39、必要のない
一週間軍の医務室で過ごして体調面では全快した亜佐は、またクラウゼの屋敷に帰ることになった。
これ以上外にいては危険だと、ロイリは亜佐を保護施設へ入れるよう働きかけていた。亜佐も覚悟をしていた。
それなのに耐性のつき具合をもう少し見てからとなったのだ。
ロイリは強く抗議したが、結局覆ることはなかった。
バンドラーはひっそりと、しかし丁重に弔われたらしい。
フレデリカの両親は経営から退き田舎に引っ越した。子供たちは父親と、新しい母親に守られることになったとベルタから聞いた。
エレオノーラはあれだけ頻繁に顔を出していた社交界からも姿を消し、男爵家からも消えた。
その男爵家も、ロイリとベルタが突き付けた悪行の数々を軍は庇い切れなくなったらしい。結局見捨てられ、爵位を剥奪され一家は離散した。
あくまで噂だがとベルタは前置きをしてから、エレオノーラによく似た前歯と上唇の欠けた娼婦が、娼館から客の男と逃げ出そうとして捕まったと教えてくれた。
その後、彼女の姿を見た者はいないらしい。
*
亜佐の心臓のあたりにポッカリと空いた虚無感は、ロイリを始めベルタやアドルフが少しずつ埋めていってくれているが、まだ完全には埋まりきっていない。
ロイリは忙しい合間にこまめに帰ってきてくれる。そして、ずっと亜佐のそばにいた。少し過保護気味だったベルタがかなりの過保護になったが、ロイリはその上を行く心配性と過保護に豹変した。
今日も、早めに帰るから一緒に夕食を取ろうと昼過ぎに電話があったそうだ。
夕方、ピアノの音にお腹が鳴る音が混じり始めた頃、ロイリは息を切らして帰ってきた。サロンでそれを出迎える。
「おかえりなさい」
「ただいま。遅くなってすまない」
頬にキスを受け止めながら時計を見た。十九時前だ。いつもに比べたら格段に早い。
ロイリはわざとらしく顔をしかめて言った。
「帰り間際にエヴァンスに捕まった」
「あれ、今日はエヴァンス少尉はお休みじゃなかったですっけ?」
「そうだったが、あいつ女に振られて、ヤケ酒する相手を探して休みなのに顔を出してた」
そういう事かと納得する。しかし、確か先月も先々月も振られたと言っていたような気がするのは気のせいか。
「アサと夕食を食べる約束をしてるからと断ったら、色々と罵られたよ」
亜佐は思わず声を出して笑った。何となくその場面が想像できる。
「明日会ったら話を聞いてみます」
「そうしてやってくれ」
言いながら、ロイリは亜佐の頬に触れた。
「お前が笑うと安心するな」
それは、普段は笑顔が少ない亜佐を心配しているという事だ。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
顔を寄せて、唇に触れそうになった彼の唇はすんでのところで軌道修正して鼻の頭に押し付けられた。
「今日は食堂で食べよう。着替えてから迎えに来る」
「はい」
「愛しているよ、アサ」
何十回何百回言われても慣れないその言葉に、とっさに言葉が出ずにうんと頷いて熱い顔を俯ける。笑いながらロイリは亜佐の頭を撫でた。
「お前はいつまでたっても慣れないな」
だって愛しているだなんて、元の世界ではそうそう身の回りでは聞かなかった言葉だ。
馬車の中でのあの大告白は、死にかけていたからこそ言えたのだ。言葉にするにはまだ勇気と勢いが必要だった。
「また今晩、お前が俺をどう思ってるのか聞かせてくれ」
「……何度も言ってるのに」
「何度でも聞きたい」
「わ……分かりました……」
そう返事をしながら顔を上げた亜佐に、ロイリは柔らかく微笑んでから踵を返した。
それからまた少しピアノを弾いて、着替えて迎えに来たロイリと、独身に戻ってから頻繁に帰ってくるようになったアドルフも加えて三人で夕食をとる。
話題はアドルフの会社が好調だという話だったが、亜佐はふと気付いて恐る恐る聞いてみた。
「アドルフさんの会社の武器がよく売れてるって事は、武器が必要な人が増えてるって事ですか?」
亜佐の疑問にアドルフは「そうだねぇ」と頷いて、手にしたスプーンを宙で揺らした。
「まあほとんどは軍絡みだけど。ここ一年くらいテロも増えてるし、お金持ちの近衛師団が装備強化してるみたいでね」
「近衛師団……」
聞いた事のない言葉を復唱する。
「お城と王様たちを守ってる軍人のことだよ」
ああ、と納得する。亜佐と出会う前、ロイリがなる予定だったものだ。
自分のせいで、なんていう久しぶりの負の感情が頭に浮かんだことに、ふたりは気付いたのだろうか。アドルフが明るい声を出した。
「近衛師団の制服ってすごく格好いいんだよ。普段が深い赤で、特別な時が白。ご婦人方に人気でね」
顔を上げる。それは少し、見てみたい。
「ロイリが着ているのを見たら、きっとアサも惚れ直すだろうなぁ。ロイリ、そろそろ着る予定あるんじゃないの?」
「さてね。まあ、もう直さ」
ちぎったパンを口の中に放り込みながら、ロイリは口の端を吊り上げる。
「上層の肥えた狸共も俺を無視できなくなってきてる。昇進の話もちらほら聞こえるし」
自信たっぷりの言葉だ。
「……本当ですか?」
「本当だ。マレク大佐が、はっきりとは言わないが何かと匂わせてくる」
「そうですか……よかった」
そのまま昇進を重ねその近衛師団に入り、出世の道に戻ることはできるのだろうか。
「私も見たいな。ロイリのカッコいい軍服姿」
「見せてやるよ」
ロイリの顔を見る。彼は目を細めて笑っている。
「楽しみにしています」
そう笑い返すと、ロイリはまた安心したように笑った。
食事を終えて、また後でとロイリに手を振って自室へ戻る。
ロイリはこんなところで足をすくわれるわけにはいかないという、いつかのベルタの言葉が蘇る。こんなところで立ち止まっていていいような人ではないと。
難しいことは分からないが、きっとロイリはすごい人なのだろう。色々な人が彼を慕い、必要としている。
ノックの音に、亜佐はハッと顔を上げた。濡れた髪を拭こうとタオルを手に持ったまま、随分長い間考え込んでいたようだ。
「どうぞ」と返事をする。入ってきたのはロイリだった。彼は鏡台の前に座る亜佐の後頭部にキスをしてからベッドに座った。
「アサ、明日キノス先生が十四時頃に様子を見に来るというのは聞いたか?」
「はい、お昼間に電話があったそうで、ベルタさんから聞きました」
「そうか」
タオルで粗方水分を取った髪に、少し慌ててトリートメントを馴染ませる。ぼんやり考え事をしていたせいで遅くなってしまった。
「早くおいで」
「ちょっと待ってください。髪を梳いてから……」
「すぐ乱れるから後でいいだろ」
それはそうだけどと手を止めて、悩んで結局少しでもそばにいることを選んだ。
最後の抵抗に手櫛で髪を梳きながら近付くと、その手を引かれて彼の腕の中に収まる。
「いい匂い」
「でしょう? 今日、ベルタさんが私の髪質に合うトリートメントを探してきてくれたんです。リンゴみたいな匂いでしょう?」
「ああ、腹が減るくらいいい匂いだ」
「さっき食べたのに」
髪をいじる手がくすぐったくてロイリから少し離れる。彼は掴んだままの髪に音を立てて口付けを落とした。
「愛してるよ」
「はい……私もです」
「ちゃんと言え」
彼の顔を見る。少し意地悪気な、しかし優しい笑みが亜佐を見下ろしている。
「……愛しています、ロイリ」
「うん、俺もだよ。俺も愛してる」
ロイリは強く亜佐の体を抱き寄せた。
「愛してるんだ、アサ」
何度も、何度も繰り返しそう囁く。
まるで一生分を今言い切ろうとしているようだ。
彼が額にキスを落とす。次は頬に、耳に、首筋に。
手のひらが背中を撫で腰を這い、ゆっくりとシーツへ倒れ込む。
そのまま抱き合ってロイリが頭を撫でる手を感じながら、その日あったことを話すのがふたりの何よりの楽しみになっていた。
キスはするが唇は避けていた。話をして、ほんの少し触れ合って、彼は自分の部屋に帰っていく。
耐性がどれだけついているか確認するために、ロイリは唇にするキスも、血を飲んだりも一切していない。
それももうニヶ月。
ロイリと出会って一年と少し。
あの事件から半年。
亜佐が二十歳の誕生日を迎えた頃、この体は彼にとって必要なものではなくなっていた。




