初めて見ました」

 地震がほとんどないこの国だからこそできる、壁三面を床から天井まで全てステンドグラスで覆ったきらびやかな建物だった。

「牧師さんや神父さんの前に立って、聖書を読んでもらって。指輪の交換はありますか?」

「それはないな。指輪?」

「はい。婚約指輪と結婚指輪があって、結婚式では結婚指輪をお互いの左手の薬指に贈り合うんです。それを生涯外しません」

「へぇ」

 感心したように息をついて、ロイリは亜佐の手を絡め取った。

「その後永遠の愛を誓い合って、誓いのキスをします」

「面白いほど似ているな。誓いのキスをして、司式者に承認してもらった後、派手に」

 ロイリの言葉を遮るように、部屋の扉がノックされた。

 亜佐は飛び上がるように立ち上がる。そのまま上着も羽織らずにドアに飛びついた。

 勢いよく開いた扉に電報員は少し驚いた顔をしたが、すぐに封筒を差し出した。

「アドルフ・クラウゼ様から電報です」

 ロイリが肩にかけてくれたストールを手で押さえながら封筒を受け取る。

 亜佐は我慢できずにその場で封を切る。頭を下げて去っていく電報員に礼を言う余裕もなく、震える手で手紙を開き、きれいな字に目を走らせた。

『無事に産まれたよ。ベルタの予後も良好だ。赤ん坊はとても小さくて長い間入院しなければならないけど、ちゃんと自分で呼吸してる。もう心配いらないよ。とても可愛い女の子だ。早くふたりに見せてあげたい』

 ロイリを振り向く。亜佐の肩越しに手紙を覗き込んでいた彼の首に飛んでしがみついた。

「よかっ、た……!」

 感情が溢れ出て、大声を上げながら泣きじゃくる。さっきと同じようにロイリは亜佐を抱き上げ、彼も安心して力が抜けたのだろう、少しの間壁に体を預けていた。

「ベルタも子供も無事だ。騒いですまなかったな」

「いいえ」

 安堵の息と共にエヴァンスが返事をした。

 また部屋に戻って、今度は真っ暗な寝室に入る。ベッドの上に降ろされてロイリが灯した枕元のランプを見ながら、亜佐は嗚咽を収めるために深くため息をついた。

「泣き疲れた……」

「だろうな」

 ロイリが笑って亜佐の前髪をかき上げる。

「一度仕事の様子を見て、それからもう一度アドルフの自宅に電話をしてみるよ。さっきは使用人すら出張っていたようだが、そろそろ誰か帰ってきているだろう」

「分かりました」

「布団へ入れ」

 言われた通りに布団に潜り込む。大泣きしたせいで頭が痛い。目の前が少しチカチカしていた。

 ベッドの脇に座り、亜佐の頭を撫でて額にキスをしたロイリだったが、そのまま出ていく気配はない。

「……行かないんですか?」

「お前が寝たら出て行くよ」

「興奮してるからなかなか寝付けないかも」

「気絶させてやろうか?」

「……バカ」

 呟いて、ブランケットを顔まで引き上げる。

 そのまま目をつむって、眠気が来るのをじっと待った。

 そう、目をつむって。このままぎゅっと目をつむって。

 もう泣く必要なんてない。涙を流す必要なんてないのに。

「アサ」

 返事ができない。ブランケットを捲られそうになり慌てて掴んだが、ロイリの力に敵うはずがなかった。

 彼の指が赤く腫れているであろう目尻を優しく撫でる。この涙が、ベルタと赤ん坊が無事だった事への嬉し涙だけではない事を、ロイリは気付いているようだった。

 彼の顔を見る事ができない。

「ロイリ……私、すごく嬉しいんです……ベルタも赤ちゃんも無事で」

「うん」

「わ、わたし、ベルタも、みんなの事も、好きなんです……生まれてきた赤ちゃんの事だってきっと好きになれる」

「うん」

 嗚咽で途切れ途切れになる声で必死に思いを吐き出した。

「なっ、なの、に……私……羨ましくて、仕方がない……」

 世界で一番愛している人の子供を持てる彼らが羨ましい。

 そんな事を思ってはいけない、言ってはいけない。ベルタは命懸けで子供を産んだ。それを羨ましがるなんて。

 どうして純粋に祝福してやれないのか。

 ロイリが、亜佐の手を潰しそうなほど強く握った。

「いいんだ、アサ。お前は彼らを大事に思ってる。妬んでいるわけじゃない。羨ましがる事と妬む事は違う」

 うんと頷く。妬んでなんかいない。ただただ羨ましくて、それを羨ましいと思う自分が嫌で嫌で仕方がない。

「あなたの、子供が欲しいんです。あなたの遺伝子を、残してあげたい」

 体を起き上がらせて、ロイリの胸にしがみついた。

「どうして私にはできないの……」

 そばにいられるだけで充分なはずなのに、手に入ると次は次はとどんどん幸せが欲しくなる。

 仲睦まじいアドルフとベルタを見ていると、時々耐えられないほど辛くなった。あんな風にロイリの隣を歩きたい。彼が帰る場所にいたい、帰る場所になりたい。人目なんて気にせず彼に触れて、キスをして、ふたりの子供を抱きたい。

 比べること自体が間違っていると、分かっているのに。

「ごめんなさい……」

「謝らなくていい。お前が謝るのなら、俺だって謝らなければいけない」

 背中に手が回された。

「俺だって」

 亜佐の体を引き寄せて胸に閉じ込めて、ロイリもベッドへ上がる。

 彼の吐息が額に触れる。大きな心臓の音が聞こえる。

 本来なら、こうやって触れ合えることもできなかったはずだった。この血が特別でなければ、今頃保護施設でひとりきりだったはずだ。

「これ以上望んじゃ駄目だ……欲張り者は、今ある幸せも失ってしまう」

「……そうだな」

 幸せだ。今も幸せなんだ。それだけは間違いない。

「今のままでも、充分幸せなのに……」

 ひどい頭痛を起こしている脳内にはテーブルランプの明かりすら眩しく突き刺さって、亜佐は目を閉じた。




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