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砂糖菓子でできている  作者: 未礼
四章

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43、決断




 軍部に来るのはこれが三回目だが、施設に入る時に意識があるのはそういえば今回が初めてだった。

 正面玄関でキノスが出迎えてくれて、三人で歩き出す。

「ごめんね、急に。びっくりしたでしょ」

「はい、とても」

「ははは、そうだよねぇ。でも大丈夫だよ。寄ってたかって君の血を飲んだりなんかしないからね」

「……そう言われると怖くなってきました」

 キノスと会話しながら、そばを通り過ぎていく軍人たちを見る。彼らの驚きは「あ、人間だ」程度のもので、特に過剰な好奇の目や侮蔑の目はなかった。それどころか、亜佐の姿を見て祈るような動作をする軍人までいた。それも一人二人ではない。

「あの……何か、拝まれてるような……」

「ああ、最近流行ってるんだよね。人間を崇める宗教が」

「……人間が降り始めた頃、国教である神教に、人間は神が吸血人を救うために遣わした使者だと考える宗派ができた。最近それが台頭している」

 キノスの軽い説明に、ふたりの後ろを歩いていたロイリが付け足して解説してくれる。ようやく理解した。

「君たち人間にとってはいい宗派でしょ。勝手に大切にしてくれるよ」

 確かに嫌われるよりはよっぽどいいが、吸血人を救うような力はないのにいいのだろうか。

 相変わらずマイペースなキノスのお喋りにようやく緊張が解け始めた頃、「ここだよ」と案内されたのはいつか入ったことのある会議室のような部屋だった。あまりいい思い出はない。

 ロイリが扉をノックする。中から聞こえた声にも聞き覚えがあった。

「失礼します」

 彼らに続いて部屋に入る。やはり中にいたのは腹回りばかり恰幅のいいお偉方、ロイリ曰く肥えた狸共だった。

 彼らは一年と少し前に会った時とは打って変わってその顔ににこやかな笑みを浮かべていた。頭を下げて、キノスに促されるまま彼らの向かいの椅子に座る。

 キノスは亜佐のすぐ隣に座った。狸上司三人の隣にはマレクと、そして昨日会った小柄なスーツの男も座っていた。

 マレクの後ろに立ったロイリと目は合わなかったが、特徴は伝えていたので彼も気付いているだろう。それとも、もうロイリは彼が誰なのか聞いているのかもしれない。

「さて、アサ嬢。今日はご足労おかけして申し訳なかったね」

 狸上司が大して悪びれた様子もない顔で言い、亜佐は「いいえ」と首を横に振った。

「早速で悪いが、本題に入ろう。ドクター、説明を頼む」

「はい了解です。……アサ、君は動物は好き?」

 キノスの突拍子もない質問に、ぽかんと彼を見上げる。

「はい……好きな方だと、思います……」

「そうかそうか、なら大丈夫かな」

 そう言ってキノスは体をかがめ、地面に置いていた布のかかった何かを持ち上げた。それを机の上に置いて布を取り去る。

 中には、ガラスの容器に入った二匹のネズミがいた。

「説明するのに実物を見たほうがいいかなと思って持ってきたんだけど、大丈夫?」

 硬直した亜佐から容器を少し遠ざけてキノスは尋ねる。

「……大丈夫……です」

 白い毛に赤い目のネズミだ。実験用のものだろうか。それならドブに住んでいるようなネズミとは違いきれいだろう。ネズミは特に嫌いではなかったはずだ。むしろしっぽの長いハムスターのようなもので可愛いとさえ思っていた。それなのにどうしてか、怖いと感じる。

 ネズミは布を取った瞬間から、狂ったようケースから出ようともがいていた。

「マウス……ネズミは嫌い?」

「いえ、いつもは大丈夫なはず、なんですけど……」

 冷や汗で背中が冷たい。

 大丈夫なようには見えないのだろう。キノスは困ったように笑って、さらに容器を遠ざけてから言葉を続けた。

「このネズミは、そうだね……吸血ネズミって言ったらわかりやすいかな。吸血人以外で唯一人間の血を好んで飲む動物だよ。今も君の匂いに反応してる」

 ぞぞっと、一瞬にして背筋が凍った。

「そして吸血人と同じように、血液依存症を起こす。ただそのサイクルが吸血人より早くてね。大体二十日から一ヶ月程度で耐性をつけるから、人間の血液を使った実験に使っているんだ」

「こっ、このネズミ、その辺りに野生のネズミがいたりするんですか……?」

「三百年ほど前から野生の目撃例はないから安心して。研究用に繁殖しているものも厳重に管理されてるから」

 ネズミが甲高い鳴き声を上げ飛び跳ね、ガラスの容器がコトリと音を立てる。亜佐は喉の奥で悲鳴を詰まらせて、耐えられずにキノスの腕にしがみついて顔をうずめた。

「ごめんごめん。もう連れて行こう。おーい! 見張りに立ってる人!」

 キノスが扉に向かって叫ぶ。すぐに扉が開いて、すぐ近くに立っていたらしい軍人が入ってきた。

「申し訳ないけど、この子達を研究室にいる誰かに渡してきて。絶対に逃さないようにね」

「了解です」

「絶対だよ。絶対逃したら駄目だからね」

 念を押すキノスに怯えたような視線を向け、見張りの軍人はそろりそろりとガラスの容器を持ち上げて忍び足で部屋を出ていった。

 亜佐はようやく落ち着いてキノスから離れる。

「人間は吸血ネズミを本能で怖がるって聞いてたけど、本当に怖いんだねぇ」

 それを分かっていて近付けたのかとキノスを睨む。

「ごめん、ほんとにごめん。君はよそから来た人間だから大丈夫かなーとか思ったんだけど。それにしても興味深い。君の世界には吸血ネズミはいないだろう? それなのに」

「キノス、その話はまた後日」

 キノスの少し興奮したような声を遮ったのはマレクだった。

「おっと失礼。つい興奮して。話を戻そう」

 上司の前でもキノスのマイペースは健在らしい。「どこまで話したっけ」と少し考えてから、キノスは机に置いていた封筒から資料のようなものを取り出して亜佐の前に広げた。

「ええとね、君がこの世界に落ちてきて大怪我をしてここに運ばれた時、治療中に出た血を少し実験に使わせてもらったんだ。さっきのネズミに血液を少量投与して、どれくらいで耐性をつけるかって言う実験。そのネズミは、たった六日で耐性をつけた」

 通常は耐性をつけるのに一ヶ月程度かかるというのに、たった六日で。それはすごいことなのだろうか。

 キノスは資料を指差しながら説明してくれるが、専門用語が並ぶ資料は難しすぎて理解できない。彼の言葉だけに集中することにした。

「今まで見てきた中で抜きん出て早いんだ。類を見ない。それからも何度か実験用に君の血をもらって……あ、僕ね、君の主治医になる前はその研究室に勤めてたんだけどね。ああ、そう言えば僕の部下が何度か強引に君の血を採ろうとしたみたいだけど、ごめんね。ちゃんと怒っておいたから」

 脱線し始めたキノスに狸上司のわざとらしい咳払いが聞こえる。「おっとこれはまた失礼」とキノスは笑った。

「それでね、クラウゼ大尉が特別早く耐性をつけたのは、もちろん彼の精神力や環境も関わってはいるけど……君の血が少し特別だという事が大きく影響しているようなんだ」

 ロイリを見上げる。視線が合って、彼は微かに目を細めた。

「成分とかが特別なわけではないよ。まだ何が影響しているのかは解明できていないんだけど、人間の血によっても耐性をつける期間は変わってくるんだ。今まで三百人ほどの人間の血でマウス実験を行ったけど、早くて二十日、遅くて一ヶ月少し。それなのに君の血は四日から八日。特別に早いんだ。……あくまで推論だけどね、吸血人が君の血を摂取した場合、環境さえ整えれば半年かからずに耐性をつけることができるかもしれないんだ。ここまでは理解できた?」

 ぎこちなく頷く。理解はできた。

 しかしまだ、その話と呼び出された理由と、ロイリの言う「決断」しなければならない事が結び付かない。

「次は私から説明させてもらおう。この国の現在の情勢について」

 そう言ったのはマレクだ。血の話からどうして情勢の話になるのかも理解できない。頭がこんがらがりそうだ。

「この国は立憲君主制だ。国王陛下と、我々国民から選出した議会によって治められている。名ばかりの立憲君主制の国も多々あるが、我が国は数百年前から君主、議会のどちらか一方が力をつけることもなく、平等な政治を行い発展してきた稀有な国だ」

 亜佐はうんうんと、理解している事を示すため何度か頷く。

「それもこれも歴代王がいずれも賢王であるがゆえの発展だ。王室は国民にとても人気がある。……しかし、だ」

 机に肘を付いて、マレクは少し声を潜める。

「国王陛下は御歳七十、執務を行われるにはかなりのご高齢だ。第一王女は結局お子はできず、未子の王太子殿下も病弱でお子は王子お一人。これ以上は期待できない」

 深く頷く。どこの世界も王様というものは跡継ぎやら何やら大変らしい。

「そしてここ一年ほど、王室を標的にしたテロが増えている」

 テロという言葉に顔を上げた。

 ちょうど一昨日、夕食を食べながらアドルフから聞いた話だ。そのせいで近衛師団が武器を買い込んでいると。

「初めは脅威ではなかったが、王太子殿下のお食事に毒を混ぜるという個人テロが成功してしまった。毒殺自体は致死量の計算が甘く未遂で終わったし、国民にも流行り病で臥せっていると発表したが、テロリスト共を活気づかせるには十分だった」

 新聞を読んでおけばよかったと亜佐は今さら後悔した。この世界に来た頃ベルタに頼んで見せてもらったが、まだ怪我もひどかったし字も読みにくかったし、気分が悪くなって読むのをやめてから苦手意識を持ってしまって全く読んでいなかった。

「それから各地で王室や高級貴族を狙ったテロが頻発し、半年前、大きなテロが起きた。それも、国王陛下が隣国の式典に参加なされている時、隣国の要人も巻き込んだ最悪のテロだ。両国王室にも要人にも被害は出なかったが、隣国の一般市民に死人が出た」

「あんまり思い出したくないかもだけど、クラウゼ大尉が一週間出張でいなかったでしょ? それの後処理に出てたんだよ」

 横からキノスがこっそりと教えてくれた。忘れたくてもきっと一生忘れることはできない出来事だ。あの時亜佐もひとりで恐怖と戦っていたが、ロイリもそんな危険な場所にいたらしい。

 次に口を開いたのは狸上司だ。

「テロ集団が我が国の王室を狙ったテロだと声明を出し、隣国とは表向きは手を取り合ってテロを撲滅しようなんて言っているが、水面下の関係は最悪だ。対テロ部隊を拡充してマレク大佐に任せてから大きなテロは未然に防げているが、奴らは少しずつ組織を大きくしていっている」

 亜佐は驚いてロイリを見上げる。マレクが対テロ部隊にいるのなら、今も彼の部下であるロイリも所属しているはずだ。

 彼は軍人だ。分かっていたはずなのに、そんな危険な仕事をしていたなんてそこまで想像できていなかった。

 ロイリと目が合う前に視線を戻す。

 動揺を落ち着かせるために何度か深呼吸して、口を開いた。

「……立憲君主制が上手くいっているのに、どうして王様を狙ったテロが起こるんですか?」

 世間知らずな質問かもしれないと恐る恐る尋ねたが、意外にも狸上司は丁寧に教えてくれた。

「周辺諸国で、王政を廃止し民主主義へ移行する国が増えている。それに倣うべきだという、何も考えていない馬鹿どもが僅かながらいるのだ。王政廃止が上手くいっている国など愚王の圧政に苦しめられていた国くらいだ。クーデターで王族を処刑したはいいが民がまとまらず弱った国や、結局王政復古した国もある。現状で上手く回っている我が国が、他国に倣う必要などない」

 そっと、もう一度ロイリを視線だけで上げて見る。

 もしかすると狸上司たちは王様がいることで何らかの利益を得ていて、亜佐を言いくるめようとしているのではないかと疑ったからだ。

 彼らの言う事は本当なのか。通じたのかは分からないが、ロイリは微かに頷いた。

 目を伏せて頷いて、亜佐は彼らを信じる事にした。

 マレクが体を起こして姿勢を正す。

「この国は、尊き王を失う訳にはいかない。それは、分かっていただけたかな?」

「……はい」

 返事をしながら、ああ、と亜佐は目を細める。

 ようやく見えてきた。彼らが亜佐に何を求めているのか。

「アサ嬢」

 狸上司が口を開いた。

「これから我々が口にする事は、決して口外してはならない。君が我々の要求を受け入れる、受け入れない、どちらにもかかわらず」

 とっさに言葉が出ずに口をつぐむ。この要求が自分にとって不利益にならないか、混乱した頭ではすぐに判断できそうになかったからだ。

「……聞きたくないと、拒否する事は?」

 上司の眉間に微かにシワが寄る。僅かに声色が低くなる。

「もちろんできる。強要はしない」

「口外しないと誓いあなた方の要求を聞いて、それを私が受け入れなかった場合、私に不利益はありますか?」

「ない」

 間髪入れない返事に嘘はないようだ。

「口外しないと誓えなかった場合も、こちらの要求を受け入れられなかった場合も、今日このまま保護施設に移ってもらう。それだけだ」

 カタンと椅子が音を立てるほど体が震えた。彼らにとってはそれは不利益ではないのだろう。

 しかし亜佐にとっては。

 膝の上で握り締めた手を見つめる。

 ロイリ。

 嫌だ、離れたくない。まだちゃんとお別れができていない。

 屋敷を出るときのベルタを思い出す。彼女は亜佐の決断次第では、このまま帰ってこない事をロイリに聞かされていたのだろう。ベルタにもアドルフにも、良くしてくれた使用人達にも、礼ひとつ言えていないのに。

 ロイリを見上げようとして、唇を噛んでそれを耐えた。頼り切って甘えては駄目だと深く息を吐いた。

 もう二十歳だ。さらにこの国は十八で成人する。もう大人だ。自分の生き方には、自分で責任を持たなければ。

 顔を上げて、亜佐はロイリ以外の軍人たちを交互に見た。

「……口外しないと誓います。聞かせてください」

「よし、あれを」

 マレクが机の上においていた白い大きな封筒から紙を取り出した。それをこちらに差し出す。

 受け取ったのはキノスで、彼は亜佐の前にその立派な紙を置いた。

「口外しないという誓約書だ」

 手に取って、それほど多くない文字を読む。彼らの言う事と相違はなかった。

 一緒に差し出された万年筆を手にとって、何度か練習した自分の名前をこの国の言葉で記入する。

 署名を確認した狸上司がふぅとわざとらしい息を付いた。

「本来なら血判を押してもらうが……これ以上この甘い匂いが強くなったら、我々が堪らなくなってしまう」

 それは大変だと上司の顔を見上げて、そのニヤニヤとした笑みにようやくセクハラじみた発言をされたのだと気付いた。

 言い返す元気もなかったが、キノスの「はは、ネズミみたいですね!」というわざとなのか天然なのかよく分からない発言に彼らがむっすり黙ったので、もう構わないことにした。

 朱色ではなく血のように赤い印肉に親指を押し当て、署名の隣に押す。マレクが回収して確認し、うんと頷いた。

「では話の続きに戻ろう」

 低い声でマレクが言って、狸上司を見る。狸上司は机に肘をついて、マレクと同じように声を潜めて言った。

「君には王族のおそばに控えてもらい、有事の際には速やかに極秘裏に血を提供していただきたい。表向きは、宮廷楽団のピアニストとして」

 上司の要求は大方予想通りだったが、いくつか引っかかることがあった。

 宮廷楽団、ピアニスト。

 そして、王様のそばにいるということは、城に住むという事だろうか。もしロイリが近衛師団に入れば会うチャンスがあるかもしれないと。

 そこまで考えて、口から飛び出そうなほど心臓が高鳴った。

 ロイリにこれからも会えるかもしれない。

 周りの音が聞こえなくなるほど強く早く打つ心臓を、そっと手のひらで撫でる。

「宮廷楽団の説明は私がさせていただこう」

 そう言って立ち上がったのは、小柄なスーツの男だった。

 彼は胸に手を当て頭を下げる。

「昨日は挨拶もせずに大変失礼した。宮廷楽長のロベルト・フリードハイムという」

 それはどこかで聞いたことのある名前だった。

「宮廷楽団を管理する立場にいる。指揮や作曲、ピアニストも兼任している」

 フリードハイムはもう一度頭を下げて椅子に座った。

 そうだ、思い出した。ロベルト・フリードハイム。ロイリやアドルフからもらった誕生日の贈り物の中に、彼の楽譜集があった。

「宮廷楽団の主な仕事は、国王陛下のもとで行われる様々な行事や宴席で演奏をすることだ。君をその楽団のピアニストとして迎えたい」

 呆然とフリードハイムを見上げる。

「王様の前で演奏するんですか……?」

「端的に言えば、そうだ」

「私に、そんな実力があると?」

「もちろん、今すぐには無理だ。まだまだ荒削りな部分が多い。しかし素質は十二分にあると、昨日の演奏を聞かせてもらって確信した」

 ぽかんと口を開けてフリードハイムを見る。王様の前で演奏するような人にそんな風に言ってもらえるなんて嬉しい、よりも恐れ多い。

「マレク大佐とドクターとの会話も聞かせてもらった。教養も品もある。すぐに宮廷作法も覚えられるだろう」

「もちろん安全面にも配慮する。万が一血液を提供する事になっても、君の体調を最優先に扱う」

「あの、ちょっと待って……」

 マレクの言葉を遮り、額を手で覆った。口の上手い大人達にじりじりと追い詰められているような恐怖を感じた。

 考える時間が欲しい。ロイリと少し話がしたい。客観的な意見が聞きたい。

 しかし狸上司はその時間すらくれないようだ。

「それと、君専門の警護隊を編成する。こちらからと近衛師団から数名集めて、それをクラウゼ大尉に指揮してもらうつもりだ」

 驚いてロイリを見上げる。ロイリも驚いた顔をして上司を見下ろしていた。今まで顔色一つ変えずに話を聞いていたが、これは聞かされていなかったようだ。

「知らない世界の知らない場所で色々と不安だろうが、すぐそばに顔見知りがいれば少しは心強いだろう」

 ロイリと一緒にいられる。これからも、いつまでかは分からないが、でもまだ会える。

 二つ返事をしかけて、亜佐は唇を噛んで言葉を呑み込む。

 落ち着いて考えなければ。一緒にいられると飛びついて、どちらか、もしくはふたりとも不幸になるようなことがあってはならない。

 お手洗いに行こう、と亜佐は考えた。ロイリに道案内を頼んで、その道中で話をしよう。断られれば、漏れると騒げばいい。品なんてクソ食らえだ。

 そこで冷静さを取り戻して――。

「ひとつ、言っておこう」

 マレクの声に顔を上げる。彼の目には、微かに躊躇いが含まれていた。

「保護施設にピアノはない」

 目を丸くした亜佐にさらに眉間に戸惑いを濃くし、しかし彼は言い切った。

「まだスペースに余裕はあるが、それでも集団生活だ。トラブルのもとになるような大きな音が出るものの持ち込みは禁止されている」

 頭を殴られたような衝撃だった。うまく息ができない。

 ピアノもない世界で生きていけるわけなど。

「分かりました」

 マレクを睨み付ける。

「有事の際に血を提供するお話、お受けします」

 狸上司がやれやれという風に息をついたのが分かった。それがさらに、この八つ当たりにも近い怒りを増長させる。

 説得に負けたわけでも、この国のために決めたわけでもないと絞り出すように言う。

「私は……ピアノを弾くために勉強して、ピアノを弾くために働いて、ピアノを弾くために生きてきました」

 この思いに他人には理解できない狂気が含まれていることは分かっている。理解してもらいたいとは思わない。でも、そうやって生きてきた事は事実だ。

 この世界でまた手に入れる事ができたものを手放すなんてできない。

「私はピアノがないと生きていけない」

 フリードハイムが口の端を吊り上げる。彼にはこの狂気が理解できるらしい。

「君と共に舞台に立てる日を楽しみにしているよ」

 その言葉が合図となって、狸上司が机の上の封筒を手に取った。

「今日は以上にしよう。長い間拘束してすまなかったね」

 三人の上司とフリードハイム、遅れてマレクが立ち上がる。亜佐も立ち上がった。

「人間のお嬢さん」

 口を開いたのはフリードハイムだ。

「昨日の演奏……最後のフォルティシモ、最悪だった。鍵盤を叩くのはやめなさい」

 酷い言い草だったが、胸に広がったのは懐かしさだ。大学の先生と口調がよく似ていた。

「はい、気を付けます」

「……君はおそらく、言う事を聞かないタイプの弟子になるな」

「……ちゃんと聞きます」

 たっぷりと間を置いて答えた亜佐の顔を見て、フリードハイムは頭を下げて部屋を出ていった。ふたりの上司もその後に続く。

 キノスが近寄って、亜佐の耳元でこっそり言った。

「あの人、昨日の帰りの車の中ですごく君のこと褒めてたよ。素直になれないタイプだね」

 ふっと吹き出して、ようやく強張って固まっていた表情筋が緩んだ。

 ひとり残った恰幅のいい狸がロイリに近付いて、その肩をぽんと叩く。

「クラウゼ少佐、期待しているよ。ははは、少し気が早いか」

 大きな声で笑いながら、上機嫌な上司も部屋を出ていった。

 マレクが額を撫で、ため息をつきながらロイリを見る。

「まだ辞令も出ていないというのに……。クラウゼ、今月十五日付けで昇進だ。同時に宮廷に上がり、近衛師団で一ヶ月経験を積んでもらう。それから半月で警護隊を編成し、二ヶ月以内にアサ嬢を宮廷に住まわせる手はずを整える」

「……分かりました」

 ロイリの返事はどこか呆然とした響きを含んでいる。

 そのそばに寄る。ロイリは亜佐を見ないまま、絞り出すように尋ねた。

「……マレク大佐。この話は、フレデリカ・アイロも知っていたのですか?」

 毎日思い出すが音にして聞いたのは久しぶりのその名前に、亜佐はギクリと体を強張らせる。マレクは少し顔を顰めて、確認するようにキノスを見た。視線を受け、キノスはうぅんと唸るように言う。

「マウスを使った実験の結果は初期段階で出ていたし、彼女も協力してくれていたから知っていました。クラウゼ大尉が警護隊長を務めるのは、大尉がそろそろ宮廷に上がるのもアサが大尉に懐いているのもみんな知っていたし、そうなるだろうねって噂が出ていました。それを誰かから聞いて知っていたかもしれませんね」

 それでかと、亜佐はようやく納得した。

 結ばれることのないと思われていた亜佐とロイリを引き裂くために、どうして彼女があんな凶行に走ったのか。

 フレデリカはきっと全て知っていた。

 亜佐とロイリが愛し合っている事も、保護施設はふたりを引き裂かないという事も。

 肩に誰かの手が触れ、跳び上がる。心配そうにこの顔を覗き込んでいたのはマレクだった。

「大丈夫かい?」

 声は出せなかったが頷いて、額に滲んだ汗を指で拭った。考えても悲しんでもどうにもならない事は一度頭から追い出す事にした。

「黙っていてすまなかったね。以前から出ていた話だが、まだ君達に話す許可が降りていなかった」

 亜佐は首を横に振る。

「お仕事ですので、仕方ありません」

「そう言ってもらえると心が軽くなるよ。これから何度かこうやって軍に来てもらう事になると思う。それまで君はクラウゼの屋敷にいてくれ。警備は引き続き万全の態勢で臨む」

「分かりました。よろしくお願いします」

 亜佐の返事を聞いてから、マレクはロイリを振り返る。

「と言う事でクラウゼ、長期休暇はなしだ」

「……了解」

「彼女を連れて帰れ。十七時までに戻ってこい」

「了解」

 返事をしたロイリの背中を叩いて、マレクは部屋を出ていった。

「玄関まで送るよ」

 そう言ってキノスが扉に向かう。

 その後ろ姿を見て、ロイリを見上げた。

 彼も亜佐を見下ろしていて、目が合う。

 まだ実感がわかない。一時間やそれくらい前まで、別れを覚悟していたというのに。

 一緒にいられる。まだ離れなくていい。まだ、そばに。ロイリも念願の昇進と、近衛師団に入ることができる。

 手を伸ばして、ロイリの袖を引く。彼はなんの抵抗もせずに体を屈めた。

 唇が触れて、すぐに離れる。

 ああ。

 嬉しい。

 幸せだ。

 それなのにどうして。

 どうしてロイリは笑ってくれないのか。

「見てないよ」

 キノスの声がして振り返る。彼は手に持っていた封筒の上から目だけを出して、おどけた顔をした。

「見られていなくてよかったよ」

 亜佐から離れて肩をすくめながら、ロイリも扉に向かって歩き出す。

 その背中を追い掛けながら、喜びと不安とで破裂してしまいそうな胸元を、亜佐は強く握り締めた。




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