11、執着心
慌てた様子のフレデリカが屋敷にやって来たのは、亜佐がようやく泣き止んで落ち着き始めた頃だった。
彼女に駆け寄りロイリの傷の状態を聞く。彼がフレデリカの医務室を訪れた頃には、血は完全に止まって傷も塞がりかけていたと聞いて、亜佐はようやく人心地がついた。
フレデリカは服を乱して泣き腫らしている亜佐を見て顔を青くしたが、全て未遂な上にその体に点々とついている血が全てロイリのものだと知って、一応胸を撫で下ろしたようだった。
首の傷はほんの少し腫れていたが、一週間もすれば跡形もなくなる程度の傷らしい。腕の傷も一緒に見てもらったが、こちらも順調に塞がってきているとのことだ。
「私が心配なのはメンタルの方よ」
亜佐の部屋に移動して、血の付いた洋服を着替えている亜佐を見ながらフレデリカが言った。亜佐が顔を洗っている最中に、ベルタからその錯乱ぶりを聞いたらしい。フレデリカの斜め向かいのソファに腰を下ろす。
「悪夢を見るみたいね。血が怖い? 吸血人が怖い? クラウゼ大尉が怖い?」
「……ロイリが死んでしまうことが怖い」
フレデリカに夢の内容を話す。合点がいったらしい彼女は、腕を組んでうぅんと唸った。
「軍人って、すごく危ないお仕事ですよね? ロイリは強かったけど、でも……不安で」
「……まるで軍人に恋をした女の子みたいね」
フレデリカが意地悪気な笑みを浮かべて言うので、亜佐は少し声を出して笑った。
「恋はしてません」
「あら、意外とさっぱりね」
「だってまだ会って三日目ですよ。すごく素敵な方だとは思いますけど」
「日数なんて関係ないのよ。人は一目惚れができる生き物なんだから。二、三日あれば、余裕で人を愛することができるのよ」
そう笑うフレデリカは、一目惚れをしたことがあるのだろうか。それは、ロイリとの婚約を破棄したことと関係があるのだろうか。
その時、亜佐の後ろでずっと黙っていたベルタが声を上げた。
「ロイリ様は、アサ様に……好意を抱いていらっしゃるのではないでしょうか」
驚いてベルタを振り返る。嫌われているとは思っていないが、どこをどう見たらそう見えるのか。
フレデリカがもう一度唸る。彼女に視線を戻すと難しい顔をしていた。
「確かに彼は今アサがいないと死んでしまうわけだから、アサがとりわけ……女神さまみたいに見えてるんでしょうね」
「んっ、く」
飲んでいたお茶を危うく吹き出すところだった。辛うじて飲み込んで少しむせて、ベルタに背中を撫でてもらいながらフレデリカを見上げる。
「飲血衝動も体液を摂取している時の高揚感も異性に恋焦がれている時の衝動に似てるって言うし、ロイリもアサへの感情をそうだと錯覚しているんじゃないかしら。恐らく惚れた腫れたじゃなくて、アサに対する執着心だと思うわ。飲血衝動が落ち着いてきたら、その感情も徐々に落ち着いてくるでしょう」
フレデリカの説明にベルタは「はい」と返事をしたが、見上げたその顔は少し不服そうだ。
とにかくひとつ言えるのは、ロイリが亜佐に恋をしているかしれないという話よりも、執着しているという話のほうがしっくりくるということだ。
「昨日、ロイリに言われました。小動物みたいだって。好意を抱いているどころか、人間にすら見られてませんよ」
一拍置いて、フレデリカが大声で笑いだした。
「それに、最初は私のこと十二歳だと思っていたらしいし」
「十二歳! そりゃないわ!」
笑いが引かないらしいフレデリカは、ソファの肘掛けを叩きながら腹を押さえている。
「確かにあなたたち黄色人種は若く見えるけど、十二歳はないわよ! 十八くらいでしょ?」
「ぴったり正解です」
「あはは、本当にそっち方面は駄目な男ねぇ」
元婚約者のフレデリカがそう言うのなら、やはりロイリは女関係に弱いのだろう。
笑い続けるフレデリカの声に混じって、部屋の扉をノックする音が聞こえた。この部屋を訪れる人物など限られている。フレデリカの声に負けないように「はい、どうぞ」と声を上げた。
扉を開いたのはやはりロイリだった。時計を見る。まだ十八時前だ。軍服を着ているので、帰ってきてすぐにここに来たのだろう。
「お帰りなさい」
立ち上がって、彼に駆け寄る。傷がしっかり治っているのか心配だった。
「ロイリ、傷は……」
腕に触れると、ギクリと強張ったのが分かって慌てて手を離す。まだ痛みがあるのかもしれないとロイリを見上げると、彼は唇を引き結んだまま軍服の袖を少し捲り上げた。
「もうすっかり塞がってる。痛みもない」
白い肌の上に赤く盛り上がった傷がある。亜佐の肩越しにフレデリカが覗き込んで、無遠慮に傷に触れた。
「もうちょっと腫れが引くはずよ。さあ、座って話しましょ」
フレデリカは亜佐の肩を抱いてソファへ誘った。少し遅れてロイリも亜佐の斜め向かいのソファに座って、腹の上で指を組んで少し顔を俯かせる。
その様子を見て小さくため息をついたフレデリカが話し始める。今回ロイリが暴走した原因だ。
初めてロイリが亜佐の血を飲んだのは二日前の昼過ぎ。その次にキスで体液を摂取したのは昨日の夜。三十時間ほど空いたのに、今回は二十時間ももたなかった。
「恐らく初めに三十時間もったのは、極度の緊張で神経が張り詰めていたせいだと思うわ。色んな脳内物質が垂れ流しの状態。朝ご飯は食べた?」
「食べた」
「昼ご飯は?」
ロイリは黙って、時計を見上げた。
「遅くなったがしっかり食べた」
「それよ」
フレデリカに指を差され、ロイリは「遅くなるのも駄目か……」と深いため息をついた。
「吸血衝動と三大欲求……食欲、性欲、睡眠欲は関係してるから。二日経って緊張の糸が切れて、そんな時に空腹が長く続いてタガが外れたんでしょう。他に何かストレスになるような事はあった?」
ロイリは視線をふらりと斜め下にやる。何かないか思い出そうとしているのかと思ったが、フレデリカは鋭かった。
「隠さないで言って」
視線がフレデリカに戻る。
「私に隠し事できると思わないで。何年来の付き合いだと思ってるの」
ふたりは少しの間見つめ合う。折れたのはロイリだった。
「……禁煙」
驚いてロイリを見る。彼は亜佐を見ない。
大丈夫だと言ったのにと声を上げようとしたが、それよりも先にフレデリカが声を荒げた。
「馬鹿じゃないの! 一日に一箱も二箱も吸うヘビースモーカーが、いきなり禁煙なんてできるわけないでしょ!」
その声に体を震わせて驚いたのは亜佐だけで、当のロイリは少し目を細めただけだった。亜佐はビクビクと口を挟む。
「フレデリカさん、違うんです。私が煙草が苦手って言ったから、それできっと無理して……」
「違う」
ロイリが亜佐の声を遮った。
「ずっとやめたいと思っていた。ちょうどいいと思ってやめただけだ」
何か叫びかけて、フレデリカは前のめりになっていた体をソファに預けて額を手で覆った。
「もう、何なのあなた達ふたり。惚気はもういいわ。お腹いっぱい」
大げさな動作で両手を上げて肩をすくめて、フレデリカは首を振った。
「とにかく、ロイリ。禁煙は禁止よ。もう少し体が亜佐の体液に慣れて精神が落ち着いてから、私の指導のもと始めてちょうだい」
「……分かった」
「あと、体液の摂取は一日二回。朝出かける前と、夜帰ってきた後よ。当分の間早めに帰れるようにして。私からもマレク大佐に言っておくから」
「了解」
返事をしたロイリに、亜佐は音を出さないよう深く息をついた。そんな亜佐をフレデリカが振り返る。
「アサ。念のため、あなたの血液を少しだけ医務室で保管しておくわ」
「はい」と返事をした亜佐に、ロイリが眉をしかめる。
「大丈夫なのか? 今の状態から血を抜いて」
「大丈夫なわけがないでしょう。アサ、ただでさえ少ない血を抜くから、二日は部屋から出ないで、できるだけベッドの上で過ごしてほしいの。……本当はもう少し血液量が戻ってからするつもりだったんだけど、緊急事態よ。このままじゃあなた達どちらかが死んでしまうわ。許してね」
「構いません。私は大丈夫です」
ロイリは何か言おうと口を開いたが、亜佐の返事を聞いて口を閉じた。
二日安静に過ごすだけで、万が一の時のための血液を確保することができる。それさえあれば、軍の施設の中でタガが外れてそうになっても、わざわざ帰ってこなくても医務室で摂取することができるのだ。
フレデリカは持ってきていた鞄を探ると、注射器が何本か入ったケースを取り出した。
「さ、ロイリとベルタ、少しの間出ていってちょうだいな」
「……分かった」
ロイリが立ち上がる。じっと見下ろす視線に気付いて亜佐が顔を上げると、途端に視線を逸らされた。
「……フレデリカ、晩飯食っていくか?」
「ありがとう、でも遠慮しておくわ。子供たちが待ってるから」
「そうか」
ロイリが部屋から出ていく。頭を下げてからベルタも出ていって、静かに扉が閉まった。
フレデリカが遠慮のない大きなため息をついた。
「相当参ってるみたいね、ロイリ」
こくりと頷く。視線がほとんど合わなかった。少し心配しすぎたのだろうか。嫌われてはないだろうか。
彼女はガーゼに消毒液のようなものを染み込ませながら、もう一度ため息をついた。
「あの人は、元々とても理性的な人よ。自分の感情を切り離して物事を考えられる人。だからこそ、今回のことであれだけ混乱しているのよ。理性で抑えきれない欲望に取り憑かれて、下手をしたらあなたを自分の手で殺していたんだから」
亜佐の袖を捲くったフレデリカが、腕を消毒液で拭う。その手が注射器を取ったのを見て、顔を背けて目をつむり、彼女の声だけに集中した。
「痛いわよ」
少し遅れてちくりと腕に痛みが走る。結局注射器三本分の血を取られ、血がぷくりと浮く皮膚にガーゼが貼り付けられた。
抜かれた血を見てふらふらと頭が揺れ始めて、亜佐は目をつむり気を紛らわせるように話し出す。
「この世界は、女の人も強いんですか?」
「精神的に? 肉体的に?」
「肉体的に。ベルタさんが、鍵のかかった頑丈そうなドアを斧と足で蹴破ったから……」
わははとフレデリカが大声を上げる。本当によく笑う人だ。
「ベルタは特別よ! あの子は元軍人だもの」
えっ、と言葉を詰まらせる。
「軍にいた期間は短かったけど、ロイリの隊にいたからなかなかの手練だと思うわよ」
「そう、だったんですね……」
頭の中でロイリの軍服をベルタに着せてみる。うん、よく似合う。ため息が出るほどに。
「あなたの警護も兼ねてベルタをそばにつけていると思うわ。武装してるはずよ、彼女」
そんなこと全く知らなかった。
「どうして軍を辞めてしまったんですか?」
「元々家族が反対してたみたいでね。家の事情もあって、稼ぎのいい女中になったみたいね」
「それじゃあ、ちょうどロイリのお家が女中を募集していたんですね」
「私はロイリのそばにいられるようにここを選んだのかなって思ってる」
目を丸くしてフレデリカを見る。
「それって……」
「彼女、ロイリに惚れてるんじゃないかな」
声を潜めて、フレデリカは内緒話をするように囁いた。
そんな態度をとっていただろうかと考えて、それどころか眉をひそめる以外の表情を見ていないことに気付いた。
「あー……ロイリから聞いたんでしょ? 私とロイリが婚約していたって」
「えーと、はい」
何となく気まずくて頬に触れながら返事をする。
「婚約を破棄して、すぐだったのよ。彼女がここで働き始めたの。私っていう邪魔者がいなくなって本気を出したのかと思っていたのだけど……」
その時、部屋をノックする静かな音が聞こえて、内緒話をしていたふたりは驚いて顔を上げた。フレデリカが唇に人差し指を押し当てる。
「さっきの、内緒ね。確証のある話じゃないし」
うんと頷く。内緒話をした罪悪感を抑え込みながら、亜佐は扉に向かって「どうぞ」と声をかけた。静かに入ってきたのはベルタだった。
声を抑えて話をしていたが、扉の向こうまで聞こえていなかったか心配になる。
「アサ様、お食事の準備ができました。こちらにお持ちします」
いつもと変わらない無表情で言うベルタに、亜佐はお願いしますと笑顔を作った。
「じゃあ私はそろそろ帰るわ。あぁ、アサに子供の自慢をするつもりだったのに」
フレデリカは笑いながら、白衣のポケットから写真を取り出した。すました顔で写っているのは、男の子がふたりと双子と思われる女の赤ちゃんだった。彼女にそっくりのくりくりした赤毛の双子は、それはそれは可愛らしい。
「双子ちゃんですね! 可愛い……!」
「でしょう!? もうほんとにね、すっごく可愛いのよ! お兄ちゃんふたりももうメロメロで」
「フレデリカ様」
惚気ようとした声を遮ったのは、ベルタだった。
「車を玄関に回しています。早く可愛らしいお子様の元へ帰って差し上げてください」
少しその物言いに棘があるような気がしたのは、先程のフレデリカの話を聞いたせいだろうか。フレデリカは声を上げて笑ってから、写真をポケットに戻した。
「そうね。また話を聞いてちょうだい、アサ」
「はい。写真も見せてくださいね」
「ええ」
立ち上がって手を振ったフレデリカに頭を下げてから笑顔を向ける。彼女は笑顔を返してくれると、扉のそばに立つベルタに近寄って話しかける。少し落とした声での会話はほとんど聞こえなかったが、「鉄分」や「安静に」という単語が聞こえてきて亜佐の話をしているのだと分かった。
フレデリカが手を上げて、ベルタが頭を下げる。
「じゃあねぇ、アサ。ゆっくりと動くのよ。倒れたら大変だからね」
「分かりました。フレデリカさんもお気を付けて」
手を振って彼女は部屋を出ていった。
ベルタが扉を見つめている横顔が見える。その顔が、見たこともないくらい――しかめられていて。
ギクリと体を震わせる。
彼女はそのまま目を伏せて、亜佐を振り返った。
「アサ様」
「はい」
先程の顔は見なかったことにして、声が裏返らないように返事をする。
「フレデリカ様の子供の自慢に付き合っていたら、一日が終わってしまうのでお気を付けください」
「気を付けます」
笑いながら答えた亜佐をじっと見てから、ベルタは扉を開いて外に出て、そばに置いていた食事の乗ったワゴンを引いて戻ってきた。テーブルへ移動する。少しフラフラする。貧血か、それとも精神的なものか。
料理を並べ終わったベルタが頭を下げた。
「ごゆっくりお召し上がりください」
「ありがとうございます、いただきます」
亜佐の言葉に一礼して、ベルタは部屋を出ていった。フォークを左手に取って、少し考える。
ロイリはフレデリカに未練はないと言っていた。フレデリカにも、ロイリに未練があるようには亜佐には見えない。ベルタがフレデリカのことをあまりよく思っていないのは、先程のやり取りでなんとなく分かった。
ものすごく拗れた関係かもしれないし、もしかすると皆別々の方向を向いているのかもしれない。
これ以上は駄目だ、と亜佐はフォークでソテーされた肉を突き刺した。
詮索すべきでない。亜佐はただの外野だ。
次々と食べ物を口に運ぶ。怪我で右手が使えない亜佐のために、左手のフォークだけで食べられるようあらかじめ一口サイズに切ってくれているのでとてもありがたい。
食事は相変わらずとても美味しくてあっという間に平らげたが、今日もベルタに体中隅々まで洗われて、しかも風呂の中で貧血を起こして全裸でベッドに運ばれるという迷惑極まりないことをしでかした。
服がびしょびしょに濡れてしまったベルタに謝りながら、めまいと吐き気を必死に耐える。
「お休みになってください。電気を消しますよ」
服を着せて布団をかけてから、枕元の水差しを新しいものに替えてくれたベルタがそう言った。
「でも、ロイリが来るのに……」
「寝ていてもキスはできます。どうぞ安静に」
有無を言わせない声で言って、ベルタは電気を消して部屋を出ていった。
確かに寝たままだってロイリは済ませてくれるだろうが、このままではキスは本来どういう目的でするものなのか忘れてしまいそうだ。元の世界へ戻れてもここで生きていくことになっても、誰かとキスをする時は、ロイリとの体液摂取という名のキスと比べてしまうのかもしれない。
ごろりと寝返りをうつ。まだ二十一時過ぎだ。考えたいこともたくさんある。
じっと目をつむりながら、亜佐はなかなか来ない眠気を必死に呼んでいた。