37、真実
薄く目を開くと見覚えのある天井が見えた。
懐かしいなと亜佐はぼんやり思う。半年ぶりの軍の医務室だった。
点滴がふたつぶら下がっているのが見える。それはきっと、この腕に繋がっているのだろう。
水の中にいるようにたゆたう頭だったが、遠くから聞こえたロイリの声だけは聞き取ったようだ。
目を開いて、水面に上がったように息を大きく吸う。腕を動かすと点滴の袋が揺れ、ぶら下げている金具がキィッと音を立てた。
その音でロイリは亜佐が目覚めた事に気付いたのだろう。
「アサ」
名を呼ぶ声がして、すぐに視界にロイリの顔が映った。
「ああ、アサ……よかった」
彼の手が頭を撫でて、額と額をくっつける。ふわりとロイリの匂いがして、まるで何ヶ月も会っていなかったような、そんな懐かしい気持ちに襲われた。
顔を離した彼が目を細めて笑う。
「気分はどうだ」
「お風呂に入りたい……」
ロイリが笑い声を漏らした。
「点滴が外れたらな」
こくりと頷いて、部屋を見渡す。彼の他には誰もいないようだ。甘い匂いがする。
「いいタイミングで起きたな。もうすぐ起きるだろうと、今さっきお前の食事が届いたところだ。食べるか?」
一度離れたロイリが盆を運んできてくれる。パン粥のようだ。
「はい」
「起き上がれるか?」
頷いて、ロイリに支えてもらいながら体を起こす。
胃が潰れてしまいそうなくらい空腹だったが、半分ほど食べてもう食べられなくなってしまった。
「胃が縮んでいるんだ。少しずつ食べる量を増やしていけばいい。すぐに元通りになる」
うんと頷く。
水分はしっかり取っていた。大きな怪我もしていない。食べられるようになれば、すぐに体調は戻るだろう。
頭を撫でられ、ロイリを見上げる。聞かなければいけないことがたくさんあるはずなのに、重たい口は開かない。彼も伝えなければならない事があるだろうに、話し出す素振りはない。
ロイリが用意してくれた蒸しタオルで顔と体を拭いて、歯を磨いて病衣を着替える。
体がすっきりして、ようやく目が完全に開いた。
部屋の外で待っているロイリに「着替え終わりました」と声をかけたが、入ってくる気配はない。
すりガラスの向こうでロイリの金髪が揺れている。隣にもう一つ茶色い髪の頭も見えた。どうやら誰かと話をしているようだ。
少しして、ロイリは扉を開いて俯いたまま部屋に入ってきた。
その彼の後ろから、茶髪の男が続いて入ってくる。どこかで見たことのある男だ。
そうだ、廃教会でロイリが助けに来てくれた時、馬車に乗っていた白衣の男だ。亜佐と目が合って、彼は目を細めて微笑んだ。
亜佐のそばに寄ったロイリが、なぜか固い声で言う。
「アサ、彼はキノス軍医中尉だ」
ロイリも、紹介されたキノスも、ほんの少し顔を強張らせている。黙った彼らを交互に見て、ロイリを見上げる。その不安を孕んだ視線を受けて、ロイリはやっと口を開いた。
「……彼は、フレデリカの後任だ。これからお前の担当は、キノス先生になる」
その言葉に息を呑む。
後任。どういう事だ。
「フレデリカさんは、どうしたんですか?」
ロイリが一瞬、唇を強く噛んだのが分かった。
背中が冷たくなった。言いようのない不安に、ロイリの袖を掴む。
「まさか、今回のことで……怪我か何か……」
亜佐が連れ出され、ベルタもひどい怪我をして、そしてロイリもアドルフもいない。そんな屋敷を、もしかしたらフレデリカはひとりで訪れたかもしれない。
もしかしたら、何か、酷い目に。
「違う。フレデリカは今……軍に拘束されている」
全く想像もしていなかった言葉に、一瞬頭が真っ白になった。どうにか疑問を絞り出す。
「……拘束?」
どうしてフレデリカが拘束されなければならないんだ。
袖を掴む亜佐の手に、ロイリが触れた。
「……アサ」
聞いた事のないような弱々しい声だ。
「何が起きたのか、本当の事を知りたいか?」
ビクリと体を震わせる。
どうしてフレデリカがいないのか。
どうして後任が来たのか。
どうして拘束されているのか。
どうして、ロイリはそんな顔をしているのか。
震えながらロイリを見つめる。
「……教えてください」
「もう少し体調が戻ってからでも」
「今、教えてください」
表情をよく確認するように、ロイリは亜佐の前髪を指で払って、それから離れた。
ジャケットの内ポケットを探って、折りたたまれた手紙を亜佐に差し出す。
「バンドラーが俺宛に書いた手紙の写しだ」
受け取ったが、震える手がその手紙を開くのに随分時間がかかった。
ひとりでいる間に聖書を読み漁ったおかげか、するすると頭に入ってくる文字を読み進める。
こんなもの嘘に決まっていると、破り捨てたい衝動を我慢しながらロイリを見上げた。
「バンドラーさんは」
「病死に見せかけて殺された」
「……そん、な……」
犯人について書かれた言葉から一行空けて、手紙はもう少し続く。
――お嬢様は、死んだ私の娘にそっくりです。仕事にかまけ、抱きしめた事も少なかった娘に。娘を守る事ができなかった罪を、これで軽くできるだなどと考えてはいませんが、どうしても彼女を守りたかった。
手紙を握り締める。
彼は最初から最後まで、亜佐を守ってそして殺された。
「フレデリカさんは……」
「罪を認めた」
腰を浮かせて彼の腕にしがみつく。
「何で……!」
「……俺をお前に、取られたくなかったらしい」
取る? フレデリカから、ロイリを?
頭の中が四方八方に回転しているようだ。ぐらりと揺れて、地面が消えたような錯覚を起こす。
彼女はまだ、ロイリの事を。
優しかったフレデリカがどうしてこんな事をしたのか。なぜバンドラーが死ななければならなかったのか。なぜベルタがあんな酷い目にあわなければならなかったのか。
ロイリが好きだとフレデリカに笑いかけた時の事を思い出す。
驚いた顔をして、その後彼女は笑った。そう、とてもきれいに。
あれは作り笑いで、あの時からフレデリカは亜佐の事を。
殺したいほど憎んでいたのだろうか?
彼の腕を離して、ベッドに尻餅をついた。がちゃんと点滴が大きく揺れたが、この耳には届かない。
頭を押さえて、亜佐は出しうる限りの悲鳴を上げた。そうしないと頭が狂いそうだったからだ。
ロイリが抱き締めようと伸ばした手を振り払う。
全部全部、自分がロイリを愛してしまったせいだ。
「私のせいだ……! 私の!!」
「違う!! アサ!!」
泣き喚くこの体を、ロイリは力ずくで抱き締める。
「悪いのはフレデリカと、それを利用しようとしたエレオノーラだ! お前は何も悪くないんだ!」
「わっ、わたしは……! わたしは」
「落ち着け、大丈夫だ……!」
ヒュ、ヒュと息が短く途切れる。
苦しい。息ができない。
「アサ? アサ!」
胸元を押さえる。グラグラと頭が揺れて、ベッドに倒れ込んだ。指先が痺れて感覚がなくなってくる。
キノスが駆け寄ってきて、背中に手を当てた。
「アサ、落ち着いて。ゆっくり呼吸して」
首を横に振る。
「大丈夫、ただの過呼吸だよ。落ち着いて、息を長く吐いて」
嫌だ。もう。
もう何も考えたくない。
手を強く握り締められ、無意識に握り返す。恐らくロイリだろうが、もう目を開くことすらできなかった。
亜佐はそのまま、あっけなく意識を手放した。




