28、行かないで
一年中穏やかな気候らしいこの国だが、春を迎え少し暖かくなった。
庭にはさらに花々が咲き乱れ、見たこともない派手な蝶が飛び回っている。
その日の夜も寝苦しいほど暑かった。真夜中に目が覚めてしまって、布団を腹までめくる。
明日ベルタに薄い布団を出してもらおうと寝ぼけ眼で考えていると、扉が小さくノックされ、すぐにそっと開いた。
闇に慣れていた目に長身の軍服姿が浮かび上がる。ロイリだった。
上半身をのろのろと起きがらせると、彼はギクリと体を止めた。
「ごめん、起こしたか」
「いえ、起きてました。おかえりなさい。……久しぶりですね」
「三日会ってないだけだろ」
そう、ロイリと会うのは三日ぶりだった。ずっと軍の仮眠室で寝泊まりしていたのだろう。
彼はとても忙しそうだった。できる限り帰るようにはしてくれているようだが、今回のように二、三日帰って来ない事も何度かあった。
ベルタに言わせると、亜佐が来るまで一週間に一度も帰ってこないことはざらだったらしいけれど。
たったの三日会えないだけでどれだけ寂しかったか。それを彼に伝える気はない。
「少し寝顔を見に来ただけだったんだけどな」
枕元のテーブルランプを点けて、ロイリはベッドの端に腰掛けた。その横顔を見上げる。
こんなに働いたんだ。そろそろ休みをもらえるに違いない。
ふたりでゆっくりと過ごしたい。
もう一緒にいられる時間は僅かだ。少しでも、寝る間を惜しんででも一緒にいたい。
「アサ」
亜佐の頬を指の腹で擦りながら、ロイリはゆっくりと口を開いた。
「明日の朝から、出張に出ることになった。七日間だ」
声すら出なかった。七日、出張。頭の中で何度も反芻して、そして全身から血が引いていくのが分かった。
「七日……だって、四日以上我慢できるか試した事がないのに……!」
「我慢はしないよ。医務室に血液のストックが二本ある。それを持っていく」
唇が震えて、いったん閉じる。そして恐る恐る尋ねる。
「どこへ行くんですか?」
「国外へ出る。危険な場所ではないが、恐らく連絡を取れる状況ではないと思う」
「あなたが行かないといけないんですか?」
「今違う国にいる上官の代理だ。彼が合流次第俺は帰れる」
嫌だと、喉のすぐそこまで出て呑み込んだ。
今、泣き喚いて彼にしがみ付いて行かないでと叫んだって、彼を困らせるだけで結局引き止めることなどできない。それはよく分かっている。どうしようも、ない。
「……分かりました」
聞き分けがいいふりをするのは慣れている。
ロイリは時計を見上げた。
「今、しようか。それとも五時頃……早朝に起こしてしまうが、出かける前にするか?」
「出かける前に。起こしてください」
そうでなければ彼は、寝ているからと気遣って起こさずに行ってしまうかもしれない。
ロイリは亜佐を見つめて、両手で頬を包み込む。親指が下まぶたに触れる。
大丈夫だ。泣くならひとりになってから泣く。
「準備をしてくる。夜中にすまなかったな」
立ち上がった彼を掴もうと無意識に手を伸ばす。しかしあと少しで届かなかった。届かなくてよかった。邪魔をするわけにはいかない。
涙が滲む。声が震えて喋れなくなってしまう前に、「おやすみなさい」と絞り出した。
「……ああ、おやすみ」
静かにそう言って頭を撫でて、彼は部屋を出て行った。
七日間。たった七日間だ。そう自分に言い聞かせる。
今日だって丸三日会っていなかった。その倍と少し離れるだけだ。その倍と少し、寂しいだけだ。
枕に顔を押し付け、声を押し殺して泣く。
外国だなんて、何かあった時に血をあげる事ができない。連絡を取ることができないなんて、一体何をしにいくのか。
不安ばかりが膨らんでいく。
とうとう一睡もできずに、白み始めている空をカーテンの隙間から見上げていた。
小さいノックの音と扉の開く音、衣擦れの音が聞こえた。目をつむって寝たふりをする。
そっと肩を引かれ仰向けに転がされ、唇に指が触れてから目を開いた。
目の前にあるロイリの首に腕を回す。されるがまま彼は引き寄せられ、唇を合わせた。
朝にするキスは久しぶりだ。
そう言えば、長い間彼から煙草の味がしない。
長くて、そして静かなキスを終え、赤い瞳を覗き込む。
「煙草……もう吸ってないんですか?」
「もう二ヶ月くらい吸ってないよ」
「辛くないですか?」
「お前のためだと思うと、辛くも何ともない」
頬を撫でて、ロイリは体を起こした。
「いつも警護についている部下も連れて行く。代わりを多めに入れるが、俺とお前の関係は知らない奴らばかりだ。あまり話はしないよう」
「……分かりました」
「アドルフも一昨日から出張だな。十日と聞いているから、俺の方が先に帰ってくる」
「はい」
「フレデリカには昨日言ってある。一度様子を見に来ると言っていた」
「はい」
返事を聞いて頷いて、ロイリは立ち上がる。
慌てて靴をはいて、その背中を追いかけた。
「玄関までお見送りします……」
「いや、ここでいい。警護の引き継ぎで混乱しているだろうから」
「は、い……」
今生の別れじゃない。保護施設に連れて行かれるわけじゃない。一週間だ。たった一週間会えないだけだ。なのにどうして、こんなにも恐ろしい。
扉を開いて廊下へ出たロイリが振り返る。
すぐ近くにロイリのトランクを持ったベルタが見えた。
「行ってくる」
見送らなければ。笑顔は諦めよう。それでも、無事で帰ってきてと見送らなければ。
口を開く、その前に涙が溢れ出た。
「嫌だ……」
言うつもりはなかった言葉も勝手に溢れ出す。
一度決壊すると、もう止めることはできなかった。
「ロイリ、お願い……行かないで……」
彼の上着を握り締めて、行かせまいと引き寄せる。
「怖いよ……」
ひとりにしないで欲しい。ベルタもいる。フレデリカも来てくれる。それでもひとりが怖い。
ロイリが口を開いて、すぐに閉じて耐えるように唇を噛む。噛み締めて、それ以上すると血が出そうだ。
「ごめんなさい」
彼の服から手を離す。
離れようとふらりと一歩下がった体を、ロイリが引き寄せて掻き抱いた。
「アサ、ごめん」
「わがままを言ってごめんなさい……」
「いいんだ」
息ができないくらい強く抱き締められ、今度は肩を掴まれ引き剥がされた。
ロイリは顔を上げてベルタを見る。
「ベルタ、頼んだぞ」
「かしこまりました」
「ロイリ」
言わなければいけない気がした。どうしてか分からないが、今言わなければ絶対に後悔する。
一歩近付いて、彼の襟元に触れその目を覗き込む。
「私は、あなたのことを」
愛していますと続けようとした亜佐の口を、ロイリが手のひらで覆った。
「言わないでくれ、頼む」
涙が滲んで前が見えなかったせいで、彼がどんな顔をしていたのか見ることはできなかった。
手を離したロイリは、ベルタからトランクを受け取ってまた亜佐に向き直った。
「行ってくる」
「……お気を付けて」
頷いて、彼は踵を返す。廊下の角にその姿が見えなくなるまで見送ってから「ずるい人」と呟いた。
耐え切れずに両手で顔を覆った亜佐の肩にベルタが触れる。
「あまり寝ておられないでしょう? そばにいますので、少しお休みになってください」
「……はい」
素直に返事をして、そっと肩を押されて歩き出す。
ベッドに腰を掛けた時だ。小さくノックの音が聞こえた。
「どなたでしょう」
亜佐の代わりにベルタが返事をした。
「リズベットです」
ふたりで顔を見合わせる。亜佐が頷くと、ベルタは「どうぞ」と返事をした。
顔を出したのは、名前までは知らなかったが見たことのある女中だった。どうして女中なんてしているのだろうと不思議になるくらい可愛らしい人で、それで印象に残っていた。
「失礼します。……ベルタ、警護の事で少し」
彼女は困った顔をしていた。ロイリが警備の引き継ぎで混乱しているだろうと言っていた。その話だろう。
ベルタは少し迷ったようにリズベットと亜佐を交互に見る。
「ベルタさん、私は大丈夫ですよ。少し寝ます」
そう言うと、ますますベルタの眉間のしわが深くなる。心配だ、とその顔が語っている。思わず笑った。
「大丈夫です。警護がちゃんとしてないと不安だから、お願いします」
ベルタはさらに数秒迷ってから、亜佐から一歩離れた。
「すぐに戻ります」
頭を下げてリズベットと共に部屋を出ていったベルタを見送り、ベッドに寝転ぶ。そのまま転がって窓側の端に腰をかけると、カーテンを開いてすっかり明るくなった空を見上げた。
一週間、どうやって過ごそうか。ピアノはあまり根を詰めすぎると手を壊してしまう。そろそろ本格的にこの世界の文字を読む練習をするべきかもしれない。
少しピアノを弾いてから、ベルタに書庫へ連れて行ってもらって何冊か貸してもらってこよう。
警護も慣れていないことだし、ロイリもアドルフもいない中、エレオノーラがどんな嫌がらせをしてくるかも分からない。それ以外はあまりいつもと違う動きはしないほうがいい。ピアノ以外は部屋にこもろう。
その時、背後から静かにドアが開く音と、閉じる音がした。ベルタはやはり早く帰ってきてくれたようだ。ぼんやりと窓の外を見たまま話しかける。
「ベルタさん。今日、書庫に」
そこまで言って、違和感に口をつぐんだ。
ベルタは部屋に入る時、必ずノックをする。必ずだ。
振り返る、と同時に肩を掴まれベッドに押し付けられた。
思わず目をつむったが、覚えのある匂いだ。
花の匂いと土の匂い。
目を開く。伸し掛かっているのは、日焼けした浅黒い肌の――。
「バンドラーさん……」
彼はいつもと同じように優しげに目を細めたまま、亜佐の顔にかかる髪を払いのけゆっくりとその頭を撫でた。
「ああ、お嬢様……ようやく、触れる事ができた」
呆然とその顔を見上げる。
「警護は……」
「何やら話し合っているのか下の階で一箇所に固まって……役立たずですよ」
警護の目を盗み、部屋に侵入した。その事実がようやく亜佐を怯えさせる。
バンドラーは静かな声で話し始めた。
「私は昔から馬鹿で、不器用で、何一つ自信を持って成し遂げた事はありませんでした。きっとこれも、間違っている。でも私にはこうする事しかできない」
「バンドラーさん……」
震える声で名前を呼ぶ。
彼は優しく微笑んだまま、まるで子供にするようにもう一度頭を撫でた。
「大丈夫ですよ、怖がらないでください。大丈夫です」
バンドラーがジャケットの内ポケットを漁る。取り出したのは、注射器だった。
「すぐに、終わりますよ」
悲鳴が喉に張り付く。大声を出して助けを呼ばなければ。それなのにようやくひねり出したのは「ロイリ……」という小さな声だけだった。
血を採ろうとしているのかと思った。しかしその注射器は、もうすでに何かの液体で満たされている。
殺される、と思った。目の前を走馬灯が走り過ぎて、喉がひゅっと鳴る。
死にたくない。
「……ベルタさん!!」
自分の耳にも響く大声だった。
自分でもこんなに大声が出るとは思ってもいなかったので、バンドラーが驚くのも当たり前だろう。
慌てた彼に口を塞がれる。体を捻って逃げようとしたが、馬乗りになっている大きな男の力には敵わない。
口を塞ぐ手を噛もうとするが、それも上手くいかない。
バンドラーが注射器の針を覆っていたキャップを取り去る。
「んん、んっ!」
必死にベルタの名を呼ぶ。
もし遠くにいるのなら、いくら耳のいいベルタでも聞こえなかったかもしれない。
針の先からポトリポトリと液体が落ちる。
震える針先が腕にピタリとあてがわれた時、部屋の扉が轟音を立てて蹴り開けられた。
「アサ様!!」
ベルタだった。ベルタが来てくれた。
嗚咽を上げながら、バンドラーの体の下で彼女に助けを求めて手を伸ばす。
「バンドラー!!」
ベルタは走りながら腰に手を回す。
その手には刃渡りの長いナイフが握られていた。
身構える間もなく、ベルタの体当たりを受けたバンドラーがベルタと共にベッドの向こう側へ雪崩落ちていった。
先に立ち上がったのはベルタだ。
「下がって!」
彼女の声に弾かれたようにベッドから飛び降り、フラフラと後ずさりをする。
バンドラーはベルタより一回り大きい。それなのに、ベルタは圧倒的だった。
力任せに腕を振り回す彼を小さな動きでひねり上げ、ベッドに捻じ伏せてしまった。
「誰の命令だ! 言え!」
バンドラーの首筋にナイフを食い込ませながら、ベルタが詰問する。
「ベルタ……私は……アサお嬢様を」
亜佐はがたがたと震えながら、さらに数歩後ずさる。どうにかしなければ。しかし下手に近付いても邪魔になるだけだ。
そうだ、廊下に出て助けを呼ばなければ――。
ふわりと覚えのある匂いがした。花のような、しかし強い不快感を覚える匂い。
その正体を探ることもできずに背後から腕を掴まれる。それを背中へ捻り上げられ、痛みに悲鳴を上げようとしたが口を覆われて封じ込められた。
今度こそ口を覆う手に思い切り歯を立てる。反射的に離れた手から血がぱっと舞う。
後ろを振り向くと、顔を布で覆った女が亜佐の腕を捻り上げていた。しかし顔を見なくても分かる。この香水、赤い胸元の開いたドレス。
「エレオノーラさん……!」
亜佐の悲鳴に、ベッドに押し付けたバンドラーの腕を縄で拘束しようとしていたベルタが顔を跳ね上げた。
「エレオノーラ、貴様!!」
バンドラーをベッドの下に蹴落とし、ベルタがベッドから飛び降りる。しかしその体が凍り付いたように止まった。
亜佐のこめかみに銃口が突き付けられた。不自然に銃身の長い銃だ。
恐怖より先に来たのは映画みたいだなという現実逃避で、しかし体はすっかり竦み上がって足はもう動かない。
一度強く銃口がめり込んで、ベルタが顔を歪めて手に持っていたナイフを地面に放り投げて両手を上げた。
亜佐に押し付けられていた銃口がベルタを向く。
ガキンと、今まで聞いた銃声とは違う小さな発砲音がした。
背後に血飛沫が飛び散り、ベルタが後ろへよろける。
「いや!! ベルタさん!!」
当たったのは肩だ。
力任せにもがいて腕から逃げ出そうとしたが、いとも簡単にねじ伏せられた。それでも銃口をベルタから逸らすことはできた。
「ベルタさん逃げて!!」
肩を押さえて顔を上げたベルタにそう叫ぶ。それなのに、ベルタはいつの間にかどこかから取り出した銃を持ち上げ。
「う」
後ろ、と言う亜佐の言葉は、血に濡れた手に口を覆われて最後まで発せられることはなかった。
バンドラーが振り下ろした花瓶が、ベルタの後頭部を直撃する。
花瓶は割れはしなかったが、ベルタは糸の切れた人形のようにベッドに倒れて、そのまま動かなくなった。
「んんう! んん!!」
悲鳴すらまともに上げられない。口を覆う手を強く噛んだが、今度はビクともしなかった。
あちらこちら切り傷まみれのバンドラーが、ふらりふらりと近付いてくる。その手にはまだ注射器が握られていた。
手を掴まれ、針が腕に突き刺さった。
腕が冷たくなって、それから熱くなる。
ようやく口を覆っていた手が離れたが、歯ががちがちと鳴るだけで言葉を発することはできない。
このまま死ぬかもしれない。足が震えて立てないほどの恐怖のせいか、それとも今注射された薬物のせいか、意識が朦朧とし始める。
「ど、して……」
目の前のバンドラーに囁く。彼は亜佐をじっと見つめながら、消え入りそうな声で「ア、……サ」と呟いた。
その声を聞きながら、亜佐は意識を失った。




