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16、同じ不安




 赤い水溜りの上に立っていた。

 赤い雨はねっとりと肌を伝い、体中を赤く染めている。

 ――あの人が好き?

 どこから声がするのかと辺りを見渡して、最後に水溜りを覗き込む。にっこり笑った亜佐がいた。

 ――あの人が好きなの?

「……誰の事?」

 ――好き? 好きなんでしょう?

「……ええ、好きよ」

 きっとロイリのことだろう。もしベルタやフレデリカ、アドルフの事だったとしても、その答えは変わらない。

 水溜りの中の亜佐は嬉しそうに笑う。

 ――そう、やっぱりね。(吸血人)を愛してるんだね。君は珍しい人間だね。

 満足そうに頷いて、水溜りの波紋と一緒に彼女は消えた。

「愛してる?」

 呟いて、空を見上げる。

 好きとは何が違うんだ?

 好きの気持ちが大きくなれば愛してることになるのだろうか。それとも別のものなのか。

 目の中に雨粒が入って手でこする。それから目を開くと、見えたのはベッドの天蓋だった。一瞬わけが分からずに呆然と辺りを見渡して、そしてここがクラウゼ家の客室だと思いだした。

 髪をかき上げる。カーテンの向こうはもう明るい。久しぶりに睡眠薬を飲まなくても熟睡できていたことに気付いた。

 昨日までは一度睡眠薬を飲まずに寝て、夜中にうなされて起きてから薬を飲むという生活をしていた。それが今日は、おかしな夢は見たが一度も起きずに朝を迎えることができた。

 窓を開けると朝方の冷たい空気が流れ込んでくる。こんなにすっきりと気持ちのいい朝は、この世界に来て初めてだった。

 ノックの音が聞こえて返事をする。入ってきたのはベルタで、彼女は珍しく起きている亜佐を見て少し目を大きくしていた。

「おはようございます、ベルタさん」

「おはようございます。今日はお早いですね」

「はい。怖い夢を見なかったんです。薬も飲んでません」

「そうですか。それはようございました」

 ベルタはそう言って、ほんの少し目を細めた。

 差し出してくれた水を礼を言って受け取る。一気に飲み干してすぐに、部屋の扉が小さなノックの音と同時に開かれた。入って来たのはロイリだ。起きている亜佐を見て、彼はベルタと同じように目を丸くした。

「ごめん、まだ寝ていると思っていた」

「いえ、構いません」

 首を横にぶんぶんと振りながら、亜佐は狼狽える。おかしい。なぜかロイリの顔を見ることができない。つい顔を俯かせて、そして上げられなくなってしまう。

「……朝食の準備をしてまいります」

 亜佐の様子を見てどう思ったのか、ベルタは一礼してさっさと部屋を出ていってしまった。

「アサ?」

 ロイリが近付いてくる気配がするが、やっぱり顔は上げられない。

「……怒ってる?」

「違います」

 首を振って慌てて否定した。まだ整えていない少し乱れた髪を、ロイリが弄ぶ。

「顔を上げてくれないとキスができない」

「ご、ごめんなさい」

 あんな夢を見たせいだ。愛しているかなんて、そんな事知らない、分からない。

 ロイリの指が顔を隠す髪をかき上げ、耳にかけた。きっと赤くなっている顔が丸見えだろう。

「あの、ええと」

 どうにか言い訳しようとしどろもどろに声を出すが、彼の指が耳に触れて言葉を切った。輪郭をなぞって頬に触れ、最後に顎に触れる。ゆっくりと顔をロイリの方へ向けられ、十数センチの距離で視線がぶつかる。

 ああ、と心の中でため息をつく。神様というものがいるのなら呪ってやりたい。どうして女を差し置いて、男である彼の顔の造形がこんなにも美しいのだろうか。

 恥ずかしさはいつの間にか吹き飛んでうっとりその顔を眺めていたせいで、迫ってきた彼の唇が触れた事に飛び上るほど驚いた。ベッドに移動するのかと思いきや、立ったままだ。

 亜佐は見上げるように顔を上げている。薄っすら目を開くと、ロイリはだいぶ腰をかがめている。腰痛になりそうだ。彼の舌を受け入れながら、ベッドに座ろうと彼の軍服のジャケットを掴んで少し引く。その途端、彼の腕が背中に巻き付き、強く抱き寄せられた。大きな手が後頭部を引き寄せ、深く繋がる。「んう」と呻き声を上げたが、彼は止まらない。

 長いキスだ。いつもより長い気がする。

 膝が震え出す。体から力が抜ける。必死にしがみついていたが、耐えきれずに膝がかくんと折れた。

 唇が離れ、ロイリが「おっと」と声を上げて腰を支えてくれた。

「ご、めんなさい……」

「いや、ごめん。無理をさせた」

 彼はゆっくりと亜佐をベッドに座らせると、その前に膝をついた。こうすると、彼のほうが少し背が低くなる。

 いつの間にか乱れていた呼吸を整えたいが、彼の視線が突き刺さる。観念してそっと視線を合わせると、ロイリは微笑んだ。

「今日は寝起きがよかったな」

「あっ、はい! 今日は怖い夢を見なかったんです。一度も起きずに朝までぐっすりでした」

 手を合わせて飛び跳ねるように報告すると、ロイリも同じように破顔した。

「そうか、よかったな」

 子供にするように頭を撫でられる。ずっと撫でているので、また少しずつ照れが戻ってくる。誤魔化すように聞いた。

「腰、大丈夫ですか?」

「どうして?」

「さっき、すごく腰をかがめていたから」

「ああ、そんな事で痛めるほど柔な鍛え方はしてないよ」

 それもそうかと納得する。彼は軍人だ。厳しい訓練を受けているのだろう。抱き締められた時の胸の厚さや力強い腕を思い出して、さらに恥ずかしくなってもうどうしようもなくなった。

 ロイリは笑いながら立ち上がる。

「それじゃあ、行ってくるよ」

「はい」

 立ち上がって、扉のそばまで彼を見送る。

 扉を開いて振り返って、ロイリは口をへの字に曲げてじっと亜佐を見下ろした。

「ロイリ?」

 彼は一度視線を廊下へやって、そしてまた亜佐に戻し、重たそうに口を開いた。

「俺の部下が二人、交代で屋敷を警護している。そいつらの内のひとりと、ベルタを必ずそばにつけるのなら、庭に出てもいい」

「本当ですか……!」

「ただし、だ」

 ロイリは立てた人差し指を亜佐の鼻先に近付ける。

「昨日した約束を忘れるな。無理をしない、危ない事はしない。いいな」

 突きつけられた彼の手を取ると、安心させるように握り締めた。

「はい、分かりました」

 ロイリはうんと頷いて口元に笑顔を作ろうとしたようだが、ぐにゃりと歪んだだけだった。不安気に俯いた赤い目を覗き込む。本当は、外に出て欲しくないのだろう。

 不安なら部屋にいると言おうか迷った時、ロイリは亜佐の手をぎゅっと力を込めて握り返して、そして離した。

「……もう、俺の不安を押し付けたりしないよ」

 ロイリは自分に言い聞かせるように言って、亜佐の肩をそっと引き寄せると両頬に音を立ててキスをする。

「行ってくる」

「……はい、行ってらっしゃい。お気をつけて」

 するりと頬を撫でて、ロイリは扉の向こうへ消えた。

 ロイリが見えない場所に行ってしまって、心臓をぎゅっと握られるような感覚が蘇った。危険な場所へ行って欲しくない。ロイリもきっと、同じような気持ちでいるのだろう。

 胸を手で押さえ、少しずつ不安を吐き出していると、目の前の扉がノックされた。数歩後ずさって、返事をする。

 入ってきたのはベルタで、その手に真っ白な花束を抱えていた。

「どうしたんですか? その花」

「バンドラー……この間、少し話をした庭師です。彼が、アサ様へと」

 驚いて声を上げる。花束を受け取ると、とてもいい匂いが鼻孔を満たした。

「体調がお悪いようだから、花で少しでも気が紛れたら、と」

 ああそう言えば、部屋から出れずにずっと窓から外を眺めていた時、何度か目があった気がする。亜佐にあてがわれた部屋は四階なので遠すぎて本当に目が合ったのかは分からなかったが、亜佐がつまらなさそうにしていたのがずっと見えていたのだろう。

 少し恥ずかしかったが、嬉しさのほうが勝った。

「ありがとうございます。バンドラーさんにも伝えておいてもらえますか」

「かしこまりました」

 ふと思い付いて花束を持ったまま窓に駆け寄る。窓を開けると、その音で少し離れた場所にいたバンドラーが顔を上げた。気付いてくれたようだ。

 大声で礼を言おうか迷ったが、迷惑になってはいけない。花束を抱え直して大きく頭を下げると、バンドラーは日焼けした顔を綻ばせて、帽子を取って頭を下げた。

 直接礼を言えたことが嬉しくて、スキップしそうな勢いでベルタの元へ戻る。

 彼女はテーブルの上に置かれた紙袋を見ていた。

「ああ、それ、昨日ロイリがくれたんです。同僚の方からお土産でもらったって。お菓子だそうです」

「さようですか。では、今日のお茶の時間に一緒にお持ちしましょう」

「お願いします」

 そう笑って言ってから、思い付いた。

「あの、ベルタさん。私ひとりでは食べ切れないから、分けっこしませんか?」

 ベルタは亜佐を見て、その真意を確認しようとしているようだ。

「ありがとうございます。では、午後にお出しして余った分を頂きます」

「いえ、一緒に食べませんか?」

「……一緒に?」

「はい。お茶の時間に、一緒に座って」

「いいえ。私はアサ様に仕える女中ですので、そのような事はできません」

 あっさりと断られてしまったが、それは想定内だ。彼女の腕を掴み、懇願するように見上げる。

「ひとりでお茶を飲むのは寂しいんです」

 ぐっと彼女が唇を噛んだのが分かった。

「ロイリには絶対に言いませんから」

 少しの間見つめ合って、ベルタは音を出さないように息を吐いたようだった。

「少しだけ、なら」

「ありがとうございます!」

 飛び跳ねて喜ぶ亜佐を、ベルタは何か珍しいものを見るような目で見ていた。

「では、花瓶と朝食をお持ちします」

「はい、お願いします」

 ベルタの背中を見送る。少し強引だったが、どうしても彼女とゆっくり話がしたかった。彼女の想い人を聞き出したい。

 あわよく聞き出せたとして、それがロイリだったとしても、どうすることもできないのだけど。

 亜佐は手に持っている花束に顔をうずめて、濃厚な花の匂いに酔いしれた。




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