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19、気持ちがいい




 夜には五線譜が印刷された用紙が手に入った。

 慣れない万年筆に苦労しながら思い出せる曲を書き殴っていると、ベルタが部屋を訪ねてくる。時計が二十一時少し前を指している頃だった。

「ロイリ様が帰っていらしゃいました」

 彼女の言葉を遮り、亜佐は勢い良く立ち上がった。そしてその勢いを持て余して暴走する。

「ちょっとロイリの部屋に行ってきます」

 ロイリはこれくらいの時間に帰ってくると、まず夕飯を食べてシャワーを浴びてからこの部屋に来る。空腹を避けるためと、煙草の臭いを消すためにだ。

 そうすると部屋を訪れるのは二十二時前後で、亜佐が寝る時間を知っている彼は早めに自室に帰ってしまう。ゆっくり話がしたい。何よりとにかく早くお礼が言いたかった。

 亜佐の暴走にベルタが眉根を寄せる。

「お食事とシャワーがお済みになったらすぐに来られます」

「少し顔を見るだけです。すぐに帰ってきます」

 最近屋敷内をウロウロしていたおかげで、ロイリの部屋の場所は覚えている。そう遠くないことも。

 ベルタの返事を聞かずに扉に向かうと、背後から扉を押さえられた。怒っているかと思ったが、彼女の顔には少し気まずそうな表情が浮かんでいた。

「アサ様」

「早くピアノのお礼を言いたいんです……」

 懇願するように見上げると、ベルタはますます眉間のしわを深くした。しかし扉を押さえていた手は渋々といった風に離れていく。それを許可だと取ることにして、亜佐は扉の外に滑り出た。

 さっさと行って、この有り余る嬉しさと感謝の気持ちを押し付けてさっさと帰ってこよう。

 人がいないことを確認しながらふたつ角を曲がると、もうそこはロイリの部屋だ。数週間前にベルタが破壊した扉は、もちろん新品に付け替えられている。

 扉をノックする。返事はない。

 もしかすると食事に出ているのかもしれない。

「ロイリ、私です」

 もう一度ノックをしながら呼びかける。これで返事がなければ諦めて部屋に戻ろうと思っていたが、部屋の中から小さな声が聞こえた。

「待ってろ」

 少しして鍵の開く音がして扉が開いて、驚いた様子のロイリが顔を覗かせた。

「どうした」

 ただ礼を言いに来ただけだと言おうとしたが、廊下の向こうから声が聞こえて体を跳ねさせる。

 ロイリが素早く亜佐の手を引く。部屋に引きずり込まれて、閉まった扉に体を押し付けられた。彼の大きな手が口を塞ぐ。驚いた目でロイリを見ると、彼は眉根を寄せて、立てた人差し指を唇に押し付けて見せた。

 話し声は徐々に大きくなり、背中を預けている扉がノックされて亜佐は思わずロイリの腕を掴む。

「ロイリ様、エレオノーラです」

 さらに驚く。どうしてこんな時間に、彼女がロイリの部屋を訪れるのか。ロイリが黙っていると、何度かノックをしたエレオノーラはようやく諦めて去っていった。

 ロイリが手を離す。しかし顔はそのままで、眉間にしわを寄せたままじっと亜佐を見下ろしていた。

「見つかったら面倒くさい事になるところだった」

「……ごめんなさい」

「ひとりで来たのか? ベルタは?」

 多分後ろをついてきているはずだ、なんて言えない。

「危ないことはしないと約束したはずだ」

 怒った声に体を小さく縮こませる。少し怒られるかもしれないとは思っていたが、少しどころでは済まなかった。

「ごめんなさい……」

 俯けた顔を上げられない亜佐にため息をついてから、ロイリは亜佐の頭を何度か撫でた。

「分かったのなら、もういい。どうしたんだ?」

「……お礼を言いに」

「お礼?」

 ようやく一歩離れたロイリから、亜佐は慌てて目を逸らす。彼のズボンの留め具とベルトが外れていて、下着が見えていたからだ。

 シャツもボタンがいくつか外されていて、ネクタイも緩み切っている。どうやら着替え中に来てしまったらしい。

 ロイリが笑いながらベルトを締め直して、亜佐はぎこちない動きで視線を戻した。

「今日、ピアノが届いたんです」

「ああ、ベルタから聞いた」

「そのお礼を言いに」

 ロイリはぱちくりと目を瞬かせる。

「飯を食ってシャワーを浴びたら、いつも通りお前の部屋に行くつもりだった。その時でよかったのに」

「早くあなたに会いたくて」

 会って早く礼が言いたかった。亜佐はまた俯く。

 ロイリが何か言いかけて、言葉を呑み込んだのが気配で分かった。

「ごめんなさい、帰ります。部屋で待ってます」

 礼を言いに来たはずなのに迷惑をかけるわけにはいかない。踵を返してドアノブに触れる。

 その手を、後ろからロイリが押さえた。

「アサ」

 耳元で囁かれた声にびくと体が跳ねた。また怒られるのではないかと振り返ることもできない亜佐の体を、ロイリは引き寄せる。

「せっかく来たんだ。ここで済ませよう」

 何を済ませるのか、そんな馬鹿な問いをしかけて口をつぐむ。怒ってはいないようだ。ただ、抵抗する勇気もない。

 手を引かれ、誘われるがままソファに座った。

「……お腹、空いてないですか?」

「今日は遅くなる予定だったから、夕方に軽食を食べた。あまり減ってない」

「ソファでするんですか?」

「うん……ベッドは、駄目だ」

 いつもベッドなのに、何が駄目なのか分からない。

 すぐ隣に腰を下ろして、ロイリはネクタイを解いて背もたれに放り投げた。

 その手が亜佐の頬に触れる。

「煙草臭いけど、いい?」

 こくりと頷く。

 もう今さらやめるなんて無理だ。彼の赤い目から視線を外せない。

 無意識に彼の顔に手を伸ばす。指で目尻に触れた。美しい色だ。

「……目、怖くないか?」

「どうしてです?」

「人間は吸血人の赤い目を怖がる」

「本当に? すごくきれいなのに。私は好きですよ」

「……そう」

 ずっと掴まれたままだった腕を引かれ、唇がぶつかる。すぐに舌が入ってきた。

 苦手だった煙草の苦い味が、最近待ち遠しい。

 少し強引に背中を抱き寄せる腕もだ。

 ふとベルタの顔が思い浮かぶ。すぐに帰ると言ったのに。ごめんなさいと頭の中で呟いてその姿を消し、ロイリの腕の中に溺れた。

 彼に身を任せ、ぼんやりする頭で考える。

 気持ちがいい。

 まずい。

 どうして。

 気持ちがいいだなんて。

「んっ……ぅ」

 思わず声が漏れてロイリの肩にしがみつく。背筋がゾクゾクと跳ねて、きっと彼はそれに気付いている。恥ずかしくて仕方がない。

「大丈夫?」

 唇が微かに離れ、ロイリがそう問う。頷くことしかできない。

「ロイリ……電気、消しませんか?」

「消さない」

 真っ赤にとろけているであろう顔を見られたくなくて提案してみたが、彼はそれを一蹴した。

「お前の顔を見ていたい」

 顔から火が出るかと思った。恥ずかしさが頂点に達してめまいすら感じる。また唇が触れたが、首を振って逃れた。

「待って、待って」

「待たない」

「恥ずかしいんです……」

「恥ずかしがっている顔を見たいんだ」

 両手で頬を挟まれ、問答無用で視線を合わせられる。楽しげな笑みを浮かべるその顔を、睨みつけてやれるほどの気丈さが欲しい。

「……やっぱりベッドに行ってもいいか?」

 ロイリの言葉にベッドを見やる。天蓋の影になってここよりも少し薄暗いので、きっと顔が見えにくくなるだろう。

 頷くと、彼は亜佐を軽々抱き上げた。運ばれて柔らかな羽毛の上に落とされる。ロイリの匂いに包まれた。

「アサ」

 切羽詰まった声だった。

「アサ……アサ」

 返事の代わりに伸し掛かってきた体に腕を回す。

 こうやって求め合っていると、勘違いをしそうになる。

 彼は私を愛しているのではないか?

 何を馬鹿なと目をぎゅっとつむる。彼が求めているのはこの体を満たす液体で、亜佐自身ではない。勘違いするなと、自分に言い聞かせる。

「ん、ん……っ」

 声が漏れるたびに恥ずかしさのメーターは振り切れていて、そろそろショートしてしまいそうだ。量は充分なはずだ。彼の肩をとんとんと叩く。

 いつもはそれでやめてくれるが、今日はその気配はない。

 それどころか彼の赤い目は依然欲を宿していて。

「……このまま、抱いてもいいか?」

 耳元で囁かれる。亜佐はその赤い目を見上げて、同じように囁いた。

「あ、あなたが、そうしたいのなら」

 そして目をつむる。どこに触れられるのかビクビクしながら待っていたが、少しして体に感じたのはベッドのスプリングが跳ねた感覚だった。

 驚いて目を開けると隣にロイリが寝転んでいて、両手で顔を覆っていた。

「危なかった……」

 弱々しい声でロイリが言う。

「ごめん」

 危機一髪、彼の理性は欲望に打ち勝ったらしい。ホッとした、のと同じくらい残念な気持ちがあって、亜佐は動揺した。

「すまなかった。大丈夫か?」

「だっ……大丈夫です」

 上半身を起こして、両手で赤い頬を隠す。その手に触れて、覗き込むように見上げるロイリから慌てて視線を逸らした。

「そうだ、私、ピアノのお礼を言いに来たのに」

 誤魔化すように声を上げて、ベッドの上で居住まいを正した。膝の上に手を置いて頭を深く下げる。

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 ロイリが亜佐の額に触れて頭を上げさせる。

「その……ちょっとしたホールでも弾けるようなとてもいいピアノで……すごく高かったんじゃないかと思って……」

「心配ない」

 姿勢を崩さない亜佐の腕を引いてベッドに倒すと、ロイリは肘をついて亜佐を見下ろした。

「まあな、さすがにアドルフほどは儲けていないが、これでも大尉だ。特別手当もわんさかもらってる。ピアノ代くらい痛くも痒くもない。安心しろ」

「でも、あの、何かお礼がしたいんです」

 ずっとどんなお礼ができるか考えていたが、何一つ思い浮かばない。なので本人に聞いてみることにしたのだ。

「礼なんかいらない」

「それじゃあ私の気が済みません」

 顎に手を当て考え込んでいたロイリが、「あ」と顔を上げた。

「だったらピアノを聞かせてくれ」

「それは、もちろんです」

 そんなの礼じゃないと言おうとした亜佐の手をロイリは掴む。

「今から」

「今から?」

 時計を見る。時間はもう二十一時半を過ぎたところだ。

「ごめんなさい。結構音が響くから、今からは無理です」

 ロイリも時計を見上げた。

「まだ誰も寝るような時間じゃない」

「それでも、お仕事が終わってゆっくりされてる人もいると思うから」

「そうか、残念だな……」

 心底残念そうな顔のロイリにもう一度謝る。

「好きでない人にとってはただの騒音ですから」

「それじゃあ後日聞かせてくれ」

「はい、それまでにしっかり練習しておきます」

 ようやく笑ってくれたロイリの顔を見て安心した。

 一番恐ろしいのは、エレオノーラの気に障って、ロイリやアドルフがいない時に嫌がらせをされる事だ。

 ふと思い出す。そう言えば、さっきエレオノーラは何をしにこんな時間にロイリの部屋を訪れたのか。聞いてもいいのだろうか。いや、聞かなければ後悔しそうだ。

「さっき……私のせいでエレオノーラさんに居留守を使っちゃいましたけど、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ。何とでも言い訳できる」

 ロイリはそれ以上言わない。どうにかしてさり気なく訪問の理由を聞き出そうと頭を回転させたが、どうにもいい案が思い浮かばなかった。もう直球だ。

「……こんな時間に、何をしに来られたんでしょうか」

 ロイリは亜佐を見て小首を傾げた。

「さあ、何だろうな」

 含みのある言い方だった。ロイリは理由を知っている。

「お前も人のことは言えないぞ。こんな時間に男の部屋に、いい歳をした娘がひとりで来て」

 話をはぐらかされた。言えないようなことなのかと、心臓の辺りが重くなる。

「……ロイリだって人のこと言えません」

 真夜中にいい歳をした娘の部屋に入って、ベッドに上ってくるくせに。ロイリが声を出して笑った。

「お前も言うようになったな」

「まだまだです。ベルタさんやフレデリカさんみたいに、強い女になりたいです」

「やめてくれ。俺の周りは気の強い女ばかりだ。お前みたいな淑やかな女は貴重なんだ」

 淑やかだなんて身に余りすぎる言葉だ。ただ内気で、自分に自信がないだけで。

 その時、部屋が静かにノックされた。ロイリが上半身を起きがらせる。

「ベルタか。あいつ、聞いていたな」

 ベッドから立ち上がって、ロイリは亜佐に手を差し出した。そっと手を重ねて立ち上がる。

 ひとりでも歩けるのに、ロイリはまるで迷子の子供を連れて行くようにぎゅっと手を繋いだままだった。

 扉の前で立ち止まって彼は亜佐を振り向く。

「次は本気で怒るからな。もう屋敷内をひとりで歩くような危ないことはするな」

「はい、ごめんなさい」

 さすがにもう反省した。それはロイリにも伝わったようで、彼は何度か頷いて亜佐の頭を撫でた。

「暴走しないよう色々考えている事を分かってくれ。空腹のままお前に近付かないように気を付けているし、お前を傷付けないようひとりで済ましておかなければならないこともある」

「はい」

 神妙な顔で頷いた亜佐をじっと見下ろしてから、ロイリは吹き出すように笑った。

「分からないか」

 ぼそりと言った言葉に顔を上げたが、ロイリは扉を開いて体を半分廊下へ出した。

「ベルタ」

「お止めしたほうがよろしかったですか?」

 すぐそこから声が聞こえた。ずっとここにいたようだ。

「今度からアサが同意したら止めに入ってくれ」

「かしこまりました」

 まさか本当に室内の会話が聞こえていたのかと慌てる。耳が良い、どころの話なのだろうか。

 ロイリに肩を押され部屋の外に追い出された。

「おやすみ、アサ」

 両頬にキスを受け止めて、離れていく彼の顔を見上げる。そうか、と今さら気付く。もうキスは済ませたから、食事をとってシャワーを浴びた後にロイリが亜佐の部屋を訪れる理由はない。

 それならもう少し話をすればよかったと亜佐は後悔したが、もう遅い。

「おやすみなさい」

 そう言ってから笑顔を作る。ベルタを見上げて部屋に戻ろうと促した。その亜佐の背中にロイリが触れる。

「後で部屋に行く」

 驚いてロイリを見る。きっと、寂しいと顔に出ていたのだろう。迷ってから、首を横に振った。

「いいえ、もうゆっくり休んでください」

「行くからな」

 困って彼を見上げた。

「自分で言うのも何ですけど、ロイリは私に甘すぎる」

「甘やかしたいんだ」

「このまま甘やかされ続けたら、あなたがいないと何もできなくなってしまう」

「そうなればいい」

 かろうじて聞こえた呟きに目を丸くする。その亜佐の頬をするりと撫でて、ロイリは「冗談だよ」と笑って部屋の中へ消えた。

 扉に手を置く。そんなことになったら、一生彼から離れられなくなってしまう。

 ロイリの言葉の意味を考えあぐねている亜佐の後ろで、ベルタが小さなため息をついたのが分かった。

 それよりも今はベルタだ。恐る恐る彼女の顔を見上げた。

「ベルタさん、ごめんなさい。すぐに帰るって言ったのに……」

「いいえ、構いません」

 硬い声でそう言って、ベルタは亜佐の部屋を手のひらで指してから歩き出す。

 その後ろをとぼとぼと付いていきながら、気になることを聞いてみた。

「ベルタさんって、耳が良いんですか?」

「はい。とても」

「部屋の中の会話は……」

「扉のすぐそばに立っていれば、ほとんど聞こえます」

 頭がくらくらした。今までどれだけの会話を聞かれていたのだろうか。ロイリとの会話も、フレデリカとの内緒話も、独り言も全て聞かれていたのかもしれない。

「……あの、部屋にいるとき私の独り言とかも聞こえてますか?」

「ロイリ様に待機していろと言われている時と緊急事態以外は、できるだけ聞かないようにしていますので」

「そうですか……」

 それは少しホッとした。歌詞が思い出せずに勝手に作詞した歌をよく歌っていた。あれを聞かれていたらもう立ち直れない。

 安堵する亜佐に、ベルタは無表情に言う。

「今日は緊急事態でしたので」

 足を止める。彼女が言おうとしていることと何を聞かれてしまったのかをすぐに悟って、顔に熱が集まるのが分かった。立ち直れないどころの話じゃない。

「……分かりました、ベルタさん、すごく怒ってるんですね?」

「怒ってなどいません」

「絶対怒ってる。ちゃんと反省してます。もう二度とこんなことしません。すみませんでした」

 誠心誠意謝罪する。

 ベルタがため息混じりに「本当に怒っていませんよ」とようやく振り向いてくれたのは、部屋に着いた後だった。




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