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15、不埒な思い




 二十時を少し過ぎた。ベッドに座ってロイリを待つ。

 フレデリカと入れ替わるように彼が帰ってきたとベルタから聞いていた。夕食を食べてシャワーを浴びた彼がもう来てもおかしくない頃だ。

 ノックが聞こえて顔を上げる。ロイリとベルタのノックの違いはもう覚えている。亜佐の返事を聞いて入ってきたのは、やはりロイリだった。

「おかえりなさい」

 笑顔を作ったつもりだったが、頬が引きつって慌てて顔を俯ける。

「ああ」

 小さな返事が聞こえた。早くいつものように電気を消して欲しい。

「アサ」

 名前を呼ばれ、恐る恐る顔を上げる。まだ部屋は明るい。自分がどんな顔をしているのか全く分からない。顔を見られたくなかった。

 ロイリは亜佐を見ずに、手に持っていた紙袋を持ち上げた。

「これ、土産」

「……何ですか?」

「出張に出ていた同僚にもらった。人気のある菓子らしい」

 甘いものは好きだ。素直に喜ぶ。

「ありがとうございます。あの……後で一緒に食べませんか?」

 意を決して聞いてみたが、彼の顔を確認する前に部屋の明かりは消えてしまった。

「いや、いい。夕飯を食べたばかりだから」

「そう、ですか」

 すげなく言われ、それ以上何も言えなくなった。

 のそりのそりと枕元に移動してテーブルランプに手を伸ばして、しかし明かりをつけるのはやめた。今日も月はとても明るいし、きっと酷い顔をしている。カーテン越しの月明かりでぼんやり見えるロイリは、亜佐の頬を指の背で撫でて、少し間を置いてから唇を合わせた。

 合間に息を吸うのも随分うまくなったと思う。いまだに心臓はうるさいくらい強く鳴り、彼に聞こえないかという不安は残ってはいるが。

 唇が離れて体も離れる。ロイリのキスの後の気だるさも、だいぶなくなったようだ。こうやって少しずつ慣れていって、少しずつ亜佐に対する執着もなくなっていくのだろう。

 小さく息をつく。いつもは終わるとすぐに出ていってしまう彼が、今日はなかなか立ち上がろうとしなかった。

「……体調はどうだ」

 暗闇に慣れた目に映るのは、表情のない横顔だ。

「悪くはありません。だいぶ良くなっています。そろそろ気分転換に庭を歩くくらい駄目ですか?」

「駄目だ」

 冷たく一蹴されてしまった。顔を俯かせる。

 息を大きく吸い込んでから止める。息遣いで泣いていることを悟られないようにするためにだ。この暗さならきっと、涙など見えないだろう。

 俯いた視界の端で、ロイリがこちらを見ているのが分かった。

 彼の手が伸びてくる。キスをする前と同じように指が頬に触れようとして、亜佐は思わず顔を背けてその指から逃げた。今触れられると泣いているのがばれてしまう。

 ロイリの手が宙で止まって、ゆっくりと下ろされる。

「……おやすみ」

 返事をしようとしたが、声が出なかった。出たとしても、きっと震えた泣き声だっただろう。

 黙ったままの亜佐に背を向けて、ロイリはベッドから足を下ろす。いつも彼はベッドを降りてから、一度も振り返ることなく部屋を出て行く。今日もそのまま、亜佐を見ることもなく出ていくはずだ。もう大丈夫だろうと亜佐は両手で顔を覆った。彼が出ていったら、少しだけ声を上げて泣こう。

 扉が開く音がした。廊下の光が暗い部屋に差し込んで、それからその光が細くなって、止まった。

「……アサ」

 細く名を呼ぶ声がして体を震わせた。

 唇をぎゅっと引き結ぶ。どうしてこんな時に限って振り返るんだ。

 扉が閉まって、近付いてくる足音がした。テーブルランプが灯ってベッドが揺れたが、顔は上げられない。

「泣いているのか?」

 目の前で声がする。首を横に振った。

 顔を覆う手首を掴まれ、抵抗したが呆気なく顔から引き剥がされる。目が合って、彼はその顔を歪ませた。

「ロイリ……」

 苦しげに彼の名を呼ぶ。

「頭を撫でて……」

 目を見開いたロイリが、掴んでいた両手を離した。だらりと垂れ下がった彼の手が、きつく握り締められたのが分かった。

「……アサ、接触は最低限にしよう」

 まるでどちらが苦しいのか競争しているようだ。絞り出すようにロイリは続ける。

「欲しいものがあったら何でも買ってやる。だから、絶対に部屋から出るな。ピアノは隣の部屋に運ばせる。少しでも吸血衝動の間隔が空いたら、保護施設に連れて行く。そうすれば……そうしなければ」

 亜佐は首を横に振る。そんな事は嫌だ。何もかもが嫌だ。

「お前を傷付けたくないんだ。お前を傷つける奴らから遠ざけたい。……これ以上お前を」

 言葉を切って、ロイリは亜佐の首筋に手を伸ばした。指が微かに触れたのは、以前ロイリが噛み付き、もう完治して痕すら残っていない場所だ。

「こんなに小さくて細くて脆くて、銃もナイフも扱えない。俺がこの首を掴んで軽くひねるだけで、それだけで簡単に死んでしまうんだろう?」

 首を横に振る。

「もっと俺を怖がってくれ」

 強く強く、首を振る。

「怖くないです」

 どうして怖いなんて思えるだろうか。

 命をかけて守ってくれたり、煙草をやめようとしてくれたり、今もこうやって傷付けないよう彼なりに不器用に守ろうとしてくれている。

 それをどうして。

「全然怖くなんてない」

 頬に触れる。キスがしたい。

 血液がどうとか、体液がどうとか、そういうのではなく。ただ彼とキスがしたい。

 顔に出ただろうか、それとも亜佐がそんなことを考えているなんて思い付きもしないだろうか。

 ロイリは一瞬目を伏せてから、亜佐をきつく睨んだ。

「なら怖がらせてやる。俺がお前にどんな不埒な思いを抱いているか、教えてやろう」

 彼の頬に触れていた左手を掴まれた。ぎりぎりと握り締められ、痛みで首をすくめる。そのまま肩を突き飛ばされ、亜佐の体は枕とクッションの間に沈んだ。

 手首が痛い。歯を食いしばってロイリを見上げたが、その表情は変わらない。

「こうやって押さえつけて、抵抗できなくして」

 唇が触れそうなくらい顔が近付いた。

「全身にキスをしたい、舌を這わせたい。どんな味がするのか確かめたい」

 寝間着の上から手のひらが体を這う。

「俺のせいで苦痛に歪む顔を見てみたい」

 彼の手が腹に触れる。キラキラと赤い目が光を反射した。

「この体に、俺の欲望を捩じ込みたい」

 吐き捨てるようにロイリは言った。

 その意味を知って、亜佐は笑う。

「したらいいです」

「……アサ」

「この間あなたが暴走した時も、私は拒否しませんでしたよ。好きにすればいい」

 手首を掴む手が緩んで、乱暴に払い除ける。自由になった両手で彼の胸ぐらを掴んだ。いや、誰が見てもしがみついたようにしか見えなかっただろう。

「だから、お願い……私を見捨てないで」

 声が震えた。全て吐き出すまで泣くまいと思っていたのに、なんて弱い涙腺だろうか。次々と流れ落ちる涙がこめかみを伝って髪に染み込む。

「私にはあなたしかいないんです」

「……ベルタもいる」

「ベルタさんはとても良くしてくれるけど、それはあなたの命令だからです。私を必要としてくれるのは、元の世界でもこの世界でも、あなただけなんです」

 「そんな事はない」と、ロイリが囁くような声で言う。ロイリは亜佐に身内がいないことをまだ聞いていないのかもしれない。さらに強くしがみつく。

「ちゃんと言うことを聞くから、部屋で大人しくしてるから、だから、だから、見捨てないで……あなたに嫌われることが、一番怖い」

 執着しているのは一体どちらだ。

 くしゃりとロイリの顔が歪んだ。泣くのかと思ったが涙は流れない。その代わりに震えた息が細く吐き出され、彼はようやく――纏っていた拒絶を脱ぎ去った。

「見捨てたりしない。嫌いになったりなんかしない……」

 絞り出すように言って、ロイリは亜佐の腕を引き体を強く掻き抱いた。

「アサ」

 熱のこもった声が名前を呼んで、大きな手のひらが後頭部を撫でる。ずっと待っていた感触だった。ずっとこうして欲しかった。

「怖いんだ。お前がいなくなるのが怖い。お前を守りたいのに、同じくらいお前の血を飲み干してしまいたくて仕方がない」

 とても早い心臓の音が聞こえる。

「俺がお前を殺してしまうかもしれない。お前のそばにいると、自分で自分をコントロールできなくなるんだ。どうすればいいのか分からない」

 押し潰されそうなくらい抱き締められて、息を大きく吸ってそれを耐える。

「ロイリ、大丈夫です」

 大きな背中に腕を回して、彼に負けないくらい強く抱き締め返した。

「フレデリカさんの……お医者様の言う事をちゃんと守ったら大丈夫。そんなに難しいことじゃないです。毎日ちゃんとご飯を食べて、一日二回、その……ちゃんとキスをして、禁煙はゆっくりしていきましょう」

「……うん」

 弱々しいが、返事が聞こえた。

「医務室にも私の血が置いてあるし。あと、私、無理はしないように気を付けます。危ないこともしません。できるだけあなたに心配をかけないように頑張ります」

「うん」

「ロイリも我慢したりとか私に遠慮したりしないで、何かあったら言ってください。頑張りますから、出来る限り」

 ロイリの腕が緩んで、亜佐の顔を覗き込む。左手がまだ腰に回されているせいで、顔が近くて表情が分かりにくい。ただ、この一週間ロイリが亜佐に向けていた冷たい顔ではない事だけは感じ取ることができた。

「分かった」

 少し上擦った声色で、ロイリはそう返事をした。

 力の抜けた体が亜佐にもたれかかる。腕を回してそれを支えて、ようやく仲直りができたのだと知った。ようやく気持ちが通じた。

 ロイリがしてくれたように、彼の後頭部を遠慮がちに撫でる。数分好きにされていたロイリが、体を持ち上げ亜佐の顔を少し気まずそうに見た。

「……俺よりお前のほうがしっかりしてるな」

「そんな事ありません。私のほうがずっとウジウジ泣いてますよ」

「……泣かせてごめん」

 彼の手がゆっくりと頭を撫でる。丁寧に丁寧に、額や頬も。

 大人しく撫でられて、その手が止まって彼を見上げると、真摯な瞳が亜佐を見下ろしていた。

「アサ、俺にはお前が必要だ」

 頷いて、彼の胸に顔を寄せる。

 その言葉が全身に染み込んでいく。

 自分だけのために生きてきた人生に他人が割り込むことが、こんなに心地いいだなんて知らなかった。

「……そろそろ帰るよ」

 もう少しそばにいてと、咄嗟に出かけた言葉を呑み込んで「はい」と答えた。

 見上げた亜佐の唇に、触れるだけのキスが降ってきてすぐに離れる。

「足りなかったですか……?」

 驚いてそう尋ねると、ロイリは笑った。

「……少し」

「だったら、ちゃんと」

 続きの言葉は、深く繋がって入ってきた舌に器用に絡め取られてしまった。求め合って、絡め合って、口角から唾液が滴る。顎を濡らす液体を舐め取ってから、ロイリはようやく亜佐から離れた。

「帰るよ」

「はい……」

 ベッドから降りたロイリを、ふらふらとしている腰を奮い立たせて慌てて追いかける。

 扉を開けた彼が振り返って、亜佐の肩に触れた。顔が近付いてまたキスをされるのかと身構えたが、彼は亜佐の頬に自分の頬を当てちゅと音を立て、さらに反対側にも同じようにし、体を離して微笑んだ。

「おやすみ」

「お、やすみなさい」

 部屋の扉が閉まる。ひとりになった部屋で、頬に手を当てた。

「映画でよく見るやつだ……」

 仲の良い友人同士や恋人、家族間でする挨拶だったはずだ。

 おかしな感動を噛み締めながらベッドに近付いて、乱れたシーツと枕を見て今更耐えられないくらい恥ずかしさがこみ上げてきた。

 ベッドに潜り込んでじっと息を潜め、彼が触れた頬に手を当てる。

 仲直りできた。それがとても嬉しい。

 必要だと言ってもらえた。

 執着と依存をこじらせたこの期間限定の関係が終わらなければいいのにと、亜佐はそんな不謹慎なことを考えていた。




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