33、ベルタ
使用人通路に入ってすぐ、ロイリは脇道へ入った。
小さな倉庫が並ぶ一角だ。今は不用品ばかり置かれていて、人が来ることはほとんどない。
ロイリは迷わず通路の一番奥の扉を開いた。
山積みになった木箱に被せられた布には埃が積もっている。
部屋の中央だけ不自然にぽっかり空間が空いていて、床には四角く切り抜かれた跡があった。それを持ち上げると、現れたのは階段だ。
アサの部屋に侵入したフットマンを事情聴取する時にも使った、地下牢だった。
屋敷の者の大半はこの存在を知っている。ただ、最近使用されたと知っているものはいないだろう。
エレオノーラもこの地下牢の存在を知っているはずだ。何かを隠すのなら、ここがうってつけだ。
人の気配がして、階段を駆け下りて一室だけある牢の格子に飛びつく。
中にいたのは、ベルタだった。
「ベルタ!」
木でできた椅子に座り深く頭を垂らしていた彼女は、ロイリの声にゆっくりと顔を上げた。
「大尉……」
生きている。ほっと息をついて辺りを見渡す。牢の中にはベルタしかいない。
彼女は立ち上がる事ができないようだ。強い血の匂いがした。
ふたつある牢の鍵のひとつは、屋敷や自室の鍵と一緒にロイリが持ち歩いていた。もうひとつは執事長の部屋で管理されているはずだが、こそ泥の真似事をすれば持ち出せないこともない。
扉を開け、ベルタに駆け寄って足元に膝をつく。
その顔を覗き込んで、頬にこびりついた血の跡を撫でた。
「どこを怪我している? 肩と、頭のどこだ」
彼女の紺の洋服は、肩周りが血でドス黒くなっていた。その血は完全に乾いている。明らかに朝の出血ではない。
肩の傷は銃創だ。掠っただけのようで、これはそれほど心配ない。
頭部の傷を見ようと立ち上がったロイリの腕に、ベルタはしがみついた。
引き寄せて、彼女は唇を震わせながら尋ねる。
「アサ様は……?」
「……まだ見つかっていない」
ベルタは息を呑んで止める。
首を横に振って、それからゆっくりと顔を歪ませた。
溢れ出た涙がいくつもいくつも落ちていく。
「も、申し訳ございませ……、……私が、ついていながら」
がたがたと体を震わせながら、それでも彼女は立ち上がろうとする。ロイリはその腕を掴んで引き戻した。
「待て、傷を確認させろ」
「私が、私があの時そばを離れなければ……!」
悲鳴を上げるように言って、ベルタは頭を抱えるように俯いて声を上げて泣いた。
もう何年も、それこそ兄妹のようにずっと一緒にいるのに、こんな風に取り乱して泣くベルタを見るのは初めてだった。
「ベルタ」
びくんと体を震わせて、彼女は縋るようにロイリを見る。
落ち着かせるように彼女の手を強く握り締めた。
「ベルタ、今はお前だけが頼りだ。まず傷を見せてくれ。その後、アサを探しに行こう」
ゆっくりと、子供にするように言い聞かせる。
彼女は二、三度しゃっくりを上げ、袖で乱暴に涙を拭った。
胸に手を当て何回か深呼吸をし、両手のひらで頬を叩いて顔を上げた彼女は、目は真っ赤に腫れていたがもういつもの顔だった。
「肩の傷は、酷くありません。後頭部を何かで殴られて数時間脳震盪を起こしていました。出血はありましたが血は完全に止まっています。緊急の治療は必要ありません」
「後頭部……」
「だいぶ時間が経っています。脳内に異常があればもう死んでいます。体に異常もありません」
「……怪我をしたのはいつだ」
「七日前、大尉が出発されてすぐです」
めまいがした気がした。それではアサはもう七日間も行方不明なのか。
「流行病と言うのは嘘だな?」
「……流行病?」
「エレオノーラの狂言だ」
人死にが出ている。もう一刻も猶予はない。
「証言できます。連れて行ってください。エレオノーラの元へ」
エレオノーラ、やはりあの女。
ぎりりと歯を鳴らして、ベルタを抱き上げた。随分軽く感じるのはきっと気のせいではない。
「……七日間何か口にしたか?」
「はい、死なない程度には」
階段を駆け上って、部屋を出る。細い通路を出ると、タイミングよく女中長と出くわした。
彼女は血まみれのベルタを見て悲鳴を上げる。
「ベルタ……! すぐに医者を……」
「頼む。……アドルフの主治医を呼んでくれ。あと、救急箱と飲み水を」
「か……かしこまりました」
彼女は慌てた様子で奥へ駆けて行った。
エレオノーラの主治医は金を積まれたのか脅されたのか。逃げられないよう、口封じをされないよう保護しなければならない。
もう軍には連絡済みだろう。アサに関わることならフレデリカも来るはずだ。
出張に出ると知らせに行った時、フレデリカは書類の山に埋もれながら不安げに、一度は行けるように頑張ってみると言った。どうやら無理だったようだ。
腕の中のベルタを見下ろす。伏せられたまぶたは青い。
気ばかりが焦る。あの怖がりで泣き虫のアサが、今ひとりでどんなに恐ろしい目にあっているのか。――生きているのか。
考えれば考えるほど頭が狂いそうで、耐えるためにロイリは血が出るほど唇を噛み締めた。




