14、未練とは
フレデリカに二日は部屋から出るなと言われた日から、もう一週間たった。完全回復とは言えないが、意識を失う程のめまいはなくなった。吐き気もない。
夜は相変わらず悪夢を見て、夜中に睡眠薬を飲んで眠るというのが習慣になってしまっていたが、それでも体調は良くなってきていた。
それなのにロイリは、亜佐が部屋から出ることを禁止していた。
彼は相変わらずキスの時以外亜佐に触れようとしない。必要以上の会話もなかった。
ベルタは話しかければ返事をしてくれるが、話を振ってきたりはしない。
窓枠に肘をついて、一日中窓の外を眺めるくらいしかやることがなかった。毎日少しずつ口数が減っていく。声の出し方を忘れそうだ。
見かねたベルタが様々な本を持ってきてくれたが、字を読むと頭がクラクラし始める。見たこともない文字なのになぜか読める文章を読んでいると、頭が混乱し始めるのだ。
今日は昼過ぎからフレデリカと、軍で人間の研究をしているという研究員の男がやって来て、亜佐は飛び上がるほど喜んだ。堅苦しい研究員との事務的なやり取りだったが、誰かと話をするのが嬉しかった。
研究員は亜佐が元いた世界の話を細かく聞いて、そして研究のためにと亜佐の血を採ろうとしたが、フレデリカに後日にしろと強く言われてすごすごと帰っていった。
「全くあの男、腕の傷が治るまで採血は禁止だといったのに。付いてきてよかったわ」
包帯を外しながら怒るフレデリカに、笑いながら礼を言った。
「あなたは嫌なことを嫌と言えない性格でしょう。駄目よ。都合よく利用されてしまうわよ」
「……肝に銘じておきます」
元の世界でも何人かの大人に言われたことがある台詞で、思わず苦笑いした。亜佐の傷の具合を見て、フレデリカはようやくしかめた顔を笑顔にした。
「うん、順調に治っているわ」
包帯を巻き直し体調の話をしてから、フレデリカの本題が始まった。子供の話だ。
この間軽く見せてもらった写真が三倍ほどに増えていて、それを見ながらフレデリカが惚気る。それだけだったが、亜佐は楽しくて仕方がなかった。
いつものように亜佐の後ろに控えていたベルタは、途中でお茶のおかわりを持ってくると言って出て行ってしまった。悪いなと思いながらも、お喋りは止まらない。
元々子供は好きだ。顔見知りの子供ならなおさら。
フレデリカは子供たちにベタ惚れのようだった。仕事が忙しくかまってやれない分、甘やかして甘やかしてしているようで、傍から見ると何とも微笑ましく、羨ましい。
最後の一枚を見て、緩みっぱなしの頬をさらに緩ませる。双子の赤ちゃんが手を繋いで座っていた。何の気なしに裏返す。そこには双子の名前と年齢が書いてあった。声に出して名前を読んでみる。
「あら、よく読めたわね。発音を間違えられる事が多いのよ」
「私もどうして読めるのか分からないんです」
じっくり眺めた写真をフレデリカに返す。
「全然知らない文字なのに読めるんです。話しているのも私の国の言葉なはずなのに、この世界の人達に通じているのがずっと不思議で不思議で……」
「落ちてきた人間は皆そう言うわね。まるでここで暮らしていくのに不自由ないよう、言語野が書き換えられているみたい」
写真をまとめてポケットに入れ、フレデリカは少し言い淀んでから亜佐を見た。
「両親がいないのね」
コクリと頷く。両親が亡くなったことも、叔母とは不仲で家を出てからほとんど連絡を取っていないことも、全て話した。
「降ってくる人間には、身寄りがない、家族のいない人が多いのよ。……まるで元の世界に未練がない人を集めたみたいに」
「……未練はありますよ」
身寄りはなかったが、娘のように可愛がってくれたピアノ教室の先生がいた。叔母とは反りが合わなかったが、従兄妹は仲良くしてくれ家を出たあともよく連絡をくれた。学校以外は朝から晩までバイトをしていた亜佐を見捨てずにいてくれた大切な友達も、亜佐の境遇を知った上でとても良くしてくれた大学の先生も、みんな大好きだ。突然行方不明になった事をきっと心配してくれているだろう。
そう、心配してくれているはずだ。
彼らに会えなくて寂しい。
無意識に口元を手で覆う。
――それは未練、なのだろうか。
未練とは、どうやっても断ち切れないもののはずだ。ここに来てから、一体何回彼らの事を思い出したか。まだ帰る方法は見つかっていないと聞かされた時に頭をよぎって、それからは?
逆もまた然りだ。彼らには彼らの生活があって、絶対に必要な人がいて。
そう、亜佐がいなくても、彼らはいつも通りの生活を送っている。心配はきっとしてくれているだろうが、亜佐がいなくなったことで生活が破綻したりはしない。亜佐は彼らの、絶対に必要な人ではないからだ。
駄目だ、と頭の中で叫んだ。悪い癖だ。すぐに思考がネガティブへと飛んでいき、あちこちに飛び火して暴走する。そんな事は考えなくていい。心配してくれているだろう。それだけで充分なことだ。彼らに会うために、元の世界へ戻らなければ。
「……アサ。アサ、大丈夫?」
フレデリカの声に、ようやく思考が帰ってきた。額に触れる。おかしな汗が出ている。
「大丈夫です。元の世界の人たちのことを思い出して、ちょっと寂しくなって」
「そう……」
彼女は身を乗り出して、膝の上に置いている亜佐の手に自分の手を重ねた。
「戻れるって信じていましょう。私たちも、頑張るから」
亜佐はにっこり笑って頷いた。
お茶のおかわりをベルタが持ってきてくれて、それを飲み干した頃にフレデリカが時計を見上げる。つられて亜佐も顔を上げると、時計はもう十七時少し前を指していた。フレデリカは十六時には帰ると言っていたのに、もう一時間近く遅くなってしまっているようだ。
「ごめんなさい、こんなに遅くなってしまって」
「いいえ、私のせいよ。私こそ子供の話を聞いてもらえてとても楽しかったわ。ありがとうね、アサ」
「いいえ」
フレデリカを見送るために立ち上がる。まだ足が震えていてうまく歩けない。
「それじゃあ、また傷の具合を見に来るわ」
「はい。お願いします」
涙は我慢していたし、笑顔も作れたはずだ。それなのに、フレデリカは少し目を開いて、亜佐の頬に触れた。
「アサ、大丈夫?」
目が赤いだろうか、顔が引きつっていただろうか。彼女の手から逃れるように一歩下がって、表情を隠すように口元に触れた。
「ごめんなさい。久しぶりにいっぱいお喋りをして楽しかったから、少し寂しくて」
「……もう少しお喋りしましょうか」
笑って亜佐の手を取ったフレデリカに、首を横に振った。
「いいえ、早くお子さんのところに帰ってあげてください。小さな赤ちゃんのいるお母さんを、私が独り占めするわけにはいかないですから」
少しの間押し問答をして、折れたのはフレデリカだった。
「近い内にまた来るからね」
「はい、待ってます」
「ベルタ、玄関まで送ってくれる?」
「かしこまりました」
フレデリカはもう一度亜佐の顔を覗き込み、少し心配気に眉を垂らした。
「じゃあね、アサ」
「はい、お気をつけて」
手を振ってフレデリカが出ていき、そしてベルタも後に続いた。
ひとりきりになった部屋で、ふらふらと後ずさってその場に座り込む。涙が決壊した。
何に震えて泣いているのか分からない。
フレデリカが帰ってしまって寂しいせい?
それとも、元の世界へ戻ったって、誰も自分を必要としてくれない事に気付いてしまったせい?
ずっとひとりで生きてきた。生きていくので精一杯だった。なので人から必要とされたって、重荷にしかならないと思っていた。
「ロイリ……」
しかしこの世界で、それは違うと知った。亜佐がいなければ死んでしまう人がいる。彼が欲しいのは亜佐自身ではない事は分かっているが、求められることの気持ちよさを知ってしまった。必要とされることは、こんなにも居心地がいい。
両腕で体を抱き締める。
こんな気持ちは経験したことがない。彼は命の恩人で、ファーストキスの相手で、親鳥で。
それ以外に何がある。
それなのに、触れて欲しい。
笑顔で名前を呼んでほしい。
頭を撫でて欲しい。
彼がそうしてくれるのなら、もう、元の世界に戻れなくても。