4、価値
人間の血を飲んだ者は死刑。それがこの国の決まりだった。
しかし『誰か』のために作られた逃げ道もあった。一定以上の身分を持っており、そして故意ではなく事故で人間の血液や体液を飲んでしまった場合。その場合は管理下には置かれるが無罪となる。
ロイリはその但し書きのおかげで、無罪となった。
もし彼がその但し書きに当てはまらなければ、極刑になっていたのだろうか。もしかすると彼を二度も殺すことになっていたかもしれない事実を知り、亜佐はただ顔を青くして震えるしかできなかった。
ロイリの上司らしい数人の軍人を前に、彼に血を飲ませた時の状況を話す。
彼が死を悟り、そして受け入れていたこと。血を飲ませたのは完全に亜佐の判断で、その時にはすでに彼に意識はなかったこと。
「死にたくない」とロイリが呟いたことは黙っていた。不利になると思ったからだ。ロイリはあの薄暗い岩の陰での出来事をほとんど覚えていないようで、これは彼にも知られずに墓場まで持っていかなければならないと決心した。
亜佐の話を聞き終わって、今度はロイリが上司達と長い間話をしていた。これからの事を決めているらしい。フレデリカと一緒に少し離れた場所でそれを聞く。
あまり乗り気ではないフレデリカに難しい単語を教えてもらいながら、いくつか理解した。ロイリが今回の件で、どれだけのものを失ったのかをだ。
ロイリは近々、昇進とクラウゼ家念願だった爵位の授与を控えていたらしい。さらに宮廷勤めも決まっていた。
それらが、亜佐を助け、亜佐の血を飲んだことで全て白紙に戻ったのだ。
ロイリは表情ひとつ変えずに話を聞いている。彼が亜佐に怒鳴った「死ぬ気で積み上げてきたものが全て台無し」というのはこの事なのだろう。
がたがたと全身が震えて、涙が滲んだ。
「私のせいだ……」
「そんなわけないでしょう。あなたも彼も何が最善か自分で考えて行動した。誰が悪いなんてないのよ」
肩に手を置いたフレデリカにゆっくりと首を横に振って、声を押し殺して泣く。
彼の人生を台無しにしてしまった。
ロイリに血を飲ませたことに後悔はない。そんなことではない。もっともっと、根本的な。
椅子を引く音が聞こえて顔を上げる。ロイリの上司達が立ち上がって扉へ向かっているところだった。
腹回りばかり恰幅のいい軍人が、ロイリの顔も見ずに吐き捨てるように言った。
「君には期待していたんだがな。お父上はあんなにも素晴らしい方だったというのに……クラウゼ家もお終いか」
ロイリの顔は見えない。
長身のロイリよりもさらに背の高い軍人をひとり残して、上司たちは出て行った。彼らの声が遠くなり、聞こえなくなる。
「……っ!」
ロイリが小さく呻いてから、そばにあった椅子を力任せに蹴り飛ばした。轟音と共に椅子が壁にぶつかりひしゃげる。
フレデリカが庇うように亜佐の肩を抱いて、背の高い男がロイリの肩に手をやった。
「クラウゼ、落ち着け」
ロイリは彼を見上げ口を開き、何も言えずに俯いて机に手をついた。
「お前が今までどれだけ軍に尽くしてきたか俺は知っている。これっぽっちの事でどうにかなってたまるか。俺がどうにもさせない。お前はまだ若いんだ。精神力だってある。さっさと耐性をつけて、あの狸親父どもを見返してやれ」
ロイリは小さく頷くと、掠れた声で「はい」と呟いた。
憔悴しきった顔が亜佐を振り返る。そして涙に気付いたのだろう、目を丸くして「アサ」と名を呼んだ。
そばによって亜佐の頬に触れて、ロイリは少し赤い目を細めた。
「すまない、怖がらせて」
首を振る。違う、怖がっているわけじゃない。
「ごめんなさい……」
彼の目を見ることができなかった。絞り出すように言う。
「私を、助けなければよかったんです……あなたの近くに落ちなければよかった」
「アサ」とフレデリカが肩に手を置く。ロイリの表情は分からなかったが、少しの間の後、小さな声で彼は呟いた。
「俺がお前を見つけていなかったら、確実に盗賊に捕えられていた。今頃無事ではなかった」
「構いません」
「アサ、俺はお前を助けたかった」
「あなたの人生を台無しにするような価値は、私にはありません」
「どうしてそんなことを言う」
亜佐の肩を強く掴んで、ロイリは腰をかがめて顔を覗き込む。
「大丈夫だ、アサ。すぐに耐性をつけて全部元通りにしてみせる。その頃にはお前の世界に帰る方法も見つかっているかもしれない」
その自信はどこから来るのだろうとロイリを見上げて、すぐにそれは彼自身にも向けられた言葉だと分かった。
これ以上困らせてはいけないと、涙を拭って頷く。
「お前は気が強いのか弱いのかよく分からないな」
彼は何度も亜佐の頭を撫でて、ほんの少し笑った。
「落ち着いたか?」
ロイリの後ろから声がした。背の高い男がいつの間にかロイリのすぐ後ろにいた。
亜佐はその顔を見上げて仰け反る。
大きい、とにかく大きかった。ロイリでさえ見上げるほどだというのに、彼はその上を行っている。二メートルはあるのではないか。彼はそんな長身を折り曲げて、亜佐と目線を合わせた。
「初めまして、お嬢さん。マレクという。さっきの話はどこまで聞いていたかな?」
「ご、ごめんなさい……半分くらいまでしか……」
後半は泣いていて、ほとんど聞いていなかった。
マレクは精悍な顔をにこりと微笑ませた。
「構わないよ。君のこれからの話だ。本当は保護施設に入ってもらうほうが安全なんだが、頻繁にクラウゼが出入りする事になると、不安に思う住人も出るだろう。そこでだ。クラウゼの屋敷に少しの間滞在してほしい。軍本部にいるよりはよっぽど安全だからな」
屋敷という言葉に驚く。その言葉を聞いて連想するのは、広大な庭に建つ城のような大きな建物だ。
「こちらから何人か人をやる。警護に関しては安心してくれ」
反対する権利も意見する権利も亜佐にはなかった。ぎこちなく「はい」と返事をすると、マレクはうんと頷いてロイリに視線を戻した。
「クラウゼ、明日から中隊長の任を一時的に外れてもらう。俺の補佐についてくれ」
「了解」
「今日はもう上がれ。お嬢さんを屋敷に連れて行ってやれ」
「了解」
敬礼をしたロイリに頷くと、マレクは部屋から出ていった。扉が閉まって敬礼を解いて、ロイリは額を撫でる。
「あの人の補佐か……中隊長の仕事よりキツイぞ」
「あら、忙しい方がいいじゃない。こき使ってもらいなさいよ」
おどけたようにフレデリカが言う。
マレク大佐、きっとあの人はいい人だ。軍人には正義の味方というイメージがあったが、色々といるようだった。
「アサを連れて帰る」
ネクタイを少しだけ緩めて、ロイリは大きく息をついた。