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3、キスの約束




 吐き気がひどい。

 目を開かなくても分かる。景色が回っているはずだ。

 歯を食いしばって、その隙間から息を吐く。

 誰かの声がした気がした。

 部屋の明かりを遮るために手で目元を覆って、何度か深呼吸をしてようやく目を開ける決心をつけると、亜佐は恐る恐る目を開いた。

 誰かが顔を覗き込んでいた。

「起きたわね。具合はどうかしら? 目が回る?」

 少し低い落ち着いた女の声に、ぎこちなく頷いた。目を細めて、電球の逆光でよく見えない顔を見る。癖のある赤毛をひとつにまとめて分厚い眼鏡をかけている彼女は、にっこりと人懐こい笑顔で亜佐に笑いかけた。

「ここは軍の医務室よ。人間専用のね」

 人間専用というおかしな言葉に、ようやく意識がはっきりとする。そうだった。わけの分からない世界に落とされて、わけの分からない事になって、どうやら助かったらしくこんな所にいるらしい。

 血まみれの男の事を思い出す。急に焦燥感に駆られた。

「ロイリさんは……?」

「生きてるわよ、安心なさい」

 それを聞いて、大きく安堵の息をつく。

 この血が役に立ったのだろうか。それともすぐに助けが来て助かったのだろうか。

 赤毛の彼女が少し離れて、白衣を着ていることに気付いた。医者のようだった。

 自分の体を見下ろすと、病衣のようなものを着ていた。右腕には厳重に包帯が巻かれている。腕に力を込めると痛いが、あの時のような気を失うほどの痛さではなくなっていた。

 体の泥は拭ってくれたのかきれいになっている。しかし汗を大量にかいた体はベタベタで、額に貼りついている前髪が気持ち悪い。シャワーを浴びたくて仕方がなかった。

「一晩寝ていたのよ。保護されたのが昨日の夕方で、夜中にここに着いて今はもう昼前。右腕の傷、大きな血管から少しずれててね、出血も思っていたよりも多くなかったみたい。痺れはある?」

 右の手のひらを触りながら彼女が問う。首を横に振った亜佐に「グーして、次はパー」と指示を出して、その動きにうんうんと頷いた。

「神経も傷付いていないみたいね。かなり細かく縫ったから、傷口もだいぶ目立たなくなるはずよ」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。自己紹介をしておくわね。私はフレデリカ・アイロ。軍医だけど、人間の保護施設の医者も兼任しているの。あなたの名前はクラウゼ大尉から聞いているわ。よろしくね、アサ」

 左手を差し出されて、左手で握手をする。怪我をしている右手を気遣ってくれたのだろう。ロイリと同い年くらい、二十代後半から三十代くらいだろうか。とても優しそうに笑う人だった。

 フレデリカがじっと亜佐を見下ろす。次にその眼鏡を取って、さらに亜佐に顔を近付けた。

「怖くない?」

「え……何が……」

「私の目」

 まじまじと彼女の目を見つめ返す。

 血のような深い赤色をしていたロイリと違って彼女の目は淡い赤色だったが、恐怖どころかきれいだとすら感じる。

「怖くありません」

「そう、珍しい」

 普通は恐怖を感じるのだろうか。

 フレデリカは眼鏡をかけ直して、話を切り替えるためにうんうんと頷いた。

「あなた、物凄く運がいいわ。もしあの場にクラウゼ大尉がいなかったら、もし大尉じゃない違う人だったら、きっと助かっていなかった。今頃盗賊に捕まって貴族にでも売られて、毎日血を提供するだけのお人形になっていたでしょうね」

 背筋が凍って、思わず体を撫でた。今回のことで、かなりの運を使ったようだった。

「大尉は保護施設の立ち上げにも関わっているから、あなたたち人間のこともよく知って」

 その時、フレデリカの言葉を遮るように大きな音を立てて扉が開いた。随分乱暴な開け方だった。

 フレデリカが驚いて扉を見て、そして眉をひそめる。

「クラウゼ大尉、患者がいるのよ。もっと丁寧にしてくれる?」

 その言葉に、痛む体に鞭打って起き上がり彼を探す。無事を確認したかった。

 そんな亜佐には気付かずに、ロイリは大股で部屋の中央のソファに近付き、どっかりと腰を下ろして額を片手で覆った。その顔は青かったが、あれほどの大怪我をしていたというのに、傷をかばうような仕草はない。恐らく亜佐の血が彼を治したのだ。

 本当に、魔法だ。

「大尉? どうしたの?」

 煙草をくわえて、しかし火をつけようとしないロイリに近付いて、フレデリカは心配気に尋ねる。彼は煙草を机の灰皿に放り投げると、口を開いて震える息を吐いた。

「フレデリカ」

 ロイリはフレデリカを見て、そしてその後ろで体を起こしている亜佐に気付いたようだった。

「……アサ」

 低い低い声だ。馬の上で「守ってやる」と言ってくれた声とは正反対だった。殺される、そう思ってしまったのは、それだけ彼が強く亜佐を睨み付けていたからだ。ゆらりと立ち上がって、ロイリは亜佐を見下ろす。

「……とんでもない事をしてくれたな」

 ロイリが大股で亜佐に近付く。体が竦んで動かない。もちろん、生き返らせてくれてありがとうなんて言われることはないと分かっていた。それでも、ここまで敵意を向けられるとも思っていなかった。

 亜佐が座るベッドに拳を叩き付けて、ロイリは叫んだ。

「お前、自分が何をしたのか分かっているのか!? 俺はこれからお前の血がないと生きていけないんだぞ!」

「ロイリ! やめなさい!」

 フレデリカがロイリの肩を掴むが、彼はそれを払いのけて叫び続ける。

「俺が死ぬ気で積み上げてきたものが全て台無しだ! こんなことなら、あの場で死んだほうがマシだった!」

「ロイリ!」

 フレデリカの怒声に、バチンという音が重なる。手を振り上げているのは亜佐だ。右手で叩いてしまった。ロイリの頬をだ。傷口に激痛が走ったが、そんな事気にしていられない。

 彼の顔をぎりりと睨み付け、大きく息を吸い込んで力の限り叫んだ。

「あなたの立場なんて知ったことか!」

 今まで十八年生きてきた中で、きっと一番の大声だ。この怒りがどこから発生しているのか分からない。きっと色々なものがごちゃ混ぜになっている。

「あなたが生きてたほうが私が生きられる確率が高かったのよ! 私が善意であなたに血を飲ませたとでも思ってるの!? 全部全部私のためよ! 私を守るって言ったじゃない! 最後まで守ってよ!」

 じわりと包帯に血が浮かんで、それを見たロイリが顔を歪める。離れようとする彼の胸ぐらを掴んで怒鳴り続けた。

「私はあんなところで死にたくなかった! こっちこそ音大に入るためにどれだけ頑張ってお金をためたと思ってるのよ! それなのにこんな意味の分からない世界で死ぬのなんて、絶対に嫌なんだから!」

「アサ、落ち着いて」

 フレデリカが今度は亜佐の肩に触れる。その手を握り締めて、亜佐は子供のように泣いた。

「どうして私ばっかりこんな目にあうの!? 私が何をしたっていうの……!」

 そうだ、幼い頃からそうだった。厳しい両親のもとで、自由なんてなかった。十歳で両親が事故で亡くなって、引き取った叔母は亜佐のことを嫌っていた。高校時代は深夜までバイトをして、貯めたお金で家を出て、そしてやっとの思いで希望の大学に入ったばかりだったというのに。まだまだやりたいことがたくさんあるのに。

「全て台無しになったのがなによ……私なんて全部失ったうえに、もう帰れないんだから……もう、帰れないなんて……」

「そんな、決めつけちゃ駄目よ。来る方法があるのだから、帰る方法だってきっとあるわ」

 抱き締めてくれたフレデリカの胸に顔を埋めて、思う存分泣いた。何て酷い人生だ。あんまりだ。

「こんなことならあなたの言う通り、あの場で死んでしまったらよかった……」

 そうすれば、これ以上辛い思いなんてしなくて済んだのに。

 泣き過ぎて頭がガンガンと痛みだし、その痛みでようやく涙が止まった。鼻をすすって彼女から離れる。

 言いたい事を思う存分叫んで、驚くほど頭がスッキリした。いつもいつも本音を隠して人の顔色ばかり窺っていた。何でも思ったまま口に出す人は、いつもこんな風に気持ちのいい思いをしていたのか。

「……ごめんなさい」

「いいのよ」

 フレデリカからハンカチを受け取る。遠慮なくハンカチで鼻をかむ亜佐の頭を撫でながら、彼女はロイリを振り返った。

「クラウゼ大尉、頭は冷えたかしら」

 いつの間にか部屋の壁に背をつけて立っていたロイリは、俯いたまま小さく頷いた。

 フレデリカが大きく息をつく。

「大尉、ひとつだけ言っておくわ。この子ね、目が覚めてまずあなたが無事かどうか確認したのよ。自分の事なんてそっちのけで」

 その顔が強張って、唇が微かに動く。何か言ったようだが、声は聞こえなかった。

 フレデリカは脇のアルミ台を探って包帯を取り出すと、亜佐の手をとった。

「アサも大尉も聞いてね。人間の血液に対する耐性は、個人差もあるけど二年から十数年でつくわ。永遠ではないの。摂取しなければいけない量も徐々に減っていくわ」

「……二年から十数年というデータはいつのものだ。信用できるのか?」

 傷を確認してからガーゼを替え、包帯を巻き直していたフレデリカが顔を上げロイリを見る。

「……内緒にしててね。ここ五十年ほど、人間を買った吸血人をこっそり追跡して得たデータよ」

 ロイリがフレデリカを睨み付ける。彼女は肩をすくめてみせた。

「上官命令よ。逆らえないわ。私もつい最近知ったの」

 フレデリカから目をそらして、ロイリは息をついた。

 それは、人間を買った吸血人を捕まえたりせずに、どういう風に血を飲む量が変化したかなどを調べたという事だろうか。買われた人間は、そのデータのために犠牲になったのだろうか。恐ろしくて尋ねられなかった。

「盗賊から貴族まで色々いたけどね、ひとつ研究者の間で確実って言われてるのが、良い物を食べて栄養状態が良い奴ほど耐性がつくのが早いってことよ」

「なら俺は早く耐性がつくんじゃないか?」

「あなたが忙しさにかこつけて、朝昼晩と軍の食堂の軽食で済まさない限りはね」

 ロイリは口をつぐんだようだった。きっと覚えがあるのだろう。

 このふたりはどこか親し気な雰囲気があった。同僚や友達ではない何かが。

「とにかく、大尉はしっかりと栄養を取ること。朝晩は家でちゃんと食べて。ほとんど帰ってないんでしょう?」

「分かった」

 素直に返事をしたわりには、ロイリは口をへの字に曲げていた。

 フレデリカは巻き終わった包帯を少し引っ張って解けないか確認してから、血のついた包帯を厳重に袋に入れて鍵のついたゴミ箱へ放り込んだ。

「さて本題よ、アサ。腕の出血は思っていたよりは多くはなかったけれど、決して少なくもなかったわ。あなたは体も小さいし、当分血液を抜くのは危険なの」

 フレデリカの言葉に目を丸くする。

「でも、そうしたら……」

 ロイリが血を飲めずに、発狂して廃人になってしまう。

 フレデリカは屈んで亜佐と視線を合わせる。

「吸血人なんて言うから血しか飲まないようだけどね、血が手軽に大量に飲めてしかも美味しいから好まれているだけで、人間を構成するものなら何でも飲めるのよ」

 盛大に眉間にしわを寄せてみせた。なんとなく想像はつく。聞きたくなかったが一応聞いてみる。

「……例えば?」

「そうねぇ、外科手術が必要なく飲めるものといえば……涙、汗、唾液、母乳、精液、膣分泌液、にょ」

「血でいいです! 血を採ってください!」

 フレデリカの言葉を遮って、頭を抱えて声を上げる。そんなものを飲ませるくらいなら、注射器で採った血を飲んでもらったほうがずっとずっとましだ。たとえそれで貧血になったとしても、だ。

「駄目よ。起き上がれなくなってしまうわよ」

「構いません。ロイリさんに血を飲ませた時に覚悟したことですから」

「唾液ならキスで摂取できるわよ」

 信じられないという風にフレデリカを見つめる。そういう国なのかもしれない。挨拶でキスをするような国なのかも。

 いや、それでも唾液うんぬんの深いキスなんて、恋人や夫婦でしかしないだろう。なぜ会ったばかりの男と、そんな事をしなければならないのだ。

 ロイリの顔を見ることが出来ない。亜佐だって嫌だったが、ロイリがはっきりと嫌な顔をしていたらきっと立ち直れないと思ったからだ。

 俯いて、溢れ出た涙をシーツに落とす。フレデリカが慌てている気配がした。迷惑をかけている。それでも嫌なものは嫌だ。

「若い女の子には辛いことだったわね。無神経でごめんなさい。泣かないで」

 その時、部屋の電話が鳴った。アンティークな黒電話だ。いや、この世界ではアンティークでもなんでもないのだろうが。

 フレデリカが駆け寄って受話器を上げた。

「はい、アイロです。……、……倒れたの? 頭は打ってる? ……動かさないでね。すぐに行くわ」

 どうやら急患のようだった。電話を切って、フレデリカはロイリを振り返る。

「保護施設で急患。行くけど、分かってるわね」

「分かってるよ」

「この後どう言われてるの?」

「アサが落ち着いたらマレク大佐の所へ行くよう言われてる」

「私も同席する。待ってて」

 次にフレデリカは亜佐を振り返って頭を撫でた。

「泣かせてごめんなさいね。すぐに戻ってくるから、横になって休んでいて」

 頷くと、彼女はにっこり笑って大きな救急箱を手に取り、あっという間に部屋を出ていった。

 そして気付く。ロイリとふたりきりになってしまった事に。体を固まらせる。どうすればいいのか分からない。

「……そんなに嫌か?」

 息もできないくらい気まずい空気を破ったのはロイリだった。彼はまだ壁に背中をもたれかけさせている。

「俺とキスするのは、そんなに嫌か?」

 目が合って、顔に熱が集中する。分かっている。決して口説かれているわけではないことはもちろん分かっている。俯いて顔をそらす。

「あ、あなただって、嫌でしょう?」

「俺は嫌じゃない。減るものではないし」

「私は減ります!」

 思わず叫んだが、内心少しだけほっとしていた。キスが嫌ではないということは、心の底から嫌われているわけではないと分かったからだ。

 顔を上げると、いつの間にかすぐそばまでロイリが歩み寄っていて、ベッドが軋むくらい体を震わせた。

「何もしない。フレデリカに殴られる」

 そばの丸椅子を引き寄せて、ロイリはそれに座った。長い沈黙が落ちて、また居た堪れない気持ちになる。

 そうだ謝ろう、と亜佐は考えた。平手打ちをした事と、心にもない暴言を吐いた事を。

「アサ」

 ロイリの声に視線を上げる。彼は眉尻を少し下げたまま、亜佐の顔を見て言った。

「さっきは、怒鳴ってすまなかった。お前に八つ当たりをした」

「い、いいえ」

 先を越されるとは思っていなかった。慌てて身を乗り出して、彼の顔を覗き込む。

「私こそ、叩いてごめんなさい。酷い事もたくさん言いました。ごめんなさい」

 ロイリが首を横に振った。

「これから長い付き合いになる。わだかまりは消しておきたい。許してくれるか?」

 差し出された手をすぐに握り返す。

 仲直り出来て嬉しかった。人から嫌われるのは辛い。特に彼は、命の恩人だというのに。

 大きな手にすっぽりと覆われた自分の手を見つめながら言う。

「ありがとうございました……守ってくれて」

「それが軍人の役目だ」

 ロイリの手が緩み、亜佐も力を抜いて手を離そうとした。しかし彼は離れかけた手の指を掴む。驚いて顔を見るが、赤い目は伏せられていて表情が読めず、その意図は分からない。

「……それなのに、これからお前を一番傷つけるのは俺だ。精神的にも、肉体的にも」

 少し言い淀んでから、ロイリは口を開いた。

「盗賊に捕まっていた人間の女性を保護したことがある。全身針の痣だらけで、見ていられなかった」

 彼の手に力がこもる。

「好きでもない男に触れられるのが嫌なのは当たり前だ。しかし、痛い思いや体に傷をつけずにすむ方法があるのなら、それに越したことはない」

 亜佐の手を両手で握り締めて持ち上げて、ロイリはその指に唇を押し当てた。

「頼む。キスをさせて欲しい」

 頭が爆発するかと思った。

 わざとやっているのかもしれない、この男は。自分が女を魅了してやまない姿形だと分かっていて、こうすれば女は逆らえないと理解しているのではないか。

 彼の真摯な瞳からは、もちろんそんな意図など見て取れない。本気で亜佐の体の事を心配してくれている、と思う。

「……分かりました」

 そしてなんと罪深い生き物か、女というものは。きっと彼がこの顔でなければ、こんなに即答はできなかったかもしれない。返事をしてから、亜佐は自分のことを心の中で思う存分罵った。

 ロイリはほっとしたように肩を下げる。

「……あの、今、じゃないですよね?」

 まさかと思って問うと、彼は少し考えてから首を横に振った。

「まだ吸血衝動はない。それに、今お前に何かしたらフレデリカに殴られる」

 首をすくめて言う彼が尻に敷かれているように見えて少し笑う。そしてふと気になった。

 先程も思ったが、ロイリとフレデリカは、もしかすると。

「フレデリカさんは、恋人ですか?」

 ロイリが目を丸くする。違っていたのだろうかと焦ったが、彼は少し口元を歪めて苦笑いをした。

「そう見える?」

「はい、見えました。違っていたらごめんなさい」

「いいや。……元、だ。元婚約者」

 今度は亜佐が目を丸くした。

「振られたんだ。俺が」

 どうやら聞いてはいけない事を聞いてしまったようだった。体を小さくして「すみません」と謝る。ロイリは今度は声に出して笑った。

「五年も前の話だ。もう、未練はない。彼女は結婚して子供もいるし」

 それでも、苦い思い出を掘り返してしまった。どうにか話題を変えようと試みる。

「ロイリさんは結婚はしてないんですか?」

「してないよ」

「こ、恋人は……」

「今はいない」

 何を聞いても墓穴のようだった。ただ、彼に恋人や妻がいないのは安心した。愛や恋といった感情は一切ないとはいえ、毎日、下手をしたら一日数回キスという名の体液摂取をしなければならない。恨まれるのだけは嫌だった。

 想像しただけでぐらりと頭が揺れて、思わず額を手で覆う。病弱というほどではなかったが、体は弱い方だった。朝礼で倒れるのは日常茶飯事で、貧血も酷かった。そんな体が少なくない量の血を失って、さらにあり得ない経験までしたのだ。意識を保っているだけでも拍手喝采をしてやりたい。

 ロイリの手が肩に触れた。

「大丈夫か?」

「ちょっと、頭がふらふらして」

「フレデリカが帰ってくるまで寝てろ」

 ロイリに支えられてベッドに体を横たえる。天井がぐるぐると回転しだして目を閉じる。まぶたの裏は真っ赤で、一瞬血まみれのロイリがフラッシュバックして目をきつく閉じた。

「……お腹の傷は、なくなったんですか?」

 彼はまだそばにいるようだ。掠れた亜佐の声に、すぐに返事が返ってきた。

「なくなったわけじゃない。専門外だから詳しくは説明できないが……お前達人間の血は、吸血人の人体の再生能力を格段に上げるだけで、傷をきれいさっぱり消すものじゃないんだ。現に、お前の血を飲んでから起き上がれるようになるまで三時間はかかった」

 魔法のようだという印象に変わりはないが、飲んで即回復という万能薬ではないようだった。

「もう痛くないですか?」

「全く。皮膚が引きつる違和感はあるが、じきに慣れるだろう。細かい検査もしてもらったがどこも異常はなかった」

 「よかった」と、深く深く安堵の息をついた。

「いいから少しでも休め」

 頭に何かが触れて、それが頭を撫でたロイリの手だと気付く。フレデリカといい、この国の人はスキンシップが過剰だ。

 体は疲れ切っているのに、神経は高ぶっているらしい。まぶたの裏がキラキラと光っているし、すぐそばからずっとロイリの気配がするせいで、なかなか眠りに落ちることができない。

 布団の中で体を小さく丸めて、結局フレデリカが帰ってくるまで一睡もできなかった。





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