46、幸せな
アドルフの姿を見つけたのは、ロイリと別れて会場をぐるりと一周した時だった。
大声で名前を呼びながら駆け寄ろうとして、そういえばここは由緒正しき舞踏会の会場だと思い出して静かに彼らに近付く。
「アドルフさん、ベルタ」
亜佐に気付いたアドルフは笑顔を向けてくれ、そしてその隣でゆったりとしたドレスに身を包んだベルタは「アサ」と笑って手を上げた。
最近ようやくだ。ベルタとお互いを呼び捨てにしようと決めて実行できたのは。
敬語だけはふたりともどうしても抜けきらず、もう諦めた。
「お久しぶりです」
「うん、久しぶりだね。会えてよかった。そろそろ帰ろうかと言っていたところだから」
「ああ、よかったです。さっきロイリに会って、みんな来てるよって教えてもらって。……あら、寝ちゃったんですね」
残念だなとアドルフの腕の中を覗き込む。そこには、二歳になる彼らの息子がいた。そしてベルタのお腹の中にも。
「お腹、ますます大きくなりましたね。体調はどうですか?」
「大丈夫です。昨日病院に行ってきましたが、順調だと」
そう言って腹を撫でるベルタの顔からは、クラウゼ家で女中をしていた頃の険しさはすっかり抜け切っていた。
「アサ、君はどちらだと思う? 男の子か女の子か」
アドルフに聞かれ、ベルタの大きなお腹を見る。
穴が空きそうくらいじっと見つめ、うぅんと考えた。
この世界には、生まれる前に性別を知る事のできる設備はまだないらしい。テレパシーのようなものを腹の中に送ってみたが分かるはずもなく。
そう言えば、母親の顔つきが柔らかくなれば女の子だという言い伝えがあったはずだ。ベルタの顔を見上げる。アドルフと暮らし始めて笑う事が増えた彼女だったが、それよりさらにその表情が柔らかくなった気がする。
「女の子、かな?」
「やっぱり」とベルタが笑った。
「ベルタも女の子だと思いますか?」
「何となく、そんな気が」
「アドルフさんは?」
「僕はどっちでもいいよ」
そう言って彼は、少し垂れ目気味の目尻をさらに垂れさせて笑って答えた。どちらでも可愛くてしかたがないと、そう顔に書いてあるようだった。
「お母さんの直感って当たるらしいですよ」
「だったら女の子かな。ああ、可愛いだろうなぁ」
「服はこの子のものがありますから、買わなくて結構ですからね」
ベルタの声が少し困っているように聞こえたのは、一人目の時にアドルフが子供用品を大量に買ってきて困るとベルタから愚痴を聞いていたからかもしれない。
この様子ではおそらく二人目も、彼は暴走するだろう。
困った顔を向けてくるベルタに、困ったように笑い返した時、会場に十四時を知らせる鐘が響いた。
舞踏会はもう少し続くが、アドルフとベルタは顔を見合わせた。
「時間だね。そろそろ帰ろうか」
子供を抱え直したアドルフに、ベルタが頷く。残念だったが、仕方がない。お腹の大きいベルタは立っているだけでも辛いだろう。
「ギリギリ会えてよかったよ、アサ」
「はい、私もです」
「次に会えるのは、恐らく産んだ後になるでしょうね」
「……そう、ですか」
ベルタの言葉にこれから数ヶ月会えない事を知り、思わず彼女の手に手を伸ばす。ずっと後ろにいたエヴァンスに「お客さん多いから触っちゃ駄目だよ」と肩を掴まれ触れる事は叶わなかったが、必死にベルタの顔を見上げる。
「無事に元気な赤ちゃんが生まれるよう祈っておきます」
彼女は深く頷いて、「ありがとうございます」と笑った。
「じゃあね、アサ。生まれたらすぐに君とロイリに連絡を入れるよ」
「お願いします。お気を付けて」
「アサも、ロイリ様と仲良く」
「それは心配いりません」
視線を合わせて笑い合って、手を振って別れた。
出入り口の扉に向かいながら、アドルフが子供を抱え直してベルタに何が話しかける。ベルタも何か言って笑いかけてから、差し出された腕を取った。
彼らは同じ屋敷内で暮らしながらも触れ合う事すらしなかった数年を埋めるように、仲睦まじい夫婦になった。
彼らの不遇の一部を知る亜佐は、その光景がとても微笑ましく。そして、とても。
ふたりの背中が小さくなって会場の扉の向こうへ消え、エヴァンスが「帰ろっか」と声をかけた後も、亜佐はそこから一歩も動かずにぼんやり扉を眺めていた。
*
外はすっかり更けていた。
頼りになるのは月の光とベッドサイドのランプだけだったが、もうすっかり闇に慣れた目にはロイリの睫毛まで見える。
「それでアドルフさんはどっちがいいのか聞いてみたら、嬉しそうな顔してどっちでもいいよって」
手振り身振りで話している最中にずれ落ちたナイトガウンを、ロイリが持ち上げて亜佐の素肌にかけた。
彼の乱れていた軍服はすっかり整っていた。
「俺は男じゃないかって答えたよ。うちは男家系だから」
「男家系?」
「父親は四人兄弟だし、母親も三人兄がいる末っ子だ。従兄弟も男が圧倒的に多い」
「へぇ、そういう家系があるんですね」
「まあ、無事生まれてきてくれたらどちらでもいい」
「私もそう思います」
顔を合わせて笑い合った。
ロイリが立ち上がって扉の隣のスイッチで部屋の電気をつける。もうそろそろ行ってしまうのかと寂しくなったが、彼はまたベッドに腰掛けてごろりと寝転んだ。
「そうだ、思い出した。神誓書がまた却下された」
「……またですか。何回目ですか?」
「もう三回目」
ため息とともに彼は言った。
この国には、生涯結婚しないと神に誓う制度がある。高位の神職に就く人や、亡き配偶者に生涯の貞潔を誓うために利用される制度らしいが、ロイリは亜佐のためにそれを申請していた。
表向きは、神に身を捧げるという敬虔な信者のふりをして。
「少ない休みを使って教会通いまでしているのに……」
「一度申請が通れば、どんな理由があってももう結婚はできないんでしょう? 宗教院も慎重になりますよ。あなたは将来有望な人だし」
自分で言ったくせに、ふらふらと視線を漂わせる。
そう、この人はとても将来有望な人だ。多くの人が彼に、結婚をして子供をつくり、その遺伝子を後世に残してほしいと考えているだろう。
「……また余計な事を考えているな」
心の中を透かされて、亜佐は気まずくて視線を俯ける。
「心配するだろうと黙っていたが……どうして俺がこんなに躍起になって申請を通そうとしているのか、話そうか」
顔を上げると、ロイリはむっすりした顔のまま亜佐を見ずに話し出した。
「縁談がいくつもきてる。今のところは神誓書を申請してるからと断っているが、身分の高い者やアドルフの仕事関係なら断りにくくなる」
硬直した亜佐に、ロイリはまだ続ける。
「むやみに断れば、ここでの出世が絶たれ地方に飛ばされる事だってある。そうなればもうお前と会う事は難しい。お前はそれでいいのか?」
首を横に振る。想像しただけで、息ができなくなるくらい苦しい。
「……嫌」
「そうだろう」
体を起こしたロイリに、髪がぐちゃぐちゃに乱れるまで頭を撫でられた。
「分かったなら、自信を持って俺に愛されてろ」
頷いたが、引いた血の気がまだ戻らない。二度、永遠の別れを覚悟した。あんなに辛い思いをもう一度しなければいけない可能性があるなんて。
ロイリは自分で乱した亜佐の髪を撫で付けながら、いつまでも顔を上げられない亜佐を軽く胸に抱いた。
「できる限りの根回しはしている。最悪の事態にはならない」
彼を信じて頷いて、その背中に腕を回した。いつもしてもらってばかりだ。彼のために何かしたかった。
「……人間は申請できないんですか?」
「無理だな。法を変えないと」
今人間に関する新しい法律がいくつか制定されている途中だが、さすがにこれに関する法律が改定される事はないだろう。
「もしできるようになったらお前も誓うか?」
「はい」
顔を上げ迷わず答えた亜佐から目を逸らして、ロイリは「そう」とだけ呟いた。
「……余計な事を考えているんですか?」
「……仕返しか」
彼は否定しなかった。じっと見上げると、とうとう観念したように口を開いた。
「不安なんだ。仲がいいだろ、あの男……名前は何だったか、バイオリニストの」
「……白佐木さん?」
驚いて声を上げる。
宮廷で暮らす人間の中には何人か亜佐と同じ世界から来た人がいるが、その中でも唯一亜佐と同じ日本出身の男だった。
その道には進まなかったらしいがバイオリン経験者で、素質はあると楽団で練習をしている最中だ。時々ふたりで元の世界の思い出話に花を咲かせている。バイオリニストと聞いて一番に名前が出てくるくらいには仲がよかった。
「そう、シラサキ。よく一緒にいるから」
「そんなのじゃないですよ」
「お前にその気がなくても、あっちはお前に気があるみたいだ」
口をつぐむ。嫌われてはいない、好意的に見てもらっている事は感じ取っていた、が。
「あれはその気があるとかじゃなくて、同郷の人間に対するただの仲間意識なんじゃ……」
「いいや、違う。あれは惚れた女の気を引こうとする態度だ」
思い出したのか、あからさまにロイリの機嫌が急降下する。困ってその膝に触れた。
「私はあなただけです」
「……知ってる」
「あなただけを愛しています」
「……うん」
「……どうしたら信じてくれますか?」
「疑ってない。信じてるよ」
ようやく目を合わせてくれたロイリが、膝の上に置かれている亜佐の手に手を重ねた。そして大きな大きなため息をつく。
「……ごめん。お前の行動や交友関係を制限して、窮屈な思いをさせたいわけじゃないんだ」
分かってると伝えたくて頷く。
「自分の独占欲が嫌になる……」
片手で額を覆ってまた今日何度目かのため息をついたロイリに、どうすればいいのか分からなかったが、とにかく触れたくて両手を握った。
大きな手を指でなぞりながら、ぽつりぽつりと語りだす。
「……私、昔から自分に自信がなくて、こんな自分が誰かに好きになってもらえるわけなんかないって思ってたんです」
劣等感の塊だった。この顔も体も性格も、何もかもが嫌いで仕方なかった。
両親に褒められたことも、愛されていると強く感じたこともない。どうしてこれができないんだと頭上から浴びせられ続けて、自分は価値の無いものだと信じていた。
「だから、あなたが私に会うたびに愛してるって言葉にしてくれたり、態度で示してくれたり、焼きもち焼いたり独り占めしようとしてくれたり……それを見るたびに、私を好きになってくれる人がここにいたって……、私は本当に大切にされてるんだなって……すごく、安心します」
チラリとロイリを見上げる。さすがに呆れられるかと思ったが、彼は亜佐を見下ろして、それから嬉しそうに笑った。
「俺の独占欲も、役に立ってるんだな」
「……はい、とても」
「大丈夫だ、アサ。お前は、お前が思っているよりも多くの人から愛されているよ」
大きな手が頬を包み込んで、鼻先に音を立ててキスが落ちる。
「その中でも一番お前を愛しているのが、この俺だ」
この人は、本当に、本当に驚くくらい愛してくれているらしい。そうでなかったら嫉妬に狂っていたのは亜佐かもしれない。どうしてあんな人間なんか、と陰口を叩く美しい貴族の令嬢達の嫉妬に、押し潰されていたかもしれない。
「それじゃあ、これからも焼きもちを焼かせてもらうとするよ」
「はい、どうぞ遠慮なく」
鼻をすり寄せてキスをしてから、肩からガウンを滑り落とそうとする手を好きなようにさせる。
時間は大丈夫だろうかと心配したのはほんの一瞬だけで、亜佐はロイリの背中に手を回し、離れがたい愛しい人を強く強く抱き締めた。




