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砂糖菓子でできている  作者: 未礼
二章

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22/57

22、彼の嫉妬




 ノックの音に、亜佐は返事をしようか一瞬迷った。

 してもしなくても入ってくるだろうと、小さく「はい」と返事をする。扉を開いたのはロイリだ。彼は全身着替えたようだ。

 ひとり用のソファに腰掛け、楽譜に音符を書き殴っていた亜佐の前にロイリは立った。

「触ってもいい?」

 もう香水の匂いはしない。エレオノーラに触れた服でもない。彼を拒絶する理由はない。

 小さく頷くと、ロイリの腕が伸びてくる。思わずギクリと体を強張らせて首をすくめると、その腕は動きを止めた。

「ごめん」

 ロイリは引っ込めた手で頭をがしがしと掻く。亜佐の斜め前のソファに腰を下ろし、座面に体を沈ませて大きなため息をついた。

「そうだな。お前はエレオノーラに酷い目にあわされているし、嫌に決まっているな」

 ロイリの目線は亜佐の頬だ。

「全てベルタから聞いている。その頬のことも、全部」

 やはり内緒にはしてくれなかったようだ。

「ベルタを責めないでくれ。お前の事は全て報告するよう言ってある」

「……大丈夫です。何となく分かってました。私が内緒にしててって言っても、ベルタさん返事をしませんでしたから」

 ロイリを見ないまま言う。

 沈黙が落ちて、ロイリはまた深く息を吐いた。

「今日は時間がたっぷりある。お前に全部伝えておくよ」

 恐る恐る顔を上げる。

「俺とエレオノーラの関係」

 聞きたくないと口をついて出そうになった。また顔に出ていたのか、ロイリが何度か首を横に振る。

「お前が思っているような関係じゃない」

 一体どう思っていると考えているのだろうが。現にシャツに赤い口紅の跡を付けられるような、そんな関係ではないか。

 できるだけ無表情を作りたかったが、今はそれすら難しい。ロイリはそんな顔を見つめながら続ける。

「俺とフレデリカの婚約破棄の原因が、エレオノーラだ」

 驚いた顔の亜佐を見ながら、ロイリは足と腕を組んだ。

「アドルフとエレオノーラが政略結婚だというのは知っているか?」

「……はい。直接アドルフさんに聞きました。アドルフさんの会社のためだって……」

「そうだ。ただ、あの結婚はアドルフの会社だけでなく、エレオノーラの実家の男爵家にも都合のいい結婚だった。苦手な経営はアドルフに任せて、ちゃっかり上役に家の者を何人か滑り込ませている」

 ロイリは簡単な言葉を選んで説明を続ける。

「そして野心の強いエレオノーラは、アドルフをたぶらかし意のままに操って、会社を実質男爵家のものにしようとした。そして軍にも顔を広めようと目をつけたのが、俺だ」

 自分に自信がなければできない所業だ。美しい彼女にはその自信があったのだろう。

「ところがどうだ。蓋を開けるとアドルフはエレオノーラにたぶらかされることはなかった。俺も同じだ。男と見れば誰にでもいい顔をする女なんて願い下げだったし、その時はフレデリカがいた」

 いつもは安心するその名が、今日は胸を痛ませる。

「そろそろ結婚と思っていたところだったんだ。そんな時に長期の出張が入った。だから正式に婚約をして、帰ってきてから籍を入れようと。そう約束して、出張に出て……本当に一ヶ月も経っていなかったと思う。突然フレデリカから婚約を一方的に解消する旨の手紙が届いた」

 話しながら、その時の事を思い出したのだろう。ロイリの顔が徐々に苦痛を帯びていく。

「連絡を取ろうにも取れない。誰に聞いても理由は分からない。隣国にいたから帰ることもできずに、結局半年後に帰った時には、フレデリカは違う男の妻になって……妊娠していた」

 ロイリが額を手で覆う。

「彼女は謝るだけで何も言わない。その腹の子が俺の子かもしれないと一縷の望みにかけたが、出てきたのはフレデリカの夫にそっくりな赤ん坊だった」

 彼の苦しみが伝染したかのように息苦しい。上手く息ができない。喘ぐように尋ねる。

「……怒らなかったんですか?」

「そりゃ怒ったさ。身重のフレデリカに怒りをぶつけられなかった分、ひとりで荒れに荒れたよ。煙草が増えたのもその頃で、酒で気を失わないと眠れない時期もあった」

 酒に溺れるロイリを想像することができなかった。それがどれほどの絶望と嫉妬だったのか、ただただ体が震える。

「……それだけ、フレデリカさんの事が大好きだったんですね」

「……そうだな」

 ロイリは目を伏せて、亜佐を見ずに呟いた。

「気が狂いそうなくらい、彼女を愛していた」

 ああ、やっぱり聞きたくない。

 もうこの話を聞きたくない。

 そのまぶたの裏に映っているのはフレデリカの顔だろうか。

 もう聞きたくないと部屋から逃げたら、彼はどんな顔をするだろうか。それができないので、できるだけ体を縮めて息を潜める。

 俯いている彼はきっとそれに気付いていない。涙を滲ませる亜佐に気付かずにロイリは続ける。

「そんな時に、ベルタが」

 しかしすぐに口をつぐんだ。その顔にはしまったと書いてある。

「あー、どうするか……ベルタは」

 言うかどうか迷っているらしい。もしかするとこの話かもしれないと、亜佐は口を開く。

「ベルタさんが元々軍にいたっていう話ですか?」

 ロイリはようやく顔を上げて亜佐を見た。

「ベルタから聞いていたのか?」

「いいえ、フレデリカさんが教えてくれました。私がそれを知ってるって、ベルタさんは知らないと思いますけど」

 建前は、と心の中で付け足す。

 ロイリは少し怪訝な顔をした後、気を取り直したようにうんと頷いた。

「在籍していたのは数年と短かったが、優秀な軍人だったよ。……あまり怖がらないでやってくれるか」

「大丈夫です。怖くなんてないです。とても心強いです」

「そうか、ならよかったよ。ベルタが、お前が怖がるだろうと心配していたから。俺が言ったと伝えておく」

 ロイリの語尾とノックの音が重なった。あまり力の出ない声で「はい」と返事をすると、入ってきたのはベルタだった。

 ロイリが顔を上げる。

「見張りは?」

「警護隊が」

 後ろ手で扉を閉めて、ベルタが答えた。

「聞いていたか?」

「はい」

「ならそういう事だ」

「了解」

「座れ」

 顎でソファを指したロイリにベルタは一礼して、亜佐の向かい、ロイリの斜め向かいに座った。ふたりは少しの間見つめ合う、と言うには少し乱暴に視線を交わし合う。

「睨むなよ」

「アサ様におかしな事を吹き込まないか心配でして」

 大げさに肩をすくめて見せてから、ロイリはまた視線を少し下げて話し始めた。

「自暴自棄になっていた俺の代わりに、その時俺の部下だったベルタが色々調べてくれた。フレデリカの夫になったのは、当時落ちぶれてはいたが侯爵家の跡取りだ。商家の娘のフレデリカとの婚姻なんて普通じゃない。ようやく正気に戻った俺も調べ始めて、エレオノーラが絡んでいることを突き止めた」

 ロイリは組んでいた手と足を元に戻す。

「エレオノーラは男爵家の力を使い、フレデリカの両親を陥れて無実の罪をかぶせた。そして、所有しているデパートの経営が行き詰まっていた侯爵家をそそのかしたんだ。この罪で揺さぶれば、経営権を奪い取れるぞ、と。フレデリカの両親の店は、大きくはないが古くからの顧客のいる安定した老舗だ。侯爵家はまんまと飛び付いて取引きをし、嫡男とフレデリカに婚姻関係を結ばせた」

 めまいがする。何もかもが悪い事ばかりだ。どうして逮捕されないのか。この世界はどうなっているのかと額を押さえる。

「どうして……」

「エレオノーラは俺の結婚を反故にし、傷心の俺に付け入って関係を結んで弱みを握りたかったんだよ」

 ロイリが片方の口角を上げて笑った。

「そして俺は全て分かった上で、何も知らないふりをしてエレオノーラを受け入れた」

 頭の中にロイリの腕の中でうっとりと目をつむるエレオノーラの姿が思い浮かんで、小さく頭を振った。

「体の関係はないよ。兄を裏切ることはできないとのらりくらりかわしている」

「……この間、夜遅くにあなたの部屋にエレオノーラさんが来たのは……」

「度々ああやって部屋を訪ねてきては、俺と既成事実を作ろうと頑張ってる」

 ロイリは深い息を付いて、ソファの背もたれに体を預けた。

「エレオノーラと男爵家の不正を暴くために気のあるふりをしていた。だがそれももう終わりだ。証拠は俺たちで充分すぎるくらい集めた。煮え切らない態度の俺にエレオノーラも随分不信感を抱いていたし、そろそろ潮時だったんだ」

 頭がくらくらする。混乱した時はいつもそうだ。頭の中を整理するため、ひとつひとつ疑問を口に出す。

「ベルタさんも、証拠を集めてたんですか?」

 ベルタは無表情のまま「そうです」と頷いた。

「軍を辞めてここで女中をしながら、情報を集めていました。聞き耳を立てるのは得意ですので」

「ロイリのために軍を辞めたんですか?」

 ロイリに対する態度は主従関係とは思えないほど雑な時もあったが、ベルタがロイリを慕っているのはそばで見ていてもよく分かった。一度本人に否定されたが、もしかするとベルタはロイリのことを、という疑問がまた湧き出たのだ。

「はい、親愛なる上官殿をお助けしたい一心です」

 ロイリが吹き出した。腕に顔をうずめて、彼は声を出して笑っている。

「お前の冗談は本当に面白いよ」

「本当ですよ……半分は。もう半分は家の事情です。両親が女が軍人になるなんてと昔ながらの考えの人たちで、辞めなければ修道女にすると脅されていたんです。……あと、私的な下心もありましたけど」

「下心……」

 半分はロイリのため、半分は両親のため。そしてあとは下心。考える前に口を開いた。

「アドルフさんですか?」

 ベルタがギクリと体を固まらせた。ロイリが意外そうにベルタの顔を覗き込む。

「何だお前、アサに言っていたのか」

「大尉!」

 ベルタが鋭い声でロイリの言葉を遮る。しかしもう手遅れだ。これでベルタとアドルフの関係に確信が持てた。

「聞いてませんけど、何となくそんな感じがしていました」

 ベルタの頬が赤くなる。手を口元に当てて大きく崩れた無表情を隠そうとしたようだが、戸惑った顔は丸見えだ。

 ロイリが笑う。

「アサはフレデリカと出会って数十分で、俺とフレデリカに関係があるのを見抜いたぞ。洞察力が鋭い」

「……恐ろしいですね」

 心底怯えた声に、何も考えずにアドルフの名前を出したことを後悔した。ベルタは秘密にしておきたかったようだし、ロイリが知っていたからよかったものの、もし知らなければ秘密がさらに広がってしまうところだった。

「ごめんなさい……黙っていたほうがよかったですね」

 どうしてこんなに迂闊なんだと俯く。ベルタが少し身じろぎして、姿勢を正したのが視界の端に見えた。

「いいえ、構いません。ロイリ様に気があると疑われているよりは、よっぽどマシです」

「この扱いでどう疑うんだよ」

 ぼそりと言ったロイリをベルタが睨み付ける。「悪かったって」とロイリはその視線を受け流した。

「……脱線したな。どこまで話したか」

 ロイリは亜佐を見て、少し気まずそうに頭を掻いた。

「とにかく、エレオノーラの不正はかなりの数集めている。一般人なら極刑になるようなこともしているし、これを突きつければ男爵家はエレオノーラを切り捨てるだろうし、男爵家もただでは済まない。最終的な目標は、アドルフとの離婚、男爵家関係者を経営から退陣させることだ」

「アドルフ様と調整して、あと数ヶ月以内に事を起こします」

「少し周りが騒がしくなるとは思うが、お前は何も心配せずにいろ。……俺とお前は恋仲だとエレオノーラに伝えた」

 驚いて顔を上げる。

「そのほうが手を出されにくいだろう。少しの間警備も強化する。ただ血液摂取の話はしていないから、キスもできない仲だと伝えている。今まで通り、誰に何を聞かれても口止めされていると言え」

「は……はい」

 戸惑いながら頷いた。

「さっきの口紅は、エレオノーラが勝手に抱きついてきた時に付いたものだ。俺が抱き寄せたわけじゃない」

「……はい」

「これで、俺の身の潔白は証明されたか?」

 顔を上げる。エレオノーラと何もなかったことは分かった。嘘はないだろう。なのに体と頭が重たいのはどうしてだ。

 頷いた亜佐をじっと見つめて、ロイリは手を差し出す。立ち上がってその手を取ると、そっと引かれてロイリの隣へ座った。

「大丈夫か?」

「はい。あの、難しい事がいっぱいで、まだ頭が追いついてなくて」

「そうだな、すまなかった。本当は言うつもりはなかったが、巻き込んでしまった上に怪我までさせてしまった」

 ロイリの手が頬の痣に触れる。

「エレオノーラには近付かないようにしてくれ。今は血が上っているのか幼稚な態度を取っているが、本来は頭のよく回る恐ろしい女だ」

 「はい」と頷く。ロイリも深く頷いてから、頭をゆっくりと撫でた。

「それでは、お邪魔虫は失礼します」

 ベルタが立ち上がる。

 ロイリは彼女に何か早口で指示を出して、ベルタは返事をして一礼すると部屋を出て行った。

 扉が閉まる、それと同時に、亜佐はロイリの腕にすっぽりと包まれていた。

「……嫌?」

 小さく首を振る。筋肉質な腕も温かな胸も、泣きそうなくらい安心感を与えてくれる。それなのに胸が苦しい。でも、ずっとこうしていて欲しい。

「最近、あなたの煙草の匂いを嗅ぐと落ち着くようになりました」

「せっかく少しずつ禁煙してるのに」

 笑いながらロイリが言った。

 少しの間、無言のまま抱き合う。何か話をするには少し疲れ過ぎていたが、言わずにはいられなかった。

「……フレデリカさんは、ご両親を守るためにあなたと別れたんですね」

「そうだ」

「だったら、ふたりとも相手が嫌いになったとか他に好きな人ができたとか、そういう理由で別れたんじゃないんですね」

「そうだが、今はふたりとも未練はないよ。フレデリカは子供に夢中。俺は……かなり時間はかかったが吹っ切れているよ」

 彼の顔は見えなかったが、声に少し皮肉の混じった笑いが含まれていた。

 返事をする余裕もなく、また少し沈黙が落ちる。先に口を開いたのはロイリだった。

「……お前に拒絶された」

 いつ拒絶しただろうかと考えて、そう言えばロイリの手を振り払ったことを思い出した。

「お前はいやだとか嫌いだとか、あまり口にしないから」

「……そうですか?」

「ああ……こんなにも辛いだなんて思わなかった。息が止まるかと思った……あのままお前に嫌われたら、俺はどうやって生きていけばいいんだと」

 さらに強く抱き締められ、胸の前で硬直させていた腕の行き場がなくなる。

 フラフラとさまよわせて、ロイリのベストをそっと掴んだ。

「あなたは私がいないと死んでしまうから、だから本能的に私に執着してるそうです」

「……そうだな」

 ロイリの唇が首筋に触れ、這うように上って耳たぶにキスをする。

「お前がいないと生きていけないんだ」

 耳の中に直接吹き込まれた低い声に背筋が跳ねた。

 ロイリの胸を押して体を離す。彼の両手が頬を包み込んで、そのままキスをしてくれると思ったのに、少しの間頬を撫でた指は離れていった。

 キスをしてくれるわけがない。体液を摂取するためのキスはついさっき済ませた。本物の恋人同士ではないのに、キスなんてするわけがない。

「少し休むか? それともピアノを弾く?」

「……ピアノを」

 呟くと、彼の体は離れていった。

「ここで聞いていていい?」

「はい、もちろん」

 温もりが消えてあっという間に冷えた体を引きずって、ピアノの前に座る。何を弾こうかと、少しの間膝の上に手を置いて考えた。

 心の中にあるものをそのまま表現しようとしたが、あまりに複雑で自分でも理解できない。理解したくもない。

 そんな時はこの曲に限る。両手を持ち上げ、鍵盤に叩き付けた。

 視界の端に、びくりと体を震わせたロイリが見えた。




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