32、彼女に会いたい
「大尉。……クラウゼ大尉、もうすぐ着きますよ」
エヴァンスの声に、ロイリは顔を上げた。
いつの間にか眠っていたらしい。汽車を降りて車に乗り込んでから、ほとんど記憶がなかった。
手で目元をこすって深く息をつく。ハンドルを切りながら笑ったエヴァンスがルームミラーで見えた。
「よく寝てらっしゃいましたね」
「ああ。……すまんな、お前も疲れているのに」
「大尉ほどは疲れてませんよ。せっかく無事に帰ってこれたのに、帰り際に居眠り運転で事故でも起こしたら、またアサちゃん大泣きしますからね」
「……そうだな」
雨に濡れる窓ガラス越しに、ようやく一週間ぶりの我が家が小さく見えた。
夕方に着く予定だったが、少し無理をしたおかげで午前中に帰ることができた。
頭に浮かぶのは七日前に見たアサの泣き顔だ。
もうすぐ帰ると連絡を入れればよかった。彼女は喜んで迎えてくれるだろうか。
早くアサに会いたい。声が聞きたい。笑った顔が見たい。キスがしたい。
そう願う資格は、内気な彼女の必死の告白を遮った自分にはないのかもしれない。
見上げてくる視線が、たったひとり見知らぬ世界に落とされ藁をも掴む思いで縋るものから、熱のこもったものへ変化した事にはすぐに気付いた。
その時にはもうすでに、ロイリの彼女への思いは特別なものになっていた。
今朝、持ってきていた彼女の血を飲んだ。衝動が強かったわけではないが、これで久々に味わう彼女に暴走することもないだろう。
飲んだのはそれだけだ。七日間、彼女の体液がなくても大丈夫になった。
あれほど待ち望んでいたというのに、今は耐性がついたことがこんなにも寂しい。
彼女と、離れたくない。
離れれば彼女は、いずれ他の男を、彼女と同じ人間を愛するだろう。それが彼女にとっては最善で、そして自分もそれを願っている、はずだ。
それなのに、あの笑顔が他の男に向けられるかもしれないと考えるだけで。あの頼りない体に誰か知らない男が触れるかもしれないと考えるだけで。
自分勝手な醜い独占欲が体中の血を沸騰させ、息ができなくなってしまうのだ。
「いいなぁ。俺も女の人を泣かせたい」
「……最低だな、お前」
「実際に泣かせた人に言われたくないですね」
ちらりと後部座席を振り返った彼から目をそらして窓の外を見る。
「明日からまた俺らが警護ですか?」
「いいや、明後日からだ。お前らは明日は休ませる」
「了解。早くアサちゃんに会いたいなぁ。ピアノも聞きたいし。クラウゼ家は美人なメイドが多いし、ずっとここの警護でいいですよ」
「そうか」
「特にあの、名前は忘れたんですけど、ピンクブロンドの子。可愛いですよねぇ。性格悪そうだけど」
ピンクブロンドの女中が浮かんでこない。エレオノーラが少しでも気に入らないところがあるとすぐに辞めさせてしまうので、入れ替わりが激しいせいだ。
「メイドと言えば、ベルタはいつになったら落ち着くんですか? ご当主と未練たらたら同士なんでしょ? さっさと略奪したらいいのに」
「ふたりとも頭が堅いからな。離婚するまで手すら繋がないんじゃないか」
「真面目だなぁ。火遊びだからこそ燃えるのに」
「お前やっぱり最低だな」
そしてどうしてこんなに無駄口を叩く元気があるのだろうかと呆れ返る。
エヴァンスがハンドルを切り、ふたりを乗せた車は屋敷の門をくぐった。
「寄っていくか? 茶くらい出すぞ」
「ああ……いや、遠慮しておきます。大尉とアサちゃんがいちゃついてるの見たって楽しくないし」
彼の軽口に軽口を返そうとして、ロイリは違和感に気付いて口を閉じた。
扉の前に見張りが立っていなかった。
黙ったロイリの視線を追いかけて、エヴァンスもそれに気付いたようだ。
出張が決まった時、アサは一時的に保護施設に入るか、軍の医務室で過ごす事になるだろうと思っていた。上がたったひとりの人間のためにこれ以上人員を割くとは思えなかったからだ。
それなのにロイリの予想を裏切って、これまでついていた倍以上の警備が配置された。違和感はあったが、そのおかけでアドルフもいない家を空ける決心がついたのだ。
しかしその警備が機能していない。玄関にひとり立たせろと指示をしたはずなのに。
背中が冷たくなる。チリチリと嫌な予感が頭を掠める。
「……大尉のその顔嫌いだなぁ。何かある時の顔ですもん」
「……縁起の悪いことを言うな」
「やっぱりお茶飲んでいってもいいですか?」
「そうしてくれ」
車を降りて、玄関扉を開く。
そしてすぐに見えたのは、ホールのすみの使用人用の出入り口に手をかけているエレオノーラだった。
彼女は玄関の開く音に気付いて振り返り、大きく体を震わせた。
「ロイリ様……!」
赤いドレスを翻しながら、彼女はロイリに駆け寄る。
「お早いお帰りでしたのね……! よかった……」
「何かありましたか?」
「今朝からアサさんの姿が見当たらないのです……!」
目を見開く。エヴァンスが息を呑む音が後ろから聞こえた。思わず強くエレオノーラの肩を掴む。
「どういう事だ」
彼女は一瞬その剣幕にたじろいだが、すぐにロイリの腕にしがみつくように触れた。
「ずっと寝込んでいらしたんです。あなたが出張に出られたその日から。都で流行っている病……三ヶ月ほど前に第一王子様が罹られて大騒ぎになった、あの流行病で」
エレオノーラはぽろりと落ちた涙を拭って、また話し出した。
「初めはベルタが倒れて、わたくしの主治医を呼んだ時にアサさんも倒れられて、一緒に診て頂いたら、流行病だと」
アサを一般の医者に診せたのかと怒鳴りかけて、ぐっと堪えて話の続きを催促した。
「おふたりとも軽く済んだようで、ほとんど良くなっていたのです。この屋敷で流行病に免疫があるのは女中のリズベットだけでしたので、他の者にうつらないようリズベットにふたりのお世話を任せていたのですが……」
エレオノーラが顔を片手で覆って、手紙を差し出す。
「今朝、リズベットが自室で首を吊っているのが見つかって、その手紙が……」
リズベット、名前は聞いたことがあるが顔が出てこない。受け取った手紙を開いて読む。
そこには、リズベットとベルタ、外部の者が結託してアサを誘拐し、アサを売った金を山分けしようとしたと書かれていた。それは今朝決行されたが、外部の者とベルタが仲間割れを起こしベルタが負傷、怖くなったリズベットは逃げ出し、罪の意識から死を選んだ、という内容だ。
背後のエヴァンスに手紙を渡す。少しして鼻で笑う声がした。実際に笑うことはできなかったが、ロイリも同じ気持ちだった。
ベルタが裏切るわけがなかった。
「……ベルタは?」
「部屋に駆けつけた時にはもう姿がなくて」
その時、二階の階段の上から、「ロイリ!」と名を呼ぶ声が聞こえた。
駆け下りてきたのはアドルフと、出張中にアサの警護の指揮を任せていた中尉だった。
「アドルフ、出張は?」
「ベルタとアサが流行病にかかったと連絡を受けて、心配でどうにか早めに切り上げてきた。結局ついさっきついたばかりだけど」
駆け寄ってきたアドルフはロイリの肩を摑む。
「どこにもいないんだ……」
「落ち着け」
そして真っ青な顔の中尉を睨み付ける。
「状況を」
「はっはい!」
彼はおどおどと、震える声で話し出した。
「七時頃にリズベットがアサ嬢の部屋に食事を運んでいます。三分ほどたって出てきて、すぐにベルタの部屋へ食事を運んで一分ほどで出てきました。それまでは見張りに話しかけることが多かったのですが、今日は話しかけずに戻っていきました。一時間後に女中長が姿の見えないリズベットを探して部屋に行き、彼女の死体を発見しています。知らせを受けて私がアサ嬢の部屋に入った時にはもうもぬけの殻で、吸血人の新しい血痕がベッドに残されていました。人間の血の匂いはありません。窓から何者か侵入した形跡があり、そこからアサ嬢は連れ出されたかと……」
中尉から目を逸らし、口元に手をやる。
エレオノーラの命令でアサの部屋へ侵入したフットマンは、上の階の屋根裏部屋の窓からフラワーボックスを使って侵入し、そして出ていくときは同じ要領で予め鍵を開けておいた三階に逃げていた。今はアサの部屋周辺のフラワーボックスは一時的に撤去している。
三階へ逃げたとして、小柄とは言え人ひとり担ぎ上げて足場も何もない壁を降りることはできるか。
それに今の時間なら、バンドラーがすぐ下の庭で仕事をしているはずだ。
「物音は何もしなかったのか?」
「はい。今日は六時から私が部屋前の警備担当でしたが、物音どころか話し声すら聞こえてきませんでした。私の前の担当の者も物音はしなかったと」
「上下階の部屋は調べたか?」
「い、いいえ」
「今すぐ調べろ! 基本中の基本だろうが!」
ロイリの怒声に、中尉は跳び上がって駆けていった。
自分の声が耳に響いていて、前髪を乱暴にかき上げる。
「エヴァンス」
「了解」
エヴァンスは中尉の背中を追いかけていった。彼がいれば大丈夫だろう。
「落ち着け……」
先ほどアドルフに言った言葉を自分自身に言い聞かせる。
アサには価値がある。若くて女で人間。さらに白人の多いこの地域ではかなり珍しい黄色人種で、器量もいい。ピアノが数台買えるほどの金を出してでも買おうとする貴族がいるはずだ。
私怨でもないかぎり、すぐに殺されることは、ない、はずだ。
目の前のエレオノーラを見ないように深呼吸する。
だから落ち着かなければ。
違和感だらけだ。何かが、何もかもがおかしい。
ふと顔を上げる。エレオノーラはロイリが玄関を開けたとき何をしようとしていたか。
普段ならエレオノーラが使用人の通用口を使うはずがない。アサやベルタを探そうとしていた? 誰かが見ていたならまだしも、ひとりだった。誰もいないところでそんな芝居をわざわざ打たないだろう。
アドルフに近付いて、耳元に唇を寄せる。
「エレオノーラを見張っておいてくれ。絶対に目を離すな」
「……分かった」
アドルフの返事を聞いて、ロイリは使用人の扉へ向かって駆け出した。




