18、生きてきた理由
「いってらっしゃい。お気をつけて」
「ああ、行ってくる」
そう言って頬にキスをして、ロイリはにこりと笑って部屋を出て行く。
このやり取りももうどれくらいか。
亜佐がこの世界に落ちてきて、一ヶ月が経とうとしていた。
初めの頃の怒涛の日々が嘘のように、毎日は穏やかに過ぎていく。
ロイリは仕事前に亜佐の部屋を訪れてキスをする。彼を見送った後は、本を読む練習をしたり庭を散歩したり。
フレデリカやアドルフが仕事の合間に話し相手になってくれたりもした。警備についてくれているロイリの部下にも何人か気さくな人がいて、一緒に庭を歩きながらよくロイリの話をしてくれた。
庭師のバンドラーとも、挨拶だけではなく少し世間話をするようになった。もちろん、少し距離は取って。亜佐と同い年の娘がいると、彼は恥ずかしそうに教えてくれた。
夜のキスの時間は様々だった。ロイリは初めの数日は十八時までに帰ってきていたが、だんだんと遅くなり、最近ではシャワーや食事を取る間もなく軍服を着たまま部屋を訪れることが増えた。待てずに寝てしまい、物音で起きるとロイリが体に伸し掛かっていたりする時もある。
そういう帰りが遅い日は、彼は少し強引で、煙草の匂いがいつもより強い。衝動を煙草で誤魔化しているのだろうと、心配げにフレデリカが言っていた。禁煙はまだまだ先だろうと。それでも亜佐を傷付けるような事は、彼は絶対にしなかった。
ロイリとは反対に、亜佐はなんとも規則正しい生活を送っていた。
朝六時に起きて夜は二十二時頃には眠りにつく。三食しっかり栄養バランスが考えられた食事を取り、おやつも昼寝もついている。
あちらの世界にいた時は、アルバイトが立て込んで丸三日寝ずに学校とバイト先を往復したこともあった。あの時は本当に死ぬかと思ったが、もしかすると気の毒に思った神様が、ゆっくりできるようにとこちらの世界に落としたのではないかと疑うくらいだ。
もちろん神様なんて信じていないが。
兎にも角にも、いつまで続くか分からない穏やかな生活を、亜佐は罪悪感を捨てて謳歌することに決めていた。
*
今日は、ベルタが屋敷にある書庫へ連れて行ってくれることになっていた。
前当主の奥方、つまりロイリとアドルフの母親だ。もう亡くなって二十年近く経つらしいが、彼女が多趣味な人で、音楽関連の本も沢山所蔵しているとベルタが教えてくれたからだ。アドルフが好きに読んでもいいよと許可をくれた。
書庫へ向かう廊下は初めて通る場所だ。
今朝、注文していたピアノが数日以内に届くとベルタから聞いたおかげで、亜佐の足取りは雲よりも軽かった。スキップでもできそうな心境だが、さすがに恥ずかしい。
届いたら一番初めに何の曲を弾こうかと考えていたせいで、亜佐は向かいの角を曲がってきたエレオノーラに気付くのが少し遅れた。
大勢の女中を侍らせている彼女を見てギクリと体を跳ねさせる。
エレオノーラとは何度か夕食を共にした。しかしそれはロイリとアドルフが珍しく揃っていた時だけで、これまで数回しかない。
そして、ふたりがいないところで会うのは初めてだった。
「こんにちは」
亜佐はニコリと笑って挨拶をする。
彼女に気に入られていない事は分かっている。視線がほとんど合わないからだ。しかし露骨に無視されたりはしないだろう。
そう思っていたので、エレオノーラがちらりと亜佐を一瞥してから手に持っていた扇子で口元を覆い、「臭いと思ったら、こんな所にドブネズミがいるわ」と吐き捨てた時には、とっさに頭に浮かんだのは怒りではなく失笑だった。まあ、ネズミもロイリの言う小動物だ。
この発言を、亜佐がロイリやアドフルに言いつけないか考えたりしないのだろうか。言いつけてもどうにかできると考えているのだろう。実際に彼女ならどうにかしてしまいそうだ。
エレオノーラがベルタを睨みつける。
「ベルタ、この汚いものをわたくしの前に連れてくるんじゃないわよ」
黙ったまま頭を下げるベルタに忌々しげな顔を向けて、居心地の悪そうな女中たちを連れてエレオノーラは去っていった。
「アサ様、申し訳ございません」
さっきよりも深くベルタが頭を下げて、亜佐は慌てて彼女の肩に触れる。
「どうしてベルタさんが謝るんですか。大丈夫ですよ、あんなの慣れてます」
ベルタが顔を上げる。その顔には、どうしてあんなものに慣れているんだ、と書いてあるようだ。この一ヶ月で随分とベルタの無表情を読めるようになった。
「元いた世界で色んな仕事をしていたから、たくさんの人と関わってきたんです。色んな人がいました。だから、慣れてますし気にしないようにしています」
傷付けるためにわざと吐かれた暴言をいちいち受け入れていたら、体がいくつあっても足りない。もちろん、嫌な気分にはなるけれど。
「何となくああいう人だろうって分かってたし。男の前だけではいい顔するような人、どこの世界にもいるんですね」
ただ前にも思ったが、自分がどんな臭いなのかは気になる。さすがにドブの臭いはさせていないだろうとは思うが。
自分の腕を嗅いでいると、ベルタが少し憮然とした表情で言った。
「大丈夫ですよ。頭から丸呑みしたくなるくらい、とてもいい匂いです」
それは別の意味で大丈夫だとは思えないが、ベルタの冗談だとは分かっていた。
「よかったです」
笑って言ったが、彼女の顔は晴れない。亜佐よりもベルタの方が、エレオノーラの暴言に怒っているようだった。
どうしようかと頭をかく亜佐から、ベルタは視線を外した。すぐそこの窓から外を見やっている。
彼女の視線を追いかける。ここはどうやら玄関のそばらしい。玄関の前に大きなトラックのような車が停まっているのが窓から見えた。
その荷台には何も乗っていないが、もしかするとと亜佐は飛び上がった。「あぁ……」と情けない声を上げながらベルタの腕にしがみつく。
「あっ、あれっ、ピアノを運んできたトラックじゃないですか……!?」
「そのようですね」
「どこに運んだんでしょう」
「サロンにと、ロイリ様から仰せつかっています」
「サロン? サロンって何?」
「サロンというのは」
自分で聞いたくせに、長くなりそうな説明をベルタの腕を引いて遮る。
「とにかく行きましょう」
「……しかし」
「こっそり覗くだけ」
ベルタの手を取ってぐいぐいと引っ張っていく。搬入作業をしている吸血人に姿を見られるのは不味いだろう。玄関ホールへ続く扉をそっと開けて覗くと、数人の男たちが奥の大きな扉の部屋からぞろぞろと出てくるところだった。
「あそこがサロンですか?」
「そうです」
ベルタと同じ制服を着た女中ふたりが男たちのあとに続いて部屋を出て、彼らを玄関先で見送った。
どうやらもう搬入も調律も終わったらしい。
ベルタが亜佐の両肩を掴んでそっと後ろへ下がらせると扉を開いた。
女中ふたりは、タイミングよく現れたベルタとその後ろの亜佐を見て驚いたようだった。
「書庫へお連れするところでした」
「ああ、そうだったの。アサお嬢様、すぐにでも弾いていただける状態らしいですので」
何度か顔を合わせたことのある年配の女中が亜佐に笑いかけた。
「はい、ありがとうございます!」
勢いよく礼をして、そしてもう耐え切れなかった。サロンへ向かって走り出す。
扉を開いて中を覗き込んで、亜佐は叫んだ。
「ピアノだ!」
広々とした応接室のような部屋の、大きな窓のそばだ。よく見慣れたピアノが佇んでいた。
玄関ホールから笑い声が聞こえて、亜佐はようやく我に返る。恥ずかしくて赤面しているのか興奮して赤面しているのかもう分からない。
「触ってもいいですか……?」
部屋に入ってきたベルタにおずおずと聞く。
「あなた様のピアノです。お好きなだけ触って、お好きなだけ弾いてください」
「……ありがとうございます」
そっと触れる。蓋を開くと、白と黒の鍵盤が並んでいた。指を這わせる。大きさも長さも、亜佐の世界と変わらない。
違う発展を遂げた違う世界でも同じ形で存在しているこの楽器は、それだけ合理的で完璧な姿をしているのだろう。
ドから順に音を鳴らす。一ヶ月ぶりの懐かしい音だった。
「……指が全然動かないな」
昔、インフルエンザで一週間弾かなかった時でさえ指が動かなくなってしまった。今回は一ヶ月だ。きっとボロボロだろう。
椅子に浅く腰掛けて、頭に浮かんだワルツを静かに弾き始める。
指が絡まる、重たい。爪が少し伸びているようだ。時々かちかちと不快な音がなる。
それでも久しぶりに弾くピアノは、驚くほど亜佐の心を穏やかにした。
涙が滲んで鍵盤が見えなくなるが、楽譜も鍵盤の位置も頭の中に入っている。目をつむってでも弾ける。でも、もしこの頭の中の楽譜を忘れてしまったら? もう、二度と弾けなくなってしまうのだろう。
そこまで考えて、亜佐はすっかり帰る気がなくなっていることに気付いて苦笑した。
帰るかどうか決めるのは亜佐ではない。どんなに帰りたくてもその方法がなければどうにもならないし、どれだけここにいたくても、この世界の人たちが帰れというのなら帰らなければならない。
深く息を吐いて頭を振る。無駄なことを考えていないで集中しよう。
何か難しくて激しくて、頭の中が音符で埋め尽くされる曲を。
指を鍵盤に叩き付ける。視界の端でベルタが体を震わせたのが分かった。
酷い演奏だ。ミス、ミス、またミス。それでも頭は真っ黒に染まる。
どれくらい弾いたか分からない。突然走った指の痛みに、亜佐は「いたっ」と声を上げて手を引いた。
「アサ様?」
いつの間にかそばで木の椅子に腰掛けていたベルタが立ち上がった。彼女を見て、恥ずかしさを誤魔化すように笑う。
「指を攣りました……」
こんなこと初めてだ。指をさすりながら謝る。
「すみません。酷い演奏でしたね」
「とんでもございません。素晴らしかったです」
にこりと笑う。ちゃんと練習して、もう少しまともな演奏を聞いてもらわなければ。
「ベルタさん、欲しいものがあるんですけど」
ようやく痛みの引いてきた指をさするのをやめ、ベルタに体を向ける。彼女は意外そうな顔をして「何でしょう」と首を傾げた。そう言えば彼女に物をねだるのは初めてかもしれない。
「五線譜が印刷されている紙かノートか……もしなかったら、五線を引くための定規なんかがあれば欲しいです」
「かしこまりました。すぐに」
頭を下げてベルタは部屋を出ていった。誰かに頼んで、すぐに帰ってきてくれるだろう。
少し肌寒く感じて、腕を撫でながら窓の外を見る。すでに陽が傾いていた。弾き始めたときはまだ昼前だったはずだ。
額を押さえてから、亜佐は小さな声で呟いた。
「お昼ごはん……」