45、移り変わる世界
弦楽器の音色に合わせて華やかなドレスが舞う。
何度見ても映画のワンシーンのような光景だ。
ダンスの前の歓談の時間にBGMとしてピアノを弾いていたが、もう亜佐の出番はない。
目立たないように会場のすみを歩きながら、どこかにいるはずの人を探してきょろきょろと辺りを見回す。
「お、アサちゃん、あそこにいる」
後ろを付いて来ていたエヴァンスが言うのと同時くらいに、亜佐もようやくその姿を見つけた。
ロイリだ。
華やかな赤い近衛師団の制服と長身はとてもよく目立つ。
彼は定期舞踏会の客からは見えない位置にいた。
声をかけようとしたが、手に持っている書類に険しい顔を向けていたので思い止まった。今話しかけると仕事の邪魔をしてしまうかもしれない。
この辺りをフラフラしながら、ロイリが手隙になるのを待とうか。そう考えていると、ふと彼が顔を上げて亜佐を見つけ、にこりと微笑んで手招きした。
飛び跳ねそうなくらいの嬉しさを必死に押し隠しながら彼に近付く。
「お疲れ様です」
「ああ、お前も。まだ弾くのか?」
「今日はもう弾きません。昨日練習のし過ぎだってフリードハイム先生に怒られて、今日の演奏の時間を減らされました」
「また怒られているのか」
「言う事を聞けって毎日怒られてますよ」
「お前はピアノの事になると頑固だからな」
笑いながらロイリが亜佐の頭に触れる。
背後からエヴァンスのわざとらしい咳払いが聞こえた。
「あー、俺見てないんで、好きなだけイチャついてください」
エヴァンスを振り返ると、彼は腕を後ろで組んでわざとらしくそっぽを向いている。
「そうか、なら遠慮なく」
亜佐の背中に手を回して引き寄せて、ロイリは両頬にキスをした。背後の手が撫でるように背中をさすって、彼は眉間にしわを寄せる。
「お前の衣装係を首にしたい」
「……似合いませんか?」
「違う。肌を出しすぎだ」
確かに今日のドレスは、背中が大きく開いているデザインだ。
「これくらい出さないと、子供に間違えられるんです」
「……若く見られていいじゃないか」
ロイリが少し言い淀んだのは、彼も昔亜佐のことを子供だと勘違いしたからだろう。
「十八、十九なら嬉しいですよ。でも十代前半に間違われるんですから。もう二十四歳なのに、小さいのにピアノがお上手ね、なんて言われる私の身にもなってください」
「ああ、耳が痛いな」
ロイリが笑って手袋を脱いで、その手でもう一度背中を引き寄せて今度は額にキスをした。
背後からエヴァンスの声がする。
「何で手袋外したんですか?」
「直に触りたかったんだよ。お前、見ないって言っただろ」
その言葉にまたわざとらしくそっぽを向いたエヴァンスをじっとりと見つめてから、ロイリは屈めていた体を起こした。
それを見計らったようにカツカツという足音が近付いてくる。
「クラウゼ中佐」
ロイリの後ろに視線をやると、同じ近衛師団の制服を着た男が立っていた。振り返ったロイリは「今行く」と返事をした。
やはり忙しいらしい。もう少し話をしたかったが、こればっかりは仕方がない。
「じゃあ、私はこれで」
一歩下がった亜佐の手袋をロイリが摘む。引き寄せて、耳元に顔を寄せた。
「今日は夜中までエヴァンスが警護だな? 夜、部屋に行く」
「……はい」
大丈夫だろうか、無理をしていないだろうか。そんな心配が顔に出ていたのか、ロイリは亜佐を安心させるように優しく笑いかけた。
「またな」
「……はい、また」
返事を聞いて、ロイリが顔を上げる。部下らしい男を振り返った横顔はもう険しいものになっていた。
去っていく背中を見ていると、後ろからエヴァンスが顔を近付ける。
「今の笑顔、中佐の部下が見たら世界の終わりだってパニックが起きるよ」
「……怒られちゃえ」
肘で彼の腹をちょんとつつく。つつき返されてさらにそれにつつき返していると、「そういえば、アサ」とロイリの声がしてふたりで驚いて飛び跳ねた。
「さっきアドルフを見かけた」
肩越しにこちらを振り返っているロイリに、わっと声を上げる。
「今日いらっしゃってるんですね! 探してみます!」
「ああ、家族で来てたぞ。お前の事を探していた。……あとエヴァンス。後で覚えていろ」
最後は低い声で言って、ロイリは今度こそ去っていった。
ほらねとエヴァンスをつついて歩き出す。
「……アサちゃん、後で中佐にあんまりエヴァンス中尉をいじめないであげてくださいって言っといて」
「どうしようかな」
「君が甘えた声で言ったら一発だから」
「意地悪言わなかったらいいんですよ」
お願いお願いと繰り返すエヴァンスを目を細めて見上げてから、亜佐は返事をせずにアドルフを探すため広い会場を見渡した。
*
この世界に来て五年がたった。宮廷で暮らし始めて四年足らずだ。
相変わらず元の世界へ戻る方法は見つかっていないが、亜佐の周りは大きく変わっていた。
亜佐は一年フリードハイムの元で学び、晴れて宮廷楽団の一員として活動し始めた。特に第一王女のヘンリッカが亜佐のピアノを気に入り、彼女に関する行事や式典では必ず亜佐が演奏するほどだった。
ロイリは三年務めるはずだった亜佐の警護隊長を二年務め、元々対テロ部隊にいた時から彼に目をつけていたらしい近衛師団の師団長によって、近衛師団へ引っ張られていった。
ロイリの加わった近衛師団はマレク率いる対テロ部隊と協力して、あっという間に主要なテロ組織を壊滅状態へ追いやった。
ロイリは亜佐のそばにいなくても、亜佐を守るという約束を見事に守り通した。
そしてその功績が認められ中佐へと昇進し騎士爵を得て、一ヶ月ほど前に近衛師団長の補佐の役職を得てさらに多忙の身となった。
亜佐が屋敷を出てロイリも宮廷の敷地内にある寮へ入り、アドルフは突然、屋敷を敷地や調度品、そして中で働く使用人ごと旧知の貴族に売ってしまった。
元々敷地も屋敷も今よりずっと小さかったものを、エレオノーラがほぼ独断で広げたらしい。エレオノーラがいなくなり、あの家に広大な土地と屋敷を必要とする者はいなかった。
人間の亜佐に優しく接してくれた使用人たちのことを思うと不安になったが、宮廷で働くようになってその買い取った貴族と何度か会い、この人たちなら良くしてくれるだろうと安心した。
当のアドルフは国内産業に多大に貢献した人物に贈られる爵位を得て、城下町の貴族街の一角にあるアパルトマンを買い取りそこへ移り住んだ。
彼はそこにたったひとりの女中を連れていき、その女中はすぐに、彼の妻となった。
人だけではない。世界も大きく変わった。
亜佐が宮廷に住み始めて、降ってくる人間が持つ血が変わったのだ。
彼らの血は相変わらず魔法のような治癒能力を持っていたが、麻薬のような依存性はなかった。
これが一般市民に知られれば大混乱が起きると情報は伏せられ、その血を持つ人間たちは皆宮廷に集められ。
そして彼らは厳重な警備の元、豊かな暮らしと引き換えに研究用という名目の血を差し出す役目を負った。その血は王族のそばで冷凍保存されているが、まだ使用されたことはないらしい。
彼らの出現で、亜佐が宮廷で暮らす意味はなくなった。一時期、亜佐を保護施設へ入れようという案が出て、亜佐もロイリも別れの決意をしたが、それに反対したのが第一王女ヘンリッカだった。亜佐の腕に惚れ込んでいる王女のお陰で、亜佐は引き続き宮廷で暮らせることになった。
そしてその数ヶ月後、また降ってくる人間が変化する。次の彼らは、何の変哲もない血を持つ、ごくごく普通の人間だった。
飲んでも治癒もしなければ依存性もない。確認できただけでも数十人とそんな人間が雨のように降ってきて、それからパタリと人間が降ることはなくなった。
ようやく神様が、この行為は無駄だと気付いたようだ。
保護施設に入っている人間は一生そのままだろう。それ以降に降ってきた人間は治癒能力のあるなしにかかわらず宮廷で何かしらの職を得て働いている。
亜佐も、ヘンリッカが健在の間は宮廷で暮らすことになるだろう。
ロイリは近衛師団の師団長候補として期待されている。彼も当分宮廷にいるはずだ。
頻繁に会えるわけではない。見かければ仕事を邪魔しないよう少し話をして、そして時々ロイリが人目を忍んで部屋に来る。
ロイリが亜佐の血を飲んだことは知られていないが、亜佐がロイリの屋敷で暮らしていた事は周知の事実になっていた。そして、ふたりの関係がただならぬものだという事も。
亜佐が特別な時にだけ身に付けるイヤリングに、小さいがクラウゼ家の紋章が入っていることに誰かが気づいたらしい。
厳しく常に仏頂面で、近寄る女を歯牙にもかけない師団長補佐が、唯一笑いかけるのが亜佐だ。エヴァンス曰く明らかに距離が男女のそれらしい。
ロイリは人前では亜佐に触れないが、人間への接触禁止は宮廷内に限り解かれていた。
亜佐にも触れようと思えば誰でも触れられる状態だったが、それを阻止するのがロイリから隊長を継いだエヴァンス隊長率いる警護隊だった。
エヴァンスは亜佐とロイリの関係を知っている。
そしてこっそりと、ロイリを部屋に入れてくれるのだ。




