2、魔法のような血
「うっ、う……」
自分のうめき声で目が覚めた。
直後に耐えられない腕の痛みに息を止める。痛む場所を押さえようとして手を伸ばすと、冷たいものに触れて亜佐は目を開いた。
腕にナイフが突き刺さっている。嗚咽に近い悲鳴を上げて柄に手をやった。
「抜くな」
細い声が聞こえて視線をやる。ロイリだ。
どうやら岩が積み重なって出来た小さな空洞の中にいるらしい。少し離れた外の光が入る場所で、彼は地面に寝そべっていた。
体を引きずって近付く。そしてようやく気付いた。
彼の腹部が真っ赤に染まっていた。
流れ出た血が彼の体の下に血溜まりを作っている。真っ青な顔に脂汗を浮かせて、ロイリは声を絞り出した。
「失血死するぞ……抜くな」
「あ……あ、どうして、こんな……」
頭を押さえて首を振る。どうしてこんな事になっている。亜佐は必死に記憶を手繰り寄せる。
そうだ。盗賊に刺され、失神して馬から転げ落ちたのだ。それに手を伸ばしていたロイリ。まさか、まさか。
「わ……私を庇って落ちたんですか? それで怪我を? 私の、せいで」
「……守ると言ったのに、怪我をさせてすまない」
激しく首を横に振る。彼の腹に手を伸ばして、しかしどうすればいいのかも分からない。
「どうすれば、どうすればいいですか? どうやったら血が止まりますか?」
「無理だ……」
ロイリの口からため息のような声が漏れた。
「もう、助からない」
一瞬、呼吸が止まった。ガチガチと音を鳴らす歯を食い縛り、すがるように彼の腕を掴む。
「アサ、よく聞け……ここから歩道が見えるだろう? あそこは警備隊の巡回経路だ……俺と似た制服の奴が通ったら、この笛を鳴らせ……」
力のない手が微かに持ち上がる。銀色の笛が握られていた。
「胸ポケットに、俺の手帳が……。保護施設の、管轄が載っているから」
ロイリが激しく咳き込む。ごぽごぽと大量のドス黒い血が口から溢れ出す。
「いや、やだ!」
「それを見せて……施設へ運んでもらえるよう……」
「お願い、死なないで……!」
「俺が死んでも、そばを離れるな……死体でも、一般人の牽制くらいは……」
言葉を言い終えることなく、彼の目がゆっくりと閉じる。
「ロイリさん!」
「静かに……しろ……気付かれ……」
血で染まった唇はもう微かにしか動かない。言葉もほとんど聞き取れない。どうすれば、どうすれば、どうすれば。
どれだけ願っても祈ってもどうにもならない。吸血鬼がいて、人がこんなにも簡単に死んでいく非現実的な世界のくせに、どうしてどうすることもできないんだ。魔法使いのひとりやふたり、いるのではないのか。
魔法が使えれば。亜佐は頭の中で繰り返す。魔法、そう、魔法だ。
ロイリの言葉が蘇った。先ほど馬の上で聞いた、おとぎ話のような不思議な話だ。
「……ロイリさん」
唇が微かに震える。
「死にたくないですか?」
彼の目が、薄っすらと、本当に薄っすらと開いた。
「しにたく……な」
意思確認はした。充分だ。腕のナイフに手をやる。息を吸い込んで吐いて、一度手を離してからもう一度深呼吸。
そして、一気にナイフを腕から引き抜いた。
激痛が蘇る。傷口を押さえて地面に突っ伏して、口から漏れたのは「もう、やだ……」という弱音だった。
嗚咽で息ができなくなりながらも体を起こす。傷口から手を離して血が溢れ出ているのを確認してから、ロイリの口に指をねじ込んだ。
「口を開けて」
もう反応はない。間に合わないかもしれない。
腕を伝い滴り落ちる血をすくい、彼の口に流し込む。何度も何度も流し込む。
これで彼が助かっても、亜佐の血を欲するようになるのだろう。耐性がつくのはどれくらいなのか全く想像もつかないが、きっとお互い辛い思いをする。
それでも、それでも死ぬよりはマシだ。
「飲み込んで、お願い」
ぐっと、彼の喉が鳴る。恐らく飲み込んだ。
どれくらい飲ませればいいのか分からない。痛みで視界が霞み始める。
「怖い……怖いよ」
自分のせいで誰かが死ぬ、それが恐ろしい。死ぬのも嫌だ、死なせるのも嫌だ。
限界が来て、彼の隣に倒れ込んだ。せめて止血をと腕に手をやろうとしたが、もう腕は持ち上がらない。
こんなところで死にたくない。目の前にあるロイリの手を握り締める。
その手が強く握り返された。
「甘い……」
掠れた声が聞こえた。
その意味を考える間もなく、亜佐の意識は再び闇に沈んだ。