38、愛し合うふたり
部屋は薄暗い。しかし匂いでまだ医務室にいることが分かった。
亜佐は鈍く痛む頭を押さえながら辺りを見渡して、枕元に見つけたランプをつける。かろうじて見える時計の針は夜中のニ時を指していた。
足元から衣擦れの音がして視線をやると、ロイリが顔を上げたところだった。そばの椅子に座って、ベッドに上半身を預けて眠っていたらしい。
少し寝癖のついた前髪をかき上げた彼が、気怠そうにまぶたを持ち上げる。
「アサ」
掠れた声だ。可哀想に、彼も相当疲れているのだろう。
「気分はどうだ」
「あまり良くないです」
しかし自分でも驚くほど頭の中が冷え冷えとしていた。
真相を聞いて暴れて、過呼吸を起こして失神して。それなのに、だ。自嘲すら漏れない。
腕が痛んで見下ろす。大きな絆創膏が貼り付けてあった。そういえば点滴を引き千切った覚えがある。
「小さな傷だ。すぐ治る」
絆創膏のそばに触れた彼の指を見ながら、「すみませんでした」と謝った。
「アサ」
顔を上げられない。表情が動かない。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「アサ……」
どうしてロイリが泣きそうな声を出すんだ。
顔を上げたが、彼は泣いてはいない。
ただただその顔には、疲労と怒りと後悔と、そして悲しみが溢れていた。
かつて一生を添い遂げたいと願ったほど愛した人の罪に、彼がどれほど深く打ちのめされているのか亜佐はようやく気付いた。
その頭を引き寄せて、強く抱き締める。
「……ごめんなさい、ロイリ」
返事をせずに背中に回された腕が、強く体を掻き抱く。
長い間そうしていた。
ふたりの呼吸音だけが聞こえる。
亜佐より早かったロイリの呼吸がようやく落ち着いて、体を少し離して視線を交わしてお互いが落ち着いた事を確認し合った。
詳しく教えて欲しいと言う亜佐に、彼はぽつりぽつり事件の詳細を話し出す。
フレデリカがエレオノーラを利用して罪をなすりつけようとした事も、まんまと乗ったエレオノーラがさらに罪を重ねたことも。
結局、フレデリカが亜佐への情を捨てきれなかったせいで、全てが露呈したことも。
少しの間黙って、重すぎる事実を持て余す。ひとりだときっと押し潰されていた。
黙った途端に取り留めのない不安が空っぽの頭の中に溢れ出し、思わずロイリの胸に頭を擦り付ける。
「今、ベルタさんは?」
「少し前にアドルフに電話したが、肩も頭部もそれほど深い傷ではないらしい。後遺症もない。軽い脱水を起こしていたが、それももう心配ない。もう屋敷に帰ってきてる。お前の無事を聞いて、泣いて喜んでいたそうだ」
ベルタが泣く姿なんて想像もつかなかった。
きっと彼女の事だ。自分が守れなかったせいでと、強く後悔しているだろう。早く話がしたい。
「……エレオノーラさんも捕まったんですか?」
「一度拘束されたが、すぐに釈放された。今は実家の男爵家にいる」
てっきりフレデリカと同じように軍に拘束されているのかと思った。眉根を寄せる。
「どうして?」
「すまない。男爵家の跡取りが軍上層部と懇意にしていて、今はどうしようもないんだ」
膝の上で両手を握り締める。どこの世界でも、汚い奴はとことん汚いらしい。
「今アドルフが交渉しているが、クラウゼに有利な離婚は確実だ。俺とベルタが集めた不正も使っているから、男爵家は名を守るためにエレオノーラを捨てるだろう。……どの道、あの顔ではもう人前には出られん」
吐き捨てられたロイリの言葉に背筋が凍った。
「……あの顔?」
「人を殺めたのに、司法はあの女を裁かない。もっと酷い目にあわせてもよかった」
ロイリの手が伸びてきて、びくりと体を強張らせる。彼は構うことなく亜佐の頬を撫でた。
「……フレデリカも何十年と牢の中だろう。親権を奪われて、恐らくもう子供には会えない。それだけの事をした」
乾き切ったと思った涙が勝手に溢れ出した。幸せそうに子供の写真を見せるフレデリカが浮かんで、すぐに消えた。
「……子供さんは、どうなるんですか?」
「恐らく父親が後妻をとるだろう。乳母もいる。放り出されたりはしない」
滑り落ちた涙を、待ち構えていたように彼の指が拭う。
「フレデリカの罪は軍にとって身内の恥だ。機密事項になる。子供達が母親の罪を知ることはない」
体が重たい。吐き気がする。
深く俯いた亜佐を、ロイリはまた抱き締める。
「バンドラーさんの娘さんは」
「七年前に亡くなっている。生きていれば、お前と同い年だ。事故で亡くなって、その時に奥方とも別れて。アリッサと言ったかな。名前もだが、はにかむような笑い方がお前とよく似ているんだ。バンドラーも重ねて見ていたんだろうな。……本当に、不器用な男だった」
どうにか、もっと方法があったろうに。ロイリは掠れた声でそう言い捨てて、亜佐の病衣を握った。
今回の事で、一体何人が不幸になったのだろう。
「……少し休もう。何か食べるか?」
「いらない……」
もうこのまま眠って目覚めたくないなんて、そんな考えが一瞬頭をよぎった事にロイリは気付いたのかもしれない。抱き締める腕に力がこもる。
この腕に縋ってもいいのだろうか。そんな権利はあるんだろうか。
「辛かったな、アサ。七日間もひとりきりでよく頑張った。お前が生きていて本当に良かった。もっと早くに助けてやれなくて、すまない」
首を横に振る。
「悲しむのも憤るのも後にしよう。頼むから、今は体を休めてくれ」
ロイリの手が亜佐の頬を包み込む。
「愛しているよ、アサ」
ああ、そう言えば。
布団にゆっくりと寝かされ、ロイリはジャケットを脱いでその隣に潜り込んだ。握り締められた手を見つめながら、ぼんやりと思い出す。
「私を見つけてくれた時も……私の事を愛してるって言いました?」
「ああ、言った」
「夢だと思ってました。お腹が空いて意識がぼんやりしていたから」
「ならもう一度言おうか。お前を愛しているよ」
握った手を持ち上げて指にキスをして、ロイリはまぶたを伏せる。
「何が犠牲になっても……それでも、諦めきれないほど、お前を愛しているんだ」
絞り出すような言葉だった。
胸の中からその苦悩に歪んだ顔を見上げる。
「それは、執着ではなくて?」
「初めは執着だったかもしれないし、そんなものではなく愛情を感じていたのかもしれない。お前の人となりを知れば知るほど、お前への想いは強くなっていった。お前の血や体液に対する執着が薄くなったあとも、ますます、苦しいくらいに」
ロイリの胸元をぎゅっと握り締める。
彼の言う通りだ。この関係がどれだけの人を不幸にしたって、それでももう、やめる事はできない。
誤魔化す事も、忘れる事も。
「……ロイリ、足りなくないですか?」
「今朝血を飲んだ。充分足りてる」
「……そう、ですか」
ロイリがベッドに肘をついて、少しだけ上半身を起こした。
「足りてるけど、でも、キスはしたい」
「あ……」
そうか、と口に出す前に、唇が触れた。
押し付けて、離して。また押し付けて、ついばむように柔らかく唇を噛まれて、すぐに離れた。
ロイリはシーツに頭を預けて、もう一度亜佐の手を取る。
「今は少しだけ。元気になったらいくらでもしよう。したいだけ、何度だって」
「はい……」
未来なんてないし、祝福してくれる人も少ない。でも、ふたりは愛し合っている。
キスに理由なんて必要ない事に、亜佐はその時ようやく気付いた。




